「あーもう、システムチェック、かったる過ぎ」
隣にいた同世代のOLのぼやきに、彩芽は、そう? と切り返していた。
「わたくしからしてみれば、とても魅力的な職場に映るけれど」
彩芽は返しつつもキーから指を浮かさない。システムを念入りにチェックし、何重にもあるデバック作業を深夜までこなすのがこの会社の業務内容であった。
この時代においても人間は人間として働かざるを得ない。どこまで技術が進歩しても、やはり最後の手はずは人間が行うものだ。
「サギサカさん、大人過ぎ。あたしと同年代のはずでしょ?」
「そうかもね。でも中途採用だから」
「そんな、気にしなくっていいよぉ。あたしなんて新卒で取ってもらったけれど、ここ、いい話聞かないよ。第一部門の仕事だけでも振り分け制度にしているだけ、まだ他社よりマシって言われるけれどさ。C連合のお膝元の会社だからってうかうかしてられないかも、って感じだし」
「潰れる噂でも立ってるの?」
その言葉に彼女は声を潜めた。
「……あんまり言い触らさないでね? ここが潰れなくっても国がって話。オラクルの軍事蜂起、知ってるでしょ?」
オラクルの独立は自分達ブルブラッドキャリアからしてみても意想外の出来事であった。彩芽は先を促す。
「それが、どうか?」
「あれで結構、軍部のほうのお偉いさんがさ、たまに視察に来るんだって」
「スパイ狩りでもしているつもり?」
「かもね。でも、スパイなんていやしないって。いつの時代よ、それ。こんな木っ端仕事にスパイに来ている人間なんていたら、それこそ映画だって」
快活に笑う彼女に彩芽は苦笑を返した。まさしく自分がそのいつの時代か分からぬ事をしている、などとは言えない。
「でも軍部の視察って気になるわね」
「軍人なんてさ、みんな似たようなもんだよ?」
「付きあった事、あるの?」
「昔ね。でもどこもかしこも、みぃーんな、筋肉馬鹿か、あるいは金だけ落としてくれるATMって感じ。頭使わない職業だからね。あたしらみたいな万年脳内で熱暴走起こしている人間とは水が合わないってのかな。頭のいい女が嫌いなんだってさ」
分からないでもないな、と彩芽は感じつつ、その話題に乗っかる。
「メルはどういう男が好みなわけ?」
「あたし? あたしはこの仕事に理解持ってくれていればそれだけで充分、って言えれば気が楽なんだけれどなぁ。実際はお金とご相談」
「財布の紐が緩い男じゃね」
「将来心配になっちゃうしねぇ。サギサカさんはさ、どういうのが好み?」
「わたくし? わたくしは、その……」
言い澱んだ彩芽にメルが指を突きつける。
「思っていたけれどさ。何でわたし、じゃなくってわたくし、なの? 言いづらいし、面接じゃないだからもっと気楽に行こうよ」
確かに少し堅苦しいかもしれない。彩芽は、でもと胸元に手をやった。
「昔、ね。こうやって喋ってくれる人がいたの。その人にとても……依存していたって言えばいいのかな。その人が近くにいたらな、って思っちゃうとつい」
「クセって事か。お姉さんか何か?」
「みたいなものかな。わたくし……じゃなくって」
「いーよ、わたくしでも。ただ高慢ちきなお姉様みたいな喋り方だよね」
ウインクしたメルに彩芽は微笑みかけた。
「そうね……あの人は本当に、わたくしからしてみてもお姉様だったから」
思い返した横顔が言葉を紡ぎ出す。その最後の横顔と同時に内奥でちらついたのは拳銃であった。
重く淀んだ空気の中で銃の発した炎だけが鮮明に記憶されている。
灰色の景色の中で一点だけの彩りが、人の死を予見させる火の色。思い出すのはいつもその瞬間だ。
その時、何も出来なかった己自身の罪だ。
「サギサカさん? なに? あたし、地雷踏んだ?」
「いや、そんな事」
「そう? すっごい嫌な事を無理やり思い出してるみたいな顔してたよ?」
そうなのだろうか。他人からしてみれば、あれは忌むべき記憶なのだろうか。自分からしてみれば、あれほどに感情が色を伴った刹那を知らない。
あの時初めて、生きている事を自覚出来た気がする。
そうでなければ今頃は鉄菜と同じように任務に忠実なだけの操主に成り果てていたかもしれない。
鉄菜の事を、ただ単に貶める事は出来ない。
「わたくし……その思い出に固執しているのかも」
「男の記憶なんてぱっぱと忘れちゃうのが一番! どーでもいいけれどさ、システムチェック超めんどい上に肩凝るよね」
肩を回してみせたメルには同意見だ。
「四十肩になるかも」
「えーっ、まだ全然二十代なのにー!」
歯軋りしたメルは眠気を剥がすためにか黒いガムを噛んだ。彼女のデスクにはガムと愛犬の写真がいつでも常備されている。
「犬、って飼うのに条例出てるよね?」
その話題にメルは目を輝かせた。
「うちの子はすっごい可愛いんだよ! もうねー飼うのに必要だった手続きとか一瞬で忘れられちゃう!」
「えっと……犬種は」
「ゴールデンレトリバー。昔はたくさんいたらしいんだけれど、今は役所で二重三重に経歴を確認させられるほどの希少種」
黄金の毛並みを持つ大型犬にメルは寄りかかっていた。一緒にまどろんでいる写真もある。
「大変じゃない? だって生き物なんて」
「そっ、大変だよ? でも、この子の笑顔見たらさ、疲れなんて吹っ飛ぶんだから!」
メルご自慢の愛犬はカメラに向かって舌を出している。犬、という生命体の存在を惑星に降りるまで実感出来ていなかった。存在するのは知っていたがまさか飼えるなど。しかも一介のOLが世話まで出来るなど及びもつかない。
「わたくしには、考えつかない世界だわ」
「まぁ、確かに手続きは面倒だよ? 今の世の中、人間は人間だけで生きていくのに精一杯。でも、ゴールデンレトリバーの生態管理、だっけ? その資格さえ取っちゃえば、この子をいくらでも可愛がれちゃう! もう、最高だよね!」
現在、犬や猫などの愛玩動物を飼う場合、その飼い主に育成資格があるかどうかが厳正な基準の下、審査されている。
その審査に合格した人間だけが飼えるのだ。いわば一種のステータスである。特権層のみのものだと思い込んでいたが、案外に技術も理解もきっちり降りているらしい。
「かわいい、のかな」
「飼った事ないから分かんないかな? でも、何ていうのかな、男といるのとは違ってさ、別の生き物といるのって何か新鮮なんだよね。自分にないものを満たしてくれる感じがして」
自分にないもの。彩芽はその言葉の意味を咀嚼した。他者の存在が自分にない感情や行動を誘発させる。それは人間の生まれ持った性なのかもしれない。
「その子、なんて名前?」
「リチャード、っていうの。イケメンでしょ?」
「だね。そこいらの男より全然」
「そっ、ワンちゃんのほうがイケメンだわ」
笑みを交し合って二人は仕事に戻った。そろそろ巡回している上司が仕事の進行度合いをチェックしに来るのだ。
「でもさ、サギサカさんもモテそうなのに、男作んないの?」
「んー、今はそんな気分じゃないかな」
「案外に軍人とか好み? 合コン、セッティングするよ?」
「遠慮しとく」
彩芽は微笑んでその話題をいなした。
「でもさ、C連合と言えばあの人じゃん。銀狼の」
「リックベイ・サカグチ、か……」
鉄菜がデータで見せてくれた相手だ。あの居合いと肝の据わり方は並大抵ではない。相手取るとすれば相当厄介だろう、と彩芽は判じていたが、メルの考えていた事とは違ったらしい。
「あの人真面目っぽいんだけれど、なにぶん、融通利かなさそうだよね。何ていうの、真面目系馬鹿っていうのかな」
どうやら恋愛対象としてみているようだ。敵対対象として見ていた自分との差に、彩芽は失笑する。
「会った事あるの?」
「ないって。ないない。だってC連合のエースじゃん。会えるわけないよ」
自分は戦場で会った、などと言えば信じるだろうか。少しばかり過ぎった考えに我ながら意地が悪いな、と感じる。
「でもC連合が思ったよりも軍部がオープンなのはびっくりしたわ。もっと秘密主義なのかと思った」
「あー、それ思う人多いって言うね。ゾル国だっけ?」
彩芽は首肯してから用意していた言葉を継ぐ。
「ゾル国は秘密主義に近いから」
「敵対国家でも同じ、って思っちゃうよねぇ。でも案外、C連合の男ってこうやって下々に降りてくるのよ。まぁそれだけほいほい付いてきちゃう、チョロい男が多いってのもあるけれど、何よりも規模が、ね」
「ゾル国の三倍だっけ?」
「国土面積も違うし、あの国との接点もね」
このC連合で言う「あの国」、というのはブルーガーデンである。国土で接点を持っており、輸出入に関しても強く噛んでいる。
「やっぱり血塊炉の輸出入が大きいのかしらね」
「多分。あたしには血塊炉云々は全然だけれど」
あまり知識をひけらかすとぼろを出しかねない。彩芽は言葉振りをただのOLに留めた。
「でもあの国が最近、怪しいってネットで聞くよ」
「あー、それね。散々ネットニュースで叩かれてたよね。国土として接しているだけでビジネス以上の関係がないってお上は言っているけれど、それも嘘っぽいよね。だってビジネスであの国の食料まで用意する? それってやっぱり見返りを求めてるって事じゃん」
「それをビジネスって言うんじゃないの?」
怪訝そうな声にメルは頭を振った。
「男に金と自由だけ与えて、自分は二番三番でいいわよ、なんて言えないでしょ? それと同じ。どっかで女々しいのよ、この国も」
「そんなものかしらね」
呟いていると背後に気配を感じ取る。背の低い上司がそっと画面を覗き込んできていた。彩芽にはその接近が分かっていたのだがメルには分からなかったらしい。その耳元へと声が吹き込まれる。
「調子、どう?」
差し込まれた声にメルが淡白に返す。
「ぼちぼちです」
「そう? 何かあったら言ってね」
愛想笑いを浮かべるメルに上司は薄く微笑む。今度は彩芽へとチェックの目線が振り向けられた。
「調子、どう?」
「こっちもぼちぼちです」
「そう? サギサカさんは優秀だなぁ。もうそのシステムチェックも終わりそうじゃない」
「そう、ですかね? まだまだで……」
「新しい仕事を回しておくね」
肩を三回、ポンポンと叩いてから上司は立ち去っていった。完全にその姿が見えなくなってからメルがぼやく。
「セクハラじゃん」
「気にしていないからいいよ」
「後ろから急に声をかけないで欲しいわ……。心臓に悪い」
「それは分かるけれどね。あの上司の趣味でしょ」
気配を殺して背後に立つのが趣味なのはあまり好感が持てないが。
「あーあ! どっかに割のいい仕事と男が落ちてないかなぁ!」
「聞こえるよ?」
「いいって。どうせあたしはこの仕事止まりだし。サギサカさんこそ、あんまり仕事の能率上げたっていい事ないよ? ここの仕事、終わりないし、終電にも間に合わなくなるだけだし」
「わたくしは近くに住んでるから」
「在宅で仕事任されるかも、って話だから、どっちにしたってだと思うけれど。あたしはこのスピードでいいや。これ以上昇進したくもないし」
「給料だけはまずまずだからね」
「それ込みでこの仕事選んだわけなんだけれどさ。やっぱり休日はぱあっと発散したいところだわ」
「何かしらでね。まーリチャードで随分と癒されているから、特に目的も思い浮かばないんだけれど」
彩芽はキーを打つ手を休めずに別のウィンドウを開いた。検索窓に「リックベイ・サカグチ」の情報を読み込ませる。
開いたのはオラクル武装蜂起に端を発したC連合とゾル国の密約の噂であった。世界に発信された動画はコピーにコピーを重ねられ、まだ出回っている。
しかし、もう熱は冷めたようで、誰もがその動画を当てにしようとは思っていないようであった。人間はやはり熱しやすく醒めやすい。
どこまで情報統制が敷かれているのかは不明だがこの管理された平和を、平和として甘受するだけの人々が大多数なのは間違いない。
「とりあえず、今日の分の仕事くらいはこなしますか」
腕捲りしたメルに彩芽はウィンドウを静かに消した。