神様を信じるのに、この世界はあまりに不自由だ。
鉄菜は紺碧の大気で張り巡らされた世界を目にする度に思う。こんな荒廃した星に未来などあるのか。人は生き辛く、何かを信じようとすれば裏切られ続ける。
ブルーガーデンへと繋がる海底トンネルを抜けるのには一度C連合を介さなくてはならない。その点で言っても、どうにもやり辛く世界は構築されているものだ。
立ち寄ったC連合の港にそのまま《シルヴァリンク》を停泊させるわけにはいかない。いくつかの連絡通路の網を抜けて辿り着いたのは無人区画であった。そこに用意されていたのは黒い棺のようなコンテナである。
『到着したようだな。コンテナにモリビトを収納しろ』
「このコンテナ……ブルーガーデン製か」
『ブルーガーデン自慢の、電波、ブルブラッド固有振動波、何もかもを通さない鉄壁のコンテナだ。それに入っている限り、モリビトだという事は露呈しない』
だがデメリットもあるはずだ。鉄菜は尋ねる。
「代わりに何が奪われる?」
『すぐには出撃出来ない事くらいだ。網膜認証、十四個のパスワード、静脈認証、遺伝子認証、これらを突破して初めて搭載された人機に介入出来る。逆に言えば、相手もこの手順を踏まなくては絶対にコンテナの中身は分からない』
「破壊すればいいのではないか? コンテナの強度は中の下と見た」
『C連合から提供される貴重な資源も入っている。手当たり次第に破壊すればいいというものでもない』
資源の中に紛れ込ませる、というわけか。しかし人機は騙せても人はどうするというのだ。
「私は? どうやって秘密主義のブルーガーデンに入国する?」
『ちょうど協力者がいるはずだ。彼に指示を仰げ』
無人区画に現れたのは仮面を被った協力者であった。身なりから男であることくらいしか分からない。
「信用出来るとでも?」
『信用しなければ前には進めないさ』
コンテナへと《シルヴァリンク》を納入する。
『鉄菜、本当に従うマジか?』
「このコンテナのシステムは本物だ。それにどうやってブルーガーデンに入るのか、それだけが気がかりであったのだが、このやり方ならば確かに入るのは容易い」
『他は難しいみたいな言い分マジ』
「破壊工作に入るのに、すぐに起動出来ないのはデメリットだが、それも込みで相手は交渉条件に入れていると思っていいだろう。従うしかない」
『了解マジ。……その場合、《シルヴァリンク》と接続しているAIは』
「活動停止しかないだろうな。……ジロウ、相手に気取られずに十二時間後、自動的に稼動する事は」
『不可能じゃないマジが、それをしてどうするマジ?』
「もしもの時の備えだ。十二時間もやる事がないとは思えないのでな」
『分かったマジ。十二時間後に《シルヴァリンク》を再起動。中からコンテナを破って起動させるマジ』
「頼んだ」
《シルヴァリンク》のシステムを切ってから、鉄菜はコックピットから這い出る。
眼前に仮面の男が立ち竦んでいる。ホルスターにはアルファーがある。いつでも相手の首筋を掻っ切る事くらいわけない。
相手は歩み寄るなり、合成音声で会釈する。
「二号機操主、鉄菜・ノヴァリスだな」
「そちらは?」
「白波瀬と呼んでもらって結構。協力者の一人だ」
水無瀬、と来て白波瀬、か。つくづく信用は出来ない。鉄菜は一定の距離を保ちつつ言いやる。
「悪いが全面的な信頼は置きかねる。私も、第四フェイズの執行と聞いてのみ来た。あまり時間はかけられない」
「存じている。これを」
差し出されたのはフィルムであった。鉄菜は怪訝そうにする。
「これは? フィルムに見えるが」
「ブルーガーデンの人間は皆、情報同期処理を行っている」
「……どういう事だ」
白波瀬はこめかみを突いた。
「常に頭の中を覗かれていると思っていい。このフィルムを首筋に貼れ。そうする事で同期処理から逃れる事が出来る」
手渡されたそれはあまりに薄っぺらく、こんなものでブルーガーデンのシステムを欺けるのかは疑問であった。
「本当にこんなので?」
「正しくは同期処理から逃れるのではなく、こちらの投影するダミー情報を経由するためのシステムパッチだ。頭の中を覗かれている状態でブルーガーデンに攻め入るつもりか?」
そう言われてしまえば、鉄菜は従うしかない。首筋に貼るが特に変化は訪れなかった。
「まさかこれだけだとは言うまい」
「Rスーツは着たままでも構わないが、服飾を纏え。ブルーガーデンでは灰色の民族衣装が好まれている」
灰色の民族衣装と言っても名ばかりだ。服飾にしてはあまりに薄く、まるで病人服である。
「こんなものを、ブルーガーデン市民は?」
「疑う事が出来ないほどの情報統制だ。少しでも疑念を抱けば強化兵が襲ってくる」
「強化兵……ブルーガーデンの軍部か」
「そこいらの国家の軍部の熟練度と同じだとは思わないほうがいい。さすがにブルーガーデンの守りを任されている兵士は他とは違う」
鉄菜はオラクル介入時に交戦した《ブルーロンド》を思い返す。あれと同じような機体が並び立っていると思えばいいのだろうか。
「どちらでも構わない。私は一市民を装って入国する。その手はずでいいんだな?」
「ブルーガーデン市民となるためには一度脳内処理を同期せねばならない。決してフィルムは剥がすなよ。少しでも怪しければ銃殺が許されている」
「独裁国家、というわけだ」
《シルヴァリンク》は海底トンネルからブルーガーデンに入国するが自分は入国審査のある港から入るしかない。
白波瀬が手招きする。ブルーガーデンに出入りする船が低く長い汽笛を発した。胃の腑に圧し掛かってくるかのような重い汚染大気が垂れ込めている。
乗り合わせた人々は皆、沈痛に顔を伏せていた。大型の浄化装置とマスクを手離せないらしい。鉄菜も偽装のためにマスクを着用する。
白波瀬は同行したがあくまで他人を装うように、と言いつけていた。
「芋づる式にブルブラッドキャリアの動きが露見したのでは話にならない」
その意見には同意である。人々を乗せた難民船が静かに港を発着した。C連合の僻地からブルーガーデンまでの距離は三時間ほどの船旅だ。途中、大気汚染濃度の極めて高い地区を通る事になる。
皆が床に面を伏せて必死に呼吸を殺していた。そうしなければ死んでしまうのだと教え込まれているのだろう。
鉄菜も表面上は真似をしたが、ブルブラッド大気に耐性のある身では到底意味は見出せない。
「あんた、新しくブルーガーデンに入るのか?」
尋ねてきたのは大柄な男であった。マスクで顔を覆っており、どのような表情なのかも読めない。
「ああ。それがどうした」
というよりも何故分かったのか、だ。答えの如何では、と鉄菜はホルスターに手を伸ばす。
「いや、連中に比べて随分と注意深くもない。みんな怖がっているのにあんたはそうじゃないからな」
「怖がっている? 何をだ」
「決まっているだろう。ここを覗かれる事を、さ」
男がこめかみを示した。それほどまでにブルーガーデンの情報統制は厳しいのだろうか。
「脳内をスキャンする技術は何も珍しいものでもない」
「問題なのはそれを国家が許している事だ。国ぐるみで人間を解明……いや、解体しようとしている」
「ブルーガーデンの国家姿勢に反対の様子だ」
男の口振りにはどこかブルーガーデンへの反抗心が見え隠れする。彼は面を伏せて言いやった。
「……みんな、国家から居場所を失った人間ばかりさ。オラクル国土の難民もいるらしい。見ろよ、あれはC連合の貧困層だ」
みすぼらしいぼろを纏った親子が身を寄せ合っていた。彼らはブルーガーデンに希望を見出しているのだろうか。
まだ幼い少年がマスクをずらそうとして母親にいさめられる。難民船の中であっても汚染は深刻である。
「国家を失い、居場所をなくし、その結果として独裁国家に自分の思考を犠牲にして飼われるのをよしとする。だが、彼らからしてみればそれでも甘い裁量かもしれない。考える事を犠牲にするだけで一生の安泰があるのだから」
「ブルーガーデン兵は人間ではないと聞いた」
「ああ、連中は天使さ」
その語感に鉄菜は辟易する。天使、というのはどういう意味なのだろうか。
「それほどまでに強いとでも?」
「いや、見れば分かるが、天使なんだ。片羽根の、ね。それにしたって難民船は最後の砦に等しい。ここまでだけが人間である事を許される。ここから先は、もう人間である事を放棄するしかない」
ブルーガーデンにここまで物申すのだ。この男は何者なのか問い質す必要があった。
「……何者だ?」
「何者でもない。ただの物知りだよ。ただ、ブルーガーデンには何度か渡航した事がある。だから新入りには教えておこうと思ってね。老婆心、という奴だ」
「ブルーガーデン内部はどうなっている?」
「内部、か……。中にいる時には脳内を覗かれている。だから、自分のような身分ではこういうものを対策として取っておいてね」
男が差し出したのはタブレットである。中には違法薬物が入っているのが窺えた。
「トリップ状態で入国するのか」
「それが一番精神を害されずに済む。だから中にいる間は夢見心地だ。あまり記憶はないんだよ」
「どうして、ブルーガーデンに何度も入国する? それほどに魅力的なのか」
男は唸ってから、首を傾げる。
「魅力的……というのは少し違うが、あの場所にいれば何も考えずに済むという点では楽か。精神の安定を保証される。それだけの価値はあると思ってもらっても構わない」
「独裁国家だと聞いたが」
「他国からもたらされるほどのマイナスイメージはない。気楽に行けばいい。ブルーガーデンにいる間に何かが起こる、という事はまずあり得ないと思えば」
「安全なのか」
「安全とも違う。これは安泰だよ。ブルーガーデンは思想統制、情報の完全な封鎖を行っている代わりに人民の幸福度は他国の数倍以上に及ぶ。市民を犠牲にする事などない国家と言えるだろう」
現状、他国も浮き足立っている。ゾル国ではブルブラッド大気汚染テロ。C連合ではどこかきな臭い風潮が漂う。
その中でブルーガーデンだけが変わらぬ姿勢でいる。それが素晴らしいのだと男は説いた。
「だが、思想統制、情報の同期。それだけでも充分に……他国では信じられない現状だ。それを押しても幸福であると」
男はマスクの下でゲッゲッと笑った。
「まだ分かってないようだね、あんた。何も考えなくていい、という利点を」
『間もなくブルーガーデン港へと停泊します』
アナウンスが響き、床に身体を伏せていた人々が次々と動き出した。先ほどの親子もにわかに続く。
「……何も考えなくていい、というのがどうして利点に繋がるのか分からない」
「まぁそれも含めて知る事だ。ブルーガーデンにようこそ」
難民船から降りた人々は猛毒の大気の洗礼を受けた。
コミューンのように気密が安定しているわけでもない。安価のマスクを着用している数人かが悶える。
それらを無視して人々はヘッドギアを着用した。恐らく最初の脳内検査はこの段階で行われるのだろう。
数人がパスし、通過出来なかった人々は別の列に加わった。
先ほどのマスク男は通過したらしい。鉄菜は自分の番になったところで親子の悲鳴が耳朶を打った。
「頼みます! この子だけは! この子だけは!」
どうやら思考検査を通過出来なかったのだろう。ブルーガーデンの強化外骨格を纏った兵士が母親を足蹴にする。
「母親は通過可能だ。子供のほうに思考純度が低い事が分かった。あちらの隊列に並ばせろ」
母親が兵士にすがりつく。
「あっちに並ばせられれば……だって殺されるんでしょう? ブルーガーデンの生体パーツにされるって……!」
兵士に子供が連れて行かれそうになる。母親が必死に手を伸ばすが、その手へと無情にも兵士の放った銃弾が貫いた。
母親の慟哭が響く中、銃口がその頭部へと当てられる。
「せっかく入国審査を通過したのにもったいない事をする」
銃声が鳴り響き、母親が静かに倒れ伏した。子供は別の列に無理やり並ばされる。
「こちらを見るな! 入国審査を急げ」
天に向けて放たれた銃声に入国待ちをしていた人々が面を伏せる。
鉄菜は己の胸中に黒々としたものが渦巻いていくのを感じたが、その感情は検知されなかったのか、ヘッドギアが外される。
案内されたのは通過者の列だ。難民船に乗り合わせていた人間のうち、半分ほどが別の列に区分されていた。
「……あの親子は災難だったな」
先ほどの男がわざわざ追いついてきて囁く。鉄菜は淡々と返していた。
「あんな事が、常に?」
「よくある。思考純度というものを突破出来なければ、別の列に並ばせられる。……噂だが生体部品にさせられるという」
「噂レベルだろう?」
「……案外馬鹿には出来ないものさ。噂と言ってもね」
鉄菜には分からない。どうして国家に分け入るだけで人が死ななければならないのだろう。それほどまでにブルーガーデンという国家が高尚だとでもいうのか。
「生体部品、と言ったな。それに思考純度、という言葉。どこで知った?」
「何度も入国していれば自然と耳につく。それに他国と行き来していると情報も、ね。どれほどまでにブルーガーデンが秘密主義であっても、やはり噂には勝てないというわけだよ」
人の口に戸は立てられない。入国し、無事出国した人間の証言が蓄積しているという事か。
しかし男がどのようにして入国審査を突破したのか鉄菜にはまるで分からない。特に自分のような対策をしているようには見えないからだ。
「どうやって、入国審査を」
「あれは振り分けだ」
放たれた言葉に鉄菜はマスクの下で眉をひそめる。
「振り分け……」
「ヘッドギアによる思考スキャンだが、実際の精度は五分五分ほど。本当に脳内を見張るのは不可能なんだ。だからああいう取りこぼしも出てくる」
取りこぼし。まさか先ほどの親子もその五分五分の洗礼を受けたというのか。そんな事で人が死んだというのか。
「まさか、そんな適当な審査で」
「適当だなんて事を考えないほうがいい。あのヘッドギアを通した以上、もう脳波スキャンは始まっている。頭の中を覗かれる空間だ、ここから先は」
列に従って歩いていくと、先ほどの外骨格を纏っていたのとは違う、少女達が並び立っていた。
その姿が一様に同じである事に鉄菜は目を瞠る。
灰色の眼、灰色の髪。背中からは翼を想起させるモジュールが稼動している。
「ご覧。あれがブルーガーデンの天使だ」
天使、と評されたのは何も間違いではない。その翼、その相貌。見間違えようもなく天使という呼称が似合う。
「あれがブルーガーデン兵だというのか。では連中は」
外骨格の兵士に視線をやると男は頷いていた。
「あれは市民兵だ。ブルーガーデンの兵力には数えられていない。有志の人々さ」
市民兵程度が入国審査を通らなかった人間を銃殺出来る。その現状に鉄菜は拳を握り締めた。
この感情が何なのかは分からない。ただ、《シルヴァリンク》をこけにされた時のように募っていく感情であった。
捉えどころを間違えれば、今にも外骨格の兵士に攻撃しかねない。
「……ブルーガーデン兵に関しての違和感はないのか。どう見てもあれは……」
そこから先を濁した鉄菜に男は言葉を継ぐ。
「ああ、あれはどう見ても生体兵器だろう。多分、クローニングされた同一の遺伝子を基にした人造兵士だ」
条約でクローン兵は禁止されているはずだ。その兵力を大っぴらに用いるという時点で常軌を逸している。
「人造兵士は、国際条約で」
「そんなもの、この場所では関係ないんだろうさ。第一、《ブルーロンド》に搭乗している操主をいちいち見分ける事なんて必要ないだろう。連中は高高度を位置取る輸送機で移動する。ゾル国でもC連合でもあの兵士の事を知っているのは一握りのはず」
しかし事実として在る事を否定出来ない。この事が世間に露呈すれば国際社会からの糾弾は免れないだろう。
「それを理解していて、黙殺しているというのか。他国は……」
そうとしか思えなかった。一度でも入国すれば分かるクローン兵の秘密が守られているという事は、他国にその部分を突く気がないという事実に繋がる。
「そうだろうね。他国が声高にクローン兵を反対したところで既にあるものを破棄は出来ない。何故ならそれも一つの命だから。クローン兵の人権を完全に排除するという事は現状の技術への問題点の問いかけに他ならない」
「クローン兵でも、操主には違いない、か」
だが鉄菜が感じたのは不気味さよりも嫌悪であった。どうしてだか同じような存在が並び立つのに気味が悪いという感情より排除しなければ、という部分が大きい。
まるで一つの障壁のように、鉄菜の眼にはそれらが破壊すべき対象に思えるのだ。
「ブルーガーデン本国に入る。そういえば、同行していた人の姿が見えないね」
白波瀬の姿がない。どこへ、と首を巡らせたところで、ブルーガーデンの天蓋が視界に入った。
他のコミューンのように人口的な空を模倣しているわけではない。そのまま青く染まった空を透過している。霧に煙る街中は静かで、人っ子一人さえもいないようであった。そうは言っても発展していないわけでもなく、それなりに背の高いビルが乱立している。
ただどの建築物にも生命体の呼吸がない。
人間が群れれば自然と生まれる活気も、ましてや集団生活特有の人間性の欠片も見出せない。ただ単にここが人の住む街だという事のみを構築した、作り物めいている。
「人の気配がない」
「気づいたか。そうだとも。街並みだけはしっかりとしているようではあるが、ここに人が住んでいるという感覚はまるでない」
窓がついているがどこを見やっても人の姿さえも見つけられないのは不自然であった。
「おかしい。視線もない。それに道路もあるのに、車が一台も」
「通っていない。だがブルーガーデン市民からしてみればそれが当然なんだ。このジオラマのような世界こそが彼らにとっての絶対なのだよ」
そのような馬鹿な事がまかり通っているのか。ゾル国と比べるまでもなく、この国は違和感しかない。
人の気配が薄いのに、人のために存在する店や街頭。
人間の事を考えているようで何一つ考慮していないかのような街並み。
ここに街が「在る」事は確かでも人が「居る」事は全く意識の外のような感覚。
「張りぼてだ、これでは」
「まさしく正しいね。張りぼての街だよ、ここは。それでもブルーガーデンでは人口密集地に当たる」
「密集地? 人なんてどこにも」
「いるんだよ。我々が感知出来ないだけで」
馬鹿な。人間の感知の外の存在など。
鉄菜は周囲を見渡しかけて男が手招いた。
「あまり周りをジロジロと見ないほうがいい。マークされる」
鉄菜は男へと視線を据え直し、その眼差しが正気を保っているのを目にした。
「……薬物に頼らなければ思考を覗かれるのではなかったのか」
「今回は手薄だ。クスリを使うまでもない。どうしてだか、警戒レベルが低くなっている」
水無瀬のお陰だろうか。それでも鉄菜からしてみればこの場所の異質さが際立つ。
「旧世紀に霧の街と呼ばれた場所があったそうだ。だが、それに比べても随分と濃霧で先が見えない。そのせいで人間同士の関わりも薄い。いや、そのお陰で、というべきか」
青く染まった空が重く垂れ込めて街は鉛のような静寂の只中にある。ここで呼吸をする事でさえも無意識のうちに躊躇ってしまうほどに。
「こんな場所……人が棲むようには出来ていない」
「人間が住めるようには作っていないんだろう。ブルーガーデンの天使達を見ただろう? あれを」
男が指差した先には信号待ちをする人並みがあった。だが、彼らの背筋に纏いついた機械に鉄菜は絶句する。
整備モジュールが人の背筋にまるで貝殻のように寄生しているのだ。その事実に誰も異を唱えようとしない。
それが当たり前のように過ごしている。
「あれが……ブルーガーデンの」
「原住民だ。ブルーガーデンでは生まれながらに生態モジュールを装着し、思考を鋭敏化、及び能力の選定を行い、その人間の最も適した人生を選び取らせようとする」
監視社会など生ぬるい。生き地獄そのものに思えた。
「人々は……気づかないのか」
「気づかないように精神点滴が成されているらしい。あれを経験した事がないから分からないが、人々は自然と最善を選び取れるように出来ている、とか」
最善。しかしそれがどこまで意義があるというのか。人工物に支配された空間に、自然のままの空。青く染まった視界に、霧に煙る街並み。
人々は貝殻を背負い、自らの人生を生きているつもりであっても、それは作られたレールの上である。
ここまで残酷な事があっていいのだろうか。人間が人間として生きるのに、これではあまりにも――。
「これが、独裁国家という事なのか」
「集約すればそういう事になる。……もう嫌気が差したかい?」
「いや、まだだ」
そうだ。自分の目的は血塊炉を安定供給するプラントの破壊工作。このような場所で気圧されている場合ではない。
「しかし、いつにも増して難民は少ないな。やはり検閲だけは強化されたのだろうか」
「検閲? あのヘッドギアの事か?」
「あまりお喋りも出来そうにない。あれを」
外骨格を纏った兵士が難民や入国者を一列に並ばせる。それぞれの首筋にまるで首輪のような機械がはめられた。
男はタブレットから薬物を飲み込む。
「ここまでのようだ。話し相手がいて楽しかったよ」
トロンとした目つきになった男へも首輪がはめられる。鉄菜は抵抗は無意味だと判断して首の機械に従った。
外骨格の兵士達がそれぞれの端末を手に促す。
「前に歩け。全員、三歩半の間隔の歩調を伴って」
その言葉に全員が従い、きっちりと三歩半で列を作る。まさか、この首輪こそが水無瀬の言っていたブルーガーデンの思考を読む機械なのだろうか。鉄菜は前の男から三歩半の歩調で続く。
外骨格兵達は疑う眼差しを向ける事もない。むしろ端末の数値に集中している。
恐らくはその機械に表示された数値が異常な人間だけを排除するようにしているのだろう。首筋にフィルムを貼った意味が今さらに理解出来た。
その時、唐突に脳内に残響したのは重々しい声であった。
「元首様のお声だ」
外骨格兵もかしこまってその場で背筋を正す。
『此度、国家に招かれた者達に告げる。大義であった。他国からの追放、いわれのない迫害、中傷、その心を刃で刻まれた者達が集ったのだと思われる。もう、他国の常識に縛られる必要はない。その因習にも。このブルーガーデンは地上で唯一の自由を謳歌出来る国家だ』
首輪をはめられた人々が感じ入ったかのように膝を折った。皆が涙を流している。
「ここは地上の楽園、か。まさしく元首様の教え通りだな」
外骨格兵の言葉に他の兵士が嘲る。
「戦闘は天使に任せて、俺達は地上警戒に勤しむとしようじゃないか」
彼らには元首とやらの言葉は効いていないのか。それともやはりこの首輪が作用しているのか。
鉄菜は膝を折って面を伏せた。涙を流す事は出来ないものの、他の者達と同じように装う。
平伏する者達を外骨格兵は監視しながら、数値に視線を投じている。
『ブルーガーデンならば全ての傷は癒されよう。この国に来たからには、全ての苦しみから、全ての痛みの楔から外れ、浄化され、痛みは出口となるはずである。苦楽もない。一切、この国家には貴公らを苦しめ、痛みを味わわせる事も存在しない。我が名において約束する。貴公らは永遠に救われるのだと』
まやかしだ。そのような事、あるはずがない。鉄菜は胸中に結んだが、人々は元首の言葉をありがたがるばかりである。
誰も先ほど検問で殺された親子の事など覚えていないようであった。
この世に苦しみなどないと説く元首の言葉は十分ほどだったであろうか。鉄菜は人々が力なく立ち上がっていくのを確認してから同じ動きに同調する。
「確かに、俺らの仕事には苦しみなんてないわな」
「戦いは天使連中が、他の諍いも下々が引き受けてくれる。いやはや、ブルーガーデン様々だよ」
恐ろしいまでに人々のまなこからは覇気が失せている。酔ったようにその足取りには力がない。首輪をつけられた者達が外骨格兵に導かれて地下に続く道を辿っていく。
鉄菜はどこまで続くのか分からないトンネルの中、周囲をつぶさに観察する。
外骨格兵の警備はアサルトライフルのみ。突破は不可能ではないが、一度に相手取らなければならないのは二人以上。常にツーマンセルの体勢である。
アルファーによる投擲や格闘戦術を鑑みてもまだ行動を起こすべきではないだろう。
「ここに集まれ。全員だ」
集められたのは窪んだ一部屋であった。三十人程度でいっぱいになる部屋には赤色の光が投げられており、人々は窪みに身体を預ける。窪みに入った人々を薄い皮膜が覆っていった。
まるで繭のようなそれに一人一人収容される。
鉄菜は入るべきか戸惑ったが、ここで怪しい行動を取ればそこまでだ、と従った。
皮膜が構築され、外骨格の兵士達の声が篭ったように聞こえてくる。
「配置完了。ここまでの仕事とはいえ、毎回難民をよくもまぁ募るもんだよ」
「生体パーツにならない連中だろ? 運がいいんだか悪いんだか」
部屋から外骨格兵が立ち去ってから、鉄菜は周囲を見渡す。予め抜いておいたアルファーを耳元まで翳した。
淡い輝きを放ったアルファーから通信が繋がる。
「水無瀬、そちらの言う通り、ブルーガーデンへの潜入を完了した。協力者、白波瀬の姿は見当たらない。どこへ行ったのか」
『二号操主、よくやった……と言いたいところだが白波瀬の位置情報が把握出来ないだと? 今は……コクーンに収容されているのか。通信回線が僅かに傍受されている可能性がある』
「いや、その心配はない。この通信はアルファーによるものだ」
アルファーによる通話と信号の発信は血続以外には傍受出来ない。その原則があったはずであったが水無瀬は警戒を解かなかった。
『そちらは大丈夫でもこちらが、だ。アルファーは一方的な通信機器。こちらがうまく立ち回れるかどうかに限る』
水無瀬は協力者という身分だからか、鉄菜が敵に回った場合も想定しているようであった。彩芽と桃を切った時点でそれは考慮に入れるべきではないと思われるが。
「白波瀬という協力者からフィルムは受け取ってある。思考傍受がされないという」
『それは必要不可欠だ。破壊工作の最終局面まで剥がさないように。それと、二号機に関してだが、無事に検問を突破し、十七時間後に合流地点へと到達する』
その合流地点が明かされていない。このブルーガーデンに入ってから知らない事ばかりで戸惑う一方だ。
「マップさえも明らかでない。どうやって《シルヴァリンク》と合流する?」
『二号機は破壊工作における要だ。止められては困る。最悪操主なしでの起動も考えなければならない』
自分以外が《シルヴァリンク》に乗るというのか。馬鹿な。それは今まで鉄菜が感じてきた以上の屈辱であった。
「私以外を《シルヴァリンク》の操主に……?」
『実行不可能であれば仕方あるまい』
「訂正しろ、水無瀬。私以外が《シルヴァリンク》に乗る事など……あり得ない」
どうしてだかそれだけは譲れない。自分以外が《シルヴァリンク》の操主など。水無瀬は心底理解出来ないように返す。
『何故だ。柔軟に物事を捉えた場合、操主の替えが利くほうがいいに決まっているだろう』
「訂正を求める。協力者、水無瀬。それを実行した場合、私はこの作戦を敵対国家に流出させる」
こちらの覚悟も生半可ではない事が伝わったのだろう。通信越しの水無瀬が息を呑んだのが伝わった。
『……どうしてそこまでこだわる』
「私が私だからだ。それ以外にない」
答えになっていないかに思われたが、水無瀬はその言葉に承諾したようであった。
『いいだろう、二号機操主。それが譲れない一線だと言うのならば従おう。こちらも、君に裏切りのリスクを負わせているわけだ。二号機と共に戦わせるくらいは譲歩しよう』
まるでそれ以外に自由がないような言い草である。鉄菜は繭の中でアルファーを隠せるように寝返りを打つ。外骨格の兵士からの監視からも逃れなくてはならない。その場合、繭の中である程度動ける事を確かめておくべきだ。
もしもの時には脱出し、武器を強奪、反撃に転じなければ。
繭の構造物質をアルファーで読み取らせる。淡い輝きを放った事からこの繭も一種の血塊から製造されたものだと窺い知った。
「白波瀬の位置情報を送れ。アルファーへと通信チャンネルを合わせればいい。暗号通信をアルファーで傍受し、私が実行する」
『言っておくが、破壊工作はまだ始まってすらいない。敵のプラントさえも抑えられていない君に、何が出来る?』
「少なくとも今、視界に入るだけで数人の息の根は止められる」
外骨格兵士の脅威判定は低い。装甲だけが邪魔だが、弱点は観察済みだ。頚動脈を掻っ切ってその刹那に飛び込んでアサルトライフルを奪い、この場を脱出するくらいはわけがないだろう。
『……その自信、当てになるものだと信じている。しかし見誤るなよ、二号機操主。まだ、ブルーガーデンの本当の恐ろしさの、片鱗にも触れていないのだと』
水無瀬はその「本当の恐ろしさ」を知っているようであった。問い質す前に気配を察知し、鉄菜は自分の背中にアルファーを隠す。アルファーによる通話は血続のみ有効だ。
誰かに見られてもただの独り言で通せるが、状況が状況である。
外骨格の兵士が欠伸をかみ殺して通り過ぎていった。
「……十七時間後、《シルヴァリンク》との合流を速やかに行う。そのために白波瀬との情報交換を密にしたい。接触を」
『了解した。接触を再度確認させる』
それで通話が切れた。鉄菜は繭の表層を撫でる。ブルブラッドで造られたと思しきガラス細工は薄く青い発光現象を帯びる。
これも汚染の一つなのだろうか。
考えても詮無い事だと、鉄菜は瞑目した。ブルーガーデン、悪夢のような花園での戦いはまだ序章に過ぎない。その感覚が常に脳裏にあった。