どうしてなのだろう、と見るたびに思う。
灰色の髪に、華奢な身体つき。かつてはこの肉体に天使の羽根がついていた強化兵などというどこか遊離した事実が、どれだけデータを参照しても実感出来なかった。
どれほどまでに姉である林檎が嫌悪しても、自分は無条件に嫌う気にはなれなかったのだ。
それも弱さのうちかもしれない、と蜜柑は目を伏せていた。
こうして瑞葉のベッドの傍でそのまどろみと覚醒の間を観察しているのも、林檎への贖罪の意味もあるのだろうか。
動き出せなかった自分は、いつまでも弱いままだ。
「……どうして、ミィは鉄菜さんや、他の人を恨めないんだろう。林檎は……どうしてあんなにも他人を……羨んで、妬んで……」
自分にはない感情であったのかもしれない。羨望で片づけるにしてはどこかしこりの残った胸の隙間に、蜜柑は等間隔で脈動を刻む心電図を注視していた。
こんなにも穏やかな鼓動なのに、この人は自分とは違うのだ。
強化人間――ブルーガーデンの遺した戦闘機械、旧世代の遺物、人類の罪の形……、どうとでも言い換えられるのに、瑞葉を物として扱うような気持ちも、ましてやその出自を呪う事も出来ない。
ただ、瑞葉の辿ってきた道を考えると胸の奥がチクリと痛むだけ。それは自分もまた、強化された人間という括りならば同じだと考えているからかもしれない。
血続だから優れている、と何度も教え込まれた。直属の上官である桃からはガンナーとしての基礎を叩き込まれ、戦場で的確に目標物を撃ち抜く術を馴染まされた。
誰かの手を握るよりも、拳銃の引き金を握っていた時間のほうが遥かに長い。
そんな手に、蜜柑は視線を落としていた。
殺戮者の手、戦闘マシーンの末端。そんな名前で飾り立てたところで、この小さな手は、平時では整備士の握力にも敵わない。
だが一度でも人機に乗れば、無数の命を屠る罪に塗れた指先。
《イドラオルガノン》は無敵だ、そう嘯く林檎にいつも注意を投げていた。
自信過剰なのはいざという時に足元をすくわれるよ、と。しかし、今はひたすらその根拠のない自信が羨ましかった。
《イドラオルガノンジェミニ》を実戦で動かした時、自分の指先は震えていた。照準し、敵を葬るだけ。いつもやっている事の延長線上なのに、しばらく震えが収まらなかったほどだ。
その理由が知りたくて、リードマンの医務室を訪れたのもある。
しかし肝心な事を言い出せず、先ほどからずっと瑞葉の横顔を眺めっ放しなのであるのだが。
「……君のお姉さんは強いね。僕じゃ言い負ける」
戻ってきたリードマンに蜜柑は頭を下げていた。
「すいません、ドクター。林檎がまた……」
「いや、いいんだ。あれくらい言い返してもらったほうが、それこそ僕が居ても意味があるんだって思わせてくれる。……手を離れた執行者を見るのは、僕は素直に辛いからね」
「……鉄菜さんの事、ですよね」
リードマンは首肯して、椅子に腰かける。
「どう思った?」
瑞葉のみを救うために《クリオネルディバイダー》を外した決断に関して、だろう。蜜柑は幾度か声に出しかけて、やはりと憔悴する。
「……分かりません。林檎みたいに、バカな事を、なんて……言えないんです。だって瑞葉さんはそうしないと、今頃……」
「死んでいたかも、しれないね」
濁した先を、彼は言ってのける。蜜柑は項垂れて首を振った。
「何もかも、分からないんです。……林檎みたいに、鉄菜さんを責める気持ちにもなれないし、だからって他の事に八つ当たりも出来ないんです。だって、瑞葉さんは死んでいたかもしれないんですよね? だったら鉄菜さんは、間違った事をしたわけじゃない……はずですよね」
「良識の尺度に当て嵌めるのなら、ね。だが、《クリオネルディバイダー》を分離すれば、《モリビトシンス》の能力は著しく落ちる。それを鉄菜が理解していなかったわけがない。しかも孤立状態の地上で、そんな行動を取ったのは迂闊とも言える。結果的に《クリオネルディバイダー》からの情報で見つかったからいいものの、ともすれば《モリビトシン》は撃墜されていた」
撃墜。その言葉の重さに蜜柑は呼吸困難に陥る。
「……墜ちて、いたかも……って事、ですか」
「可能性の話では。桃の言い分を聞くのならば《モリビトシン》は過度な戦闘の後であったとも。まぁ、僕は整備士ではないから詳しくは。だが、ちょっと《モリビトシン》を見たが素人目でも危ういのは窺えた」
「……ミィも、見ました」
《モリビトシン》は血塊炉付近に風穴を開けられていた。ステータスを確認するまでもない。戦闘不能に近い状態に、素直に息を呑んでいたほどだ。
よく生き延びた、とも思った。だがそれ以上に、こんな状態になってまで、どうして鉄菜は戦ったのだろう、という疑念も突き立った。
自分ならば、どうしただろう、と考えを巡らせるが駄目であった。
もし、林檎と離れ離れになってまで一人で戦えるかと言えば否であろう。
孤立してまで、戦い抜いた鉄菜には感嘆しかない。それを素直に受け止めた瑞葉にも。
今は安定状態に近いそうだが、瑞葉の額には汗の玉が浮かんでいた。上下する胸元に、生きているのだ、と実感する。
ともすれば死んでいたかもしれない命。それが眼前にまざまざと突きつけられて蜜柑は言葉を失う。
今までも戦闘の極地には何度も至ったはずだ。自分達が危うくなった事も。しかし、こうして他者が死に掛けたところに立ち会うのは、ともすれば初めてかもしれなかった。
「……君達の訓練データを見た」
こちらの思考を読んだかのように、リードマンが言葉を発する。
「優等生であった、と、桃の手記にはある。ミキタカ姉妹にはどこにも欠陥はない。お互いの欠点を補える、理想的な操主だと。複座式の採用が滞りなく行われたのも、君達の実戦データを参照したかららしい。あの頭の固い上役が太鼓判を押すほど、君達は優れた操主であった。……いや、これは失礼な物言いかもしれない。だった、など」
「いえ、その……それで合っていると思います。そう、計算上は、ミィ達が遅れを取るなんて、あり得ない……ですよね?」
問いかけた蜜柑はリードマンの質問を聞いていた。
「君達のオペレーションは他の操主よりも連携が密になる。上操主と下操主の息が少しでもずれれば《イドラオルガノン》は当初の性能を発揮出来ない。それは分かり切っているはずだ。だが最近の君達の数値を見ると……とてもではないが及第点とは呼べない」
それは自分でも分かっている。だからここに来たのだ。その理由を問い質すために。自分達姉妹は最強の操主のはず。ただ、それを強気な言葉で尋ねる事が自分には思いのほか難しいのだと、改めて理解した。
「《イドラオルガノンカーディガン》の……性能としての完成度は、どれくらいですか?」
聞いてはいけない事の一つのような気がしていた。だがそれでも聞かなくては、自分は都合のいい出来事だけを胸に前には進めないはずであったからだ。
リードマンは一拍置いて、端末を見やる。
「六割以下……正直なところ、これでは普通、実戦レベルではない。操主としては失格と言ってもいいくらいだ」
「……やっぱり」
自然と自分の口から出ていた言葉に、蜜柑はハッと面を上げる。その視線がリードマンとかち合った。覚えず目を反らす。
「……どちらが足を引っ張っているのか、などは野暮かもしれない。君達は二人で一人の操主。だからどちらかに責任を問い質すのは」
「いえ、いいんです。言ってください。ミィが……林檎にとって足を引っ張っている、要因なんですよね?」
リードマンは息を吐いた後、静かに頷く。
「足枷……そう端的に言ってしまえればそうかもしれない。だが、僕はこうも考える。君達を分けて論じるのは間違っていると」
「いえ、何も間違ってなんか……。だって、ミィは駄目でした。《イドラオルガノン》が……林檎が力に呑まれそうになるのが怖くって、泣いてばかりで……」
《モリビトサマエル》との戦いや宇宙における《ラーストウジャカルマ》との戦いで浮き彫りになった林檎の歪み。
強者を追い求め、いくらでも人でなしの獣になれる姉の凶暴性に、自分は俯くばかりであった。こんなのは林檎じゃない。自分の知っている家族の一人じゃない。
ただの――ケダモノだ。そのような力の証明を目にして蜜柑は目を瞑り耳を塞ぐ事しか出来なかった。何も見ないにようにするのが精一杯であったのだ。
誰もが恐ろしい凶暴性を秘めている事くらいは訓練時代嫌というほど教わったはずなのに、近しい人間が修羅に落ちるのがこれほどまでに怖いとは。
リードマンは息をつき、頭を振った。
「それは違う……。力に呑まれる人間を見るのは誰しも辛いものだ。近親者ならばなおさら、ね。君はそれを否と言える。それだけの人間性はある」
「でも! 戦場で生き残るのは人間性じゃ……!」
「そうだね。戦場で最後の最後、足掻くのは多分、人間性じゃない。そのような正論とは真逆にいるものだろう。しかし、鉄菜は僕らに説いた。人間である事を失ってまで生き残るべきではない、と。だからこそ、原初の罪は応えたのだと僕は思っている。勝手な解釈かもしれないけれどね」
「モリビトシンに乗れた……それそのものが価値だと言うんですか……」
「そういうものではないかな。鉄菜は求め、罪は応じた。全てを贖うために、鉄菜は戦い抜くよ。それはこの艦にいる人間ならば誰でも分かる代物だ」
「……それが、ミィ達と鉄菜さんの違いですか」
「分からないよ。何もかも。もしかしたら正論を言っているのは君達のほうかもしれない。林檎の行く王道に、間違いはないのかも。それでも、僕は鉄菜を応援したい。無論、君達姉妹も、だ。ブルブラッドキャリアに所属して、その理念に呼応したのならば分かるはず。戦い抜く覚悟が。この星へと刃を突きつけるという本当の意味が」
分かっているはずだ。分かっていなければ何のために今まで戦ってきたのだ。
全ては星の罪を贖い、報復を完了させるために。組織がどれほどまでに間違いの上にあったとしても、自分達だけは正しさを失わないために。
ゆえに、モリビトの名前は在る。
守るべきは、心の奥深くに存在する信念……。だが自分には。
「……まだ、確定的な事は何も……」
「それでいいだろう。それでも、前に進むべきだ。鉄菜は退路を断っている。林檎もそうだろう。君だけに答えを急くわけではないが、状況は変わりつつある。その流れに、抗うも従うも君次第だ」
話はそこまでらしい。リードマンは端末に視線を落とす。蜜柑は立ち去りかけて薄く瞼を上げた瑞葉を視野に入れていた。
「……クロナ、は……?」
「瑞葉さん。鉄菜さんは無事です。もう少し休んでいてください。きっと……よくなりますから」
瑞葉は頭を振った。
「クロナは……もう一人のわたしなんだ。ついていなくっちゃいけないのに……わたしはまた……守られた」
それがどうしようもない悔恨のように彼女は口にする。
守られるだけ、いいではないか。守る事も、戦う事も意義を失いかけている人間が、眼前にいるというのに。
蜜柑はしかし、罵詈雑言をぶつける気にはなれない。そこまで他人を傷つけるのは、やはり憚られる。
自分は結局、誰から見ても「いい人間」を装いたいだけの半端者。林檎のように恨まれる覚悟も、鉄菜のように呪いを受ける覚悟もない。
状況に流され、引き金を引く事しか出来ない戦闘機械だ。
「……瑞葉さん。お願いだから、休んでいて。あなたの命は、鉄菜さんが救ったんだから」
この言い分もずるい。鉄菜の救った命なのだから黙れと言っているようなもの。
自分に干渉するな、文句の一つだって聞く気はないのだと、突き放す事も出来ないなんて。
瑞葉は安心したのか、再び目を閉じた。
蜜柑は医務室に言い置く。
「救った命の数が、でも絶対なんですか? ミィ達は滅ぼすために、遣わされたんじゃないんですか?」
殺戮者の手が疼く。この指先で殺してきた者達の怨嗟が、今も脳内で反射していた。
殺すための存在が、一端の人間のような口を利くなんてそれこそ傲慢の一言だ。
リードマンは背中を向けたまま応じる。
「勘違いしないで欲しいのは、人造血続は何も、自然界の摂理に抗った結果だけではない、という事だ。君達の命は生み出された時点で君達のものだ。決定権は僕にだってない」
この命を生かすも殺すも最早自分に投げられているというのか。だが、そんなまやかし、と蜜柑は頭を振る。
「投げられたって……決断なんて出来ない」
そう言い返すのが精一杯で、蜜柑は胸の中に黒々と広がっていく感覚に、うまく名前をつけられなかった。