ジンキ・エクステンドSins   作:オンドゥル大使

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♯39 邂逅

 ヒイラギはいつも何かしら書類仕事に追われているようであった。

 

 燐華は何の仕事をしているのか、尋ねてみる。

 

「なに、雑務だよ、雑務」

 

「でも、他の先生方はやっておられる感じじゃないですけれど」

 

「だから、それを雑務と呼ぶんだ」

 

 眼鏡のブリッジを上げたヒイラギに燐華は微笑んだ。

 

「先生、相当暇なんですね」

 

「暇に見えるかい?」

 

「それか、相当気が弱いか」

 

「ああ、そうだとも。僕は気が弱い。だから、何にも言い返せないよ、燐華・クサカベ。君の力にもなれやしない」

 

「でも、先生はあたしを匿ってくれているわ」

 

 ヒイラギは肩をすくめる。

 

「匿うなんてほどじゃないさ。生徒達の死角なんだ、この保健室が。それだけの話。大した事をしているわけでもない」

 

「いいえ、先生のお陰であたし、踏み止まっている」

 

 人を信じられなくなる事から。あるいは、死から、と言ってもいい。

 

 ヒイラギはこちらに視線を振り向けもせず、そういうものかな、とこぼした。

 

「踏み止まっているのは君の自由だろう。僕は大した事をした覚えはない」

 

「でも、保健室があってあたし、ホッとしてる。だって、先生が話相手になってくれて、あたし……」

 

「誤解して欲しくないのは、僕だって国を相手取れるほど強くないって事だよ。命令されればこんな保健室のプライバシーなんてないも同然なんだ。安心し切っているのはおススメしない」

 

「軍は学校の保健室に入ってこないわ」

 

「どうかな。君は国家を上げての敵対対象の妹だ。思っているよりも敵は多いと判断したほうがいい」

 

 敵は多い。その言葉に燐華はここ数日の迫害を思い返した。

 

「……友達はいると、思っていました。モリビトの、兄がどれほどに貶められても、それでも手を差し伸べてくれる友達が」

 

「案外、他人なんて当てにならないものさ」

 

「分かっていたつもりでした。屋敷でも居場所なんてないもの」

 

「僕だって当てにされれば困る。人機でも持っていれば違うかもしれないが、一介の保険医だ」

 

「先生も……にいにい様を、英雄を堕ちた存在だって思っていますか?」

 

「難しい事を聞くね」

 

「難しくはないと思います。……みんな、どう思っているかくらいは」

 

 モリビトの名前は一夜にして敵の名前になった。本国の誉れ、英雄の名前であったはずなのに。桐哉はどうしているのだろう。桐哉に会いたい。会って、思いの丈をぶちまけたい。

 

 そうでなければ、自分は壊れてしまいそうだ。

 

「どう思っているのか、か。同調圧力というものがある。人間、追い込まれればどれほど酷い事だって平然とするものさ」

 

「それがまかり通っているんですか」

 

「まかり通らなければ、人間は自治体を形成出来ない。古来よりある処世術の一つだ。自分と相手は違う。それだけの理由で争ってきた」

 

「先生は、達観しているんですね」

 

「達観? 違うよ。これは諦めだ」

 

 人間に対する諦めだろうか。キーを打つヒイラギに燐華は言いやっていた。

 

「先生は、人間が嫌いなの?」

 

「好きじゃない。でも、嫌いでもない。時に人間はとてつもなく愛おしいとさえも思える。それは、人間だけが罪を持っているからだ」

 

「罪、ですか……」

 

「そうさ。罪の概念を持ち出したのは、人間だけだ。他の生命体を圧倒し、裁くか裁かれるかを分けたのも、人間だけだ。犬猫はお互いを裁き合う事さえも知らないだろう」

 

「分からないわ……どうして、人間は裁く事を覚えたのでしょうか」

 

「それは、争わないためだろうね」

 

 さっきの発言と矛盾する。燐華が眉をひそめていたからだろう。ヒイラギは薄く笑った。

 

「意味不明な事言っていると思ってる?」

 

「……少し」

 

「だろうね。だが、その通りなんだ。厳罰の概念は争わないために出来た。何故って、罪と罰がなければ、人は際限なく争い続けるからさ。罪に対する罰、この両者は不可分の存在だ。罰がなくてもバランスは崩すし、罪がなくともこの世はおかしくなってしまう。罪と罰、二つ揃って初めて、意味がある言葉なんだ」

 

「……にいにい様が罰を受けているのも、仕方がないっていう事なんですか」

 

「僕は政治家じゃないし軍人でもない。だから、君の兄である桐哉・クサカベがどれほどの境遇にいてもどうも裁けないし、どうにも釈明も出来ない。僕はただの保険医だからね」

 

 結局、自分達の罪は自分達で贖うしかないのだ。

 

 それがどれほどに時間のかかる事であったとしても。

 

 朝礼の鐘が鳴った。今日は随分と早い時間から保健室に訪れたのだが、当たり前のようにヒイラギは仕事をしていた。

 

「あたし、戻らなくっちゃ」

 

「何で、君はそこまで真面目なんだい? いや、馬鹿正直というべきか、戻らなくともいい選択肢だろうに」

 

 ヒイラギの言葉に燐華は顔を翳らせた。ずっと保健室にいればいい。その通りなのだが、燐華には絶対に譲れないものがあった。

 

「あたし、先生に逃げている。でも、にいにい様は逃げずに戦っているはずなんです。あたしだけが、いい逃げ場所を持っているなんて……ずるいですよ」

 

「だが人は逃げる生き物だ。いつだってそうさ。何かから逃げている。宿命だとか、運命だとか、やるべき事からね」

 

 だから自分にだけ無理を強いる事はないと言ってくれているのだろうか。その優しさに燐華は微笑み返す。

 

「優しいですね、先生は」

 

「僕は優しくないよ。小心者なだけさ」

 

「でも、だったらあたしのやる事って多分、逃げない事だけなんだと思うんです。それだけでしか、にいにい様に顔を合わせる手段がないですから」

 

「桐哉・クサカベの温情に甘えていればいいんじゃないかな。君は、だって軍人でもなければ、特別な人間でもない」

 

「いえ、でもあたし、出来る限り戦っていたい。だってにいにい様はいつだってあたしの事を心配してくれるんだもの。あたしだけ、安全な場所に留まっているのは、間違っています」

 

「そうかな。そういうもんか」

 

 立ち上がった燐華は保健室の扉を開けようとして重苦しい感情が胸を占めていくのを感じた。

 

 ――戦わなくてもいい。

 

 その通りだ。自分は何も出来ない、ただの人間。だから降って湧いたような不運に抗う必要もない、と。

 

 しかし燐華は面を上げた。

 

 ヒイラギと桐哉にばかり逃げていては駄目なのだ。

 

 保健室を出る際、ヒイラギが言葉を投げてきた。

 

「また来るといい」

 

 その優しさに甘えてしまいそうになる。本当はここにいたい。誰とも会いたくないのに。

 

 燐華は教室に戻る際、数人の生徒達の視線に晒された。

 

「……まだ来てる」、「恥知らず過ぎでしょ」、「なんで生きてるかなぁ」

 

 囁き声から目を背けて燐華は席に座った。席にはいくつもの罵声の言葉が刻み込まれている。

 

 また、我慢の時間が始まる。

 

 学園に通うのなら授業を受けなければ、と自分に課していたが、これでは逆に自分の身体を追い込むかのようだった。

 

 息苦しさを覚える燐華は胸元をぎゅっと握り締めた。教師が全員に声を振り向ける。

 

「えー、今日は転校生を紹介しようと思う」

 

 教室中がざわめいた。珍しい事もあるものだ。燐華の通う学園はほとんどエスカレーター式で外部からの人間など転入してくる事はまずない。

 

「入りなさい」

 

 教師の言葉に黒髪をなびかせた少女が歩み出ていた。濃紺に近い学園の制服を着こなしている。紫色の瞳孔が射る光を灯していた。鋭い眼光に興味本位の生徒達は口を噤む。

 

「……綺麗」

 

 燐華は覚えず呟いていた。少女の立ち振る舞いにはてらいというものが一切ない。自分がここにいる事に一つの疑問も挟んでいない様子であった。

 

 靴音を響かせ、少女が全員に向き直る。教師がホワイトボードに名前を書きつけようとした。その手を制して少女は横向きに名前を綴る。

 

「鉄菜・ノヴァリス」

 

 それ以外の言葉は不必要だとでも言うように少女――鉄菜は口にしていた。生徒達が囁き合う。

 

「他に何かないの?」

 

「えーっ、ノヴァリスさんはご家庭の都合でゾル国に入国してきたばかりで分からない事も多いと思いますが、皆さん仲良くしてあげてください。席は……」

 

 教師が言葉を彷徨わせている間に鉄菜はつかつかと歩み出ていた。空いている席はこのクラスでは一つだけである。

 

 燐華の隣に鉄菜は歩み寄っていた。

 

 その鋭い眼光に燐華は射竦められたように言葉を失う。

 

「隣」

 

「あ、うん。空いているけれど」

 

 鉄菜は迷いなく座り込んだ。生徒達がこれ見よがしに声を潜める。

 

「クサカベさんの隣に、なんて、不幸ね、あの転校生」、「そもそも意味が分かってやってるの?」、「意味分かっていたらあんなところ座らないでしょ」

 

 様々な言葉が交わされる中、教師が場の空気を取り繕う。

 

「えーっ、では一限の授業に入る」

 

 燐華は鉄菜に言葉を差し挟もうとして、取り出された端末を淡々と操作する鉄菜の存在に圧倒されていた。

 

 まるで鉄菜だけこのクラスから隔絶されたようであった。

 

「その、ノヴァリスさん……。何か手伝える事……」

 

「手伝う? 何を?」

 

「いや、だって入国したばっかりだし分からない事とか」

 

「特にない」

 

 取り澄ましたわけでもない。心底訊く事など一つもないと感じている声音であった。

 

 生徒達の一画の視線がこちらに集まっているのが分かる。鉄菜のような態度は敵を作りやすい。

 

「その……あたしなんかが言える立場じゃないけれど、もうちょっと気をつけたほうがいいと、思うよ」

 

「気をつける? ……つまらない事を言うものだ」

 

 ようやく視線が集中している事に気づいたのか、鉄菜の下した判断は「つまらない」という一言だった。

 

 いじめのリーダー格が顎をしゃくる。穏やかじゃない、と燐華は身を縮こまらせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園の至るところには監視カメラがある。鉄菜はその監視カメラの死角を見つけ出し、端末に暗号コードを吹き込ませた。

 

「潜入完了した。三号機からのバックアップは完璧のようだ」

 

『クロ、いい格好よ、本当に』

 

 くくっ、と桃が笑いを押し殺したのが伝わる。鉄菜は声に棘を含ませた。

「……ゾル国が緊張状態にあるのは分かる。だが、どうして学校なんかに入らなければならない」

 

『必要だからよ、鉄菜』

 

 割って入ったのは彩芽だ。彩芽の通信は遠く離れたC連合のオフィスからもたらされている。

 

『第三フェイズは滞りなく行われているようね。モモのサポートがあるんだからトーゼンだけれど。二人とも、いい格好』

 

 彩芽はOLの服装に袖を通していた。鉄菜は自分の纏っている学園の制服に違和感を覚える。

 

「私も会社でよかった」

 

『ゾル国じゃ、その年齢で会社勤めのほうが珍しいのよ。ま、アヤ姉の歳なら誤魔化さなくっていいんだけれどね』

 

『……鉄菜、気持ちは分かるわ』

 

 押し殺した彩芽の声音に鉄菜は嘆息をつく。桃に弄ばれているようなものだ。鉄菜は鼻を鳴らして学園を見渡した。

 

「学校など、つまらないものだ」

 

『でも地上の学園なんてクロからしてみれば縁も何もなかったでしょ? そーいうのに通うのって大事よ。多分』

 

『二号機はいつでも出せる状態にしてあるのよね?』

 

「地底湖に沈ませてある。入る時に制限を受けなかったのは三号機のお陰か」

 

『《ノエルカルテット》がちょっと本気を出せばクロみたいなのだってただの一般人に出来ちゃうんだから』

 

 ただの一般人。鉄菜はその言葉の持つ違和感に掌へと視線を落とした。自分はそもそもこの惑星の生まれではない。だというのに群集に埋もれる事が出来ている事に驚きを隠せなかった。

 

「案外、出来るものだな」

 

『そう? でもクロったら早速、好奇の視線を掻っ攫っているわよ? いじめの標的にされるかも』

 

「そいつらは武器でも持っているのか?」

 

『武器なんてなくってもいじめは発生するのよ、鉄菜。地上ってそういうもの』

 

 分かった風な口を利くのだな、と鉄菜は感じつつ学園の屋上から望んだ景色を視界に入れる。

 

 広く取られた学園の敷地の中で運動に精を出す生徒やそこいらでお喋りに花を咲かせる生徒がいる。不思議なものだ。ブルブラッドキャリアが宣戦をしたと言うのに、ここはまるでそのような事実とは無縁の場所に思える。

 

「ここを見ている限り、戦争なんて起こりそうもない」

 

『ところが、クロ、戦火の種は撒かれつつある。もうゾル国とC連合の上層部は戦争が起こった場合の事を想定しているわ。民衆には知らされていなくてもね』

 

「あの動画は? どうなった?」

 

『依然としてネット上にはコピーが溢れ返っている。でも、こっちも戦争なんてものは起きそうにもないわね』

 

 彩芽が大きく伸びをする。自分とは違って社会人という身分だ。それなりに化粧気がないと渡り合えないのだろう。鉄菜は学園に潜入するに当たっての必要事項を羅列したメモ帳を取り出したが、どれも自分には向いていそうになかった。

 

「戦うしか知らないのに、協調性だの、友人を作れだの、無茶を言う」

 

『クロ、今のままじゃあんた、浮き過ぎよ。相当な変わり者だと思われているわ』

 

「構わない。戦闘時に支障がなければ」

 

『鉄菜、貴女はまだ学生だからいいじゃない。こっちなんて仕事の山。IT系の会社なんて今時入るもんじゃないわね。デバック作業ばっかりよ、昨日の夜からずっと』

 

 彩芽が欠伸をかみ殺す。鉄菜は流れる風が黒髪を揺らしたのを感じた。

 

 ブルブラッド大気とは違う、浄化された風だ。あまりに管理され尽くした風の薫りに鉄菜はむせ返りそうになる。

 

 人工的な大気というのはどうにも好かない。

 

「外で戦っているほうが性にあっている」

 

『ダメよ、クロ。緊急事態でも起きない限り、《シルヴァリンク》も出しちゃダメ。今は、ゾル国内の情勢を見るのに学生という身分が一番に合っている』

 

「桃・リップバーン、お前が来ればいい」

 

『モモにはそんな余裕なんて許されないの。第三フェイズが迫っている。ブルブラッドキャリアの本体と合流して、来るべき武装を手に入れないと』

 

『例の、モリビト全機への追加武装案ね。あれ、通ったんだ?』

 

 事前に聞かされていたものだが技術的な部門で再現不可能と言われていた領域である。

 

『そっ。追加武装を取得するのは《ノエルカルテット》が引き受けるから、アヤ姉とクロはせいぜい、娑婆の空気でも堪能しておくといいわ』

 

『シャバ、なんて可愛くない言い方するのね』

 

 桃と彩芽の言葉を聞き取りながら、鉄菜は屋上から見下ろせる景色の中に、数人の生徒を発見した。

 

 一人の小柄な少女に数人が囲んでいる。

 

「あれは、確か隣の席の」

 

『どうしたの? クロ』

 

 少女達の怒声に中央の少女は怯えきっている様子であった。鉄菜は覚えず駆け出し手すりを跳び越える。

 

「ちょっと割って入る」

 

『クロ? 何をして――』

 

 桃の通信を聞き止める前に、鉄菜は屋上から跳躍していた。

 

 中央の少女へと張り手が見舞われようとしているのを鉄菜は降り立って制する。

 

 ハッとした様子の少女らと背後の少女が空を仰ぎ見た。

 

「空から……」

 

「降ってきた……」

 

 


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