「怖いかい?」
尋ねると、燐華は頭を振っていた。白波瀬は笑顔を向ける。
「そうだろう。もう君に、怖いものなんてないはずだ。さぁ、モリビトを倒しておいで」
「うんっ! ねぇ、おじさん。にいにい様、どこなのかなぁ? ずっといないの。燐華を、一人にしないでって言ったのに……」
口をすぼませてしょげる燐華の肩に白波瀬は手を置いて慰める。
「君のお兄さんはとても偉大なんだ。だから今はいないだけさ。なに、留守は預かる。気をつけて、モリビトを倒してくるんだ」
「うんっ! 燐華、がんばるねっ!」
《キリビトイザナミ》のコックピットへとリニアシートが収容されていく。それを見届けてから、白波瀬は燐華に触れた手をハンカチで拭っていた。穢れたものに触れた手だ。
「……おい、下衆野郎。てめぇ、ヒイラギに、何を仕込みやがった……!」
怒りを滲ませ、ヘイルが突っかかる。白波瀬はフッと笑みを浮かべていた。
「……君が代わるかね? この面倒な役目を。それともお姫様のナイトにでも、なったつもりか?」
「ざけんな! てめぇ……俺ら侮辱するのも大概に……」
掴みかかったヘイルを白波瀬は冷笑する。その表情に怒りが勝っていたのだろう、拳が頬を捉えていた。だが、白波瀬は動じない。ヘイルの精一杯の怒りを引き受けた拳に、まるで意義がないとでも言うように口にする。
「……気は済んだかね?」
ハッとこちらを見据えたヘイルはまだ足りないようであった。しかし、と白波瀬は持ち直す。
「今さら、何を気取る? 君は軍属、誉れある虐殺天使、アンヘルの兵士だろう? だというのに、これは許せてこれは許せない、などという線引き、最もばかばかしいのではないかね? ブルブラッドキャリアとわたしを許せず、今までの自分達の行為は正当化、か。エゴイストだな」
再びヘイルが襟元を掴み上げたが、今度は割いてやる時間も惜しい。手を跳ね除け、身体を無重力に流す。
「もっと時間を有意義に使いたまえ。連邦艦隊がようやく追いついてきたからよかったものの、あのままでは燐華・ヒイラギ准尉は廃人であった。何をやっているんだ? 君がメンテナンスを引き受けたんだろう?」
「俺は……ヒトをメンテナンス呼ばわりするような奴とは……」
「違う、かね? だがどう違う? 無慈悲に殺し、無残に連邦への対抗勢力を今まで潰してきたはずだ。そこには幼子もいただろう。無論、女子供の区別なく、君達は殺してきたはずだ。だというのに、いざ身内を突かれると気分が悪いというのは、どこまでも身勝手だよ。それが人間の非合理性だというのならば、君らは今まで唾を吐いてきた感情を今になって大切にしたいという……どこまでも度し難い者達だ」
「てめぇ……、それは俺だけじゃねぇ、死んでいった仲間達や、隊長まで侮辱してんのか!」
「誤解するな、ヘイル中尉。侮辱や軽薄なんてどうでもいい。そうだとも、そうだっていいじゃないか。君らは勝つ。そしてブルブラッドキャリアは敗北する。モリビトは完全に殲滅する。それだけの話だ。どこに複雑な要素を持ち込む必然性がある? モリビトは敵、それでいいではないか」
だが、ヘイルは割り切れていないのだろう。通信が断絶した先の戦闘で何かあったか。ヘイルの胸中にはわだかまりが生じているようであった。
「……だが、相手だって人だ……」
「今さらの論理で申し訳ないがね、人機に乗って戦っている以上、人殺しの汚名から逃れられるとでも?」
ヘイルは拳をぎゅっと握り締め、白波瀬より背を向けていた。もう語る口も持たないというのだろう。
「……安心するといい。《キリビトイザナミ》は勝つとも。勝つように出来ている」
それに対して抗弁を放とうとして、彼は何も言えずに隔壁の向こう側へと消えていった。
所詮、一兵士の戯れ言。今さら状況をどうこう出来るほどのものでもなければ、転がりだした石をどうにか出来るはずもない。
ヒトは結局、過ちを繰り返す。どれほど愚かであってもそれは変わらない。
人間型端末である己が俗世のヒトより外れていて助かった。あんなものと一緒に生きていくなどどうかしている。
あるいは、どうかしたから、百五十年も待てたのだろうか。
「……エホバ。貴様は今になって、我慢出来なかったのか? 大切なものを見出して。だが、それは愚者の行動だ。《モリビトクォヴァディス》をもっていつでも連邦に……いや、その前の発足もまだ拙い世界政府を討つ事だって出来た。そうしなかったのは貴様の怠慢だ。だというのに、世界に責任を投げた。だから貴様には資格がない。この世界を見守る、資格なんてね」
格納庫より白波瀬はここ一同に会した人機を見やっていた。軌道エレベーターに陣取っていた勢力も含め、ざっと戦闘用人機三十機以上。ラヴァーズと戦い、地上で磨耗したにしてはまだ揃ったほうだろう。
宇宙駐在軍は何かしら腹に一物を抱えている風ではあるが、どちらにしたところで戦力に心許ないものを感じているのはお互い様らしい。
イクシオンフレームに取り付いた技術者達が声を上げていた。
「こんなの! 地上のトウジャとはわけが違う!」
「マニュアル通りにやれよ! 壊したら元も子もない!」
「ナナツーだっているんだ! 無茶を言うんじゃないよ!」
資財も底を尽き、そして今まさに闘争の炎でさえも消えかけている。この戦局を打開するのには、《キリビトイザナミ》による圧倒的火力が必要不可欠。だが、上の思想はそうでもないようだ。
格納庫を抜けた整備用通路で、白波瀬は久方振りの顔を目にしていた。
全く同じ相貌、同じ容姿。違うのはその眼差しに宿った野心であろう。まさか合い見えるとは思っていなかった。地上に降りた時点で、三つに分割された役割だ。それがこのような運命のいたずらが交錯するなど。
「……久しいな。渡良瀬」
「その名前で呼ぶな。わたしは大天使ミカエル。貴様ら凡俗とは違う」
その天使の名前も字面だけの代物だろう。ほとんど権限は消え去って久しいはずだ。
「……バベルを手中に置き、ここまで戦局を掻き乱してどうであった? それで求めていた世界は得られたか?」
その問いに渡良瀬はふんと鼻を鳴らす。
「貴様こそ、随分と底の浅い真似をしているではないか。あのような小娘を洗脳して利用、か。ブルブラッドキャリアの調停者の名が泣く」
ここで牽制の言葉繰りを互いに投げても仕方あるまい。白波瀬は本題に入っていた。
「……わたしは平和のため、いやわたし達は平和のために造られたはずだ。その目的を取り違えてはいないだろうな?」
「無論だとも。天使達が管理する世界が平和だ。だからわたしはアムニスを指揮する。何も間違えていない」
やはり、そういう帰結か。白波瀬はなるほど、と声にしていた。
「同じわたしでも、違う結論に達したか。エホバの事を嗤えんな」
「奴は愚か者だとも。百五十年……変えられるだけの力と実力を持っておきながら、静謐の内に安寧を貪った。愚者であり、そしてこれからの世界を変える資格のない、ただの傍観者以下だ」
「同意だが、二三、間違っている。《モリビトクォヴァディス》は脅威だぞ」
「《クォヴァディス》? あのハイアルファー機か。既に捕捉している。あまり人間達の軍隊を嘗めるものでもないぞ、わたし。彼らも賢しい。ハイアルファーの固有粒子は次の座標ポイントの割り出しまで入っている。むしろ、わたしは聞きたいね。エホバに、逃げるつもりなのか、戦うつもりなのか、と」
「奴は逃げんだろうさ、わたし。だからこそ、手を結ぶんだろう?」
渡良瀬は苦々しいものを感じたのか、渋面を形作る。この自分の生き写しも随分と俗世に塗れ、人間らしくなったものだ。確か当初は人機開発の第一人者、タチバナ博士の右腕として配置されたはずであるが、どのような軌跡を経て、この場所に至ったのだろう。
その葛藤だけは、彼のものであった。
「……アムニス単独での任務だっていい」
「だが勝算は少ない。月面でブルブラッドキャリア本隊と、そして《ゴフェル》の連中。両方を相手取れば必ず失いたくはない駒を失う。ゆえに、協定は必要だと判断した」
「だが、終わってからまでは口を挟まないでいただこうか。アムニス、天使達が輝く天下が訪れるのだから」
「好きにするといい。わたしも好きにしよう」
偽りの天使が輝こうと、何が天下を取ろうと別段興味はない。ただ、目先の蝿を払うという利では一致しただけの話だ。
「……だが、《モリビトシンス》、侮るなよ。幾度となくわたし達の攻撃を阻み、そして対抗してきた。あれは闇雲に戦って勝てるものではない」
「わたしにしては弱気ではないか。大天使ではなかったのか?」
「……天使でも、読めぬものがあると言っている。悔しいが、あの操主だけは分からない。確か、データ上では、鉄菜・ノヴァリス。前時代の遺物のはずの操主だ」
脳内ネットワークが同期され、白波瀬は首肯する。
「……随分と煮え湯を呑まされているではないか。これほどの相手ならばもっと特一級の抹殺対象に上げてもいいのに」
「イクシオンフレームにケチをつけられたくはない。勝てない、など、弱者の抗弁だ」
なるほど、と白波瀬は納得する。この男もまた、エゴに翻弄されたのだろう。そのエゴでもどうしようもない敵が《モリビトシンス》と鉄菜・ノヴァリスなのだと、警戒しているのだ。ある意味では「自分自身」だからこそ見せた弱音だろう。
「……だが、勝てない道理はない。《キリビトイザナミ》の性能面でも、他の部分でも勝てている。何を恐れているんだ? わたし」
「恐れてなどいない。……わたしも《イクシオンオメガ》で出る。幸いしたのは、前回、五割の完成度で出撃せざる得なかったのだが、UDの思わぬ介入によって我が人機は完成を見た。《イクシオンオメガ》は完全な人機だ。如何に《モリビトシンス》が強かろうとも」
「負けはしない、か。それくらいでちょうどいい」
すれ違う瞬間、白波瀬は告げていた。
「もう会う事もないだろう」
「ああ、さらばだ。もう一人のわたし」
「せいぜい、この世を謳歌するんだな。もう一人のわたし」
それが調停者に許された約束手形であった。
生きろ、とは言うまい。言ったところで仕方がないからだ。この世には結果のみが全てにおいて優先される。
ゆえに、結果以外に何かを求めてもただ裏切られるだけ。
ならば結果だけでいい。残酷でも結果こそが、自分達の指針になる。
そこまで考えて、白波瀬は苦笑していた。
「指針、か。可笑しな事を言うものだな、わたしも。終わった後の世界など、それこそ――」
どうだっていい。そこまでは口にしなかった。