どれほど罵られても、どれほど憎まれても仕方がないとさえ思っていた。だからだろうか。蜜柑が自分に何も言わなかった事に、意外ささえも覚えたのは。
桃が蜜柑へと寄り添い、しゃくり上げた彼女を抱き留める。
自分には何も出来ない。何も、成せる事はない、と通り過ぎようとして、桃が呼び止めた。
「待って、クロ。あんたもこっちに」
「私は……、林檎を……」
言いかけて、桃に抱き締められた。思わぬ事態に鉄菜は困惑する。
「何を……」
「ゴメンね。辛い戦いをさせてしまった……」
「辛いなんて、そんなものは……」
そんなものは六年間の間、どれだけでも経験してきた。どれだけでも人間は人間に対して残酷になれる。それは分かり切っていたはずなのに。それでもどこかで甘く見ていたのだろう。
世界がどこかで救いもあるのだろうと。しかし、事実として、林檎は撃墜され、燐華は敵となった。
どう反芻しても自分の責は免れない。
「私は……弱かった。あそこで《トガビトコア》を墜とせていれば……」
「ううん。クロは頑張ったよ。蜜柑も、頑張った……」
咽び泣く蜜柑を桃は母親のように宥める。母親、と鉄菜は記憶の中に存在しない母の幻影を手繰った。
黒羽博士。自分の生みの親。しかし、その記憶は永遠に失われてしまった。もうどれほど努力したところで、決して手に入れられない母の愛。
自分は慈愛を知らずにここまで育った。何もかも失いながら、ここまで来たのだ。
――未だ、心の在り処を知らず、この手は虚しく空を掻くのみ。
林檎を失っても、それでもどこかで冷徹な自分を発見して嫌になる。脅威は省かれた。エホバ側の優位は一時的に失われたのだと、そう賢しく分析する自分が、何よりも醜い。
合流した瑞葉とタカフミへと自然と視野が行っていた。二人は生存の喜びからか、笑みを交し合っていた。
不思議な宿縁だ。彼らは互いにすれ違い、争いまでしたのに、こうして笑い合える。こうして、互いの無事を心から喜べる。その精神性が分からない。
どうして、他者のためにそこまでやれるのか。どうして、他人のために涙出来るのか。
まだ、この身は分かっていない。本当の意味で理解していないのだ。
「クロ。エホバはまだ来る。完全に優位を失ったわけじゃないから、まだ……」
まだ終わってはいない。辛い戦いはむしろ、これからだろう。
「エホバの陣営をどうにかして打ち崩せればまだ勝機はあるが……、アンヘルと連邦艦隊は躍起になってこちらの迎撃に入るだろう。それをどう押し留めるのか……」
アンヘルがほとんど総崩れ状態とは言っても、最後の足掻きくらいは見せてくるはず。戦いにおいて最終局面ほど気を遣わなくてはいけないのは六年間で学習した。
追い詰められた獣は時に異常なほどの能力を発揮するのだ。
「《ナインライヴス》はほとんど中破だろう。《イドラオルガノン》も難しいところだ。……私の《モリビトシンス》も……」
修復には時間がかかるはず。せめて、月面までの道筋に邪魔が入らなければ、と鉄菜は拳を握り締めた。
ここからブルブラッドキャリア本隊の待つ宇宙まで飛び立つのだけでもギリギリだろう。
「……桃お姉ちゃん……、ゴメン。ミィ、強くないね……、本当に大事な時、林檎の傍にいられなかった」
悔恨を口にした蜜柑を桃は優しく抱擁する。鉄菜は通信を受け取っていた。
『鉄菜、現状の戦力ではアンヘルの擁するキリビトタイプには通用しない。いくら《モリビトシンス》が驚異的でも、どうしようもない事もある』
茉莉花の通信に鉄菜は沈痛に面を伏せた。
「エホバ側は?」
『……退く気配はないわね。有利不利で言えば、微妙なところなのよ。エホバとラヴァーズはぶつかり合うのは必定でしょう。その隙に、宇宙に上がれるのが一番なんだけれど、そこまで薄情にはなれないわよね』
月面都市に合流出来ればモリビトを完全修復も出来る。だが、それまでが問題なのだ。
今の惑星の情勢を放っておいて、こちらだけ月に行くのは間違っている。
「ラヴァーズとの協定は結んだ。裏切れないのだろうな」
『その辺りはニナイも同じ意見みたい。ラヴァーズ側の……サンゾウは行けって言っているけれどね』
「それでも、借りは返すべきだ」
だが目下のところ、問題なのは《キリビトイザナミ》だけではない。エホバをどう振り切るか、そこに焦点が当てられている。
『……待って。何、これ……』
茉莉花の胡乱そうな声に鉄菜は問い返していた。
「どうした? 敵襲か?」
『いえ……でもこれは……この加速度は……。レーダー班! モニターに!』
モニターと同期された鉄菜の端末に映し出されたのは黄金の燐光を棚引かせる全翼機であった。
空中母艦とは思えない速度でこちらへと、紺碧の霧を裂いて迫ってくる。
息を呑んだ鉄菜に、茉莉花の全領域通信が艦内に木霊する。
『不明機が急接近! 《ゴフェル》へと攻撃される可能性があるわ! 総員! 対ショック!』
その言葉が消えるか消えないかの刹那、炸裂音が何重にも響き渡り、《ゴフェル》を激震させた。
鉄菜は覚えず駆け出す。
「クロ! どこに……」
「《モリビトシンス》で出る!」
「無茶よ! 《モリビトシンス》はだって、損傷が……」
「それでも。謎の敵を見過ごすわけにはいかない。第三勢力だとすれば、恐るべきだ」
駆け出そうとした鉄菜の背中を、タカフミが叩いた。
「待てって! おれらも出る」
「クロナ。わたしも協力したい」
「……助かる」
三機編成で出られればまだ状況の確認は可能かもしれない。
格納庫に収まる《モリビトシンス》はまだ修復作業中であった。
そのコックピットへと近づきかけて、タキザワが制した。
「鉄菜! 今の《モリビトシンス》では……」
「それでも、出なければやられるかもしれない。敵は先制攻撃をしてきた。つまり、敵意があるという事だ」
「それは……、その通りかもしれないが」
『鉄菜。不明全翼機のデータを照合しているが、一致するものはない。これはかなり怪しい敵だ』
「……この地上で、バベルに合致しない空中母艦なんて、運用は出来ないはず」
『その通り。あれほどの艦をどうやって隠し通してきたのか。そもそも敵はアンヘルなのか、連邦なのか。……あるいは別の』
「ああ、もうっ! 考えたって仕方ない! 《モリビトシンス》、発進準備に入ってくれ! 詳細は出てから送信する。僕はブリッジで情報を掻き集める!」
「ニナイや茉莉花にも状況を聞いて欲しい。現状は……恐らく本意ではないはずだ」
「そりゃ、そうだろうさ!」
コックピットに入った鉄菜はステータスを確かめる。片腕が使用出来ないようであったが、もう片方の腕は問題ない。
カタパルトデッキへと《モリビトシンス》、《カエルムロンドカーディガン》、《ジーク》が移送されていく。
ハッチが開放されリニアボルテージの出力が上がった。
「《モリビトシンス》、鉄菜・ノヴァリス。出る!」
火花を弾けさせて飛び出した《モリビトシンス》が空中機動に入る。少しばかり機体ががたつくのは仕方ないとは言え、バランサーの調整に時間がかかりそうであった。
「ゴロウ。敵は上……だな」
黄金の光が消え失せ、敵影が直上に位置する。
全翼機、それも母艦サイズとなれば、先ほどの攻撃は爆撃だろう。第二波が来る前に迎撃せねばならない。
『ああ、しかし、これは……どこをどう調べても奇妙だ。アンヘルの規格でもなければ連邦の規格でもない。……照合に近いのは、ゾル国か』
「どこでも構わない。《モリビトシンス》、目標を駆逐する!」
上昇した《モリビトシンス》へと、敵母艦より黒い棺が投下される。一発で、鉄菜はそれがブルーガーデン製のコンテナだと見抜いた。
「……重装甲コンテナ。ならば、接近戦で!」
Rシェルソードを引き抜き、一つ一つに接近しかけて、直上からの照準警告に鉄菜は機体を飛び退らせる。
次の瞬間、機体を幾度となくロックオンする謎の機影が割って入った。
「重武装人機か!」
Rシェルライフルで迎撃しかけて、その敵影が足裏のリバウンドブーツで読めない軌道を描き、至近距離まで一気に詰めたのを目にする。
これはただの高機動人機ではない。
「ファントム……! 新手の機体!」
こちらも機体を軋ませ、過負荷をかけてファントムで応じる。打ち合った刹那、接触回線に声が響いた。
『久しぶりね。鉄菜』
その声音と大写しになった機体の姿に、鉄菜は瞠目する。
あるはずのない、否、あってはならない人機が、そこにいた。
灰色のカラーリング。赤い眼窩の三つのアイサイト。そして、象徴的な、無数の重武装火器。どれもこれも、思い出の中にあるあの機体と一致している。
「まさか……その声は……」
それに、その人機は、と言いかけて、悲鳴のような通信が劈く。
『鉄菜! その母艦は情報交換を寄越してきたあの組織の……グリフィスの旗艦だ! 今、情報が入った! 相手は、エホバを迎撃する、と……共闘関係を……』
そこから先を、鉄菜は聞いていなかった。思うより先に、感じるより先に、身体が先行したのだ。
刃で相手を斬りつけかけて、敵がすぐさま距離を取る。
『アルベリッヒレイン!』
全砲門が火を噴き、多重ロックオンの一斉掃射が《モリビトシンス》を襲う。
「リバウンド、フォール!」
ウイングスラスターの盾を前面に展開して実弾を防御するも、その火力は圧倒的であった。
六年前と同じ――いや、それ以上に驚異的な人機操縦能力。
そして、この声。間違いないと思いつつも、鉄菜は否定材料を探していた。
だが、その逡巡に割り込むように相手は声にする。
『鉄菜、ちょっとはやれるみたいね! でも、リバウンドフォールでも、跳ね返し切れないはず!』
「……どうしてだ。どうして、お前の声がする! 彩芽・サギサカ!」
その人機――《モリビトインペルベイン》にしか見えない機体が武器腕でこちらを銃撃する。鉄菜は海面ギリギリを疾走して敵の凶弾を回避した。
『……彩芽? 嘘、どうして……』
ブリッジからニナイの困惑が漏れ聞こえる。鉄菜は刃を手に敵人機へと斬り込んだ。その太刀筋を裏返った溶断クローが受け止める。
拡張する干渉波のスパークに、声を迸らせる。
「お前が……彩芽・サギサカのわけがない。六年前に死んだはず!」
『そうね、普通なら。でも、死体は見つからなかったでしょう?』
それを、彩芽の声とインペルベインで語られる事の、何たる侮辱か。鉄菜は怒りのままに、剣を打ち下ろしていた。
「黙れ! 私達の仲間を、その機体で嘲るな!」