ジンキ・エクステンドSins   作:オンドゥル大使

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♯29 心の拠り所

 吼えても叫んでも、誰も助けてはくれない。

 

 そんな事が当たり前になったのはいつからだろう。

 

 燐華はバケツの汚水に塗れた制服の裾をぎゅっと握り締めた。トイレに入っている間に誰かに頭からぶっかけられたのだ。

 

 誰に、など最早尋ねるまでもない。

 

 クサカベの名前は呪縛のように自分をこの場所で縫いつける。学校に元々、通わないでいいとされていたが、燐華は前向きに行こうとした。

 

 だがその結果がこれでは立つ瀬もない。

たまに行けばいじめの標的にされるのではやはりやめておけばよかったと後悔が過ぎった。

 

 自分の席にはいくつもの侮辱の言葉が刻まれている。

 

「売国奴の妹」、「世界の敵」などはまだいいほうだ。燐華が言葉にするのも憚られるほどの罵詈雑言が、カッターナイフなどで消えない文字となって席に書かれているのである。

 

 それらを隠し立てする事も出来ない。

 

 教師は燐華を、まるでこの世にいないもののように扱った。

 

 講義を受ける中で燐華だけに分からないようにひそひそと言葉が交わされる。無論、教師も聞こえていないはずがないのだが黙認していた。

 

 一時間の講義がひたすら耐え難い永遠のように思われる。

 

 燐華は結局、夕方の講義まで受け切らないまま、保健室へと向かっていた。

 

 滅菌されたような保健室の白い天井を眺め、燐華は嗚咽を漏らす。

 

 気分が悪いのは本当だったが、何よりもこうして逃げ帰る事しか出来ないのが一番辛かった。

 

 どうして、兄に自分は何も言えないのだろう。

 

 モリビトの栄誉を賜った時はクラスの全員が自分を褒め称えたほどだ。自分の栄光ではない、と謙遜したが、友人だと思っていた人々はこぞって燐華に桐哉の連絡先などを聞いてきた。

 

 そう、友人だと思っていた人々は……。

 

「……友達なんて最初からいなかったのかな」

 

 呟いたところで虚しいだけであった。

 

 皆、モリビトの権威に陶酔していただけだ。英雄の妹が物珍しかっただけなのだ。

 

 その証拠に、モリビトが敵の名前になった途端に掌を返した。

 

 自分は売国奴になり、敵の名前そのものになり、国家を貶めた重罪人のように扱われた。

 

 何もしていないのに。桐哉もそのはずだ。

 

 ――何もしていない。ただ、世界が様変わりした。

 

 今まで自分達に優しかった世界は急に色褪せ、訪れたのは反対側の世界であった。

 

 モリビトは敵の名前。世界を混沌に陥れる敵の尖兵。

 

 強くあろうとしてもこれだけは拭い去りようもない事実。ニュースでは連日のようにモリビトの破壊活動が報告されている。

 

 兄は、桐哉は軍にいられるのだろうか。

 

 通話ではお互いに気丈な様子を振る舞っていたが兄とて辛いはずだ。軍属になった以上、国のために尽くすのが軍人のはず。

 

 ならば兄は、国家に裏切られた形になるのではないか。何よりも信頼を置いていた国家に。

 

 それは自分よりもなお性質の悪い世界の悪の側面であろう。

 

 桐哉はその悪に、どのように立ち向かっているのか知りたかった。だが、忙しい合間を縫って連絡をくれている兄の手を煩わせるわけにもいかない。

 

 今は耐えるしかなかった。

 

 時が過ぎれば笑える日が来るかもしれない。あんなつまらない事で、と思える日が来るかもしれない。

 

 その時、保健室の扉が開いた。

 

 燐華は息を殺す。ここにいるとばれればまた……、そう考えた燐華の耳朶を打ったのはクラスメイトの声であった。

 

「クサカベさん、ここに来ていませんでした?」

 

 教師は皆敵になった。ここで自分を売られれば、と燐華は涙を浮かべた。

 

 保健室にも居場所がなくなれば自分はどうやって生きればいいのだろう。

 

 元々、病気がちで学校にも来なくてもいいとされてきた。桐哉はその病気の解明のために軍に入ってくれたのだ。

 

 軍からの援助金ならば最先端の治療が受けられると。

 

 ここで自分がもし、死んでしまえば桐哉の厚意が全て無駄になってしまう。

 

 ――それだけは、と胸の中で懇願した。

 

 神様、と祈ったほどだ。

 

 保健室の教師はクラスメイト達の言葉に、いや、と応じていた。

 

「来ていないよ」

 

 安堵の息をつきかけたが、クラスメイト達の執念はその程度では収まらない。

 

「ベッド、見ていいですか?」

 

 カーテンが乱暴に捲られ、一つ、また一つとベッドが露になる。ベッドは四つ。あと一つで、というところで保健室の教員が声にする。

 

「そういえば、さっき、外を歩いているクサカベさんを見かけたな」

 

 クラスメイトの手がカーテンにかかった瞬間の言葉であった。

 

 舌打ちと共に女子達は立ち去っていく。

 

「失礼しました」

 

 その足音が遠ざかってから保健室の教員は静かに口にした。

 

「……皆が皆、敵になったわけではないよ」

 

 燐華はようやく、ベッドから起き上がった。酷く汗を掻いていた。呼吸も乱れ、涙が止め処なく溢れてくる。

 

 カーテンを捲り上げた燐華は卓上で作業する眼鏡姿の保険医を目にしていた。長い髪の毛を一つ結びにしている男性教員だ。

 

 柔らかな慈愛の眼差しが燐華に注がれた。

 

「僕は、生徒を売ったりはしない」

 

 その言葉はしかし安易には信じられない。信じればきっと裏切りが待っているに違いないからだ。

 

「……あたし、信じられません」

 

「無理もないね。君は、ここ数日で世界の煽りを受けた側の人間だ。だから知った風な事は言えないし、君の痛みを分かった風な事も言うつもりはない」

 

 男性教員は端末で書類を作成しながら椅子を顎でしゃくった。

 

「座るといい。大丈夫さ、鍵はかけておいた」

 

 燐華は眼前の丸椅子に警戒を注いだ。何をされるか分かったものではない。それこそ、味方の振りをして自分を陥れるつもりかもしれない。

 

 その予感が伝わったのか、男性教員は柔らかく微笑んだ。

 

「警戒されても仕方ない、か。教師達は臭い物には蓋の理論だ。みんな、君を無視する姿勢になったらしい。今朝の教職会議でも燐華・クサカベに関しては不干渉を貫けとお達しがあったほどだ」

 

 では何故、目の前の男性教師は恐れずに話しているのだろう。燐華の疑問に教員はエンターキーを押して頷いた。

 

「どうして、僕がそのお達しを受けていないのか、という顔をしている。お達しは受けたよ。注意もされた。でも、君一人を犠牲にして、ではこの学園は平和かと訊かれれば僕はノーと答える」

 

 手が差し伸べられ、燐華は息を詰まらせた。

 

「座るといい。話をするとすればまずはそこからだ」

 

 おずおずと、燐華は席に座り込む。まるで判決を言い渡される囚人の気分だ。面を伏せて、燐華は怯えていた。

 

 男性教員は燐華から話を切り出されるのを待っているようであった。書類を作成しつついつでも相談に乗れるように耳を傾けてくれている。

 

 ――この人は味方なのか。

 

 判断しかねていると教員は指差した。

 

「服が濡れている。風邪を引くよ」

 

 指摘されて燐華は耳まで赤くなった。これは、とか、そんなだとか羞恥の声が漏れる。

 

「別に恥じらう必要はない。ただ純粋に、君は身体が強くないと聞いていたからね」

 

 この教員は自分の事をどこまで知っているのだろう。燐華は小さな声で尋ねていた。

 

「あの、その……どこまで」

 

「知っているのか、か。この学園の人間ならば皆知っている事だよ。英雄、桐哉・クサカベの妹、燐華・クサカベ。君は先天性の疾病のせいか、身体が弱く病弱。しかしながら学園には毎月のように多額の支援金が送られてくる。送り主は君の兄、桐哉・クサカベ。モリビトの栄誉を賜ったエース操主。古代人機狩りにおいて、彼は十機以上を撃退せしめたとされる。来年当たり、教職員の一般教養に入れられる予定であった、ともされている。それほどの大人物だ。同時に、学園のスポンサーでもある。切っても切れない関係だというのに、学園側は君を見捨てた。理由は……まぁ言うまでもないか」

 

 保身のため。それが分かったからこそ、燐華は素直にこの世界を憎めなかった。誰しも恐れては寄れない領域というものはある。学園は、世界を敵に回す事が出来なかった。ただそれだけの話なのだ。

 

「あたしは……いなければよかったんでしょうか」

 

「学園側としてみれば、学校には来ず、支援金だけを送ってもらえればよかったんだろうねぇ」

 

 教員の率直な言葉に胸を抉られたような気持ちに陥る。

 

 こんな経験をするくらいならば死んだほうがマシだと思えるほどに。燐華は膝の上で小さな拳を握り締める。

 

「あたし……にいにい様に酷い事をしてる」

 

「桐哉・クサカベに? どうして?」

 

「だって、にいにい様はあたしが、ずっと我慢してるって分かってるもの。病気のせいで人並みの事も出来ない、愚図なあたしでも、にいにい様は絶対に見捨てなかった。にいにい様はあたしに平和を与えてくれた。本当の守り人なのに……あたし、今最低な事を考えている」

 

「最低な事、とは?」

 

「……にいにい様さえいなかったら、っ思ってるの。あたし、本当に最低」

 

 溢れ出る涙を指先で拭う。それでも胸を裂くような痛みを止められなかった。桐哉さえいなければ、モリビトの栄誉さえなければ、と思っている。

 

 そのような自分に嫌気が差す。

 

 これが最底辺の考えならば、自分ほど醜い存在はいまい。

 

「……それは違う」

 

「違わないわ。だって、あたし、こんなにも……」

 

「だから、違うと言っている」

 

「どうして! どうしてそんな事が言えるの!」

 

 面を上げて叫んだ燐華の眼差しを、男性教員は真っ直ぐに見据えていた。その瞳から、逃げる、という選択肢がない事に気づく。

 

 彼は自分から逃げるつもりはない。真っ直ぐに、自分の意思を問い質してくる。

 

 燐華のほうが覚えず視線を逸らしたほどだ。

 

「……先生は、あたしから逃げないんですか」

 

「どうして」

 

「逃げなくっていいんですか。こんなところで、あたしの味方をすると嫌われますよ」

 

 こんな言葉吐きたくないのに。どうしても他人の考えが全て、自分を陥れるものに思えてしまう。

 

 男性教員は腕を組んで考えた後、うぅんと首を捻った。

 

「どうしてかなぁ。何となく、君に同情しているのか。あるいは理由がないからか」

 

「理由って、だってあたしは世界の敵で――」

 

「それはモリビトが、だろう? 桐哉・クサカベと燐華・クサカベに影響があるとは思えない」

 

 久方振りに聞いた気がした。自分を擁護する言葉。それが目の前の教員から出たのが信じられず、燐華は目をしばたたく。

 

「……嘘です」

 

「何で嘘だと思う」

 

「だって、使用人の人達も、みんな陰で言っているのは知っています。家の人だって信じられないのに、外の人が信じられるわけが……」

 

「だが追われているのはブルブラッドキャリアとか言う奴らだけだろう。君には何の責もない」

 

「でもっ! あたしは売国奴の妹で!」

 

「だから、それは君の周りが下した判断だ。君個人の判断基準じゃない」

 

 教員は呆れたように端末を打つ手は休めずに言葉にする。落ち着き払った声音であった。

 

 計算高くあろうとしている風ではない。自分に取り入るようでもなかった。

 

 ――本当に。心の底からそう思っているような声である。

 

「……先生は、変です」

 

「変、か。よく言われる」

 

「こんなところであたしに味方すると、何か得点でもあるんですか」

 

「どうしてそう思う?」

 

「だって、あまりにも計算に見合わない事を言うから」

 

 教員は笑い飛ばした。そのような事、及びつきもしなかった、というような笑い声である。

 

「ああ、そうか。君を売ったほうが、むしろそれっぽいのか。でも、僕はしないよ」

 

「何でですか」

 

 教員は手を止め、本当に分からないように中空を見つめる。

 

「何でかな。まぁ、ここで君を売ったところで、得をするのは金だけはある生徒達ばかり。教員側にもたらされるものは少ないから、かな」

 

「そんな事を考えつく人がいるなんて思えない」

 

「おや? だが君だって相当に頭に花畑が沸いているクチだろう? 今まで英雄の妹君、お嬢様学校であるこの学園において、本当の姫君のような扱いを受けてきたのだから」

 

 教員の言葉にはてらいがない。その代わり、自分の思っている事はずけずけと言うような節があった。

 

「……冷静、なんですね」

 

「事ここにおいて、焦る必要性がないからね」

 

「でも、あたしなんかを味方にしたって、この先、いい事なんてないですよ」

 

 自分は不条理の側に取り憑かれたのだ。もう逃げ場などない。

 

「そうかな? 僕は君の症例には興味がある。だから、任されたのもあるが」

 

 その言葉に燐華はハッと顔を上げる。眼鏡姿の教員はフッと微笑みを浮かべた。

 

「……にいにい様に?」

 

 真っ先に思い浮かんだのは兄の桐哉の根回しであったが、教員は首を横に振る。

 

「いや、彼の、じゃない。個人的に、かな」

 

「じゃあ誰の。誰の回し者なんですか」

 

 どこか飄々とした教員の声音に燐華は問い質していた。教員はしかし真剣な燐華とは裏腹にぷっと吹き出す。

 

「いや、悪い悪い。今時、回し者と来るかと思ってね」

 

「でも、あたしを味方にしたって何も……」

 

「そうかな? 僕は君を敵にするほうがよっぽどだと思うけれど」

 

 燐華は毒気が抜かれたように教員を見つめ返していた。彼の眼鏡の奥の怜悧な瞳が自分を捉える。

 

「あなたは……」

 

「保険医を承っている。ヒイラギ、というものだ」

 

「ヒイラギ先生? あなたは何で……」

 

「質問が多いな、君は」

 

 微笑んだヒイラギに対し、燐華は顔を翳らせる。

 

「あたし、どうすれば」

 

「十八時には生徒は帰る。その後に迎えでも寄越せばいい。そうすれば今日は何とかなるだろう」

 

 書類を作成する手を休めずに、ヒイラギは言ってのける。まるで当たり前の事のように。

 

「……先生はあたしをどうしたいんですか」

 

「味方についたつもりはないが敵になったつもりもない、と言えばいいかな。第三者として、君らに敵対する気はない。ただ単に、任せられた、と言うべきだな」

 

「誰に……」

 

 兄ではないのならば誰の差し金か。警戒した燐華に対し、ヒイラギは降参したかのように両手を上げた。

 

「怖い目をするなって。僕は平和主義者なんだ」

 

「平和なんて……一番に当てにならない」

 

「そりゃそうか。じゃあ、争いたくないってだけの小心者だ」

 

 どこまで信じればいいのか分からなかった。ヒイラギが嘘を言っているとも思えないが、本当の事だけを言っているわけでもないのは言葉振りからしてみても明らかだ。

 

「あたしの症例に興味があるって、何をするつもりなんです?」

 

「何も。経過観察かな。君はただ単に病弱なだけかもしれない。だが、学園で病弱な少女を捕まえて全員でいびるのは、それは少しばかり不条理だと思っている」

 

「……でも、今のこの国ではそれが正しいんです」

 

 そう、正しい事を皆が成しているだけ。そこに特別な感情を差し挟む余地はない。

 

「そうかな。同調圧力に任せて一人を攻撃する。それはアリ、とは言っても、アリの一つなだけであって全員がそうあるべきというわけでもないだろう?」

 

 やめて欲しかった。下手に優しくされれば惨めなだけだ。

 

 燐華は奥歯を噛み締めて頭を振った。

 

「じゃあ、先生は世界とでも喧嘩できるって言うんですか……!」

 

「喧嘩するほど血の気は多くないが、交渉するのは出来る」

 

「交渉……」

 

 呆気に取られる燐華を他所にヒイラギは並べ立てた。

 

「例えば、僕は君を守りたいとは言えないが、君を患者の一人として、守秘する義務があるとは言える。これは保険医の特権だ。だから、僕は君の誇らしい兄のようにはなれないし、そのつもりもないが、本当に、ただの興味本位で通りかかった第三者としてならば力になれるかもしれない」

 

「力に、ってどうやって……」

 

「お屋敷でも居場所のない姫君に、居場所を作ってあげるくらいはって事かな」

 

 目を見開く燐華にヒイラギは肩をすくめる。

 

「そこまでおかしい?」

 

「おかしいわ。だって何の得にも……」

 

「損得だけで物事は決定しないって事さ。なに、六時くらいまでなら話し相手にはなろう。迎えは君が帰りたいタイミングで寄越すといい」

 

 本当に、今言うべきなのはそれだけとでも言うように、ヒイラギは作業に戻る。

 

 燐華はすっかりこの教師の言い分に敵対心を失っていた。ヒイラギは何のために自分に接してくれるのだろう。そのような事も考えていたが、今は一つでも居場所が欲しかった。

 

 屋敷に居場所がなく、かといって学園にも居場所のない、この小心者に一つでも意義を見出してくれるのならば。

 

 相手がどのような考えであるのだとか、下心を持っているのだとか考えずに生きられていた頃に戻れるのならば、今は警戒心を解こう。

 

「じゃあ、先生。迎えが来るまで話し相手になってくれる?」

 

「ああ、いいともお姫様。書類の片手間ではあるが、お話くらいは聞きましょう」

 

 その様子がおかしく、燐華は微笑んでいた。

 

 いつ振りだろう、てらいなく笑えたのは。

 

 モリビトが現れ、世界が動乱に陥れられてからまだ一月と経っていないのに、随分と長い事、笑い方を忘れていた気がする。

 

 きっとそれだけ張り詰めていたのだ。

 

 本来の自分を取り戻すために、燐華は一つずつでもいい、自分らしくあれる場所を探し出そうと思っていた。

 

「ヒイラギ先生、あたし……」

 

 もしかしたら、話し始めると長くなるかもしれない。そんな懸念すら浮かぶほど、話す事柄は星の数に及んだ。

 

 


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