保護区画での生活は似たり寄ったりであった。
まだコミューン全域が浄化されたとは言い難い。燐華は学園の仮設設備へと足を運んでいた。
マスクは手離せない。浄化装置も、であった。
ブルブラッド大気汚染は保護区画では問題のないレベルにまで落ち着いたものの、それでも汚染に敏感な人間は反応を起こしかねない。
浄化装置を背負い、マスクから安定した空気を取り込む人々はまるで機械に飼われているかのようであった。
人機によって踏み躙られた生活を取り戻すのに人間は時間をかけなければならない。百五十年かかっているのと同じように、一度汚染大気で毒されたコミューンの再生は容易ではなかった。浄化システムが正常に作動していれば、というニュースが今日も議論されている。
作動しなかったからではなく、破壊されていたらしい。その痕跡から見ても今回の首謀者であるモリビトは残忍である、という判断が下されていた。
――モリビト。
燐華は拳を骨が浮くほどに握り締める。自分達から全てを奪った存在。自分や兄を苦しめる存在。
「……いなくなっちゃえばいいのに」
モリビトさえいなければ自分も兄も何の不自由もなかった。平和が奪われる事もなかった。コミューンが有毒大気に冒される事もなかった。
全て、モリビトが元凶なのだ。モリビト一つで人生が狂わされたも同義である。
燐華の足は自然と保健室に向いていた。保健室で端末のキーをひたすらに打っている背中に燐華は声をかける。
「先生。あたし……」
燐華の気配を感じ取ってヒイラギが振り向いた。
「来たね。もう、来ないかとも思っていたが」
「学校には行きます。それに、別段症状は悪くないんです」
不思議な事であった。他の人々は有毒大気で休暇や療養を必要としているのに対し、自分は現状のほうが病状の悪化が抑えられているのである。
ブルブラッド大気汚染テロが巻き起こったあの時もそうだ。自分は簡易マスクさえもなしに外を出歩けた。
ヒイラギはブルブラッド大気汚染濃度を測っているニュースに目を留める。
現状、外出は控えるべき、という判断であったが、燐華はどこも悪くはない。むしろ、今までよりも体調はマシなほどであった。
「外は有毒大気が色濃く残っている。外出を控えろとまで言われているのに、君は来るんだね」
「何ともないんです。不思議と。あたし、今まで病気で休みがちだったけれど、今のコミューンのほうが住みやすいって言うか、呼吸も苦しくないし、症状も悪化しませんし」
「君の病状については聞いている。気管支系の病気だと判断されたそうだが、だとすれば簡易マスクや浄化装置が手離せないはずであるが」
濁されたのは自分はマスク以外一切を身につけていないからであろう。浄化装置も必要なかった。
「主治医からは、浄化装置を着けるように言われているんですけれど、あれ重くって……」
「浄化装置をつけていないほうがマシだって事か。不思議な症例だね」
そもそも、自分の病気が何という名前なのかも分からないのだ。医師から生まれ持った先天性のものだと教えられてはいたが、どういう病名なのかは伏せられている。
「遺伝子性の疾病だって事しかあたしにも分からないんです」
燐華は首を引っ込める。自分でも分からない病気がヒイラギに分かるのだろうか。しかし彼は顎に手を添えて思案を浮かべた。
「……ともすると、浄化大気こそが、君に悪影響を及ぼしていたのかもしれないね」
「浄化大気が、ですか?」
しかし外は紺碧の有毒大気。そちらのほうに適性がある人間など存在し得ないはずだ。
「調べてみるのは追々にするとして、今日来たという事はこの間の話に興味を持ってくれたと思っていいのかな」
燐華は膝の上の拳をぎゅっと握った。
「……正直、イメージ出来ないですけれど」
「最初はそうだろうさ。だが、何でも試してみるものだよ」
ヒイラギは部屋の隅に置かれていた機械を近づかせる。作業用の簡易的な両腕と両脚を有している小型機械である。その機械が通常と違うのは中枢部位に青い石を抱いている事だ。
血塊、と呼ばれる青い血の石。人機の動力源である。
それさえも汚染を広げる原因になりかねないため、厳重に気密されていた。大きさは拳よりも小さい。
「これが……人機セラピーに必要なものですか」
「正確に言えば人機でもないけれどね。元々の技術である才能機に近い。これが両手両脚を動かすためのペダルと操縦桿」
手渡されたコンソールは全く馴染みのないものであった。十四年間生きてきて一切関わりのなかった代物に、今から頼ろうとしている。その事実そのものが浮いているように思える。
「ペダルを踏んで、ゆっくりと仮設人機を動かしてみよう。なに、最初は皆戸惑うさ。大人だって一朝一夕にはこれを動かす事なんて出来ないんだ」
燐華は操縦桿を握り締める。途端、伝わった来たのは鼓動であった。神経が鋭敏化され、小さな、ほんの小さな命に全身が放り投げられていく感覚である。
額で細胞が砕けるイメージが拡張され、燐華は操縦桿を引いていた。
仮設人機が稼動し、燐華の思った通りに両腕を振るう。
その挙動にヒイラギが瞠目した。
「今、何を……」
「何をって……思った通りに何でだか、人機が動いて……」
ヒイラギは大人ほどの背丈しかない仮設人機を窺う。どこにもシステムに異常はない。両腕の稼動域も正常である。
「……いきなり動かすなんて、クサカベさん、人機の操縦経験が?」
「あるはずがないです。だって、今まで人機なんて関わって来なかったですし」
「単位にも人機操縦訓練は組み込まれていないから、本当に初めて触ったのか? だが、今の動きは……」
ケーブルで首裏へと接続されたコンソールをヒイラギが試しに動かしてみせる。だが、人機の動きはどこか鈍い。命を吹き込まれていないようであった。
「……まさか。いや、しかしそうだとすれば」
「あの……先生?」
「ああ、こっちの話。もしかしたら人機操縦に長けた才能があるのかもしれないね。クサカベさんには」
「そう、でしょうか」
にわかには信じ難い。ヒイラギはしかし、仮設人機を見やって頷く。
「お兄さんが人機乗りのエースなんだ。血筋みたいなものはあるかもしれない」
「でも、にいにい様だって随分と苦労して人機操縦を会得したって聞きましたし……」
ましてや自分のような小娘などすぐに人機を操縦出来るはずもない。しかし、ヒイラギは頭を振った。
「先天的な才能というのは得てして隠れているものだ。人機セラピーを通じて、心の傷を癒せるかもしれない」
心の傷。無二の友人を失った記憶を機械いじり程度で忘れられるのだろうか。忘れられたとしても、それは悲しいのだと思えた。
「あたし、鉄菜の事、忘れたくありません」
「忘れる必要はない。ただ、それを乗り越えて強くなれるかもしれない、という事だ」
「強く……」
「人は悲しみを乗り越えて強くなれる。悲しいばかりの人生なんてあり得ない。ノヴァリスさんの事、これからどう折り合いをつけていくのかは君次第だ。何も無理に忘れたり、頭の中から消したりする事が乗り越えるという意味ではない」
乗り越え方も自分次第と言いたいのだろうか。燐華はペダルを踏み込ませる。対応した仮説人機が緩やかに歩み始めた。仮設人機は固定されているため実際に歩くわけではない。だがそれでも、自分の意思を伝えさせてこの人機は歩いてくれている。ならば、自分も歩み出さなくってどうするのだ。
「先生……この子、名前は?」
「名前はまだないよ。医療用仮設人機とだけしか。好きにつけるといい」
この小さな人機に名前をつける事から全てが始まるというのならば、自分は前に進もう。
「じゃあ、この子の名前、イザナミって付けても」
「イザナミ、か。神様の名前だね」
何も信じられなくとも神にすがるような形でも、前進する。今はそれしかなかった。
「イザナミ、あたしのために、動いてくれる?」
尋ねた仮設人機から伝わってくるのは脈動であった。どうしてだか、この人機は生きている感覚がする。
強い生命の鼓動にヒイラギは気づいていないのか、扁平な頭部を撫でて言いやった。
「イザナミ、よろしく頼むぞ」
ゴーグル型の眼窩が薄く輝いたような気がした。