親とは、神様だ。
大袈裟と言う人も居るだろう。皮肉と言う人も居るだろう。
だが、この少女にとって。
この言葉は、大袈裟でも皮肉でもなく。
ただの、真実だった。
当然、親は神様ではない。
だから、例え見放されても、死ぬことはない。
世界が滅亡するようなことは、有り得る筈がない。
そんなこと、少女は知り得ない。
神様は自分よりも上位に位置する存在であり、気分1つで自分をどうすることもできる。
だから、少女は考える。
神様に嫌われない方法を。
だから、少女は懇願する。
神様の寵愛を手にするために。
だから、少女は歪んでいく。
それが悪いことと気付きもせずに。
それは神様が望んだ姿ではなかったのに。
まだ少女は、それに気付かない。
だから今日も、神様の言いつけに従っていた。
真夏の炎天下、とあるビルの入り口で。
キグルミに閉じこもったまま。
市原仁奈は、待ち続けていた。
暑さで頭がやられたんだろう。
私はそう思い込むことにした。
だって、考えてみて欲しい。
忘れ物を取りに夏休み中の事務所に来たら、自分と同じ背丈のウサギが居た。
そんなこと、あるわけがないじゃないか。
予想外過ぎるあまりに思わず後ろを向いてしまったぞ。
きっと、ニートにこの日差しはきつ過ぎたんだ。
片手で握ったぬいぐるみで乱雑に額の汗を拭い、深呼吸を1つ。
気持ちを落ち着け、ゆっくりと振り返る。
そうすればほら、あの不可解な幻覚も消え……
「……。」
「……。」
ない。まずい。目が合った。
えっ、何、なんでこっちを見るんだ。
というか何故事務所の前にぽつんと立っているんだ。中に入らないのか。
入られたらそれはそれで怖いが。
「うさぎ……。」
ウサギがぽつりとそう言った。
はいそうですね、あなたはウサギです。見紛うはずもありません。
……と、思っていたが。
どうやらウサギは私ではなく、私が持っているものを見ていた。
「……これ?」
試しに差し出してみたところ、ウサギはこくこくと頷いた。
自ら扮するあたり、好きなのだろうか。ウサギ。
『……ウサギさんウサギさん、あなたはどうしてそこに居るのです?』
私よりも少しだけ低い背丈。
私が小学4年生の平均程度だから、きっとそれ以下。
そして、キグルミを着て外出する程度の年齢。
小学1.2年か、あるいは幼稚園の年長……これは言い過ぎか?
ともかく、その程度には幼いと判断し、ぬいぐるみを私の顔の前に。
ぴょこぴょこと耳を揺らし、声色を変えて尋ねてみる。
これで、警戒心は多少薄まるだろう。
「ママが、ここでアイドルにしてもらうって、言ってたので……。
だから、来たですよ。」
アイドルに、してもらう?
ということは、面接に来たということだろうか。
しかしそれなら、とっくに中に入っているはずだ。
いや、そもそも。
『ママはどこに居るのです?』
これだけ幼い少女だ。たった一人で事務所まで来ることは無いだろう。
と、思っていたのだが。
「ママは、忙しいので、もう仕事に行っちまったです……。
仁奈しかいねーです……。」
……これは。まさか。
1つの、良くない予感が脳裏によぎる。
それは、私の経験と深く結びついていたからでもあった。
ひょっとしたら、この子は。
ウサギの横に立ち、事務所のドアノブに手をかける。
……ガチャン、と、拒絶の音が響いた。
プロデューサーが、居ない。ということは。
事務所に連絡が来ていないということだ。
こちらに何も言わず、ただ、ここに子供を置いただけということだ。
真夏の日差しの中に、キグルミを着た子供を。
「……いつから、ここに居るの?」
ぬいぐるみを使うのも忘れて、私はウサギに問いかける。
ウサギは少し驚きながら、「ずっと」とだけ答えた。
「とにかく、中に入ろう。」
ポケットから合鍵を取り出し、ドアを開ける。
即座に冷房をつけ、ウサギを座らせる。
フード部分を脱がし、タオルで顔の汗を拭った。
「ちょっとだけ、待っててね。」
グラスに氷と麦茶を放り入れて手渡す。
自分用にも同じものを作り、一気に飲み干す。
さて、どうするか。
数秒の思考の末、ひとまずプロデューサーに確認を取ることにした。
『……いや、そんな話は来てないぞ。』
やっぱりか、という声を、麦茶と共に流し込んだ。
「ねえ、プロデューサー。これって……。」
『身分証明。銀行口座。その辺りのものを持たせていれば、ほぼ確実だろう。』
そう言われて、再びウサギに視線を向ける。
始めて来た場所に不安げな表情を浮かべながら、クリアファイルを大事そうに両手で抱えていた。
「それ、ちょっと見せてもらっていい?」
中身を確認すべく、ウサギに問いかける。
しかし。
「……建物の中の大人の人以外に渡しちゃダメって言われたですよ。」
と、更にぎゅっと抱きしめられてしまった。
……こんなことをする癖に、そういうところはしっかりしているのが癪に障る。
大人の人、か。
あの明るい親友くらい大きかったら、そう見られていたのかな。
きっとこの子は、私を同年代だと思っているだろうから。
「……大人の人以外に渡しちゃダメ、だってさ。」
再び受話器に顔を近づけ、溜息混じりに告げる。
直接確認はできなかったが、その反応を見れば十分だった。
『なら、双葉の考える通りだろうな。』
長く深い溜息をついて、彼はそう答えた。
「今から来られる? 大人の人。」
「そうするしかなさそうだ」と残して、彼は通話を切った。
程なくして、彼がやってきた。
彼がウサギに声をかけると、ウサギは素直にファイルを手渡した。
「……何が入ってたの?」
中に入っていた紙の束を取り出し、一枚ずつ目を通していく。
読み進める度に険しくなっていく彼の表情を見て、私は若干察しつつもそう尋ねる。
「自分の子供を使って荒稼ぎしたいから後はよろしく、だとさ。」
吐き捨てた要約には、彼の感情がこれ以上なく詰まっていた。
「……家の住所は?」
「あると思うか?」
苛立ちを隠すこともせずに冷たく返す。
「……ねえ。ここからお家に帰る道って、分かる?」
事務所と契約をするにあたって、通常は記載するであろう住所。
それが書かれていないことの意味は。
「わからねーです……。
家からタクシーに乗って、ずっと走って来やがりましたから……。」
彼女が帰るべき暖かい家は、最早存在しない。
彼の眉間の皺が、更に深くなる。
事務的なやり取りが殆どとはいえ、もう短くない付き合いだ。
彼の気持ちは、よく分かる。
何故こんな小さい子を。
何故こんな目に。
しかも、よりによって。
何故、双葉杏がこれを見なければならない。
彼は、私の過去の全てを知っている唯一の人。
この小さなウサギの姿に何を重ねてしまうのか、容易に想像がつくのだろう。
それに苛立ちを覚えてしまえる程度には彼が優しいことも、今ではよく分かる。
「この子の寝床、すぐには用意できないでしょ?」
そして、だからこそ。
「ああ。だからひとまず……」
放っておけるわけがない。
「いいよ。私の家で。」
このまま見なかったことになんて、できるわけがない。
「……大丈夫なのか? この子は、」
どうしようもなく重ねてしまう。
寂しくて、寒くて、だから必死に笑っていた。
誰でもいいから側にいてほしかった。
「うん。だから、先人の杏の方がいいでしょ。……何かと、さ。」
一緒にご飯を食べて。一緒に他愛もない話をして。
それにどれだけ救われたか。
それがどれだけ嬉しいか。
「……分かった。」
きっとこの子も、それを求めているはずだから。
「……うさぎさんのお家に行くですか?」
私達の不穏な雰囲気を察したのだろう、不安げに眉を八の字にしたウサギは、私の服の裾を控えめに掴んだ。
「……うん。お家に帰れないのは嫌だと思うけど、ちょっとの間だけだから……、」
この年頃の子供が、見知らぬ場所、見知らぬ人の中に一人残される。それはきっと、とても怖い。
だから私は、その恐怖を少しでも軽減させようと明るい声を作る。
しかしウサギは、力なくかぶりを振った。
「家に帰っても、誰もいねーです……。
ママは忙しいですし、パパも、お仕事で海外に……。」
甘かった。
この子に対する認識が、甘かった。
家に帰れば、親が居て。
……どんなことをされてるか分からないけれど、親が居て。
どんなことをされていても、それは親だから。
だから帰りたい。
そんな状態ですらなかった。
「……そっ、か。」
母親も父親も家に居ない。
ずっと一人で。
一人だけで。
それならば、家に居たくない。
帰りたくなんてない。
家に帰る意味がない。
例え見知らぬ場所であろうと。会ったことのない人だとしても。
誰かが居るのなら。
誰かが居てくれるのなら。
その方が、ずっといい。
そう思えてしまえるまでに、この子は。
「……うさぎさん。」
フードを目深にかぶり、ウサギはぽつりと呟いた。
「うさぎさんのお家に行ったら、仁奈は寂しくねーですか?」
それは、その年頃の少女が抱くには、あまりに不釣り合いな不安。
自分の家では寂しさは埋まらない。
私の家に行けば、欲しいものが手に入るかもしれない。
「……大丈夫だよ。」
でも、期待するのが怖い。
だって、母親ですら与えられなかったのだ。
自分を最も愛して然るべき、母親ですら。
「忙しくても、ちゃんと仁奈のそばにいてくだせー……約束してほしーです。」
だから。
期待して、それでも手に入れられなかったとき。
その時に襲いかかる喪失感。
それを味わうのが、怖いのだ。
「うん。」
それを少女は知っている。
期待を裏切られる痛みを。
この幼さで、知っている。
期待するのを恐れるほどに。
欲しいものが手に入るかもしれないとしても。
それでも一歩、立ち止まってしまうほどに。
「約束……ゆびきりげんまん、です。」
どれだけ繰り返したのだろう。
期待して。裏切られて。傷付いて。それでも期待してしまう。
その繰り返しを、どれだけ経験したのだろう。
私に出来ることなんて、きっと数えるほどしかない。
でも。一緒に居るだけでいいのなら。
一人にしないだけでも、この子が喜んでくれるなら。
「うん、約束。」
決して離してしまわぬように。
差し出された小指に、しっかりと指を絡ませた。
「じゃあ俺は、この不備だらけの書類を何とかするよ。」
話がついたことを察したプロデューサーが、空気を変えるようにそう言った。
この口座に生活費が振り込まれるとも限らないからな。
そう続けて、クリアファイルをひらひらと揺らしながらPCへと向かう。
「じゃ、帰ろっか。」
忘れ物も回収したことだし。
片手で紙袋を持ち、ぬいぐるみを抱える。
それとは反対の手で仁奈の手を取り、笑いかける。
「……はいです。」
仁奈は、まだ、不安げな表情のまま。
それでも、しっかりと手を握り返してくれた。
「もしもし、きらり? 今から帰るよ。あと、食事の準備お願い。……3人分。」