過ぎったのは少しの罪悪感であった。
しかし、鉄菜はそれさえも感じさせず、開かずの扉を開錠する。まるで魔法のように鉄菜にかかれば封鎖された屋上も自分達だけの空間であった。
「その、鉄菜さん……いいのかな、だって立ち入り禁止だよ?」
「さんは要らない。そういうタイプじゃない」
断じた鉄菜の声音の冷たさに、燐華は改めて背筋を凍らせる。
「じゃあ、その……鉄菜。屋上で何をするの?」
「何をする? ここが一番、見晴らしのいい。邪魔をされずに済む」
手すりにもたれかかった鉄菜に燐華は慌てて声にする。
「危ないってば!」
「心配要らない。燐華・クサカベ。自衛手段は持っておいたほうがいい」
手渡されたのは矢じり型の鉄片であった。見た限り何の変哲もない鉄くずだ。
「えっと、これは……」
「いざとなれば相手の首を掻っ切るくらい造作もない」
口にされて燐華は慌てて鉄片を手離す。鉄菜は心底解せないとでも言うように拾い直した。
「持っておけばいいものを」
「それ……凶器なの?」
「自衛手段だ」
やはり鉄菜はどこか浮世離れしている。自分達とはまるで住む世界の違う場所から来た住人のようだ。
「その、さ。確かに酷い事はされるけれど、あたし、酷い事をし返すのはもっと嫌……。だって、誰も傷つかないほうがいいに決まっているし」
その言葉に鉄菜は小首を傾げる。
「お前が傷ついていてもか?」
それは、とまごつくしかない。自分一人の犠牲でいいのなら、それに越した事はないのだ。だが、割り切れていないのか、自分はそこまで強くはあれない。
「あたしは、みんなと仲良くなりたい。友達に、なり直してみたい」
「それは無理だ。連中にその気はない」
軽くあしらわれてしまった。燐華はしかし、今までの友情が全て、損得勘定だけのものだったとは思いたくなかった。
「だって、そんな自分にとって有益とかそういうのだけで友達だったなんて、その、悲し過ぎるよ……」
鉄菜はしかし特別言い返しもしない。目を白黒させて鉄片を翳す。
「何を今さら。人間はそういうものだ。損得だけで動いている。それ以上を求めるのならば、相手にとってリターンのある人間になるしかない。それが人間の共同体というものだ。そんな初歩の初歩を今さら問い質すまでもない」
「でも、鉄菜はそうじゃないんでしょう?」
その問いに鉄菜は鉄片を翳しつつ、肩を回した。
「私にとって、この制服は窮屈だ」
「えっと、サイズ合わない、とか?」
「この学園もそうだ。いや、この国家が、か。属するべき場所というものを規定されると人間は窮屈になる。規定されないほうがいいに決まっている」
鉄菜の言葉は燐華には難しかった。しかし、その紫色の瞳がどこか寂しさを湛えているのを、燐華は見逃さなかった。
「でも、鉄菜は誰かと一緒にいたいんでしょう?」
その質問に鉄菜は眉根を寄せた。
「私が? 誰かと一緒に? ……それはない」
「じゃあさ、今あたしといるのは何?」
逡巡の間を置いてから、鉄菜は学園の中庭に視線を逃がした。
「気紛れ、という奴だろう」
気紛れでも、自分は鉄菜に救われた。鉄菜もきっと、どこかで他者を求めているのだろう。
だから自分のような人間と一緒にいてくれる。
「鉄菜は、優しいね」
笑ってみせた燐華に鉄菜は眉をひそめる。
「私が、優しい? その評価は初めてだ」
「優しいよ。だって、あたしみたいなのに、何にも偏見ないんだもん」
「偏見? 何を持つ必要がある? 燐華・クサカベ。お前は私にとって何でもない。特別でも、ましてや尊敬する対象でも、畏怖するものでも」
それが正しいのかもしれない。友人関係において、尊敬も畏怖も、本質的には必要ないのだ。ただ傍にいたい。きっとそれだけの、ささやかな気持ちで。
「あたしは、さ。全部なくしてから気づいちゃった。本当、弱いよね」
自嘲する燐華に鉄菜は真面目ぶった面持ちを向ける。
「なくしたのならば取り戻せばいい。簡単な帰結だ」
「だから、鉄菜は強いし、優しいんだよ」
その意味が分からないとでもいうように鉄菜は首をひねるばかりである。きっと、彼女は純粋なのだ。
純粋に生きて、純粋に相手の考えを受け流している。
相手が敵意で応じれば敵意で。柔らかな心で応ずれば柔らかな心で。彼女の心には、壁がないのだ。
人と人を隔てる壁。心の隙間。誰もが併せ持つ、他者と自分は「違う」という明確な線引き。
鉄菜はそれが極めて薄い。
「違う」から生きているのではない。線を引いて相手と自分の個別の領域で戦っている人間とは別種に思えた。
「鉄菜は、どこのコミューンで育ったの? ゾル国じゃ、ないんだよね?」
その言葉に鉄菜は一瞬だけ返答に困ったようであったが、すぐに用意されたかのように応じていた。
「C連合の辺境地だ」
「大変だったでしょ? だってゾル国とC連合は戦争してるし」
「冷戦だろう。実際にミサイルが落とされるわけではない」
「でも、みんなぴりぴりしてる。だからかな。どこかに落としどころを見つけたいっていうのは」
それが英雄の血筋でも構わない。民意の落としどころを探りかねて、跳ね返ってきたのがこの境遇だというのならばそれも致し方ないのかもしれない。
「分からないな。私には、落としどころとしてお前を選ぶのは筋違いに思える」
燐華は手すりにもたれる鉄菜に肩を並べさせた。鉄菜はコミューンの天井をじっと眺めている。紫色の瞳にはこの世界はどう映っているのだろう。自分とは違う、何か別のものを見据えているような気がした。
「……ねぇ、鉄菜。憎めばいいのかな?」
その問いに鉄菜は視線だけを向け直した。
「誰を恨む?」
「分かんない。クラスのみんなかもしれないし、このゾル国そのものかもしれないし、そもそもこういうきっかけを作った原因かもしれない。ブルブラッドキャリアだったっけ。その人達を、憎めれば、楽なのかな」
「憎めないのか?」
燐華は頭を振った。
「だってそんなの八つ当たりみたいなものじゃない。にいにい様は戦っている。戦って、こんな不条理よりもきっと、もっと酷い場所にいるに違いないのに、あたしだけ音を上げられないよ」
「軍人のそれと学生のそれは違う」
「でも、にいにい様にあたしは甘えてきた。そのツケ、なんだと思う」
「ツケ、か。考えるのは勝手だが、追い込んでも何も始まらない。それこそいたちごっこだ。燐華・クサカベ。兄に責任を押し付けるのが自分の中で納得出来ないのなら、せめて逃げ場所だけは心得ておけ。そのためのものだ」
差し出されたのは先ほどの鉄片であった。今度は素直にそれを受け取る。鉄菜もきっと心配してこれを手渡してくれている。自分の身を守れるのは最後の最後は自分だけなのだ。
「逃げ場所、か。……あたしの逃げ場所ってどこなんだろ」
「それは多分……」
発しかけた言葉を鉄菜は飲み込んだ。屋上の扉が開く音が聞こえたからである。即座に構えた鉄菜の身のこなしに燐華は息を呑む。まるで兵士のそれだ。鉄片をいつでも投擲可能な状態に構えてみせた鉄菜の視線の先にいたのは、慌てて手を上げるヒイラギだった。
「びっ、くりするなぁ、もう……」
「保険医か」
鉄菜が敵意を仕舞う。ヒイラギは眼鏡のブリッジを上げて言いやった。
「屋上は立ち入り禁止」
「すいません、あたしが無理言って……」
「いや、まぁ、一言くらい言っておかないと教師っぽくないから言っただけだ。別にいいんじゃないかな。屋上、僕もよく学生時代にぼっち飯を食った」
柔らかく微笑んだヒイラギに鉄菜は刺々しい言い回しを用いる。
「何の用だ。保健室が縄張りじゃなかったのか」
「書類仕事が一段落ついてね。君らがなかなか来ないからちょっと心配で出払っていただけだ。いつも保健室の常連なのがいないと調子が狂う」
後頭部を掻いたヒイラギは鉄菜の視線の先を追った。
紺碧の大気が流れる空で風が滞留している。
「青い空があまり好きではない?」
「別に。ただ、コミューンは随分と住みやすく出来ているようだ、と思っただけだ」
「ゾル国は特に、かもね。浄化設備が他のコミューンに比べて発達しているから、コミューンの中ではマスク要らずだし。C連合やブルーガーデンではマスク着用を義務付ける区画もあるらしい」
博識なヒイラギに鉄菜は一顧だにしない。
「外の世界を知らないで生きているのか。皆が」
「そりゃ、そうじゃないかな。今時、軍人でもノーマルスーツとマスクは着用だろうと思う。紺碧の大気汚染に怯えて暮らすのは、もうないんだ」
それほどまでに平和が約束された世界。その甘受する平和の中でどうしても受け入れられない現実もある。
「先生、やっぱりその……逃げてばっかりでも、よくないと思うんです」
「うん? しかし、今は国家全体が英雄を貶めにかかっている。今動くのは得策ではない」
「でも! 鉄菜はそうじゃないって言ってくれました! あたしでも、何かが出来るんじゃないかって……」
当の鉄菜本人はそのような大それた事を言ったつもりがないのか、手すりにもたれて上空を見つめている。何か言葉が欲しいのに、鉄菜は何も言ってくれない。
否、わざとなのか。
自分の口から状況を打開する言葉が出るのを待っているのか。
ならば、と燐華が勇気を振り絞ろうとした瞬間、鉄菜が怪訝そうに口にした。
「……何だ、あれは」
鉄菜の視線の先には飛行機雲を棚引かせる小さな黒点があった。仰ぎ見たヒイラギが声にする。
「人機、か?」
「人機にしてはあまりに低くを飛んでいる。ゾル国の条約に違反する高度だ」
「そう言われてみれば……でも巡回警護のバーゴイルなら」
青い推進剤を引いて黒点が制動する。立ち止まった黒点が何をするつもりなのか、燐華にはまるで分からなかったが、直後に鉄菜は目を見張った。
「伏せろ!」
途端、鼓膜を割るような炸裂音が無数に連鎖する。
爆砕の赤い光が壁のように乱立し、コミューンの天井に大きな風穴を開けた。
浄化大気と紺碧の汚染大気が入り混じり、空気そのものが変色していく。
燐華の身体を咄嗟に庇った形の鉄菜は黒点を睨み据えていた。まるで戦うべき敵のように。
「鉄菜……? あたし、どうなって……」
「教員。マスクと浄化装置を。コミューンに風穴が開いた」
命令する口調の鉄菜にヒイラギが言い返す。
「でも、コミューン外壁は自動修復機能が……」
しかし、その自動修復がいつまで経っても行われないのである。コミューンの風穴から黒点がゆっくりと降下してきた。
それを目にして鉄菜は驚愕に戦慄いた。
「……《バーゴイル》だと?」
「《バーゴイル》……? ゾル国の機体なんじゃ……」
言葉を発しようとした燐華に、鉄菜は携帯用の酸素供給器を手渡した。
「十分程度はこれで持つ。燐華・クサカベ。あれの狙いは恐らくこのコミューンの破壊工作だ」
あまりにも現実から遊離した発言のせいか、燐華は聞き返していた。
「破壊工作? それってどういう……」
「話は後だ。……いや、もう話をする機会もないかもしれないがな」
鉄菜は手すりに踊り上がり、眼下に地面を捉えた。
「鉄菜? 何やってるの! 危ないよ!」
「燐華・クサカベ。私がお前に言える事は少ない。ただ、一つだけ助言するのならば。――運命に抗え。お前を篭絡しようとする運命そのものに、反抗の凱歌を奏で続けろ」