ジンキ・エクステンドSins   作:オンドゥル大使

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♯40 この手を滑り落ちるのは

 どちらも茫然自失の状態であった。鉄菜は掴んだ手を捻り上げリーダー格を威圧する。

 

「つまらない場所だと思っていたが、ここまでだとはな」

 

「何するのよ! 離しなさいよ」

 

 しかし鉄菜は離さず少しだけ力を込めた。だが地上の人間からしてみれば鉄菜の少し力を入れた程度でも万力のように食い込んだのがありありと伝わったのだろう。

 

 リーダー格が取り巻きに命じる。

 

「こいつ……! あんた達、こいつを!」

 

「始末して、とでも言うつもりか?」

 

 地の底から発したような声音にリーダー格が及び腰になりそうになった。だが、取り巻きのほうが従順のようだ。

 

 近くの石材を手に取り巻きの一人が鉄菜へと殴りかかろうとする。鉄菜は回転軸を加えた片足で振り切った。

 

 蹴りが食い込み、石材を叩き割る。

 

 その一撃に瞠目した周囲の人々へと鉄菜は即座に回り込んだ。

 

 手刀を形作り、それぞれの首裏を狙い澄ます。的確な力だけを加えた手刀は峰打ちだ。次々に昏倒していく取り巻きにリーダー格の少女が焦りを浮かべた。

 

「な、何なのよ、あんた……! クサカベさんの、売国奴の味方をするの?」

 

「売国奴? そこの少女が、か?」

 

 視線をやるが、売国奴と呼ばれるほど情報を持っているとも思えない。鉄菜の眼差しに短く悲鳴すら上げるほどだ。

 

「そうよ。知らないの? モリビトの名前の兄がいるって」

 

 鉄菜は首をひねる。どうにも意味が通じない。

 

「モリビトは機動兵器の名前だ。どうしてそのような名前の兄がいるというんだ」

 

「なっ……常識さえもないの、あなた!」

 

「常識を疑うのならばそちらのほうだな。目についただけのシミだが、一度目につくとなかなか離れないものだ」

 

 踏み出す鉄菜にリーダー格は制服から武器を取り出した。スタンガンである。鉄菜は嘆息をついた。

 

 ブルブラッドキャリアの操主として育て上げられた自分に、少量の電撃など通用しない。

 

「民間用の護身武器か。来るなら来い。相手になってやる」

 

「あなた、本当にどうかしてるわね……。燐華・クサカベは私達の国を侮辱して……!」

 

「侮辱だというのなら、もっとはっきりとした形でやればいい。中途半端が一番鼻につく」

 

 言葉を詰まらせた少女に鉄菜は手招きした。

 

「撃ってこい。それではっきりする」

 

 リーダー格がスタンガンを腰だめに構え、一気に飛び込んできた。雄叫びさえ上げながらの一撃が鉄菜に突き刺さる。

 

 しかし、蚊ほどにも感じないとはこの事か、と鉄菜は思い知った。やはり民間用の電撃程度では自分は痛みさえも覚えないのだ。

 

「なに、あんた……下に何か着込んでいるの?」

 

 Rスーツを制服の下に着ているのは間違いなかったがそれだけではないだろう。鉄菜は青い火花が飛び散るスタンガンの電流発生部を素手で握り締めた。

 

「これでも意味があると?」

 

「化け物……化け物同士が、肩を寄せ合って!」

 

「知るか」

 

 その一声でスタンガンを握り潰す。あまりの握力にリーダー格が息を呑んだ。

 

「化け物と売国奴が、一緒になってゾル国に歯向かうっていうの?」

 

「お前がゾル国の代表者というわけでもあるまい。一人二人殺した程度で国は動かない」

 

 すっと鉄菜の手刀がリーダー格の首筋に沿う。それだけで彼女はへたり込んだ。

 

 スカートの下から滴った液体が地面を濡らしていく。

 

 鉄菜は振り返り囲まれていた少女に手を差し伸べた。

 

「立てるか?」

 

「えっ、あの……ノヴァリスさん、何であたしの事」

 

「助けただなんて考えるな。私は、害虫が飛び回るのが目に余っただけだ」

 

 断じた声に少女も気圧されたように言葉を仕舞った。

 

「許さない……! あんた達、絶対に許さないんだから!」

 

 リーダー格の少女はしかし鉄菜の一睨みだけで射竦められたように動けなくなっていた。常人では鍛えられた自分には遠く及ばないだろう。

 

「行くぞ。つまらないものを見せるな」

 

 少女の手を引き、鉄菜は学園の廊下を歩んでいく。困惑した少女は鉄菜に何度も問いかけた。

 

「その、ノヴァリスさん? 何で? 怒ってるの?」

 

「怒っていない。不愉快なだけだ」

 

「……怒ってるじゃない」

 

 充分に距離を取ったところで鉄菜は立ち止まった。その眼光で少女が怯えたように縮こまる。

 

「さっきの教室でいた連中だな。ああいうのがこの地上の流儀なのか?」

 

「地上って……。そりゃ分かんないけれど、でもあたしなんて助けないほうが……」

 

「助けた覚えはない。義理立ても、何も必要はない」

 

 強い語調に少女はしゅんと面を伏せた。

 

「そう、なんだ……助けてもらったわけじゃない、んだね……」

 

「助けてもらえると思っていたのか?」

 

 少女はその言葉に返事を窮した。

 

「……ちょっとくらいは何か状況がマシになるかな、って思っていたけれど、やっぱりそんな都合よくはいかないよね」

 

 少女は鉄菜の手を振り解き、来た道を戻っていく。

 

「何をしに戻る?」

 

「ノヴァリスさんがやってくれた事、あたしのせいだって言わないと。じゃないともっと酷い事になっちゃう」

 

「酷い事? どうして私のやった事を肩代わりする? 栄誉でも欲しいのか?」

 

「……分かんないかな、ノヴァリスさんには」

 

 鉄菜にはさっぱり分からなかったが、少女はどうやら自分の行動の泥を被ってでも守りたい何かがあるようであった。

 

「そこまでして何を得たい? あんなもの放っておけばいい」

 

「出来ないよ。だって、あたし、言われた通りなんだもの」

 

 鉄菜は首を傾げる。売国奴、という罵声はどうにも馴染みそうにない小さな肩である。

 

「どういう意味だ? 本当に他国に情報でも売っていたのか?」

 

「そんなわけないじゃない……! あたしは、何もしてないよ」

 

「では甘んじて罵倒を受ける意味もあるまい。どうしてこだわる?」

 

 鉄菜の疑問に少女は頭を振った。灰色の髪が小さく揺れる。

 

「あたしにも、分かんない。でも、こうして耐えるしかないんだって、そう思っていたから。ノヴァリスさんみたいな人には、分からないかもしれないけれど」

 

「理解に苦しむ。自分が苦痛を感じて何か意義があるとでも? それほどの人間には見えないが」

 

 少女はこちらへと振り返る。どうしてだか涙ぐんでいた。

 

「だって、あたしが生贄にならなきゃ、誰がにいにい様の事をよく言えるっていうの」

 

 問い返されても鉄菜には答えられない。その意味さえも分からないからだ。

 

「……分からない。にいにい様? 誰の事を言っているのかも不明だ。それだというのに、目の前の些事には割って入るな、と? 偉そうなのかそうでないのかも分からないな」

 

 歩み出た鉄菜に少女は張り裂けそうな言葉を放る。

 

「近づかないで! ……あたしに関わってもノヴァリスさんには……」

 

 やはり鉄菜には分からない。少女が何を背負っているのかも。どうしてそこまで意固地になるのかも全く不明であった。ただ、自分にとって不愉快な要素を排除しただけに過ぎないのに、ここまで複雑な思考回路をするのが地上の人間なのだろうか。

 

「……不利益を排除しただけだ。だというのに、シンプルな等価交換もされないのか。学園という場所は随分と住みにくいと見える」

 

「ノヴァリスさん……他国から来たんだよね? だったら、知らないのも無理ない、かもしれないけれど」

 

「知らないからと言って、先ほどの状況がお前にとっての好転とも思えないのだが、私が間違っているのか?」

 

「間違ってなんて……! ただ、そういう風にシンプルに物事を割り切るのには、あたしみたいなのからしてみれば逆に……分かんなくって。変なのかな? ここ数日間で、周りが変わっちゃったから、裏切られるほうにばっかり慣れちゃって……」

 

 鉄菜は依然として氷解しない疑問に眉をひそめつつ、少女の手を取った。

 

 今度は振り解かれなかった。鉄菜は自らの頬を指差す。

 

「頬に切り傷がある。絆創膏くらいはあるだろう。医務室に行く」

 

 手を取って歩み出した鉄菜に少女が困惑する。

 

「でも、あたしに関わってもいい事なんて」

 

「私は損得で介入したわけじゃない。情勢として一方的な不利益が気に入らないだけだ」

 

 ただそれだけの感情で動いたに過ぎないのに、一方で不安げに顔を翳らせる被害者がいる。一方ではこちらに牙を剥いていく加害者がいる。

 

 その両端が鉄菜には全く理解の範疇外であった。

 

「……変わり者だよ、ノヴァリスさんは」

 

「変わり者呼ばわりは慣れている」

 

 手を取って医務室と指定されていた場所に赴いた。扉をノックすると中から男性の声がする。

 

「あれ? 君は……」

 

 振り向いた男性教諭は鉄菜の存在に眉根を寄せる。

 

「その、彼女転入生で、今日入ってきたばっかりなんです」

 

「ああ、そうか。見ない顔だな、って思ってね」

 

 眼鏡のブリッジを上げた教員に鉄菜は歩み寄って手を差し出す。

 

「絆創膏」

 

 それだけでは通じなかったのだろう。教員は言葉を彷徨わせる。

 

「えっと……」

 

「その、ノヴァリスさんはあたしのトラブルに介入してくださって、怪我も、しちゃったみたいで……」

 

 及び腰なその言葉に教員は鉄菜の手が擦り剥けているのを発見する。

 

「ちょっと診せて……火傷しているじゃないか」

 

 男性教諭は消毒液とガーゼを取り出すが鉄菜からしてみれば怪我でもないものを治療されるのは不愉快であった。

 

「私ではなく、こっちだ」

 

 手招いた鉄菜に少女はおずおずと歩み出る。鉄菜が頬を示すと男性教諭は目を白黒させた。

 

「えっと……その子じゃなく、クサカベさんのほうって事?」

 

「そうみたいで……」

 

 教員は二人を見比べてからぽつりと言葉をこぼした。

 

「……とりあえず、状況を聞こうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燐華からしてみれば、鉄菜はどうして自分を助けてくれたのか分からなかったが、彼女が手に火傷を負っている事だけは確かだった。その怪我が自分のせいだという事も。

 

 概要を話し終えると、ヒイラギが首をひねる。

 

「クサカベさんを助けに入ってくれたわけか。じゃあ恩人だ」

 

「恩人だとか、そんな謝辞は必要ない。頬の傷に絆創膏を貼ればいいだけだ」

 

 鉄菜はヒイラギの前でも物怖じしない。どうしてそこまで強くあれるのだろうと燐華はびくついてしまう。

 

 一言一言が、誰かに対しての牽制のようだ。

 

「ああ、そうだったね、ゴメン。……でも、あの子の手の怪我、ちょっとしたものじゃないけれど」

 

 声を潜めたヒイラギに燐華は首肯する。

 

「スタンガンを、その……握り潰したみたいで」

 

「握り潰したぁ? スタンガンを?」

 

 素っ頓狂な声を上げたヒイラギに燐華は慌てて口を塞ごうとするも遅かった。鉄菜の鋭い目線がこちらに注がれる。

 

「その……だってあまりにも……」

 

 あまりにも理解の外の行動だったからだ。そう言おうとしたが、鉄菜はゆっくり手を掲げた。

 

 平手が来ると身構えた燐華に鉄菜はすっと手を差し出した。

 

「そんな大した怪我じゃない」

 

「いや、でも、スタンガンを握り潰すなんて……、とにかく一応は診せて」

 

 ヒイラギが怪我の治療に当たる中、鉄菜の目線は自分に向いたままであった。

 

 燐華は慌てて頬の絆創膏をさする。

 

「ほら、あたしは治してもらったし。今度はノヴァリスさん」

 

 消毒液が沁みたのか、一瞬だけ表情を変えた鉄菜であったが直後には仏頂面に埋没していた。

 

 痛みを感じる感覚器が存在しないかのようだ。

 

「これでよし。手は開ける?」

 

 ガーゼを包帯で巻きつけたヒイラギに鉄菜は手を握り締めようとする。

 

「不必要なまでの拘束だ。こんな大怪我じゃない」

 

「いや、手でも痕が残っちゃ駄目だろう?」

 

「痕なんてどうでもいい」

 

 鉄菜は何と包帯を引き千切ろうとする。慌ててヒイラギと燐華が押し留めた。

 

「と、とにかく、今は安静に!」

 

「そ、そうだよ、ノヴァリスさん。安静にしなきゃ!」

 

 二人分の言葉でようやく鉄菜はその事実を飲み込んだようであった。ヒイラギもやり辛いのか額に浮かんだ汗を拭っている。

 

「鉄菜・ノヴァリスさんだったか。すまないね。クサカベさんのトラブルに巻き込んじゃったみたいで」

 

「ごめんなさい、ノヴァリスさん。あたしの事は、もう無視していいから」

 

 燐華も心の底から謝った。これから先まで面倒を診てもらうわけにはいかない。早めに事実を突きつけておくべきだ、と感じたがゆえの行動だったが、鉄菜は頷かなかった。

 

「無視するかどうかは私の勝手だ。どうして頼まれなくてはならない」

 

 思っていたよりもずっと意固地であった。ヒイラギは声を潜めて燐華に囁く。

 

「……随分と、変わり者だなぁ」

 

「朝クラスに来てからずっとなんです。他人の視線も見えていないみたいに」

 

「厄介な子だなぁ。……まぁ、君だけでも充分に厄介なんだけれど」

 

「すいません、先生」

 

「謝る事はない。ただ、まぁ、変わり者ってのは自然と集まるものなのかもしれないね」

 

 鉄菜は処置された右手の包帯を千切り取ろうとしている。ヒイラギがその手を押さえようとして、逆に手首をひねり上げられた。

 

 瞬時の出来事である。燐華の目には留まらないほどの速度で鉄菜がヒイラギの手を返していた。

 

「痛い、痛いって!」

 

「の、ノヴァリスさん! 先生に向かってそんな……」

 

「……癖だ。気にするな」

 

 手を離した鉄菜には何も気にする神経など最初から存在しないようであった。ヒイラギがひねられた手首をさする。

 

「本当に学園の子? 格闘技でもやってた?」

 

「き、きっと護身術ですよ」

 

 取り繕った燐華に鉄菜は鼻を鳴らす。

 

「護身術と呼べるほどでもない」

 

「本当、変わってるなぁ……。まぁ、その、なんだ。君らが一緒になって保健室の常連になっても、僕は別にいいんだけれどさぁ」

 

 ヒイラギが書類仕事に戻ろうとする。鉄菜は立ち去ろうと踵を返した。

 

 その背中を燐華は呼び止める。

 

「ノヴァリスさん! その、待ってくれる?」

 

 鉄菜は一瞥を投げるだけだ。その眼差しに浮かんだ冷たさに言葉を仕舞いかけるが、今言わないときっと後悔する、と自分を奮い立たせた。

 

「身勝手なあたしみたいなのを、……その、助けてくれてありがとう」

 

「身勝手なのは私だけだ。後は知らない」

 

「でもっ! あたし、助けてもらったのに、あんな事言って……」

 

 いつの間にか卑屈になっていたのだろう。鉄菜はしかし特に気にした様子でもなかった。

 

「あんな事……? どれの事なのか分からない」

 

「鉄菜・ノヴァリスさん、だね。正式に転入届が来ている」

 

 ヒイラギはいつの間にか教員のデータベースに入っていたらしい。燐華は覚えずその行動を咎める。

 

「先生! 目の前に生徒がいるのに、失礼じゃないですか」

 

「ああ、ゴメン。でも君みたいな子が本当に生徒なのか、気になっちゃって」

 

 気持ちは分かるが実行するとなると話は別だ。燐華は厳しく言いやった。

 

「謝ってください。女の子の個人情報ですよ?」

 

「そりゃすまない事をした。ただでさえ女子校だからね。僕みたいなのは評価に気をつけなければならない」

 

「別に、妙な事でもない。気になったから調べただけなのだろう」

 

 鉄菜はどこまでも冷たい。そのまま立ち去ろうとするのを、燐華は押し留めた。

 

「その、ノヴァリスさん。あたし、ここによく来るの。……家にも学校にも居場所ないから。ノヴァリスさんも、来てくれると、あたし、嬉しい」

 

 自分勝手な押し付けかもしれない。鉄菜は自分のような弱い側の人間とは違うのに、自分の味方になって欲しいと心のどこかでは思っている。

 

 利己主義な自分に嫌気が差す。

 

 面を伏せた燐華に鉄菜は言葉を返した。

 

「ここに来れば、お前は嬉しいのか?」

 

 その問いかけに燐華は不格好に頷いてしまう。

 

「う、うん。多分……」

 

「ではそうするとしよう。そこの」

 

 顎でしゃくった先にヒイラギがいた。鉄菜の目線にヒイラギが硬直する。

 

「な、何かな?」

 

「困らないのならば、来ていいだろうか」

 

「ああ、僕はそうじゃなくっても変わり者だから……変わり者が一人増えるくらいは……」

 

 お互いに視線を彷徨わせる中、鉄菜が頷く。

 

「そうか。ならば次からはそうする」

 

 あと、と鉄菜が付け加える。今度は燐華へと視線が注がれていた。

 

 紫色の瞳が無感情に自分を見据えている。

 

「な、なに?」

 

「ノヴァリス、と呼ばれるとごく稀にだが反応が遅れる。鉄菜でいい」

 

 ただそれだけの瑣末な事、とでも言うように鉄菜は言いつける。燐華にとってはしかし、その言葉は大きかった。

 

 この学園で、初めてかもしれない。

 

 自分の称号や権力を気にせず、友人関係になってくれそうな人間と出会うのは。

 

「う、うん。鉄菜……さん」

 

「さんも要らない。私もそちらを名前で呼ぶ」

 

「あ、あたしは」

 

「燐華・クサカベ、だったな」

 

 問答の間もなく鉄菜の有無を言わさない声に燐華は頷く。

 

「うん、そうだけれど」

 

「では燐華・クサカベ。私はお前の味方になったつもりもない。敵であるのはしかし、非合理的だ。どっちの立場でもない。ただの、第三者だ」

 

 それだけ言って鉄菜は保健室を出て行った。ヒイラギがようやく緊張から開放されたように肩を回す。

 

「……すごい威圧感だったなぁ」

 

 確かに威圧されっ放しだ。それでも、と燐華は胸に湧いた感情を握り締める。きっと、これが友人というものなのだろう。

 

「ええ、でもあたし……初めて友達っていうのが分かった気がします」

 

 その言葉にヒイラギが微笑みかける。

 

「教職者としては、いい事だ、と褒めるべきなのかな」

 

「ガラじゃないでしょう? 先生は」

 

 言い合って二人して笑った。鉄菜も保健室の常連になるのかもしれない。そうでなくても、鉄菜は自分の味方でいてくれる。

 

 根拠はない。だがそう思っていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『クロ、妙な事になっていたから口を挟まないでおいたけれど……』

 

 桃の声に鉄菜はしまったと感じた。通信回線はオープンのままであった。

 

『いやぁ、でもよくやったんじゃない? 鉄菜、地上に来て初めて人間らしい事したかも』

 

「あれが、人間らしい?」

 

 聞き返すと彩芽は問いかけた。

 

『違うの? いじめを見て見ぬ振りが出来なかったんでしょう?』

 

「あれが、人間らしい事なのか?」

 

 鉄菜は感慨を噛み締める気分でもなかった。むしろ足枷が増えたようなものだ。このコミューンでは痕跡は残すまいと思っていただけに、燐華という少女とヒイラギという男に顔を覚えられてしまったのは大きなマイナスである。

 

 しかし、当のモリビトの操主二人はどこか微笑ましいものを見る眼を通信越しに注いでいる。

 

「……何だ、その目つきは。不愉快だ」

 

『別にー。ねぇ? アヤ姉』

 

『ええ。鉄菜にも人間らしいところあったんだなーって思っただけだもの。ねぇ? 桃』

 

 二人して示し合わせたような事がよく言えるものだ。鉄菜は呆れ返ってしまう。

 

「本来の仕事に戻れ、二人とも。やるべき事はあるんだろう?」

 

『はーい。クロに言われちゃ仕方ないわね』

 

『そうね。鉄菜に言われたら仕方ない』

 

 どうにも自分の行動がそれほどまでに意外だったのか、それとも予想内であったのか、モリビトの操主二人は笑みを浮かべたままであった。

 

「分からない事を」

 

 呟きつつ鉄菜は包帯を解きかけた。どうせ自分には包帯や怪我の処置は必要ない。このような怪我など治療の範疇ですらなかったが、鉄菜の手は包帯を引き剥がせなかった。

 

 鉄菜の手は包帯を引き千切るだけの力を持たないまま、その端っこを引っ掴んだだけであった。

 

 いざという時に邪魔になる。そう考えていても、胸の中に湧いた正体不明の感情を切り捨てられずに持て余す。

 

 ――この感情を何と呼ぶのか。

 

 桃や彩芽に聞き返してもよかったが、今は二人に頼るのはどこか情けなく思えて鉄菜は通信も繋がなかった。

 

「……何もかも、分からないままだ」

 

 だが胸の中は冷たい風が吹き荒ぶのではない。むしろその逆であった。

 

 今まで抱いた事のない感情が胸を占めていく中、鉄菜は右手の包帯を強く握り締めた。

 

 


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