叔父さん、と呼び止められてガエルは振り返った。
不安げな面持ちでカイルが立ち竦んでいる。手には処方された薬があった。あれ以降、不眠症に悩んでいるという彼は軍の心療内科に通っている。
一時的なストレスによる不眠症状。一軍人ならばいざ知らず、国家の象徴になりかけているカイルの場合、それは可及的速やかに解決すべきだ。
だから本来ならば様子見程度の症状でも彼には適切な薬が処方される。
戦地で部下が安定剤を打っていたのと物は同じだ。違うのは、真っ当な方法でそれを受け止めている事。戦いからの逃げの方便に使える事実であった。
「どうした? 今日の診察は」
「もう看てもらいました……。食欲もなくって」
精神安定剤と胃薬が入った袋を手にカイルはどこか憔悴した瞳でこちらを見やる。
救いの手を差し伸べて欲しい、とでも言っているかのように。生憎だが、自分は戦争屋であってセラピストではない。だから、彼の苦しみの一端を背負うリスクは負う必要はない。
「無理するな……と言いたいところだが、食べられるものは食べておいたほうがいい。そのうち、胃が拒絶反応を起こす事もある」
経験則だ。人死にに慣れていない新兵が一番に崩すのは食事の側面。食えなくても食っておくのが戦場で一秒でも長く生き永らえるための方法論である。
「叔父さんは何でも知っているんですね……。僕はあの一回で、もう駄目になったのかと思いました」
「カイル、弱気になってどうする? お前が背負っているのは、何も自分の家柄だけじゃないんだぞ」
国家をその双肩に負わせるのには、その身体はあまりに華奢である。優男の限界点が来たか、とガエルは冷ややかな胸中で見つめていた。
「そう、ですよね。僕が頑張らないといけないのに……。父上にメールを送ったんです」
突拍子もなくこの青年は人生相談を行うものだ。ガエルは黙ってそれを聞き届ける。
「でも、何の返事もなくって……。怖いんです。もうお前は要らないって言われているみたいで……母さんと同じように」
捨てられる恐怖か。この青年は今まで必要とされる場面で責務を果たしてきた。それが踊らされているのだと疑いもせずに。前回の戦闘でモリビトと戦い、トウジャと呼ばれる機体と戦った事は無駄ではなかったようである。
この無鉄砲な青年に、ようやく死の恐怖を与えてくれたのだから。
しかし、ここで臆して逃げ出されれば困るのだ。自分の最終目的は彼を足蹴にしてでものし上がる事。ゾル国の象徴を踏み台にしてどこまで昇れるのかは不明だが、あのいけ好かない将校はまだ命令を解除しない。
この歪な関係性を続けろ、という事なのだろう。忌々しい、とガエルは胸中に結ぶ。
どこまで他人を愚弄すれば気が済む。たった一回の戦闘で使い物にならなくなる程度の細い神経の持ち主など最初から当てにするだけ無駄ではないのか。
ガエルはここで切るのも手か、と考えていた。この青年に張子の虎を演じてもらうのもいつかは無理が生じてくる。その時に己の足まで引っ張られると困る。
「カイル、軍を辞めたいのか?」
直截的な物言いがこういう手合いには一番に効く。それも選択肢は出来るだけ少ないほうがいい。
カイルは震えながら首を横に振った。
「……分かりません。でも叔父さんは、僕が軍を辞めたら、どうします?」
逆質問されても自分は叔父でもなければどうもしないとしか言いようがない。この任務が終わればまたどこか惑星の裏側で殺し合いをすればいいだけだ。戦場という食い扶持の困らない職場はいくらでもある。
「どうもしない。カイル、甘く考え過ぎじゃないのか」
だからか、ここでは無駄な虚飾は必要ないと考えていた。適当に優しい言葉であしらう事も出来たが長引かせたところでこの青年はいずれ破綻する。この任務にも疲れてきたところだ。打ち止めは早いほうがいい。
ガエルの言葉に彼は少しだけ衝撃を受けたようであったが、やがて目を伏せた。
「そう、ですよね……僕は、もう大人なのに、また頼っている。子供なんですよ、いつまで経っても。世間知らずだった……随伴機を失ってまで生き永らえたその恥を知らずに、こんな事を聞くなんて、ずるいですよね」
勝手に自己完結されてもらっても困るのだが、ガエルはあえて口を挟まなかった。彼はその脳内で理想的な叔父を身勝手な押し付けで描いている。自分がその理想像から離れようとしても、彼に離すつもりがない。
理想に抱かれたまま溺死する運命なのは見るも明らかなのに、カイルはこちらへと提言した。
「叔父さん、僕の《バーゴイル》のところまで、来てもらえますか……?」
「分かった。行こう」
デッキへと向かう途中、カイルはあまりにも言葉少なであった。ともすれば愛機との別れを告げに行くのだろうか。辞めるのならば勝手に辞めればいい。自分もお役御免だ。そう考えていたガエルは整備デッキに佇む《バーゴイルアルビノ》を仰ぎ見た。
戦場に赴くのにはあまりに見合わないほどの白さ。黒いカラス部隊の中で、唯一の白カラスはその存在感を放ちつつ、操主と向かい合っていた。
カイルは手を伸ばしかけて躊躇っているようだ。《バーゴイルアルビノ》の赤い眼窩がこちらを睥睨している。
人機にはこの偽りの関係性が見えているのかもしれない、というガラにもない感傷が胸を掠めた。
「僕の《バーゴイルアルビノ》……あんなに壊れたのに、もう修理されて……」
「特務機ですからねぇ」
こちらに歩み寄ってきた整備士が汗みどろの顔で白い《バーゴイル》を仰ぐ。その眼差しには尊敬の念が見え隠れしていた。
「我々からしてみれば、こいつを預からせてもらっている以上、いつでも最善に仕上げさせてもらっています。無論、ゾル国の旗に見合うように」
ゾル国の旗。国家の象徴たる機体。カイルは感じ入ったように《バーゴイルアルビノ》の視線を受け止め、大きく深呼吸した。
「そう、だよな、《バーゴイルアルビノ》。一回くらいの負け戦で、諦められないよな」
カイルはこちらへと向き直り、はっきりと口にした。
「叔父さん、僕を殴ってください」
唐突な言葉にガエルは困惑する。
「何だって? 殴れ? どうしてそんな……」
「ケジメがつかないんです。みんながよくしてくれているのに、僕だけ悲観しているなんて、そんなの、らしくない」
整備士がこちらへと視線を配り、一つ頷いた。
自分がカイルの叔父である事を疑いもしていない眼差し。年長者として若者の過ちを正せ、という期待。
ふざけるな、とガエルは拳を骨が浮くほどに握り締める。
こんな、偽りの舞台でいつまでも三文役者を演じさせられて黙っていられるか。
今すぐに喚き散らしたい衝動に駆られる。貴様の叔父など居るものか。自分は卑しい戦争屋だ。惑星の裏側で数え切れないほどの人間を踏み躙り、陵辱し、たとえ話に困らないほど死を見てきた。
だというのに、こんな場所で、青臭い人間ドラマなどにうつつを抜かしているのがあまりに滑稽に思える。
ガエルは拳を振るっていた。
もうこの役割を終わらせたい。その一心で振るった拳に、制御は効かなかった。迷いなく振るったのはこの青年などどうでもいいと思っていたからだ。どう思われても、もう関係がない。
終わらせるのならば潔いほうがいい。
そう考えての一撃はしかし、カイルの理想に打ち消された。
彼は笑顔を作り、痣をなぞる。
「ありがとう、叔父さん……。これで決心がついた」
《バーゴイルアルビノ》を見やったカイルは高らかと言い放つ。
「まだ戦える。まだ、僕は負けていないんだと! こんなところで腐っているのは、僕らしくない。らしくないですよ!」
振り返ったカイルの声音に整備士達が同調する。皆がこの舞台に熱中していた。
自分から言わせればどこまでも偽りに満ちた青臭い芝居を、全員が真実だと思い込んでいる。
始末が悪いとはこの事か。
逃げようとしても、もう自分は逃げられないのだ。
この役割を演じ切るまで。本当の最後まで戻れないところまで来ている。
――正義の味方になってもらう。
それはこういう意味か。雁字搦めになった自分はカイルの叔父として、果たすべき役目を果たすしかない。その結果の先が正義の味方だというのか。
踊り続けるしかないその醜態が正義の味方なのだとすれば、ガエルは演じ切るしか道はないと感じていた。
この先も、全てが終わるまで演じる事でしか、この依頼を完遂する事は出来ない。
どこまでも汚れ役を買って出るつもりであった自分が皮肉なまでに綺麗事を並べ立てた人間の補佐に入る。
戦争の何もかもを知り尽くした自分のような人間がこの世の穢れから最も縁遠いような人間のなくてはならない存在になる。
それが正義の味方だというのならば、貫き通すしかない。
逃げられないのは自分も同じであった。
振るった拳は、ただの演技だけではない。
もう果たすべき役柄に沿っているのだ。自分もカイルも、このゾル国でさえも。
《バーゴイルアルビノ》の赤い瞳だけが、それらの真実を看破しているように思えた。
人機が並び立つ整備デッキで、ガエルは眼前で主役を演じる青年を見据える。
――こいつが死ぬか、自分が死ぬか。その時までこの舞台は終わらない。
ならば終わりの引き金はせめて自分が引いてやろう。
踵を返したガエルはその時を待ち望んだ。