「教官。おかしいのではないですか?」
桔梗の問いに蜜柑は即座に応じられなかった。ニナイの宣言の事を言っているのだろう。疑念はもっともであった。
「信じられない、って顔ね」
桔梗は憮然として頭を振っていた。
「あんな……不合理で、不器用なのが、本当に《ゴフェル》の艦長で? ……教官、今からでもいいです。私を、クルーの上層部に繋いでください。もっとうまくやります。もっとうまく立ち回って――」
「それは計算上の試算でしょう。そうじゃないのは、分かり切っているし……それに私は、艦長を裏切るつもりはない」
その返答に桔梗は険しい眼差しを向けていた。
「……戦うと? 負けが確定した戦闘でですか? 《ゴフェル》のエクステンドチャージを使えば、全員を生かしたまま月面まで逃がせます。分かっているんですか? 大勢死ぬんですよ? このまま、ソドムなんて放っておいて、惑星が勝手に自滅するのを見ていればいいじゃないですか。フィフスエデンなんて惑星側の膿でしょう? ブルブラッドキャリアには関係がない」
そう、関係はない。エデンを殺し切れなかったのは何もこちらの不都合ではないのだ。元老院の仕損じた罪であり、そのエデンに振り回される星の民草は、彼らが招いた事態だ。何も介入してやる義理はない。率先して戦って、死ぬ思いをしてまで、取り戻してやる意義も断じてないのだ。
月面に戻ればある程度の平穏は待っている。
フィフスエデンがいずれ月まで手を伸ばすとしてもその時にはもっと遠くに逃げおおせられるかもしれない。
いずれにしたところで、ここで抗い抜いて、抵抗しても何もいい事はないだろう。無駄死にを重ねるだけだ。
「……関係がない、か。でも、イリアスさん。全ての生命はいずれ星に還るのよ。その還るべき場所を、奪われたままでいられるの?」
「……私達は、星とは関係がない。月で生まれ、そしてブルブラッドキャリアに育まれてきた。星の人々とは違う! 最初から罪人な連中とは……私は……」
そう、違う。その通りだ。自分達と相手は違う。だから、争う。あるいはだから争わない、とも言える。
今までの歴史はその繰り返しだった。
異なるから求める。異なるから排除する。異なるから、分かり合えない――。
「違うから、私達は戦ってきた。でも、そうじゃないのかもしれない。ヒトは、違ってもいいのかもしれない。その証明のために、剣を取るのが、ブルブラッドキャリアのはずよ」
「……善玉気取ったって、私達だって侵略者です」
正論だ。どれだけここでフィフスエデンの陰謀を止めても、月に生存する侵略者。異端者である事実は覆せない。
綺麗ごとを並べたって、結局は惑星の支配権が欲しいだけだろう。そうなじられれば何も言えないはずだ。元々は星の生存権を取り戻すための戦いであった。
「でも、私達は……人間は土から離れては生きてはいけないの。月面で、どれほど人間らしく振る舞っても、どこかで欠落はある。罪の星が……虹色に滲む星が空にある限り、私達は本当の意味で自由になんて成り切れないのよ」
「自由じゃないですか。月は自由だった!」
桔梗の言い分も間違いではない。月で安息のうちに死ねれば、それでいいという考え方も。
――だが、自分は。
星を取り戻すために戦い、そして唯一無二の半身を失ってまで、世界のために戦い抜いてきた。全ては、弊害もなく、誤解もない。ただの有り触れた、凡庸なる平穏を目指して。
そう、有り触れたものでいいのだ。
そんなもののために、今まで何人も葬ってきた。有り触れた平和を、勝ち取るために。
蜜柑は己の掌に視線を落とし、やがて拳を作っていた。
「……少なくとも、私は林檎や、鉄菜さんを裏切れない」
「……林檎、と言うのは教官のお姉さんでしたね。双子の操主で、《イドラオルガノン》の上操主……」
データで教えたのはそこまでだろう。如何にして林檎が裏切ったのか。闇を育んだのかは語られていない。
だが、林檎の願った平和は、彼女の祈った未来はこんなものであったか。
こんな、どこかでタガが外れたような世界が、本当に手に入れたい未来だったと言うのか。
蜜柑は頭を振る。
「……林檎は私にとって掛け替えのない存在。そして、イリアスさん。あなたもそう」
投げた言葉に彼女は驚嘆する。
「私、も……」
「仮初めの平和に生きて欲しくない。そんな……いつ崩れるか分からないものの上に成り立たせるのが、私達執行者の使命じゃないはず! 私は、蜜柑・ミキタカ! モリビトの執行者なのよ! だから……逃げられない」
「……でも、それはきっと、呪いですよ」
そうなのかもしれない。呪われて、縛られて、その果てにこう思い込んでいるだけの愚かさがあるだけなのかもしれない。
しかし、誓ったのだ。
林檎のような犠牲をもう出さない。そんな世界にしないために戦うと。
最後の一滴になってでも、戦い抜くと。
「イリアスさん。あなたの選択は自由よ。執行者でもないし、ましてや……《ゴフェル》の正規クルーでもない。帰るのに引き止める理由はないわ」
桔梗は月面に戻ってもいい。そう口にした蜜柑に彼女は目を伏せて頭を振る。
「……分かりません。何が正しいんですか。教えてください、教官。いつもみたいに……! ハッキリと教えてくださいよ……! そうじゃなくっちゃ……私……私は……」
決められないか。それもまた一つの在り方なのかもしれない。
「イリアスさん。私は強制しないわ。でも、あえて言うのならば……あなたは帰りなさい。ここで死ぬ事はない」
踵を返した蜜柑にはもう迷いはなかった。その背中に桔梗が叫ぶ。
「どうしたって……! そんな思い切れませんよ! 私は……教官みたいには……なれない……。強くない……」
強くない――その言葉をまさか背に受けるとは思っていなかった。かつて自分が桃や鉄菜に吐いた言葉そのもの。
自分も彼女からしてみれば理解の範疇の外なのだろう。
弱音ではない。ただ純粋に分からないだけなのだ。理解出来ないだけなのだ。
それを弱さだと、誰が言えるだろう。ここでしかし桔梗自身が決めなければ、彼女は一生後悔するはずだ。
だから、あえて選択は投げた。
あとは心が決めるだろう。
向かうべきものを見据える、自分にしかない、心が。