《ビッグナナツー》を稼動させるブリッジへと案内され、ニナイは困惑していた。
共闘は結ばない、という結論は出たのに、《ダグラーガ》とそれに収まるサンゾウはある条件を提案してきた。
「その……もう一度聞きますが、ここでお互いに身を引く条件として、ラヴァーズの構成員を一人、受け入れろというのは……」
『難しい事だろうか』
無論、《ゴフェル》に余裕がないという抗弁を使う事も出来た。しかし、三十機前後の人機を擁するラヴァーズの構成員をたった一人受け入れるだけでここは知らぬ存ぜぬを通せる、という破格の条件を信じ込めなかっただけだ。
「いえ、難しくは。補給も受けましたし、充分に航行は可能です。ただ……」
濁したのはこの海域は既にアンヘルに張られているという事実。ラヴァーズが壁になってくれても自分達は決断を下さざるを得ないだろう。
地上任務が継続不可能ならば宇宙に出る事も視野に入れねばならない。
だが、宇宙には自分達が裏切ったブルブラッドキャリア本隊が位置している。
どう決断すべきなのか、ニナイは自分の中で先延ばしにしていた。
『アンヘルからの攻撃は我々が受ける事は可能だ。しかし、そちらにこれからの展望がなければ一時的な弾除けに過ぎないだろう。ニナイ艦長、如何にするおつもりか?』
分かっている。自分が結論を述べなければ何も好転しない事くらいは。
先の戦闘における《モリビトシン》の不具合も含め、どこかでこれからを判断しなければならないだろう。
「《モリビトシン》は……タキザワ技術主任の分野です。だからこそ、私が意見出来るかどうかは怪しい」
『しかし、貴殿は《ゴフェル》の責任者のはず。誰かに棚上げ出来ない決定はあるだろう』
その一つが構成員の受け入れか。昇降用のエレベーターがブリッジに到達し、ニナイは歩み出ていた。
ブリッジに人影がまるでないのを意外とは思わなかった。甲板警護の人機がネットワークを構築し、ブリッジでの処理などほとんど無用の長物と化しているからだろう。
しかし、艦長が座るべき座席に、一人だけ――小さな人影が位置していた。
窺う前に相手がこちらへと一瞥も振り向けずに口にする。
「《ダグラーガ》。先の戦闘で我が方が不利益を被ったのは正直なところ、痛いのだと言う事は理解しているわね?」
有無を言わせぬ声の持ち主はまだ少女のものだ。しかし、《ダグラーガ》に収まったサンゾウは恭しく返していた。
『戦士としての判断であった。間違いならば正そう』
「いい。どうせ、人機乗りの判断なんてその場凌ぎのものだもの。まともな人間なんて居やしない」
手を払った少女が艦長席から降り立つ。
青い髪を短く切り揃えた少女は銀色の眼差しをニナイに注いだ。どこか興味の対象であったその目が細められる。
「コードネーム、ニナイ。本当の名前は、里香・マッディーニ」
ニナイは硬直する。自分の本当の名前を知っているのはブルブラッドキャリアでも一握りのみ。それも閲覧不可能な領域のはずだ。
こちらの反応を目にして少女は鈴を鳴らしたような笑い声で手を払う。
「なに? 驚いているの? こんなの、バベルを見れば一発なのに」
まさか、バベルへの閲覧権限を持っているというのか。その証拠とでも言うように少女は手を掲げた。
その一動作だけでブリッジのコンピュータが起動し、現在のアンヘル艦隊の位置を割り出した。不用意な動きにこちらが警戒する前に少女は言い放つ。
「大丈夫よ。相手からは見えていないから。こっちからの一方的な盗み見。ま、お互い様だけれど。相手だってバベルが使えるんだから」
その動きに舌を巻いていたニナイは《ダグラーガ》に収まっているサンゾウへと尋ねていた。
「彼女は……」
「紹介が遅れたわね、ミスニナイ。吾の名前は茉莉花。ファミリーネームはないわ。茉莉花だけで結構」
茉莉花と名乗った少女が気安く握手を求めてくる。ニナイはその手を握り返した。
想定していたよりもずっと冷たい手だ。
茉莉花はすぐさま手を離し、ブリッジ内部のコンピュータを指差していく。するとコンソールが起動し、モニターにあらゆる情報が表示された。
「情報は絶えず同期される。それが世界のどこであったとしても。吾はどこであったとしても、バベルの力を借りて相手を捕捉出来る。現状のどのレーダーや対人機兵装よりも有効な手段でしょう。吾にとってしてみれば、この世界は丸裸も同然。ちょっと指差して念じてやればデータなんて隠し立ても不要なほど。これが、モリビト三機のデータね」
映し出されたモリビト三機のステータスにニナイは当惑する。どうして、彼女には何もかもがお見通しなのか。窺う視線を《ダグラーガ》に注ぐと、彼は答えていた。
『茉莉花。拙僧と《ダグラーガ》が見つけ出した、この世最後の中立を真の意味で体現する存在。究極へと至る鍵』
「お褒めに預かり光栄だけれど《ダグラーガ》のメンテナンスの時間よ。怠るとそんなオンボロ機じゃすぐに前線で使い物にはならなくなる」
舌鋒鋭い茉莉花にもサンゾウは礼節を怠る事はない。
『肝に銘じておく。して、茉莉花。話していた、例の』
「あー、はいはい。ブルブラッドキャリアね。わざわざ本隊から離反してきた上に、地上勢力を無駄に潰そうと奮闘する、馬鹿な人達」
その言葉にはさすがに一家言あったが、ニナイはこの場で繰り広げられている事実に先に驚愕した。
《ダグラーガ》が教えたのか、と目線で窺ったが、サンゾウは否定する。
『茉莉花に、特別な言葉は必要ないのだ。彼女には全てが見えている』
「この世は数式で構築されているのだというのはご存知?」
不意に問いかけられてニナイは絶句してしまう。その間にも、茉莉花は言葉を継ぐ。
「数式通りに行動すれば、何もかも簡単に掌握出来る。星の運命だって、吾からしてみれば、児戯に等しい」
「あなた……何者だって言うの」
覚えず尋ねていたニナイに茉莉花は微笑む。
「いいわ、無知の体現者、って言うのはいつ見ても、ね。馬鹿馬鹿しい事に、頭の上に浮かんでいる疑問符が透けて見えるわよ。何を考えているのかは体臭やその発汗量をモニターする数式で明らかになる。動揺しているのは分かるけれど、その手を懐に隠した銃へと伸ばすのはお勧め出来ないわ」
まさか、とニナイは目を見開く。本当に次の行動が予見出来ているというのか。このような感覚は味わった事がない。
全ての行動が彼女には筒抜けのようであった。
「どこまで無知を気取ったところで、あなた達は馬鹿にはなり切れないはず。この世界を、変えるって言うのならね。サンゾウ、吾の身柄を彼らに渡す事、同意しましょう」
勝手に進んでいく事象にニナイは口を差し挟んでいた。
「ちょ、ちょっと待って! 私達はまだ了承なんて……」
「してもしなくても、結果は同じじゃない? いや、しない場合はより悪い結果がもたらされる。あなた達、どん詰まりよ? 吾に少しでも興味があるのならば、むしろ快く受け入れる事のほうが随分と賢い。それとも、熟考の時間があるとお思い?」
無論、現状で考え込むほどの時間はない。一刻も惜しい事を相手は理解しているのだろう。
茉莉花は試すような物言いでニナイを窺った。銀色の瞳孔が射抜く光を灯す。
「あなた……経歴を見ると面白いわね。そっか。そういう風に振る舞えばブルブラッドキャリアの側から引き抜かれるわけか」
自分の経歴など彩芽くらいしか話した事はないはず。どこまで知っているのだ、と問いかけてそれが薮蛇である事を悟る。
いや、とっくに相手からは看破されているのかもしれない。いずれにせよ、ここでの選択権は多いと思わないほうがいい。
「……サンゾウさん。この少女を、我々が保護しろと?」
「保護、というのは正し言い方じゃないわ。スカウトするのよ。あなた達ブルブラッドキャリアが、必要不可欠な駒として」
言い放った茉莉花の言葉をどこまで信用すればいいのかは分からない。しかし、この少女に対してどこかサンゾウが特別なものを抱いているのは間違いないらしい。
「では……あなたを私達がスカウトするとして……でもどうして? ラヴァーズだって人員は惜しいはず」
「これから滅び行く組織と、相手を天秤にかけた結果でしょう? サンゾウ。あなたはいつだってそう。何もかもが見えているくせに、何も言ってあげないのね。それって理不尽よ?」
声をかけられたサンゾウはただ是とするばかりであった。
『返す言葉もない』
どうして世界最後の中立であるサンゾウが言葉少ななのか。理解出来ない頭のまま、ニナイは茉莉花を見下ろす。
ブルブラッドそのもののような青い血が馴染んだ髪。この世を見透かす銀色の瞳。どれもこれもが、現実から遊離している。
自分達は人造血続という咎を背負っている。だが、この少女はそれ以上の――人類そのもの原罪のような気がした。
「軽い自己紹介でいいと思うわ。吾もすぐに《ゴフェル》の……ブルブラッドキャリア側の戦力をはかりたい。それが済んだらまずは次の一手を打つために行動しましょう」
「次の手……見えているというの?」
自分にはまるで次なんて見えないというのに。茉莉花はこちらへと侮蔑の眼差しを向けてきた。
「……あなた指揮官でしょう? 見えないでどうするの? ……まぁいいわ。せっかくだし、前回あのトウジャとやり合ったモリビトを実際に見せてちょうだい。あれ、ちょっとだけ面白いかも」
「《モリビトシン》は……極秘にしたい」
こちらの実情に茉莉花は嘆息を漏らす。
「今さら? ……これだから大人って奴は。融通が利かないって言ってるの。モリビト全機を今から完全に隠し立てなんて出来ないのよ? バベルで既にある程度の情報はアンヘル側にも移っているし、何よりも何回も出せば自ずと手が割れるくらい分からないの? 無知を相手にするのは平気だけれど、馬鹿を相手にするのは疲れるのよ」
どこまでも他人を嘗めた口調の茉莉花に言い返そうとした瞬間、通信網に連絡が吹き込まれた。
『ニナイ。そちらの動向の加減は分からないがこちらで動きがあった。鉄菜が出撃許可を求めている』
意味不明なゴロウの文句にニナイは尋ね返す。
「鉄菜が? 何で?」
『瑞葉の体調を維持するのに、我々の持ち得る医療機器では足りないらしい。どうしても後遺症が残るとの事だ。ゆえに鉄菜は症状を鎮める薬剤を求めて弱小コミューンに移動したいとの申し出だが』
「無理よ。今の状態で他国に渡るなんて」
『それも承知のようだがな。輸送機に《モリビトシン》を格納、既に発進準備は出来ているとの事だ』
「勝手な真似させないで。鉄菜は重要な……戦力なのよ」
『承知しないでこのような事を言い出すとも思えない。鉄菜・ノヴァリスなりに考えがあるのだろう。こちらとしては出来る限り早期に結論を求められたい』
「どうしてそう……。みんながみんな身勝手な事……」
今だって頭痛の種は消えてくれないのに、これ以上自分に重石をかけないで欲しい。そのような言い草になっていたのだろう。茉莉花が肩を竦めた。
「相当にオーバーワークみたいね? 肩代わりならいつでも出来るわよ?」
今は、このいけ好かない少女に弱みは見せられない。ニナイは指揮官の声を吹き込んでいた。
「……鉄菜に繋いで」
『ニナイ。約束する。必ず戻ってくると』
「それは当たり前。……そうじゃなくって……瑞葉さんは承知しているの?」
『瑞葉を連れていく。これで義は通せるはずだ』
「だからどうしてみんなそうやって……。鉄菜、《モリビトシン》を出すのにはタキザワ技術主任の許可が」
『もう出してあるよ』
割って入ったタキザワの通信にニナイは苦味を噛み締めた。
「どうして……」
『言ったって聞かない。そんなだから、六年も生き延びられたんだ。それに、鉄菜を信じている。僕はそう言いたい』
個人的な心象を言えば、自分だって鉄菜の事は信用している。そういう事ではない。今は指揮官としての判断を迫られているのだ。
しかも現状、茉莉花に見張られている中で下手を打てば彼女に《ゴフェル》の全てを牛耳られても何もおかしくはない。相手は手を払ってだけで魔法のように電子機器を操ってみせるのだ。
不明点の多い相手を前にして無闇な事は言えない。
口を噤んだ形のニナイに鉄菜から再三の許可申請が来る。
『ニナイ。《モリビトシン》は一回や二回の継続戦闘の不安要素だけで出撃を渋ってはいけない。相手に付け込む隙を与えてしまう』
「そりゃ……そうかもしれないけれど」
『アンヘルを駆逐したいのならばむしろ失敗を糧とすべきだ』
鉄菜の言い分は分かる。自分とて失敗程度でたじろぎたくはない。だが、状況が状況なのだ。
アンヘルに押され、さらに言えばラヴァーズにも呑まれかねない。正体不明の少女相手に、こうもブルブラッドキャリアが弱腰になるなどそれだけでも恥辱。
だが結論を先延ばしにしか出来ない。どうする、と歯噛みしたその時、桃の通信が入った。
『ニナイ。モモや林檎達だって弱くはない。アンヘルの強襲くらいは叩いてみせる。モリビトの執行者を信じて』
信じる、とニナイは己の中で繰り返す。信じられなかったから彩芽を失った。もうあのような喪失感は味わいたくないのだ。
「鉄菜……。許可は出します。でも約束して。……絶対に生きて帰ってくる、無茶はしないって」
自分が何を思ってこのような事を口にしたのか、鉄菜には理解出来たのだろう。
『了解した。必ず帰ってくる。それに無茶な事は仕出かさない。約束しよう』
ニナイは額に手をやる。その様子を茉莉花は観察していた。
「……おかしいでしょう? 世界の敵を名乗るのに、こんなにも弱いなんて」
「いいえ。逆に信用出来たわ。それくらいの不合理性を秘めてないと、機械と同じだもの。サンゾウ、ブルブラッドキャリアにつくわ。あなたが止めても」
『止めはしない。その御身は自由と檻なき世界のためにある』
「……あなた達のために在ったつもりは、ないんだけれどね」
茉莉花はブリッジを抜けていく。その背中に声を投げかけて、彼女は一瞥をくれた。
「言っておくけれど、少しでも油断したら寝首を掻くから。それくらいは覚悟の上で、吾を使ってよね」
指鉄砲を向けた茉莉花に自分は何も言えなくなってしまう。彼女が離れ切ってからサンゾウが口火を切った。
『……あの少女はこの世の残酷さ、不条理そのもの。ゆえに、貴殿らの下が相応しいだろう』
「あの子は何者なの?」
その問いにサンゾウが明確な答えを出す事はなかった。
『この世界が生み落とした、災厄の導き手、とでも言うべきか。いずれにせよ、滅び行く世界で縋る術は、拙僧に非ず。あのような少女の双肩にはしかし、荷が重いものもあるだろう。支えてやってくれ』
答えになってはいなかったが、サンゾウが茉莉花の事を自分の存在以上に感じているのは理解出来た。
この世界最後の中立の寄越した出会いは、少し苦味が滲むものであった。