ジンキ・エクステンドSins   作:オンドゥル大使

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♯31 新たなる場所

 転属先の整備班は破損した《バーゴイル》を見るなり渋い顔をした。

 

「困りますね、准尉殿。輸送中にスクランブルをかけただけでも充分にやり過ぎだというのに、壊して持ってくるなんて」

 

 ぐうの音も出ない。桐哉は言い訳だけはするまいと考えていた。

 

「どれくらいで修理が出来ますか?」

 

「三日は欲しいところですね。中破の状態です。それに《バーゴイルスカーレット》の耐熱塗装は高くつく。この場所なら耐熱塗装の必要はありませんよね?」

 

 自分達の矜持であった赤いカラーリングを剥がせ、と言われているのだ。それだけは、と思い留まろうとして、今はそれさえも許されないのだと桐哉は自分に言い聞かせる。

 

「……頼みます」

 

「はいよ。まぁ動けるようにはしておきますよ。仕事ですからね」

 

 スカーレット隊が駐在していた場所の整備班と比べてみれば随分と冷遇であったが当たり前なのだ。

 

 自分は故郷を追われ、国家を貶めた重罪人。

 

 そんな人間には僻地が似合っているとでもいうように、前線基地とはまるで言い難いほど山脈と地平が広がっていた。

 

 航空甲板はないのだな、と口中に呟く。《バーゴイルスカーレット》が万全の調子で出られるようにはなっていなかった。

 

 まずは顔合わせだ、と桐哉が責任者の部屋へと急ごうとしたところで、ブリーフィングルームで囃し立てる声が聞こえた。

 

「おいおい! またそっちの勝ちかよ」

 

「うっせぇ、勝った側に配当だろ」

 

 けっと毒づいた大柄な隊員が紙幣を手渡す。痩せぎすの隊員は、まいど、と受け取っていた。

 

 ポーカー勝負か、と桐哉はそれを観察する。

 

 自分の所属していたスカーレット隊はいつでも緊急出動に耐えるために、酒もギャンブルもご法度だったな、と思い出す。

 

 大柄な男がこちらの視線に気づいた。睨み返した男に桐哉は気圧される。

 

「おいおい、こいつぁ傑作だ! ゾル国の英雄様じゃねぇか!」

 

 痩せぎすの男も桐哉に気づき、喉の奥で笑う。

 

「おお、英雄様が来るとは聞いていたがまさか本当だとはな」

 

「随分とまぁ、優男じゃねぇの。英雄ってのはもっと気取った奴だと思っていたぜ」

 

 歩み寄ってきた男に比すれば桐哉は確かにひ弱に映るだろう。大股で近づいてきた男は桐哉の顔を覗き込んだ。

 

「本国から表彰されたって言う、モリビトの勲章。見せてくれよ、なぁ」

 

「見せてどうするというんだ。自分はそれほど安く売り歩いていない」

 

 言い返した桐哉に男が哄笑を上げた。

 

「おい、聞いたかよ! 安く売ってないだとよ。そりゃあ高いだろうな。本国どころか世界を敵に回したモリビトってのはよぉ!」

 

 桐哉はぐっと拳を握り締める。今は耐え忍ぶ時だ。面を伏せた桐哉に痩せぎすの男が言いやる。

 

「反論も出来ないでやんの」

 

「そりゃそうだ。モリビトが世界の敵なのは確かなんだからよ。しかし、本国の高官連中も馬鹿だよなぁ。英雄の勲章を贈る相手を間違えるなんて間抜けにもほどがあるぜ」

 

「……本国への侮蔑発言は」

 

「ああ? てめぇこんな僻地でまでいい子ちゃんを貫こうってのかい? そいつは笑えるぜ。こんな場所、C連合も、ブルーガーデンだって攻めて来ねぇ。ゾル国の本当の端っこさ。そんな場所に飛ばされてきたんだ。意味くらい分かるだろ?」

 

 ここが前線から遠く離れた場所だという事くらいは理解している。だが、スカーレット隊の隊長は便宜を尽くしてくれたはずだ。

 

「階級は下がっていない」

 

「それがマシに言える言葉の一つか? 階級は、確かにおれらよりも上かもなぁ。なにせ、英雄様様だ。今まで本国で甘い蜜を吸ってきた甘ちゃんじゃ、自慢出来るのは勲章の数くらいだろ」

 

 その言葉に桐哉は覚えず掴みかかっていた。

 

 今まで自分達がどれほど古代人機退治に命をかけてきたのか、この男には分かるまい。だが死んでいった仲間まで侮辱されたようで桐哉は我慢ならなかった。

 

 掴みかかっても男は平然としている。

 

 体格差は明らかだった。

 

「殴るのか?」

 

 口角を吊り上げた男に桐哉は歯噛みする。ここで殴ったところで何にもならない。それが理解出来ているからこそ、何も出来ないのだ。

 

 男の拳が飛んでくる。桐哉は防御も出来ずその場によろめいた。

 

「英雄って言うからにぁ、血の気が多いのかと思いきや、生易しいじゃねぇか。去勢された畜生みたいだぜ」

 

 殴られた頬が切れたのか口中に血の味が滲む。睨み上げた桐哉の視線に男がぴくりと眉を跳ねさせた。

 

「生意気だな、そのツラァ……。ぶっ潰してやろうか? ああ?」

 

 桐哉は口元を拭いつつ唾を吐きつけた。大男の靴に血の混じったものがこべりつく。

 

 大男が頬を痙攣させ、自分へと殴りかかった。

 

「てめぇ!」

 

 これでいい。充分に対抗する理由が出来た。桐哉は男の拳の軌道を読み切り、全身を使っていなす。

 

 軸足を軽く蹴りつけその姿勢を奪った。

 

 大男が盛大によろける。その顔面へと桐哉は偶然を装って靴先を突っ込んでやった。

 

 大男が鼻先から血を噴き出させる。

 

「ぶっ潰す、だったか。どっちの台詞かな、それは」

 

「このクソ野郎!」

 

「何やってんだ、お前達!」

 

 大男が掴みかかろうとしたところで放たれた怒声に痩せぎすの男が踵を揃えた。大男も慌てて挙手敬礼する。

 

「ぶ、分隊長……」

 

「なかなか報告に来ないと思ったらお前ら、また賭け事か。それに暴力とは。なっちゃいないな」

 

「し、しかし分隊長……こいつ、ナマイキで」

 

「喧しい! 生意気も糞もあるか! お前ら後で始末書だ!」

 

 分隊長と呼ばれた男の気迫に二人が硬直する。桐哉はここでの上官に挙手敬礼をした。

 

「すまない。まずは私が話を通しておくべきだった。桐哉・クサカベ准尉、着任を歓迎する」

 

「いえ、自分も至らなかった部分もあります」

 

「そう言ってくれると助かるよ。血の気の多い奴ばっかりでな。やり難いかもしれないが……」

 

 分隊長が大男に目線をやる。大男はブリーフィングルームを後にした。その背中に痩せぎすが続く。

 

「……後で覚えてろ」

 

 すれ違い様に発せられた言葉に桐哉は静かに言い返した。

 

「どっちが」

 

 大男が歯噛みしたのが伝わる。分隊長は改めて見ると紳士的な、髭の壮年であった。

 

「改めて、着任を歓迎する、クサカベ准尉。すまないね、手荒になってしまった」

 

 手を差し出される。桐哉は今しがた悔恨に握り締めた掌に爪を立てていた事に気づいた。それほどまでに悔しかったのだ。躊躇っていると分隊長自らその手を取った。

 

「何も、謙遜する事はあるまい。君の活躍は聞き及んでいる」

 

 ならばその凋落も然りだろう。桐哉はこの僻地に転属された理由を問い質さなければ成らなかった。

 

「その、シーア分隊長」

 

 ネームプレートからその名前を読み取る。ミハイル・シーア分隊長。この僻地の命令系統を司る長であった。

 

「君をここに呼んだ理由、かな。それとも私達の仕事についてか」

 

 シーアは何もかもを理解しているようであった。桐哉はゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「両方、です。自分は古代人機ばかりを倒してきた人間。この場所で何をすればいいのか、まるで分かっていません」

 

「結構。自分の領分がどの程度かを判断出来る人間は貴重だ。そうさな、クサカベ准尉。歩きながら話せるか?」

 

「ええ、大丈夫です」

 

 ブリーフィングルームを出たシーアはそのまま整備デッキへと足を進めた。

 

「この場所はほとんど敵陣からは遠くってね。C連合の目も届かぬ僻地だよ。だが、《バーゴイル》は常駐している。とは言っても、型落ち機体ばかりだが」

 

 暗に自分のスカーレットはこの場に似つかわしくないと言われているように思えた。そういえば整備班からもいい顔はされなかったな、と思い返す。

 

「《バーゴイルスカーレット》のような高コスト機体はやり辛い、と言われてきました」

 

 シーアは軽く笑う。

 

「早速洗礼は受けてきたわけか。そうだな、スカーレットのような耐熱コーティングを施すほどの予算的余裕はなくってね。ここにある《バーゴイル》は本当に最初期量産型のものばかりだ。飛翔機能と申し訳程度のプレスガンか。君の操る《バーゴイル》には接近兵装もあったようだが、こっちの《バーゴイル》は完全に分かれていてね。使い難さを感じるかもしれない」

 

「いえ、あらかたの機体操縦はマスターしたつもりです」

 

 型落ち機でもそれなりに戦える、という事をアピールしたつもりだったが、シーアは薄く微笑む。

 

「だが戦場からは随分と遠いよ。たまに周辺警戒に出る程度か。ゾル国の辺境地、あるのは山脈とブルブラッド大気に冒された大地のみ。生憎と食料には事欠かないが、それでも必要最低限だ。この場所は本国より見捨てられた場所と言ってもいい」

 

「見捨てられた、ですか……」

 

「君のように、本国の期待を双肩に背負ってきた人間からしてみれば、ほど遠い場所だよ。古代人機も滅多に出ない。出てもこの基地までは襲撃しないとも。ある意味では古代人機のほうが賢いかもな」

 

「分隊長、ここでの仕事は……」

 

「先にも言った通り、周辺警戒だ。ならびに、敵性人機の排除任務もあるが……これは三年に一度回ってくればいいほうだな。ゾル国に攻めるような向こう見ずもいまい。あの山脈が見えるかね?」

 

 一面がガラス張りの廊下から望んだのは青く染まった山脈の向こうであった。桐哉は小首を傾げる。

 

「見えますが何ですか」

 

「ブルーガーデンとの国境だ」

 

 言われて桐哉は目を見開く。あれが、と覚えず口にしていた。

 

「独裁国家の……」

 

「まぁ、お互いに辺境同士。小競り合いもない。だが、一応は敵性国家と隣接している事をゆめゆめ忘れるなよ」

 

 ここも戦場になる可能性があるのか。地上はどこへ行ってもそのようなしがらみばかりだ。

 

 宇宙が恋しい。

 

 あの場所では地上の戦などほとんど無縁でいられたのに。古代人機を狩り、仲間と連携するだけでいい、あの気楽な場所は今、濃紺の大気に覆われて窺う事も出来ない。

 

 この青の天蓋が憎々しいほどに広がっているのが地上という場所であった。

 

「《バーゴイルスカーレット》は出来るだけ万全にしておこう。君の愛機だ。それくらいの礼は尽くさせてくれ」

 

 分隊長がどれほどの人格者でも実際に手を動かすのは整備班だ。恐らく自分の要望通りにはならないだろうなというのは容易に理解出来た。

 

「ありがとうございます。……ですがここで使う事はまずない、という事なのでは?」

 

「なに、ちょっとした休暇だと思ってくれればいい。ブルーガーデンは色めき立つ事もないし、ここは地上でも平和な部類の場所だ。バカンスには、海も砂浜もないのが惜しいだろうがね」

 

 分隊長なりのジョークに桐哉は微笑んだ。

 

 この場所で死ぬまで周辺警戒に務めるのか。隣国の脅威はありながらも、それは張りぼての脅威に過ぎない。

 

 古代人機でさえも見捨てた地上の孤島。こんな場所が自分の求めていた結果だというのか。

 

 しかし、便宜を尽くしてくれているのは分隊長の話し振りからして明らかだった。これでも礼儀は通している。

 

 向き直った分隊長は頬の傷を見やった。

 

「……すまないね。血の気の多い奴らだが、悪い連中ではないんだ。慣れればいい仲間になるかもしれない」

 

「いえ、気にしていません」

 

「医務室に寄るといい。それと君の身分だが……やはり本国の建前があるとは言え、ここでも英雄扱いは出来ない。すまない事だが……」

 

 やはりモリビトの名前か。どこまで行ってもその呪縛がついて回る。この惑星で生きている限り、自分は一生罪人だろう。

 

「いえ、大丈夫です」

 

 型式通りの言い回しを使って桐哉は能面を作り上げた。何も気にする必要はない。自分はただ軍を追われなかっただけでもまだマシなのだ。

 

 仲間を死なせた、隊長に屈辱を浴びせた、自分にも幾度となく煮え湯を飲ませたモリビトがどれほど許せなくとも、このような辺境では憎しみさえも忘れる事になるだろう。

 

 忘れなければ、生きていけない。

 

「そう、か。君が思っていたよりも理解を示してくれて助かる。スカーレット隊の隊長は人格者だった。散っていった君の仲間もきっとそうだろう。皆が君を支えてくれている。この世界は何も敵意ばかりではない」

 

 分隊長の慰めに桐哉は挙手敬礼を送った。しばらくは転属手続きで任務はない、との事であった。

 

 その足で医務室に向かおうとして桐哉は大男と廊下で出くわした。

 

 先ほどの続きをやるのか、と身構えた桐哉に大男は想定外にこちらを無視した。

 

 まるで意識するまでもない羽虫のように。

 

「分隊長の言葉には逆らえん。だが、お前に居場所なんてこの地上じゃどこにもないんだよ。それくらいは分かっておけ」

 

 ――ああ、その通りであろう。

 

 言われなくとも分かっている。青く染まった大地に、空も望めぬ星の辺境。

 

 ここではどのような望みも、どのような高尚な意思もまるで意味がないのだ。

 

 下手に戦地に駆り出されるよりもよっぽど諦めのつく場所であった。ここに送られた以上、もう二度と戦場の昂揚は求められない。

 

 もしこの地が戦いに赤く染まるとすれば、それは世界の終わりに等しいだろう。せめて宇宙が、星空が見えれば、と桐哉は首から下げたペンダントを握り締める。この星がまだ空で繋がっている事が証明出来るのは大気圏の外だけだ。

 

 青い大地に冒されたこの場所では気が狂いそうだ。ブルブラッドの濃紺が自分の足取りさえもあやふやにする。

 

 地上において、足跡さえもつける事は許されない。

 

 その命を刻み込む事も叶わない不可侵の世界。

 

「燐華……俺は」

 

 英雄などではない。妹に迷惑をかけるだけだ。

 

 故郷に残してきた妹だけが気がかりであった。通信回線を開こうとしてもこの基地の濃度では安定した電波も得られないだろう。

 

 ――絶対の孤独、と桐哉は胸中に結ぶ。

 

 今まで宇宙の常闇にいても感じなかった代物だ。闇の中でも三機の赤い《バーゴイル》が灯火のように行くべき道を照らしてくれていた。

 

 しかし地上では《バーゴイルスカーレット》の赤い矜持は最早邪魔なだけだ。

 

 そのようなものを振り翳すのならばもっと意義のある事に使え、とまで言われかねない。

 

 どうすれば、と瞑目した桐哉は医務室の扉をノックした。

 

「はい」と応じたのは女性の声だ。

 

 入るなり、眼鏡姿の女性がよろけてこちらに倒れ込みかけた。

 

 慌てて桐哉は彼女を受け止める。眼鏡の女性は三つ編みを揺らして頭を振った。

 

「すいません……まだ眼鏡に慣れなくって距離間が……」

 

 こちらを仰ぎ見た女性は、うわっと悲鳴を上げた。

 

 桐哉も覚えず後ずさる。

 

「えっ? 桐哉・クサカベ准尉? ですか……? モリビトの?」

 

 女性の言葉に桐哉はまごつきつつも首肯する。女性は眼鏡をかけ直し、ぱっと表情を明るくさせた。

 

「英雄が来るって本当だったんだ……! あの、これ!」

 

 白い色紙を渡され桐哉は困惑した。それと共にマッキーも握らされる。

 

「サイン、お願いしますっ!」

 

 桐哉は呆然とする。今まで自分の事を堕ちた英雄だと罵る人間はいても未だに英雄視する人間などいないと思っていたからだ。

 

 まして目を輝かせてサインを要求するなど。

 

 桐哉がどうするべきか硬直していると女性は桐哉の頬に打撲をようやく発見したらしい。

 

「あっ、怪我……」

 

「その、医務室、ここですよね?」

 

 聞き返して女性はあまりに軽率な事を言っていたのだと自覚したらしい。赤面して眼鏡がずり落ちる。

 

「またやっちゃった……後先考えずに動いちゃうから、ダメだって言われてるのに……」

 

「その、サインくらいならしますけれど……でも今の俺なんて」

 

「何を言っているんですか。だって准尉は英雄でしょう? モリビトなんですから、もっと自信持ってくださいよ」

 

「自信、ですか……」

 

 真っ先に縁のない言葉だ、と思いつつも桐哉は笑みを返した。女性は慌てて応急手当の用具を取り出そうとする。

 

 その手先が滑り、ガーゼと綿棒が床に散らばった。

 

「ああっ! あたし、また……」

 

 どうやら相当に鈍い様子だ。桐哉は散らばった綿棒を片づけつつ言葉を切り出す。

 

「ここの医務室の主治医は、あなたなんですか?」

 

「ええ、その……どこも手が足りていなくって、あたしみたいな新人の医者まで駆り出されちゃって……あっ、でも今までミスした事はないですからっ。本当ですよ?」

 

 疑わしいものである。桐哉は綿棒を纏めて卓上に返す瞬間、端末の投射画面が映し出す最新のニュースに目を留めていた。

 

「……独立宣言?」

 

「ああ、ついさっき入ってきたニュースです。C連合からオラクルっていう小さな国が独立したって。でも、ゾル国には関係ないですよね。C連合の中のいざこざですし」

 

 オラクルの旗を掲げた人民が議会を占拠し、高らかに国家を歌いながら往路を行っている。

 

 これが今の地上の有り様か、と桐哉は見入っていた。

 

「あの、怪我の処置をしますので、座ってください」

 

 桐哉は頬の怪我を女性に診せる。ふむふむ、と眼鏡のブリッジを上げて女性がガーゼを消毒液に浸した。

 

「軽い打撲ですね。リゼルグ曹長の仕業でしょう?」

 

 あの大男はリゼルグという名前なのか。桐哉は沁みる消毒液の感触を覚えつつ、応対していた。

 

「ちょっとトラブルになりまして」

 

「分かりますよ。リゼルグ曹長もタイニー兵長も荒っぽいですもんね。あの二人はあたしも正直苦手で……あっ、今の、これですよ」

 

 唇の前で指を立てる。無論言い触らすつもりはない。桐哉が頷くと、眼鏡の女性は笑みを浮かべた。

 

「でも嬉しいなぁ。だって英雄が近くにいるんだもの」

 

 まだ自分の事を英雄だと呼んでくれる人間がゾル国にいる事のほうが驚きであった。桐哉は、その、と言葉を継ぐ。

 

「あまり俺の事を英雄だとか、モリビトだとか呼ばないほうが……だってもう」

 

 そこから先を濁すと女性はハッとした様子で面を伏せた。

 

「ごめんなさいっ! あたし、そういうのにも疎くって……。何にも考えていない発言でしたよね……?」

 

「いえ、俺はいいんですけれど、周りの目とか」

 

「あたしみたいな小娘、誰も相手にしませんよ……」

 

 眼鏡の女性は俯いたまま、拳を握り締めた。桐哉は困り果ててしまう。どうにも自分は気の利いた言葉というのが出ないらしい。

 

「その、俺は別にいいんです。ただ、あなたの評価とかに繋がってきますから」

 

「……前任のお医者様が転属になって、その後任なんです。そのせいか、あんまり信用されていないみたいで。怪我してもみんな絆創膏、って言われるだけで一度もあたしに診せてくれなくって……」

 

 そのせいもあったのか、女性は所在なさげに目線を彷徨わせる。

 

 桐哉は頬を掻いて言いやった。

 

「でも、今治してくださっていますし、お医者さんとして真っ当じゃないって事はないんじゃ?」

 

「それは、そうですけれど……」

 

 どうにもやり辛い。桐哉は手にしていた色紙にサインを書いていた。

 

 それを女性に手渡す。

 

「えっ、これ……」

 

「いえ、俺のサインなんかでよければいつでも」

 

 その言葉に女性は笑みを咲かせた。まるで百面相だな、と桐哉は感じる。

 

「嬉しいっ! 英雄のサインもらうの夢だったんですよねぇ。これは家宝ですっ」

 

「そんな大げさな」

 

 呆れた様子の桐哉に女性は言いやる。

 

「いえっ、あたしにとってはこれでも充分なほどで……」

 

 その段になって治療が疎かになっている事に気づいたらしい。あたふたした女性はまたしても綿棒とガーゼを床にぶちまける。

 

「ああっ! すいません!」

 

「いえ、いいですけれど……その、先生はここ、長いんですか?」

 

「先生だなんて。あたし、リーザ・カーマインって言います。リーザって呼び捨てで大丈夫です。あたしの事を先生って呼んでくださる方なんていらっしゃらないので……」

 

 またしても地雷を踏んだか、リーザはため息を深くつく。桐哉は散らばった綿棒を拾い集めながらリーザの顔を横目にする。

 

 医者にしては不器用で野暮ったい。白衣を持て余しているイメージだった。

 

 自分と似たようなものか、と桐哉は胸中に結んで綿棒を纏めて返す。

 

「その……すいません。治療に来てくださったのに、さっきからあたし、迷惑ばっかり」

 

「いえ、俺も迷惑かけているみたいなもんなんで。別にいいですよ」

 

 その言葉にリーザは一拍挟んでから、頭を振った。

 

「いえ……あたしにとってモリビトは英雄の名前ですから。だから、謙遜しないでください」

 

 とは言われても、もうモリビトの名は世界の敵だ。そう容易く自己を認めるわけにもいかない。

 

「とりあえず、怪我だけ治しますね。……ごめんなさい、あたし、空気読めない感じで」

 

「いや、俺もその辺りは似たようなものなんで」

 

 治療を受けている最中、桐哉は独立国家のニュースを読み取っていた。

 

 現地時間で一時間ほど前のニュースだ。ゾル国のトップはどう判断するのだろう。

 

《バーゴイル》で出るのか、あるいは――。

 

 そこまで考えて自分が追及しても栓ない事だと思い直す。

 

「軽い打撲なんで、痛み止めだけ出しておきますね。その、あたしの身分で出過ぎた言い草かもしれませんが、出来るだけ仲良くしてくださいね……。基地の人同士でいがみ合っても、それは仕方のない事ですから」

 

 いがみ合っても仕方がない。その通りなのだろう。だが、相手がその気なら自分も対抗するしかない。皆が皆手を取り合えるほど、この世界は容易くないのだから。

 

「ありがとうございます。リーザ先生は皆さんの事、知っておいでで?」

 

 リーザは膝元で手を組んで首を横に振る。

 

「前任の先生が推薦してくださっただけで、まだまだひよっこなんです。そんななのに、基地のお医者様なんて……あたしに向いているのかな……」

 

「少なくとも、俺の怪我を今、診てくれましたけれど」

 

「それは、その……! どれだけ建前のお医者様だからと言って、ダメなままじゃいられないと思っているからで……」

 

 どうにも自信のない様子だ。桐哉は自分に向ける羨望をリーザ本人に向けてやったほうがいいのではないかと思わされる。

 

「俺なんて戦う事しか知りませんから。先生よりもずっと、未熟者ですよ」

 

 礼を言って医務室を出ようとした背中にリーザが呼び止める。

 

「その、桐哉准尉! ……怪我をしたら、言ってくださいね。我慢してもその、いい事はないですから」

 

 あの二人の事を言っているのだろうか。容易く殴られるつもりはないが、ここでのトラブルは避けたいのだろう。

 

 桐哉は振り向かずに片手を振った。

 

「俺だって、怪我をしたくないですから」

 

 言いやって桐哉は医務室を後にした。頬に沁み込んだ消毒液が妙に疼く。

 

「……消毒液つけ過ぎだろ。あの子……どこか燐華に似ていたな」

 

 妹の面影をこんな僻地でも探してしまう。結局、独りになり切れない。持て余している感覚に桐哉は拳を握り締めた。

 

 


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