ハッと桐哉が目を見開いたその時には、果てのない万華鏡が広がっていた。
極彩色の涅槃宇宙だ。
桐哉はその中で、ただの一人でしかない己を顧みる。
――最早、語る口を持たぬ。
存在は集約し、思考は超越し、刃は生死の狭間で研がれる。
桐哉はその光の渦の連鎖の向こう側に、河を見ていた。青い河だ。蛍火のような光が舞い遊び、それ一つ一つが命となって大運河へと漕ぎ出していく。
心細いだろうに、とどこか他人事のように考えていた。
だが、違うのだ。
それこそが命そのもの。
この無辺の涅槃の先に捉えた、命の真理。
命はたった一人でこの世へと生を受け、そして螺旋を描く。諸々の光は関わり合いのある命達だろう。
絡まるはずのない因果。纏わりつくはずのない運命。それらが渾然一体となり、やがて大きな光の渦を生み出す。
そこからまた、光が生まれ、命として旅立っていく。
その繰り返し。それこそが輪廻。
――なんという事だ。これでは地獄そのものではないか。
どれだけ存在が数多の光に触れても、また生まれ出でるのはたった一つ。たった一つでしかないのだ。
だから、孤独なる旅は続く。
幾度となく、終わりのない追憶の旅路が。
ああ、寂しいな、と桐哉は瞼を閉じようとして、声に阻まれた。
――違う。
その声の主へと意識を向かわせる。
黒髪の少女の像を取った光へと桐哉は声を振り向けていた。
――モリビトか。
――ここは命そのもの。命の行き着く、最果ての場所だ。河は、そのためにある。命を紡ぎ、育むために。河より出で、河に還る。それこそが命の、あるべき姿なんだ。
――分かり切ったような口を利く。結局は一人ではないか。どこまで行っても、命は一人っきりではないか。
別段、激昂していたわけでもない。怒りなど、この命の仕組みに比べれば些事にも等しい。
モリビトの少女は頭を振る。
――命の大運河に還れるのは、全てが終わった後なんだ。だから、まだ私は還れない。私には、帰るべき場所があるからだ。
――この涅槃の境地に、貴様は俗物を持ち込むか。恥を知れ、モリビト!
――俗物? そうか、俗物なのか。だが、こんなにも大切に思えるのならば、私はここから先の力は要らない。命の大河は私達を迎え入れる準備をしている。《モリビトシンス》と《イザナギ》、二つの命の力を最大限にまで引き上げた人機が、私達をここまで運んだ。本来、人機とヒトはそういう関係なんだ。破壊者と簒奪者の間柄ではない。私達と人機は、上に行くために巡り会った。こんなにも簡単な事だなんて……。
――簡単だと? これに気づけずに何人、いや、何千人、何億死んだ! それが人類の功罪なんだ! だからここに至るべきじゃない。ヒトは、罪を直視するようには、出来ていない!
振るった言葉の力強さがそのまま涅槃宇宙に染み出た真紅の影と重なる。
《イザナギ》が怨嗟に機体を広げ、剣を振るっていた。
それをモリビトの少女は手を払って応じる。
涅槃宇宙を引き裂いて現れた《モリビトシンス》の胸元には三つの輝きがあった。
――……その通りかもしれない。ヒトは、ここに来るようには、まだ出来ていないんだ。だが、いつかは……。いつかは分かる日が来る。いつかはここに、誰もが安堵と安息のうちに来られるようになる。だったら、それまで私達は守る。守り抜く事が、モリビトの――その名前のあるべき姿なんだ。
――それを奪ったのは、貴様らだろうに!
《イザナギ》の影に牙が出現する。牙を軋らせ、《イザナギ》が獣の如く吼えた。
跳躍した《イザナギ》の剣をモリビトの剣が払い除ける。互いに一歩も譲らず、涅槃の空で、モリビトと《イザナギ》がぶつかり合った。
しかし、異なるのは《イザナギ》が影で構成されているのに対し、モリビトは光で構築されている事だ。
――どうしてお前が光で、俺が闇なんだ……。
――これは私達だけで出来上がっているわけではない。私達の育んできた出会い、運命、そして別離……。全てから出来上がっている! お前は、自らの名を捨て、栄誉を捨て、そして運命を妬み恨んだ! だから光が生まれない!
――光を恨んで何が悪い! あったかい方向に誰もが行けるわけじゃないだろうに! だったら! リーザも、燐華も……みんなあったかい方向に行けたはずだ! 俺だけ滅びるのならば、それでいい! だって言うのに、何でみんな、あったかいほうに行っちゃいけないんだ! それは理不尽だろうに!
そう、理不尽なのだ。何もかも理不尽。
今さら、答えを見せてくれたところで。今さら、真理を理解させてくれたところで。
全てが手遅れ。全てが指より滑り落ちた。何もかも失った。何もかも消し去った。
何もかも手離した。何もかも捨てた。踏みしだいた。砕いて、払って、嬲り散らした。
それでも、どうして……どうして許してくれないのだろう。どうして、誰もこの運命を憐れんではくれないのだろう。
誰かを恨むしかないのならば。誰かにこの咎を見出すしかないのなら、それはモリビトでなければならない。
かつての自分の誇りの名前。それを恨んで、食らい尽くして、刻んで、握り潰す。
それでなければならないはずなのに……。
――貴様が光で、いいものかぁーッ!
――光を恨めば、光を妬めば、それは確かに貴様にとって意義のある生、意味のある苦しみであったかもしれない。だが、浄罪なんてそんなものなんだ。私達は、果てのない業を背負わされて、生きる……生きていくしかない。
――分かるものか! 死ねもしないんだぞ! 死ねないこの肉体が! 精神が何を拒絶するかなど! 何を排斥し、何を憎めばいいかなんて……! 誰にも分かりはしない、分かって堪るか!
こちらの発した抗弁にモリビトの少女が瞳に憐憫を浮かべる。
――……誰も愛してくれないからって、誰も愛さないのは、それは違う。違うのだと、皆が教えてくれた。破壊者の宿命はどこかで切る事が出来る。そうなのだと、何も知らない私に、教えてくれたんだ! 彩芽、林檎……ブルブラッドキャリアのみんなが……。ジロウが……私に、意味なんて存在しなかった、「鉄菜・ノヴァリス」に! 少しずつだが心を分けてくれた! そう、なんだ……。分け与えて……くれたんだ。
それだけで分かる。彼女は「恵まれた側」だ。だから、こうしてこちらの苦しみなんて知らずに光を浴びせてくる。それがどれほどに自分を卑しく見せるのか、考えもせずに。
――モリビトが光だったって言うのか! それが、この大宇宙の……命の河の見出した、答えだったって言いたいのか! 間違いだ、そんなもの……! だったら、どうしてリーザは死んだ! もうどうしたって、俺は燐華には会えない……。シーア分隊長も、みんな……みんな、いい人達ばかりだったんだぞ! それを俺が踏み躙ったみたいに……見えるじゃないか!
《イザナギ》が牙だけではない、爪を顕現させ背びれを現出させた。心の影に呼応し、《イザナギ》は無限の闇をもって、モリビトを討とうとしている。自分の心、そのものの鏡……。
――違う!
光のモリビトが拳を見舞う。影の《イザナギ》を殴りつけ、接触点から霧散させる。
――違うと言える! 私は、私だけで成り立っているわけじゃないからだ! この涅槃宇宙も、何もかも、星の輝きに意味があるように。命の灯火に意味があるように……、私達の苦しみだけが、連綿と続いていくわけではない!
――知った風な! 貴様だってさっき見たばかりのはずだ! この命の河……これを全ての人間が見る日が来るというのか? あり得ない、不可能だ! そんな事……こんなものを直視して、ヒトは耐えられないさ。俺は死なない。だからギリギリの正気で見ていられるが、こんなもの、有限の命を持つしかない人間が見れば瓦解する。分かるか? すべての人間にとって、光が等しく光とは限らない。闇が等しく闇ではないように。貴様の言っているのは、人間にこうあって欲しいという、エゴではないか!
その言葉にモリビトが硬直し、光の流転が緩む。
影の《イザナギ》が組み付き、モリビトを締め上げた。
影の四肢がモリビトへと侵食する。それに呼応して、少女の身体も闇に侵される。膝をついた少女に桐哉は哄笑を上げていた。
――やっぱり、そうであろう! そうであるはずだ! 人間がこんな風になれる日が来るものか! 一つになれやしない、だから百五十年も争ってきた! だからこれから先も、これから先のヘタを掴まされる連中も、俺達と同じ過ちを辿ればいい! こんなものは、見えない!
瞬時に涅槃宇宙が闇に閉ざされていく。次々と涅槃宇宙の命の灯火が吸い上げられ、闇の支配する暗礁宙域が忽然と広がる。
拡張した闇領域にモリビトの眼窩が明滅する。桐哉は高笑いを発していた。
――滅びればいい! 俺も、俺達も! 間違いを間違いだと分からないまま、無知蒙昧なままで!
――……違うはずだ。
少女がよろりと立ち上がる。しかし、その肩が荒立っているのを目にして、長くは持つまいと判断する。
――この宇宙に、いつか人類は漕ぎ出せる。何十年、何百年かかったとしても。それが人機が私達に見せてくれた意味。ヒトと人機が共存出来る……あるべき姿だ!
――そんなものを全人類が見れるものか! 俺と貴様だから見れているのみだ!
――……言ったな? それが、お前の罪。傲慢という名の、罪の名前だ!
モリビトの眼光に光が宿る。緑の輝きを湛えたモリビトが影の《イザナギ》を振り払い、その頭部へと手を掲げた。
瞬時にその腕が刃へと切り替わっていく。ジリジリと光がモリビトの情報を書き換え、鋭い刃を顕現させた。
《イザナギ》が全身より闇の触手を見舞う。それらがモリビトの身体を貫き、侵食するがそれでもモリビトは見据えた眼光を緩める事はない。
――傲慢で、何が悪い!
――六年前に、お前は言ったな。願うのならば、傲慢なほうがいい、と。しかし、今のお前から発せられるのは呪いだけだ。それは願いとは正反対のところにある。だから、断ち切る!
モリビトの振るい上げた刃に《イザナギ》が牙を軋らせ、雄叫びを発していた。
――《イザナギ》! そいつを消し去れ!
少女の雄叫びが空間を満たし、再び累乗の涅槃宇宙が浮かび上がる。今度は先ほどまでより苛烈な青の光であった。
――何という輝き……これが……。
――これが、……命!
その言葉と共にモリビトの刃が《イザナギ》の頭部を叩き割る。
瞬間、何もかもが巻き戻った。周囲を満たしていた涅槃宇宙は消え去り、実体空間に《モリビトシンス》と《イザナギ》が舞い戻る。
だが《イザナギ》の頭部は砕かれていた。両断された《イザナギ》の頭部コックピットより、桐哉は眼前の《モリビトシンス》を睨み上げる。
「……何をやったのか……分かっているのか。俺に、何てものを見せたのか、分かっているのか!」
諦められた。死人であると、もう何もかも願うのも縋るのも、諦められたのに。
桐哉は頬を伝う涙の熱さに驚愕していた。この六年間、熱さも何もかも、全ての身体感覚から逃れられた身体に宿った一滴の熱さ。それが身を掻き毟る。
「殺せ……ぇ……っ。俺を殺し、栄誉を手に入れてみせろ! そうでなければ……あんなものを見た後の……俺では……」
眩しいものを目にした後に絶望なんて語れるものか。全てが虚飾、全てが虚栄心だ。だから、せめて瞬きする間に殺して欲しかった。
そうすれば忘れられるのだろう。全て忘れて、命という純粋なる概念となって、あの河を渡れるのならば。そこに、失った者達も漂着しているのなら、それでいい。
ここで終わらせてくれ。その願いを、モリビトは刃を収めて応じていた。
「……どうしてだ……。俺を殺せ! モリビト!」
『……お前は命の河に向かえた。だからお前にも価値がある。誰かを導ける。そういう人間の価値が』
「あるものか! 俺に価値なんてない! ただ生き恥を晒すだけの道化だ! 一思いに……殺せ!」
『それを向こう側に行った者達が望んでいない。だから、お前は生きろ。生きて、明日を信じるしかない』
「明日……。終末の惑星に明日なんて……」
あるはずがない。そう紡いだ自分へとモリビトの少女は答えを重ねる。
『……いつか、あの場所で会うために。私は行く』
機体を翻したモリビトに桐哉は歯を軋らせ、叫んでいた。
「俺を! 置いて行くのか? また、置いて行くと言うのか! 貴様は! こんな残酷な事実を俺に分からせたまま、また孤独に進めと……!」
それは、どこまでも残酷な答えではないか。自分は、あの暖かい場所に行けない。どう足掻いても、絶対に不可能なのだ。
死ねないこの身体を、恨んだ事は幾度とない。しかし、この時ほど、桐哉は己と世界を憎んだ事はなかった。
どうして、何故……そのような問いばかりが浮かぶ。あの場所こそが生命の行き着く到達点なのだとすれば、自分はどれだけの努力を行っても、到達出来ない、意義のある場所というものがあるという真実。
こんなもの、知らないほうがよかった。感じないほうがよかった。だが、知ってしまったからには戻れない。知らなかった頃の強さは、決して取り戻せないのだ。
止め処ない感情の堰にモリビトの少女は応じていた。
『……ヒトは、誰しも孤独ではない。いつか、お前もいつかは、あの光に導かれる。私もそうだ。あそこが答えなのだとすれば、私は……』
そこから先を彼女は紡がなかった。桐哉は行き場のない怒りを胸の内に燻らせえる。
「モリビト……。俺にまた、孤独の闇を進めと言うのか……! 誰にも理解されない、この絶対の孤独を……。それが分かるのは、世界で唯一……貴様だけだろうに……」
許されたのは、絶対の敵であるモリビトだけ。モリビトの少女だけが自分の痛みを分かる事の出来る唯一無二。それが自分という個には許せない。
恨み続けた。憎み続けた。そして、抗うと決めた。殺し尽くすと決めた相手が唯一の理解者なんて、冗談もいいところだ。
項垂れた桐哉へとそれ以上の言葉は投げられなかった。
《イザナギ》と共に、桐哉は無辺の闇を漂う。
先ほどまで触れていた暖かい涅槃の宇宙は消え去り、今はただ何を求めても満たされない、茫漠の暗がりが広がるのみであった。