スーツなんて、とヘイルは苦言を呈していた。
隊長が軍服は目立つ、と注意する。
「そうでなくとも赤い詰襟服のアンヘルは虐殺天使とあだ名されている。会合の席では我々が居る事さえも本来は知られてはいけないのだ」
「そりゃ、そうかもしれないですけれど……動きにくくって」
ヘイルは年中軍服のほうが性にあっているクチだろう。それは燐華も似たようなものであった。
久方振りに袖を通したドレスはどうにも馴染みづらい。もうお飾りの人形ではないつもりであったが、結局のところ、アンヘルの軍服がいつの間にか身に染みついているのだろう。
ヘイルはこちらを目にするなり、舌打ちする。
「お嬢様はよくお似合いのこって」
「ヘイル。これからヒイラギ准尉のお父上に会う。失礼のないようにしろ」
「はいはい。分かりました。せいぜい、上品さを気取っておきますよ」
燐華はパーティ会場に既に待ち合わせている予定の相手を探す。スポンサーの集う会合は華やかな式典の装いであった。
「……すげぇな、こりゃ。全員アンヘルを動かす大富豪ってわけか」
集まったのはゆうに五十人を超える。これら全員が世界よりアンヘルに支援を行っている企業や個人であった。
無論、彼らが全員、C連邦政府の市民というわけではない。だが広義で連邦政府のスタンダードに従っている人々であり、国境、信仰、あらゆる差異はあれど、アンヘルという大部分を動かすという点においては似通っていた。
「民間企業も含めての参加だ。それなりの規模にはなる」
隊長の言葉に燐華は身を強張らせた。
「下手な事は出来ない……ですよね」
「なに、今日ばかりは別段、気を張る事もない。実父との久しぶりの再会だろう。親子水入らずを楽しんでくれればいい」
「隊長、能天気ですよ。こいつ、どうせ俺達がいたっていなくたって、毎回そんな調子でしょう」
ヘイルの言葉を受けながら燐華は見える範囲に知った影を探す。その時、白いタキシードを着込んだ男がこちらを振り返った。
彼だ、と燐華は一目散に走り出す。
「おい! 走るなって!」
ヘイルの注意も今は別の次元の出来事だ。燐華は眼前まで駆け込んで、その面持ちを確かめた。
「……立派になった事だね。燐華」
「ええ。先生も息災で」
「先生?」
ヘイルの疑念の眼差しに慌てて燐華は訂正する。
「……すいません。お父様」
「いや、いいんだ。紹介しますよ。娘の燐華です」
装飾華美な大人達に囲まれ、燐華は萎縮してしまう。いつもならこれの数十倍居心地は悪いはずなのに、今はヒイラギと共に居られるだけで心が安らいでいた。
ヘイルが視界の隅で悪態をついたのが窺える。
今だけはアンヘルのヒイラギ准尉ではなく、ただの小娘としての自分で振る舞える。
ヒイラギは個人個人の挨拶を手短に済ませた。また手腕が上手くなっているのを実感する。
「せんせ……お父様。社交界がよく似合うようになったんですね」
「燐華だって頑張っているんだからね。僕が頑張らないでどうする」
「まぁ! 逞しいお父様だこと!」
「ご婦人、僕は所詮、この歳になっても子離れの出来ない恥ずかしい親ですよ」
謙遜もまた場を盛り上げるためのスパイス。それを心得ているヒイラギの傍は自然と本来の自分でいられるような気がした。
アンヘルの部隊員として戦い、戦場で凌ぎを削るよりもずっと、自然体だ。
本来ならばこういう場が似合ったのだろう、と己でも分かる。だが、今はパーティの一員であるのと同時にアンヘルの警護班の一員。
第三小隊に命じられた任務は大きく二つ。
一つは会合の警護任務。
もう一つは、予測される会合へのテロ行為の抑止。
隊長とヘイルは上場企業の社長とその部下という「設定」であった。隊長は他の富豪達から浴びせられる言葉を難なくかわしている。ヘイルは少しばかり緊張しているらしい。いつものように破天荒にやってみろ、と胸中に言いやってみせる。
「しかし、旧ゾル国陣営の企業が軒並みC連邦に吸収合併されてもう五年ほどになりますか。……あのトウジャという人機を最初こそ訝しげに見ていた人々はもう慣れた様子ですな」
「C連邦には元々、ナナツーのノウハウしかなかった。そこにバーゴイルのフレーム設計を持ち込んだのはゾル国です。今でもゾル国の供給がなければ前線でのトウジャの活躍はないでしょう」
事実認識として、トウジャはバーゴイルの発展機――否、正しく言えば先祖還りであるというのは教習期間に教え込まれた。
元々、百五十年前にトウジャの設計思想を色濃く受け継いだのがバーゴイルであると。コストダウンの意味合いも込められた功罪の証は、今となっては量産計画のための礎と化している。
百五十年前、人々は正しくあろうとしてモリビト、トウジャ、キリビトを封印した。
だが禁は破られ、今の世界情勢を巻き込んだ形になってしまった。それらは畢竟、ブルブラッドキャリアのモリビトのせいだ。
モリビトが最初に封印を解かなければ、惑星がここまで混沌を極める事はなかったはずである。
「いずれにせよ、トウジャは希望の星ですな。それを操るアンヘルは、もっと!」
一人の富豪は酔いが回ったのか、シャンパングラスを掲げる。それに相乗するように他の富豪も続いた。
「アンヘルには多額の資金を投資しています。それもこれも、明るい未来のため。子供達が安心して世界に羽ばたけるためです」
「C連邦の制定する法案のどれもが平和法であると言われていますからね。実際、そこからこぼれ落ちた者達の末路というのは……どうにもいただけない」
渋面を作った富豪の言葉に燐華の脳裏を戦場が掠めた。
ブルブラッドの濃霧と血潮が舞う、虐殺の映像。
兵士達が銃弾に倒れ、人機は爆発の炎に包まれる。焼夷弾で焼け爛れた身体を晒す敵兵を塹壕に押し込んで、一気に燃やした事もあった。
それらの残虐行為が脳内に充満し、燐華はここではないどこかの血に酔いが回ってしまった。
「……燐華? 顔が青い。気分でも?」
「大丈夫、です、お父様。ちょっと、場酔いしちゃって」
「すいません。娘はあまり慣れていないです。ちょっと送っても?」
「構いませんよ。それにしたところで、よく出来た娘さんだ。まさしく社交界の華ですな。父親としても鼻高々でしょう」
ヒイラギは愛想笑いで誤魔化し、会合の席を抜けていく。
本来ならば、会合の中心で守りを司るのが自分の役目なのに、これでは意味がない。
戻りかけて、ヒイラギが制する。
「……顔が真っ青だ。ちょっと休んだほうがいいのかもしれない」
「ごめんなさい……先生。あたし、誤魔化しも出来ない愚図で」
「いいさ。そのほうが、君らしいとも」
囁きかけた言葉には優しさがこもっていた。会場を後にした燐華はそのまま近くのベンチにへたり込む。
「……疲れてる?」
「すいません、色々と……あったもので」
「アンヘルの激務に、社交界で娘を気取れ、というのは無理な話だ」
笑いかけたヒイラギに燐華はふとこぼす。
「先生は……ずっとこんな事を?」
「たまに、だけれどね。それでも、アンヘルへの資金投資を惜しまない人々を監視する役目はある。悪い事にお金を使っているんじゃないかって」
「そんな事……、でも……」
濁した燐華にヒイラギが視線を合わせる。
「言ってごらん。僕は口だけは堅いほうだ」
その声音に安堵しつつ、燐華はここ数日の激戦を反芻していた。
「……色々、ありました。本当に色々……。先生、仲間が、何人も死んだんです」
顔を伏せた燐華にヒイラギは淡々と返す。
「そうか。だが軍部だ。そういう事もあるだろう」
「あたし、押し潰されちゃいそうになる。どうにかなっちゃったほうが、楽なんじゃないかってたまに思ってしまう……いけない子なんです。叱ってくれる、いい人もいるんですけれど……」
「上官に恵まれているのならば、まだいいさ。希望が持てる」
「希望……ですか。でも戦場では、そんなもの真っ先に……」
口にしてみても嫌になる。自分達は希望を潰えさせるのが仕事のはずだ。誰かの願いを摘むのがこの職務の本懐である。
そんな形に成り果てたつもりはないのに。それでも成ってしまったものには責任を持たなければならない。
燐華は掌に視線を落とす。
もう何十人も、手にかけた人殺しの手である。それが分かっていても、どこかで戻れるのではないかと思ってしまう。どこかで取り返しがつくのではないか、と。
お笑い種だ。取り返しなんてつかない。人殺しは、一回でも百回でも、同じ事だ。無間地獄に堕ちるのがお似合いの末路のはずである。
「……先生。あたし、人機を扱えれば見えるんだと思っていました。にいにい様の、見ていた景色が。何に希望を抱いて、軍属として散っていったのかを」
だが、人機は扱えば扱うほどに目の前を塞いでいく魔物だ。撃墜数の分だけ人間をやめられればどれほどに楽な事か。
実際にはより自分の人間としての、卑しい部分を強調される。
生き意地汚い自分が、より浮き彫りになってしまうだけ。
「戦争に、綺麗事なんて僕は言うつもりはないよ。だが、間違っていないとするのならば、あの時の君を持ち直すのに、人機は必要であった。違うかな?」
「感謝はしています。人機セラピーのお陰で、人並みに戻れたんですから。それに、アンヘルにも推薦状を書いていただいて……。先生には、どれほど感謝しても……」
「自分を卑下するものじゃないさ。君に才能があった。それだけなんだよ」
分かっている。分かっているからこそ、自分はこの意地を貫き通したい。戦い抜きたいのだ。しかし、それにはあまりにも力不足。
この手で守れるものなど緒戦はたかが知れているのだと毎回思い知らされるのみ。
「あたしは……」
そこで不意にパーティ会場が沸いた。燐華が視線をやると、一際美しい桃色の髪の女性が手を振っている。
まさしく社交界の華。自分のような穢れた仇花とはまるで違う。
麗しい視線で富豪達の目を虜にしていく女性の身辺を、隙のない気配で守り通している従者がいた。
背は低く、男性用のスーツに身を包んでいる。しかし、その黒髪と紫色の虹彩は間違いようもない――。
「……鉄菜?」
口にしてから、そのようなはずがない、と燐華は頭を振った。数日前の戦場で彼女の幻と出会った時、あれは自分勝手な幻想であったと結論付けたはず。それに常識的に考えれば、彼女が生きているはずがない。
戦場とこのようなパーティの喧騒はまるで別世界だ。どうして同じ場所に鉄菜の幻が現れるのだろう。
燐華は目頭を揉んだ。相当に疲れが溜まっているのだろうか。
「どうかしたかい?」
「いえ……、先生。ちょっとあたし、パーティ会場に忘れ物をしたみたい。見てきます」
足早に立ち去っていく自分にヒイラギは声をかけそびれたらしい。鉄菜らしき従者は貴婦人の横合いを抜けて遠くなっていく。
ヒールを脱ぎ捨てた。裸足になって駆けていく。
待って欲しい。今は、少しでも――。
「待って! 鉄菜!」
パーティ会場の裏手でようやく、燐華は追いついていた。相手は青い帽子を被っているが、振り返った双眸は間違いなかった。
「……燐華・クサカベか?」
相手も予想外であったらしい。燐華は微笑んで頷いていた。
「嘘みたい……、鉄菜。また会えるなんて……」
感極まったこちらに比して、鉄菜の側はどこか冷静であった。
「……そうか。逃れたのか」
鉄菜には自分があのコミューンに売り渡され、その後にアンヘルに助け出されたのだという考えで結びついたのだろう。
今はその認識でも構わないと燐華は歩み寄ろうとする。
「鉄菜……話したい事がたくさんあるの。どうして……どうして、その……」
言いたい事はどれほど数えても足りないはずなのに。口をついて出ようとする言葉はどこか彷徨っていた。
どこから話すべきなのだろう。
あのコミューンでどうやって生き延びたのか、か? それとも、どうして生きているのか、あの時と寸分変わらぬ佇まいなのはどうしてなのか? あるいは、どうして自分の前に現れてくれたのだ、というのか。
どれも口にしてしまえば陳腐で、どれも嘘くさい。
何を言うべきか迷っている間に鉄菜は冷徹に告げた。
「燐華・クサカベ。このパーティに呼ばれたのならば、お前は分かっているのだな? アンヘルという組織がこの世界を動かしている。現状を」
ここにいるのは皆、アンヘルのスポンサー。自分もその一員だと彼女は判断したのだろう。燐華はうろたえ気味に首肯する。
鉄菜はどこか残念そうに目を伏せた。
「そう、か。アンヘルの事を、正しいと思っているのか? 世界で紛争と怨嗟が生まれ続けている。今もまた、どこかの名も知らぬ兵士が、アンヘルの人機を前に踏み潰されているだろう。それを是とする側に、お前はついたのだな?」
鉄菜の口調はどこか責め立てるようであった。まるでその戦争を目にしてきたかのような厳しい声音。
燐華は口を噤んでしまう。
自分がその悪夢の連鎖を生み出している側だとは言えなかった。
「……分からない。だって、でも……今の世界は平和になったはずだよ! 六年前……鉄菜が居なくなったあの日よりも! あたしは、よりよい未来のために、アンヘルが戦っているんだと思う。そうじゃなきゃ……」
そうでなければ、虚しいだけだ。自分の闘争が闇を生むだけという帰結など。しかし、鉄菜の眼差しにはどこか諦観が宿っていた。
「それが……人々の認識なのだろうな。この世界を、変えるために戦ったのが誰なのかなど、誰も気に留めない。この世界が、本当によりよくなっているのかの指標は、何でもない、朝のニュースキャスターの機嫌であったり、浪費されていくだけであったりする言葉に過ぎないのだろう」
「鉄菜……?」
怪訝そうに見守る中、鉄菜は首を横に振っていた。
「燐華・クサカベ。今の地位は知らない。だが、あの日渡したのは、ただ生きていてくれという願いだけではない。ただ生きるだけならば、それは他の生命体でもいい。私は、私だけにしか出来ない生き方を探したい。だからあの場を去った」
そんな理由で、自分の前から消えたというのか。そんな理由で、死んだ事にされたというのか。
だとすれば、鉄菜の生き方は苛烈だ。その苛烈さについていけなかった己の弱さを恥じ入るだけである。
「鉄菜……、でもあたし……強くなったんだよ? 多分、あの時よりも強く……」
「燐華・クサカベ。……お陰で決意は決まった。私は私にしか出来ない生き方で、戦い抜きたいんだ。だから……」
身を翻そうとした鉄菜に燐華は叫んでいた。
「また! 消えちゃうの? また、あたしの前からいなくなっちゃうの! そんなの嫌だよ! 嫌だよ……鉄菜ぁ……ぅ」
嗚咽を漏らす燐華に鉄菜は立ち去りかけた足を止めていた。分かっている。自分はただ駄々を捏ねているだけ。理不尽なのは鉄菜ではない。自分のほうだ。
相手にいなくなって欲しくない。消えて欲しくないというエゴで、彼女を困らせている。
鉄菜が何を背負っているのかは分からない。分からないが、ここで呼び止めなければ、また喪失の苦しみを抱くだけだ。
また、自分の前から誰かがいなくなってしまう。自分の与り知らぬところで。
そんな事はもうたくさんだと、思ったからアンヘルに入った。力も手に入れたつもりだった。
だが、現実にはかくも無力だ。
どこまで行っても、自分はあの日、取り残された側でしかない。忘れ去られて、消えていくだけの存在でしかない。
そうは思いたくないから、ここまで来た。何もかもを投げ打って。名前さえも消し去って。因縁を全部振り解いてきたつもりだった。
それでも、届かない。指先さえも、体温も、何もかも遠い。
鉄菜との距離はちょっとのものなのに、永遠の隔絶に思われた。
自分は咽ぶだけだ。そうする事でしか誰かを繋ぎ止められない。どこまでも打算めいた、脆くも弱い存在。
「燐華・クサカベ……、私は私の生き方を貫くだけだ。それだけに過ぎない。お前が泣く事はない」
「でも! 鉄菜はいなくなっちゃうんでしょう! ……もう、一生会えないんでしょう……?」
沈黙が降り立つ。氷のように冷たい眼差し。あの日と何も変わらない。たった数日間の友情を感じていた日々と、何一つ。
だが自分は変わってしまった。打算と欲望で、誰かを雁字搦めにする事に慣れてしまった。
力を持ち合わせているばかりに、その身は傲慢に成り果てる。
隊長も、鉄菜も、ヒイラギも、優しい人はどうしてこうも自分を遠巻きに見るのだろう。もっと近くに来て欲しい。もっと感じて欲しい。
もっと――あたしを愛して欲しい。
花火が夜空に咲く。パーティも閉幕に近くになってきたのだろう。
鉄菜の横顔が宵闇を彩る極彩色の火に注がれていた。
自分と見ている世界が違う人間だと思った。だが、今ほどではない。
あの火に、自分は戦場を思い出しかけている。こうまで醜くなった己に嫌気が差すほどに。
「……燐華・クサカベ。私は、お前が羨ましい。いや、これは羨ましい、という感情で合っているのか」
はかりかねた様子の鉄菜は自分を真っ直ぐに見据えていた。逃げる事のない紫色の瞳に、何も言えなくなってしまう。
「鉄菜……?」
「学校、というものもそうであった。たった数日間であったが、何か得難いものがあったのだろう。私は、いつも探している。そう、探しているんだ。自分の居場所を。どこに行けばいいのか。どこが最終目的地なのか。……どこに行っても、私は異邦人だ」
寂しげな光を湛えた鉄菜の眼に、燐華は初めて彼女の心情を打ち明けられた事を感じていた。
学校では助けられてばかりであった。あの日の別れでもそう。何もかもを変えてくれたのは鉄菜の側のはずなのに、彼女はどうしていつも、傷ついたような瞳なのだろう。一番に逃げ出していいのは鉄菜のはずなのに。
自分は甘えている。彼女の強さに。今も昔も。
だから、ここで言うべきなのは……。
「鉄菜……あたしは……」