悪魔の虹だな、と誰かがこぼした。
その言葉には同調する。
「そうね。あんなもの……ないほうがよかったのかもしれない」
「でもリバウンドフィールドの天蓋がないと、うちら生きていけへんのやろ?」
「それも、誰かの流したデマだったのかもね。わたくし達の頭から、考える事を放棄させるための」
「いずれにせよ、リバウンドの天蓋は強化されました。この状態では……予定していた月航路は」
「なに、ちょっとばかし計画が前倒しになっただけよ。間違ってはいないはず」
彩芽はタラップを駆け上がり、眼前に入った建造途中の人機を目にしていた。組み上げられていく人機の基礎フレームは、因縁が漂う。
「変な人機。両手とも銃なんて」
「そう? わたくしは変だとは思わないけれどね」
「……ちゃんと向こうのデータを参照して、造った奴なんやね? これがホンマに?」
「大丈夫よ。乗るのはわたくしだし、何の心配も要らないわ」
「……聞いとらへんかったけれど、人機の搭乗経験があったんや?」
「……昔ちょっとね」
濁して彩芽は手すりにもたれかかる。先ほどから情報端末のキーを叩いている仲間が言葉にしていた。
「現状のブルブラッドキャリアの持つ、モリビトのデータを統合した機体です。名前はどうなさいますか? 決定権もボスは投げられましたが……」
「彩芽、あんたがつければ?」
元よりそのつもりであった。彩芽は赤い眼窩を持つ人機を睨む。
「《モリビトインペルベインアヴェンジャー》。それがこの子の名前よ」
「アヴェンジャー、ね……。なんて言うか、因果なもんやわ。うちらがモリビト造るなんて」
「グリフィスの動向を探っている第三勢力はありません。今のところ、対抗しているのはレギオンとブルブラッドキャリア、それにアムニスでしたか。しかし、アンヘルの一部機能が復活した事から鑑みて、何らかの交渉があったのは確実でしょうね。ブルブラッドキャリアは何かを代償にして、星へと月面のバベルからの情報をリークした」
「代償にしたのはレギオンのほうちゃうん? だって、バベルを手に入れるのに何か情報で手打ちにせぇへんと」
星の防衛網はレギオンが握って久しい。恐らくブルブラッドキャリアは突破口の一つとして今回の事件を捉えている。
レギオンでさえも利用し、惑星への報復を成し遂げようというのか。
それはどこまでも――愚かしく、そして賢しいだけの存在であった。
「……また間違いを犯すのね」
「彩芽? エホバの動向に関しては?」
自前の端末を手繰るが、まともな情報はない。そもそも地上ではほとんどのネットワークが遮断され、グリフィスの持つ特注のネットワークでようやく情報が得られるという始末。一般コミューンでは何が起こっているのかの反証も出来ないであろう。
「連合、連邦コミューン共に亀裂が走った形ね。エホバの声明はそれだけでも力があったのに、実効力も備えていた」
「バベルの掌握……ですね。一時復旧したとはいえ、民間に出回っているレベルの情報では外で何が起こっているのかなど知るよしもないでしょう。三時間前の映像、出します」
端末のエンターキーが押され、それぞれの手持ち端末に情報が同期される。
映し出されたのは海上での決戦であった。ブルブラッドキャリアのモリビトが巨大なナナツーを模した艦の艦首より砲撃を見舞っている。それに対抗して無数の人機が空域を満たしていた。
総力戦の構えに覚えず、と言った様子で仲間達が絶句する。
「なんて事だ……。ブルブラッドキャリアとラヴァーズが組んだのはやはり確定事項……。となれば、あまり長引く戦いでもありませんよ」
「宇宙への退路も遮られた形やしなぁ。地上で幅を利かせているアンヘルに勝つのは無理ちゃうん?」
「加えて……、モリビトの操主は不完全ね」
砲撃メインのモリビトは恐らく桃が乗っているのだろう。戦闘スタイルは六年前のままだ。もう一機だけ確認出来たが、そちらが胡乱な動きをしていた。
「突如として現れた二機の人機……、《バーゴイルフェネクス》と《グラトニートウジャフリークス》。この二機がブルーガーデン跡地のブルブラッド重量子爆弾の栽培地から迫った誘爆を完全に阻止。その上で、アンヘル、ブルブラッドキャリア両者共に戦いを止めてみせた……。パフォーマンスだけでここまではやれませんね」
「……やっぱ、こいつらエホバと……」
「繋がっている可能性はあるわね。それに、モリビト一機が……」
濁したのは一機のモリビトがそのまま不明人機に随伴した映像を目にしたからであった。裏切り、あるいは離反者がここに来て出たか。
かつての自分を見ているようでいい気分ではない。
「モリビトの操主が裏切ったって事? これ」
「分かりませんよ、不確定情報なんです。どうにしたって、あの海域はブルブラッド濃度が濃過ぎて、これ以上の観測は不可能でした」
仲間の抗弁に彩芽は現状を反芻する。
「ブルブラッドキャリアは大きく損耗している。この状況で手を打っても、それはそれで構わないかもしれない」
「でもそうなると、もう利用出来んよ? ブルブラッドキャリアはギリギリまで泳がせって、ボスが」
「その方針にいつまでも従えるか、というのもあるのよ。事態は刻一刻と移り変わる。《インペルベインアヴェンジャー》が組み上がったらすぐにでも出撃するわ。わたくし達、グリフィスが翼を広げる時が来たのよ」
「了解。ってか、もう翼は広げとるけれどね」
全翼型の母艦が虹の皮膜のすぐ傍を飛翔する。
紺碧の雲間を抜け、漆黒のグリフィスの強襲艦――《キマイラ》は四機編隊を伴っていた。
いつでも高高度爆撃に移れる場所より俯瞰する罪に塗れた地上の風景は、グリフィス構成員達の出自を物語っている。
「《キマイラ》一番機、情報の一部を収集。現在、末端化した情報の断片を拾い集めています」
ブリッジを訪れた彩芽はもたらされる情報の速度にフッと笑みを浮かべていた。
「これもまた、世界の在り方ね」
「どうするん? 《インペルベインアヴェンジャー》でこのままブルブラッドキャリアを潰す?」
冗談めかした言葉だが、いずれは成し遂げなければならない悲願だ。ブルブラッドキャリアとアンヘル、それにアムニスなる組織。それらを全て駆逐し、この世に平穏をもたらす。
レギオンの監視網もなく、ましてや諍いも存在しない「完全なる世界」のために。
グリフィスの金色の瞳が世界を見据えるのだ。
その時にはエホバという個人でさえも邪魔である。
「エホバは? 索敵出来た?」
レーダー班の一人に声をかける。彼は後頭部を掻いて首を横に振った。
「皆目見当がつきませんよ。どこかのコミューンなのは分かっているんですが、今の状況でどこが招き入れるって言うんです?」
「今だからこそ、よ。アンヘルの情報統制が麻痺している。弱小コミューンならつけ入る隙はあるはず」
「しかし……中小の弱小コミューンだけでも五十以上あります。しらみつぶしにしても性質が悪い……」
「本国クラスのコミューンに潜伏していれば、さらに厄介やね。どうするん?」
彩芽は顎に手を添えて思案を巡らせる。どこかに突破口はあるはずだ。相手はこの百五十年の磐石たる象徴のバベルを乗っ取った。レギオン連中では捕捉出来なくとも、完全に外野である自分達ならば……。
「……そういえば、アンヘルの支配するコミューンには、どうやって情報が? 相手方は完全にその情報網を潰されたはず」
「待ってください。……三時間前に復旧作業が見られましたが……それ以前にアンヘル名義で武器の搬入データがあります。これを!」
モニターに映し出されたコミューンはC連合にも連邦にも属さない小国であった。
「……アンヘルの自治レベルを逆手に取られたわね。虐殺天使の命ならば、疑いは挟めない。何よりも、反抗が怖いはず。それに、アンヘルの諜報員が潜伏していても、本国からの支援ならばそうすぐにはバレない。……考えたわね、エホバ」
「でも、うちらにバレたらそこまでやん?」
「エホバを追い詰めるのにはアンヘルにこの情報を横流しするのが早そうだけれど、接触は?」
「難しいです……。アンヘル艦隊司令部はほとんど出払っていて、つい先ほどまでの海上決戦で地上部隊はほぼ……」
「……タイミングも見計らったわけか。アンヘルからしてみれば、エホバの忠告を受け入れない、というスタンスの強化のためにブルブラッドキャリア……目先の蝿は払うというのが筋。ここでもし、ブルブラッドキャリアとラヴァーズがエホバ側につけば厄介だから、それを制する目的もあったんでしょう。……やられたわ。エホバは今、どの国家陣も想定出来ない場所に位置取っている」
「加えてバベルを奪われたなんて下々の兵隊に伝えたら不安が増す一方。バベルネットワークの掌握は表では否定しないといけない。だから、迅速な対応に出られないのはブルブラッドキャリアとの決戦による余波、としか言い訳出来ないんやね。これじゃ、本末転倒やん」
兵隊も出せず、かといって調査も出来ない場所。小国コミューンに今から仕掛けるなど、部隊の統率が乱れる要因を作るだけ。
「……ブルブラッドキャリアは?」
「気づいた様子はないですね……。相手も相当疲弊しているはずです。エホバ相手の交渉術なんてないんじゃ……?」
「確実に動いているのはレギオンね。アムニスはどうだか分からないけれど、出せる勢力には限りがある」
「ラヴァーズももちろん、動けないやろね。ブルブラッドキャリアに味方して沈むんなら、最初から沈んどきゃいいのに」
「向こうもそこまでは想定外だったんでしょう。そして、ここに来て宇宙と地上は完全に断絶された……。行き交う術は?」
「キリビトクラスの高出力人機でもない限り、リバウンドの皮膜なんて超えられませんよ。中和痕もありません」
「……今の地上勢力が宇宙に出る事は不可能。宇宙からこっちに来るのも事実上……。なら、叩くべきは……」
『――帰結するのならばレギオンだが、ここではもう一ひねり必要だな』
突然にモニターを占めた映像に全員が踵を揃える。
「ボス、この状況を読んでいらしたんですか?」
『状況は予見するのではなく、確定情報から導き出すものだ。ブルブラッドキャリアの艦、《ゴフェル》は動きを止めているが、本隊までは分からないはず』
「レギオンとの交渉をした……」
『バベルネットワークが復活した以上、本隊よりレギオンへと何らかの接触はあったと見るべきだろう。ゆえにこの戦局、レギオンを叩けばいいだけと見れば読み負ける』
「でも、ボス。バベルを掌握したとか言ってのけたエホバの鼻っ柱を折ったとは、考えへんの?」
『元々、バベルは二つに分割されていた。その片方を牛耳れば、もう片方を持つ勢力が肩入れしてくるのは当然。そこから先の戦局こそ、我らグリフィスのものとなる』
「エホバの正体は分かったんですか?」
『あの男の所属は明らかにはなった。しかし、これを見て欲しい』
全員の端末に同期されたのは黒塗りばかりの個人情報であった。
「ヒイラギ」という名前以外は全て虚偽。あらゆる国籍、経歴を相手は網羅している。
それもここ十年、二十年の話ではない。
「……辿れるだけで、五十年以上前まで? エホバは本当に不老不死の神やって言うん?」
『問題なのは時間ではない。その男が辿ってきた経歴。彼はもし、バベルネットワークへの占有権を持っていたのだとすれば、百年近く何もしないをよしとしてきた』
「……元老院の支配に甘んじてきた?」
『そうとも考えられるし、そうではないとも言える。世界の均衡を保ってきたのが元老院ならば、彼は全てを覆せるのにその力を行使しなかった』
彩芽は考えを巡らせる。行使しても仕方がなかった、と試算すれば。バベルを掌握しても、元老院時代には意味のない抵抗であった。
「……ブルブラッドキャリアを……待っていた?」
思わぬ思考迷宮の出口に、でもと声が上がった。
「報復作戦がいつなんて、分かるわけないやん!」
『彼からしてみれば、いつでもよかったのかもしれない。なにせ、百年以上生きている人間だ。……いや、人間と呼んでいいものか』
ここまで来れば最早、それは元老院、そしてレギオンと同じかそれ以上の脅威であろう。
「……ボス。今からこのコミューンに仕掛けます。許可を」
その言葉はブリッジ全員の反感を買った。
「正気? 彩芽、死にに行くようなもんよ?」
「どうなっているのか想像もつきません! それに、《グラトニートウジャフリークス》と《フェネクス》……確認出来ているだけでこの二機が敵なんですよ。勝算なんて……」
「ないのかもね。でも、わたくし達がやらないで誰がやるの? 今、バベルは無効化されている。ボス、今ならば好機です。高高度爆撃能力を持つ《キマイラ》で、小国コミューンへと奇襲。その後、制圧を行います」
『……だが、そうなれば敵意は我が方に向く』
「いえ、それはないでしょう。エホバをやるという事は、バベルを手に入れるという事。情報操作はお手の物です。我々には」
その言葉に全員が沈黙を是とした。その通りである。自分達は、情報の外――世界の檻に支配されない場所から戦ってきた。
今なのだ。表舞台に上がるとすれば、今しかない。
『……育ててきた組織が羽ばたくというのか』
「いつまでも育てられてばかりではいられません。爆撃と同時に人機による制圧許可を。相手も相当に強い人機で来るはずです」
『その作戦自体は許諾する。だが、実行は六時間後だ』
「六時間? 何を待っているのです?」
その問いにボスは静かに応じていた。
『この世界の、良心と呼べるものだよ』