ジンキ・エクステンドSins   作:オンドゥル大使

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♯198 2人の島

 離れ小島があっただけでも幸運だと思うべきか。あるいは、《ゴフェル》の関知領域を離れた時点で下策か。

 

《イドラオルガノン》は敵艦への強襲を仕掛けようと足掻いたが、結局、空中で展開される《モリビトシン》と敵人機の壮絶な戦いを前に何も出来なかった。

 

 援護も儘ならず、敵艦の下を撃たれないように息を殺すという醜態を演じた。

 

 蜜柑は言葉少なであったし、林檎はもっとそうだ。

 

 何かを成すためにここまで来たというのに、何も出来ないままだとは。

 

 アームレイカーに入れた手を拳に変え、林檎は歯噛みする。

 

 ただただ、無力感を噛み締めるのみ。

 

「……林檎、接近する敵影を前にして、逃亡を選んだのは何も間違いじゃないと思う」

 

「でも、その結果が……何も出来ないなんて……笑えもしない」

 

 浮上した《イドラオルガノン》が周辺を見渡す。ブルブラッド大気汚染は濃いままだ。通信も途絶した今となっては、《ゴフェル》への合流手段も限られている。

 

「エネルギー残量も少しだけまずい。ここは様子見にしよう、林檎。あまり動いても仕方ないよ」

 

 蜜柑がガンナーのスコープから視線を外し、こちらを仰ぎ見る。

 

 林檎はアームレイカーから手を離していた。

 

「……何も出来ない。ボクらは……何も」

 

「……せめて海中用人機の被害が少なかったのを祈るのみ、だね……」

 

 敵影を前にして、このような失態、自分自身が何よりも許せない。

 

 頚部コックピットを開き、林檎は《イドラオルガノン》より降り立っていた。

 

 第二世代の人造血続である自分達は汚染大気の中でもマスクと浄化装置なしで行動出来る。

 

 軽業師めいた動きで砂浜に下りた林檎に比して、蜜柑は慎重に、昇降用エレベーターに足をかけていた。

 

 いつもの事ながら、蜜柑は鈍くさい。呆れた林檎はそのまま、ブルブラッドの原生林へと入っていた。

 

 離れ小島はブルブラッド鉱石で出来た樹木と岩礁ばかり。

 

 青く光沢を放つその岩礁に林檎は腰かけていた。

 

 寄せては返す波。この世の終わりのように空を覆う虹色の皮膜。水平線は虹と青で醜く澱んでいる。

 

 潮騒を聴くたびに、林檎は胸に押し寄せてくる感情を拭えなかった。

 

 身体を折り曲げて、林檎は咽び泣く。

 

「……どうして、ボクがこんな惨めな目に遭わなくっちゃいけないんだ!」

 

 叫んだ声と共に拳を打ち下ろす。行き場のない衝動が胸の中で蠢動する。

 

 ――どうして勝てなかった? どうしてこんな失態ばかり。

 

 その念に支配された林檎はただただ、泣き喚くのみであった。

 

 さめざめと頬を濡らす涙に、ああと呻く。

 

「ボクはこんなにも……無力だったなんて」

 

 嘆いたところで何も始まるまい。だが嘆くだけの余裕もなかった。《ゴフェル》では強く振舞うしかなかったし、その前の操主選定試験ではもっとだ。

 

 一度として弱音を吐けなかった。その悔恨ばかりが去来する。

 

「ボクは……何のために……造られたんだ……」

 

 こんな惨めな存在を自覚するためなのか。旧式の血続に遅れを取る自分なんていないほうが……。

 

 そう考えた瞬間、背後に気配を覚えた。

 

「蜜柑……」

 

 振り返った林檎の視線の先にいたのは、しかし蜜柑ではない。

 

 知らない女性であった。鍛え上げられたその体躯がインナースーツで露になっている。

 

 手にあるのが銃だと認識したのは恐らくこちらのほうが随分と遅かっただろう。射線に入れられて、林檎は言葉をなくす。

 

「動くな……、お前は……もしかしてC連邦の新兵か?」

 

 違うとも言えず、相手の気迫を前に林檎は押し黙る。

 

「何とか言え! この有毒大気の中で、よくも……!」

 

 マスクなしの自分を女性は警戒しているようであった。林檎は慎重に口を開く。ここで返答をまかり間違えれば撃たれるだろう。

 

 しかし、頭の中に気の利いた台詞は浮かんでこない。こういった時のマニュアルはあったはずだが、咄嗟には役に立たないものだ。

 

 口ごもっている林檎に、相手は歩み寄って気づいたらしい。

 

「……泣いていたのか」

 

 その言葉に林檎は涙を拭う。

 

「……泣いてないっ!」

 

 必死に取り繕ったこちらに、相手は銃口を下ろす。何が起因したのか、敵兵は殺意を緩ませた。

 

「……この海域にはC連邦と……悪名高いアンヘルが作戦展開していた。ブルブラッドキャリアも……! だから、もしはぐれただけの連邦兵ならば今は逃がす。はぐれ兵を殺してまで武勲を得たいとは思わないからだ」

 

 どこか潔いその声音に林檎は唖然としていた。相手の思惑も分からないのに殺さずに捨て置くというのか。馬鹿にされているような気がして林檎はいきり立った。

 

「……何言っているんだ。敵兵は見つければ殺すのが常識だろ!」

 

 食ってかかったこちらに、相手は身を翻す。どこか涼しげなその眼差しがこちらの浮き足立った動きを嘲笑した。

 

「……このような孤島で殺し合いか? どこの国の所属かは知らないが、野蛮人の理論だ」

 

 地上の人間に嗤われるいわれはない。林檎はむきになって言い返していた。

 

「そっちだって! バカじゃないの? インナー姿で出てくるなんてさ!」

 

「この濃度のブルブラッド大気下でマスクなしの人間に言われたくもない」

 

 ぐっと言葉を詰まらせた林檎に相手は森林地帯を指差す。

 

「ここから五十メートルのところに洞穴がある。自分は本隊と合流するまでそこで駐留予定だ」

 

「……どうしてそれをボクに言う?」

 

「……さぁな。泣き顔を見た借りかもしれん」

 

「だから! 泣いてないっての!」

 

 譲らない林檎に相手は顎をしゃくった。

 

「好きにしろ。いずれにしたところで、今日中は動けないとは思うがな」

 

 歩み去っていくその背中に、林檎は駆け出しかけて手首の通信装置が起動したのを確認する。

 

「蜜柑? ……どうかした?」

 

『計測したところ、今より三十分以内に高濃度ブルブラッドの酸性雨が降ってくる。霧も濃いし、今日中は《ゴフェル》との合流は無理かも。霧が晴れてからの行動になるけれど……』

 

 林檎は呆然とする。まさか、それを読んでいたというのか。惑星の人間が?

 

 ここで《イドラオルガノン》に戻って待機、という手もある。しかし、どこかその足取りが気になっていた。

 

 敵兵ならば一人でも殺してみせる。たとえ蜜柑やモリビトの助けがなくとも、自分は第二世代血続。はぐれ兵一人殺す程度、わけはないはずだ。

 

「……蜜柑。ボクはちょっとばかし野暮用が出来た」

 

『……よくないよ、そういうの。殺したって、さっきのその人が言っていたみたいに、武勲には……』

 

「聴いていたの?」

 

 その問いかけに通信の先の蜜柑が声を詰まらせた。

 

「信じらんない! 盗み聞きなんて!」

 

『……だって、どう考えてもモリビトを捨てるのは得策じゃないもん』

 

「だからって、ボクのプライベート覗くなんて! ……いいよっ! 蜜柑なんて知らないっ!」

 

 歩み出しかけた林檎へと蜜柑が通話を繋ぐ。

 

『怒らないでよ……林檎。敵兵と二人きりで過ごそうなんて……』

 

「過ごす? バカ言わないでよ。首を取ってきてやる」

 

 そうと決めた林檎は早速行動に移していた。

 

 通信域を切ってから、ブルブラッド鉱石の針葉樹へと跳躍する。身体能力ならば確実に相手より上回れるはず。樹木を蹴って足場にし、林檎は相手の動きを観察していた。

 

 自分で言った通り、洞穴があり、そこで一晩過ごすようだ。

 

「……バカな兵士。ここで殺されるとも知らずに」

 

 林檎は手近なところにあったブルブラッドの鉱石を手に取る。先端が尖った鉱石はこれだけでも充分に凶器となった。

 

 まずは音もなく接近。その後に首を掻っ切る。

 

 なに、手はずは見えている。相手に気取られなければ何も問題はないはずだ。

 

 鉱石を握り締めた林檎は樹木を掻い潜り、相手の上方に出る樹を見据えた。あの枝を蹴れば一足飛びで肉迫出来る。

 

 計算した脳裏に林檎は枝を蹴りつけ、敵兵の上を取る。確実にその刃が首を狩った、と思ったその時には、敵兵の眼差しがこちらを捉えていた。

 

 軽く半身をかわし、相手は刃を回避する。ステップを踏んだ相手の足先が林檎の顔面を捉えかけた。

 

 咄嗟に翳した手で攻撃を受け止めるも、即座に交わされた肘打ちが林檎の背筋を打ち据えた。

 

 Rスーツが痛みを殺してくれているはずなのに、背筋にビィンと振動が伝わってくる。

 

 一瞬だけ動けなくなったこちらを相手は逃さない。拳が空気を引き裂き、林檎の頬を掻っ切っていた。

 

 離脱した林檎は頬から滴る鮮血に荒く息をつく。

 

 相手は疲弊した様子もない。どうして、と林檎は睨む眼を向ける。

 

「動きに無駄が多過ぎる。そんなのでは、相手を狩るのも時間がかかる事だろう」

 

「黙れっ! ボクの何が――!」

 

 駆け抜けた林檎が呼気を詰めて鉱石を払う。敵兵は最低限の動きのみでその攻撃をさばき、足並みが砂地を蹴って林檎の鳩尾へと放たれた。

 

 膝蹴りによろめいた林檎へとすぐさまとどめの一撃が入る。

 

 取られた、と目を瞑ったその時、痛みはいつまで経っても訪れなかった。

 

 恐る恐る目を開けると、相手は拳を眼前で寸止めしていた。

 

 腰が砕けた林檎がその場にへたり込む。

 

 相手は手を払った。

 

「勝負あったな」

 

 林檎は歯噛みする。人造血続であるこちらのほうが心肺機能も、もっと言えば全身の能力も確実に地上の人間より上のはずなのに、完全に読み負けた。その悔恨を滲ませる前に相手は身を返す。

 

「無駄な動きと、やたらと主張する殺気のせいでどこをどう狙いたいのか見え過ぎだ。相手に次手を悟らせたくなければ、見せない事だな」

 

「……敵兵の癖に」

 

「こちらもその論法は可能だが、帰結する先は見えている。さて、どうするか」

 

 洞穴の前に埋まった岩石に相手は腰かける。

 

 その手が自分の武器にしていた鉱石を引っ手繰っていた。いつの間に、と林檎は眼を戦慄かせる。

 

「自分としてはここでお前が酸性雨と濃霧に抱かれて死ぬのと見てもいい」

 

 選択肢は少ないというわけだ。林檎は暫しの逡巡の後、応じていた。

 

「……敵兵と一緒に洞穴探検なんて」

 

「嫌なら死ぬか? さすがに頑丈に出来ている身体とは言え、ブルブラッド汚染そのものへの耐性は低いだろう。血中に入ったブルブラッド汚染大気はすぐにでも部分的壊死を引き起こすぞ?」

 

 引っ掻かれた頬を思い返し、林檎はさぁっと血の気が引いていくのを感じていた。

 

 無論、その程度で人造血続が死ぬはずがない。

 

 だが、よりによって顔を、ブルブラッド大気で汚染されると言われてしまえば恐怖が勝っていた。

 

 相手は得心したように頷く。

 

「医療用キットはある。その方にはないようだが」

 

《イドラオルガノン》に今からでも戻るか、と考えたが、目の前の相手から逃げ出すようでそれは出来なかった。

 

 ここでは相手の言うままに従うしかない。

 

 それがどれほどまでに不本意でも。

 

「……洞穴って言うのは、二人分くらいは」

 

「容易いはずだ。最初から素直になればいいものを。ついて来い」

 

 マスクを白く曇らせながら、敵兵が洞穴を案内する。林檎は敵の装備を今一度仔細に見つめ直した。

 

 インナー服はどこのものとも分からない。マスク形状も世界基準のものだ。現状、先ほどの発言からC連邦の兵士ではない事くらいしか明瞭ではない。

 

「……そちらの服装、見ないものだな。連邦の標準採用操主服か?」

 

 追及すれば面倒そうだ。林檎は、まぁね、と促しておく。

 

「今時の操主服はバリヤーの効果もあるのか……。マスクなしでその動きなど」

 

 どうやら相手はこちらのRスーツが特別な結界を張っているとでも思い込んでいるようだ。言及するとややこしくなるので、林檎は黙っておく。

 

 洞穴は奥まで続いており、湿った空気に白く輝く息が漏れた。

 

「寒くもないのに……」

 

「知らなかったのか? 高濃度のブルブラッド大気下では呼気は白くなる。温度は高いはずなのにな。まるで逆の現象が起こるんだ」

 

「……詳しいんだね」

 

「極地戦闘マニュアルには目を通してある。だが、自分も初めてだ。ここまでの高濃度となれば訓練通りにはいかないかもしれない」

 

「訓練、ね。見たところ、軍人……それも操主みたいだけれど」

 

「軍籍を名乗らないのが、ここでは流儀だろう。呼びにくければ名前程度は明かしてもいい」

 

 どうして相手のほうがこちらを見下しているのだろう。優位なのは自分のはずだ。

 

「ボクは林檎。林檎・ミキタカ」

 

 初めに名乗る事で優位を取ったつもりであった。しかし相手は事もなさげに言い放つ。

 

「そうか。林檎、だが敵を前にして名乗ればでは、殺しにくくなるかと言えばそうでもない」

 

 その手にある鉱石に林檎は怖気が走る。まさか、と身構えた身体に相手はフッと笑みを浮かべる。

 

「冗談だ」

 

 どこまでが冗談なのか判ぜられないまま、林檎は相手の野営地に辿り着いていた。相手は洞穴の深部にテントを張っており、コンロや緊急用の備蓄食料が既に完備されていた。

 

「……遭難兵なの?」

 

「話せば長くなるが……自分は艦から出撃停止命令を無視して敵を追撃し、その末に人機の推力が落ちたのを確認してここで休息を取る事にした。ちょうど大規模な戦闘があったようだったからな。その流れ弾に当たらないように、という意味も込めて早めの野営をこしらえていたら、砂浜の影に出くわしたわけだ」

 

 それが自分だったというのはとてつもなく間抜けに思えた。林檎はふんと鼻を鳴らす。

 

「放っておけばよかったのに」

 

「そうもいかない。敵兵は殺せという鉄則だ。だが……その敵が未熟となれば話は変ってくる」

 

「殺そうとしたのに?」

 

「……それも込みで未熟ならば」

 

 どう言い繕ってもこちらの落ち度は消せそうにない。林檎はその場に座り込んだ。相手が救急キットから絆創膏を取り出す。

 

「運がいいな。まだ壊死は始まっていない」

 

 貼られた絆創膏より消毒液が滲み出てくる。その痛みに林檎はきつく目を瞑った。

 

「おかしな兵士だ。殺し合いには慣れている様子なのに、どことなくぎこちない。……C連邦の兵士の熟練度じゃないな」

 

「そっちだって。連邦兵なら先の戦闘で割りを食うからってここなんかを選んだりしないはず。……他国の兵士なら、何だってこんな場所まで来たのさ」

 

 その問いかけに相手はコンロを点けつつ応じていた。コンロの火は白くたゆたっている。

 

「……とある因縁でな。艦隊が大打撃を受けた。その人機を追う事を、自分は許されていなかった。自分とその中央艦にいる兵士は別物だと。だが……そのような事で割り切れるはずもない。別物だというのならば、果敢に向かって散っていった兵士の命は意味がない代物だとでも? そのような論法、反吐が出るだけだ」

 

 どことなく反骨精神が見え隠れする兵士であった。そこまで思い詰めて、まさかC連邦の真っ只中の海域まで追跡してきたというのか。

 

「それ、どうかしている。だって兵士にはそれぞれの役割があるはず。キミが、死ぬべきじゃないって判断したのならば、その時点で選定は行われているんだ。この世は残酷だからさ。選ばれる時はすぐ、だよ。ふるいにかけられている」

 

 第二世代の血続選定の時を思い返しながら放った言葉に、相手は沈痛に面を伏せていた。

 

「……それでも、自分が散っていった彼らに報いる事が出来るのか、と言えば不安になるものだ」

 

 敵兵がマスクを外す。そういえば、と林檎は鼻を利かせた。この場所は少しばかりブルブラッド大気汚染が薄い。

 

「汚染濃度ギリギリ上限を下回った。あまりに使い過ぎればいざという時にどうしようもなくなる。自分の体力を信じるしかない時もある」

 

「それこそ、野蛮人の理論じゃん」

 

 マスクを外した相手のかんばせは麗しい女性というよりも、猛々しい青年のそれに近かった。

 

 目つきは涼しげでありながら、顔全体はシャープな印象を受ける。もしインナー姿でなければ男と見間違えていたかもしれない。

 

「……かもな。自分でもどうしようもし難いのさ。この世で生きていくのならば」

 

「あのさ、コンロの火、何で白いの?」

 

 問いかけた林檎に相手は一瞥をくれる。

 

「これも逆転現象の一つ。ブルブラッド汚染下では火は白くなる」

 

「でも、ミサイルとか爆風とかは白くならないじゃん」

 

「知らん。自分は学者ではない」

 

「……何さ。知ったかぶっちゃって」

 

 膝を立てて座り込んだ相手の相貌が白い明かりに照らされて妖艶に映る。男でも女でもないような気がした。

 

「お前は……何で泣いていた?」

 

 蒸し返されて林檎はむすっと頬を膨らませる。

 

「答えたくない」

 

「そうか。腹は減らないか?」

 

 その問いには腹の虫がきゅぅと応じていた。赤面する林檎に相手は携行食を投げる。

 

「正直なのは腹だけか」

 

「悪かったね」

 

 スティック型の携行食を頬張りつつ、林檎は洞穴の天上を仰ぎ見ていた。てらてらと湿った岩壁に、何百年の営みを感じさせる鍾乳洞。

 

「ここってさ……、何百年くらいこんな感じなんだろ」

 

 惑星に降りてからずっとこの方、《イドラオルガノン》に乗りっ放しである。他の場所に訪れる余裕などなかった。

 

「さぁな。だが我々が原罪を冒す前からなのは確実だろう」

 

 百五十年前の事を言っているのか。あれは人為的な事故だったとブルブラッドキャリアでは結論付けられていた。

 

「ねぇ、そういうのってさ。別に人間全部で背負う必要あるのかな……。だって、そんなの一部の奴らがやったツケじゃん」

 

「ツケ、か。だがそのツケを払わされるのが後の世の人間だ。ならばここで手打ちにしたいと思うのは、いけない事か?」

 

 いけないわけではない。だが、そこまでしてツケを払う必要性も感じないだけだった。自分は惑星に降りた思い出が戦いしかない。

 

 ずっと資源衛星で育ってきた。だからこそ、地上の価値観は分からない。

 

 どうして人々はこんな虹の皮膜の星をすぐに出ていなかったのか。どうして、もっと深刻になる前に手段を取ろうとしなかったのか。何もかも手遅れになってから、では償おうというのは筋違いも甚だしいのではないか。

 

「……分かんないな。だって、もっと賢い大人って居なかったのかなってさ」

 

「賢い大人は居たはずだ。だが賢い大人が、では導き手になりうるかと言えばそうではないのだろう。賢ければ、誰もが従うかという話に直結しないのと同じだ」

 

「ヒトは争う生き物だからね」

 

 きっと下らない事で争っている間に何もかもが手遅れになってしまったに違いない。この星ももう腐り落ちる前の果実なのだ。

 

 いつ誰が、その判断を下してもおかしくはない。誰もが保留にしようとしているその決断を誰が下すのか。

 

 その判定者こそがブルブラッドキャリアなのだと思っていた。

 

 熟し切る前に、果実を剪定する。それが自分達の役目なのだと。

 

 しかし、そのような大局、所詮は隠れ蓑の言い訳に過ぎない。

 

 どれほどまでに理想を高く掲げたところで、狩り取る手段を持つのは一握りなのだ。それを鉄菜との差で痛いほどに分かった。

自分達はスペック上の数値を見ていたに過ぎない。数値で測れない事が多過ぎて、林檎の頭の中はパンクしそうだった。

 

「……難しい事を考えているな。顔に似合わないぞ、サル顔」

 

 気にしていた事を言われ、林檎はむかっ腹が立った。

 

「むっ! それ、言っちゃいけない事だね、ボクには!」

 

「ではどうするか。先ほどから聞こえてくるだろう? 雨はもう降り始めている。外には出れないぞ」

 

 分かっていて言ったのだろうか。そう考えると林檎は馬鹿正直に向き合っているのも嫌になった。

 

「……男女」

 

「言われ慣れている」

 

 その一言でこちらの攻勢を削いだ相手に林檎は先ほどからペースを崩されっ放しであった。新たに相手は道具を出す。ランタンが点き、より一層、洞窟内を照らし出した。

 

 その瞬間、林檎の視界に大写しになったのは不気味なほどに真っ青に染まった岩肌であった。

 

 どれもこれも、生き物の気配一つない。

 

 虫けらでも飛んでいればまだマシだ。何の気配もない。生物の吐息を完全に潰し切った静寂の岩壁ばかりであった。

 

「……本当に、生き物は絶滅したんだ」

 

「外に出てそれを実感する兵が多いと聞く。コミューンの中ではまだ虫も、小動物も生きているからな。だが、百五十年前の環境を取り戻すのにはまだ足りないのだと言う。まだまだ、この星は棲めぬ領域だ。ヒトだけがこうして人機という鋼鉄の鎧を着て闊歩するのは、ともすれば間違っているのかもしれないな」

 

「学者じゃないって言ったじゃん」

 

「ああ。兵士の一意見だ。参考にする必要はない」

 

 コンロで沸かしているのはコーヒーであろう。芳しい香りが洞窟に充満する。

 

「……ここってさ。果ての果てなのかもね。生き物の辿り着く……」

 

 どうして自分でもそのような言葉が出たのかは分からない。分からないが、この星が重罪を抱えつつ流転しているのは窺えた。

 

「だとすれば、この場所は輪廻の果て。地獄絵図だろうな。一歩でも外に出れば汚染の染み渡った酸性雨と濃霧、それに紺碧の暗夜。……どれほどまでに悪逆を積めば、このような場所に堕とされるのだろうな」

 

 それこそ、人類全体のツケの事を彼女は言っているのだろうか。その答えだけが保留のまま、沸点に達したコーヒーを相手はカップに注ぐ。

 

 手渡されて、ハッと林檎は硬直した。

 

「何だ?」

 

「……毒入りかも」

 

「では自分が先に飲む」

 

 迷わず飲んでみせた相手に林檎はどこかむきになって沸騰した器に手を伸ばした。

 

「おい、危な――」

 

「熱っ!」

 

 指先が触れただけで器が倒れ、コーヒーが砂を濡らしていく。黒々とした液体から湯気が漂うのを林檎は放心したように眺めていた。

 

「……また沸かし直しか」

 

「……ゴメン。ボク……」

 

「いい。信用出来ないのは当たり前だ」

 

 それでも相手はどこか信用していたからコーヒーを差し出してくれたのではないか。そう慮った林檎に相手は無口であった。

 

 携行食を食べ切って再びコンロを点ける。暫し、気まずい沈黙が流れた。

 

 相手がどうしてだかテントに入らないのを、林檎は訝しげに見やる。

 

「……休みなよ。ボクが見ているから」

 

「そうはいかない。火は熾したものの責任だ。それを全うする」

 

 火は熾したものの責任。その言葉が重く沈殿する。

 

 この戦火は果たして惑星か、それともブルブラッドキャリアか。どっちが始めた戦いだとはもう言えなかった。

 

 ただ互いに譲れない領域まで来てしまったのだけは確かな様子だ。

 

「火と言うものを見ている時折、考える事がある。人機で戦って、相手と鍔迫り合いを繰り広げて起こす火も、間違いなくこれと同じもののはずなのに、どうしてこちらは……純粋な目で見られるのだろう。大きいか小さいかだけの差だ。そこに、善悪を介入させる余地はないはずなのに」

 

 その火に線引きを与えるのが人なのだろう。これは自分達のための火。これは相手を葬るための火。

 

 違いなんてどっちにもありはしない。ただ都合のいいほうに傾けているだけだ。

 

「……ボクも、こうやって落ち着いて火を見るのは初めてかもしれない。ずっと、どっちかの火ばっかり見てきたから。自分達のための火なのか。誰かのための火なのかって」

 

「答えは出るか?」

 

 林檎は黙って頭を振る。相手も同じ答えのようだった。

 

「そうだな。そう容易く答えが出れば……何百年も人は争い合っていないだろう」

 

 この火に意味を見出すのは勝手だ。だが答えなんて傲慢が過ぎる。

 

 そんな不確かなものを争い合って、何百年も平行線など。

 

「キミは? なんていう名前なのさ」

 

「聞いてどうなる? 明日にはともすれば敵同士になる身分だ」

 

 かもしれない。だが、それでも他人に名前を聞くのは生まれて初めてのことだった。

 

「……名前を知らない人間ばっかりだったからさ。妹以外、まともに名前知っている大人なんて、片手で数えるほどしかいないや」

 

 自嘲気味に口にしたのを、相手はどう思ったのだろう。

 

 淡白に、それを告げていた。

 

「……レジーナだ」

 

「レジーナ? それがキミの?」

 

「ああ。男でも女でもないような人間にはお似合いの名前さ」

 

 そうとは思わなかった。素敵な名前だ、と口にしようとして、あまりにもくさいとやはり口を噤んだ。

 

「人機に乗れば、相手の顔なんて見えない」

 

「撃てばいいだけだからな」

 

「でも、それって思考停止なんじゃないかって、今考えてる」

 

「そうでもないだろう。どの新兵でも叩き込まれる事だ。相手の家族も、相手の背景も、何も考える必要はない。引き金を絞ればいいだけだ。それだけのシンプルな帰結に集約される」

 

 それが戦場。それが自分達の合い争う理由。理解出来ていても、どうしてここまで虚しいのだろう。

 

 銃弾を撃ち込むためだけに、この指はあるはずじゃないのに。

 

 掌を見やっていた林檎にレジーナは口にする。

 

「深くは考えるな。兵士の役目はいつだって、そういったロジックとはかけ離れた場所にある。ロジックは暇潰しの道具にはもってこいだが、それを戦場に持ち込めば自滅する。誰もが分かっていて答えを出さないのは、それが自分の命の導線に繋がっているのだと、理解しているからだ」

 

 だとすれば、と林檎は自然と口走っていた。

 

「……大人ってズルイ」

 

「かもしれないな」

 

 コンロの火をずっと見ていると、林檎はこれまでの日々が回顧されていくようであった。

 

 戦いに明け暮れ、何もかもが試練だと割り切ったこれまで。地上に降りてもその役目は敵陣への突っ切る事に集約される。

 

 相手を倒す事のみを考えればいいのだろうか。

 

 桃も、蜜柑も……ニナイ達大人も、それを期待しているのだろうか。

 

 鉄菜は、そうではないような気がしていた。だから気に食わないのかもしれない。だから、どこかで分かり合えないのだと思い込んでいるのかもしれなかった。

 

 自分にないものを持っているから。自分にない眼差しで、世界を見ているから。

 

「……多分、でもこの世界をどうこう出来る奴っていうのは、大人ってズルイなんて、言わないんだと思う」

 

「同感だな。他人の狡さや割を食う事を考えるよりもまず、自分のするべき事を全うする。それしか頭にないような人間が、実のところ世界には相応しいのかもしれない」

 

 自分は、と考えかけてカップが差し出された。

 

 鼻腔を突き抜ける甘ったるい香りのコーヒーに、今度は自然と受け取っていた。

 

「コーヒーだけは裏切らない。特定の湿度、特定の沸点、特定の温度調節でのみ抽出される味はこの世で一番に信用出来る。鉛弾よりも」

 

 その言葉振りを聞きつつ、林檎は口をつけていた。思っていたよりも熱く、舌を出してしまう。

 

「……苦いね」

 

「そういうものなのだろう」

 

 レジーナもコーヒーを呷る。二人して呆けたように天上へと視線を吸い込ませていた。

 

「きっと、こういうほうがいいんだろうな。虹色なんて言う、まやかしの色よりかは」

 

 それがどれほどまでに汚れた証でも、まやかしを見せ付けられるよりかはマシなのかもしれない。

 

「かもね。でも、ボクらはまやかしに生きるしかない」

 

 そうだとも。この瞬間だってまやかしだ。自分とレジーナは人機に乗れば敵同士。銃口を突きつけあうのがどれほど虚しいのか語っても、あるいはお互いの境遇をどれほど知ったところで、きっと戦場で意味を成すのは単純な答えなのだろう。

 

 相手を撃つか、撃たれるか。

 

 そんな意味を見出すために、自分は生まれてきた。ほとんどの地上の人間はどうだか知らないが、自分に限っては確かにそうだ。この世に生れ落ちたのは、相手を倒すために。地上へと報復の刃を向けるためだけに。

 

 そう思い切っていた。思い込んでいた。

 

 誰かを殺せばそれが功績になると。葬った数だけ誉れなのだと。

 

 しかし地上に棲む人間がもしレジーナのようであるのならば。

 

 自分は少しばかり引き金を躊躇するかもしれない。撃つ代わりに話し合おうとでも、酔狂に言い出すかもしれない。

 

 そんな邂逅を約束してもいいくらいのコーヒーの味だった。そんなもしもを仮定してもいいくらいの、酸性雨の夜だった。

 

 雨脚が強まってくる。洞穴の中はいやに涼しげで、この世界がこんな小さな穴の中に集約されたかのようだ。

 

 この場所だけが世界で、あとは全部、悪い夢であったかのよう。

 

「……戦場に戻ったって」

 

 だからかそんな言葉が口をついて出る。レジーナはきっと、それも残酷な世界の側面だと言うはずだ。そう予感して入ると彼女はその言葉に同調した。

 

「そうだな。戦場に戻ったって、そこには憎しみと怨嗟があるだけ。こんな静かな夜は、もう期待出来ないだろう」

 

 雨音が染み渡る闇夜。戦場の足音はいやでも聞こえてくるのに、それでもこの瞬間だけは目を逸らしてもいいのではないかとお互いに感じていた。今はただ雨音だけで。

 

 それだけでいいのならば、どれほどまでに楽だろうか。

 

 生きていく事も。殺し合わずに済む事も。何もかも、落ちてきた凶星である自分には叶わない。

 

 ここで禍根の芽を摘む事も不可能ではないが、その気はもう失せていた。

 

 火を見つめたままのレジーナに林檎は尋ねる。

 

「ねぇ、もし……この島を去る時、お互いに人機を見ないのはどう?」

 

「それは敵同士である事を知らないためか」

 

 一番いいだろうと思えたのだ。自分はブルブラッドキャリアの人造血続。殺し殺されの世界でしか生きていけない。ならば、この眼前の人間とだけでも、殺し合わない誓い程度なら、まだ赦されるのではないかと。

 

 しかしレジーナは首を横に振った。

 

「駄目だな。自分達は次に会えば殺し合わなければならない。敵国であるのならばなおさらだ。目を背けて生きていく事は簡単だ。だが、ほとんどの場合、意図的に見ないようにしてきた事柄にはそれなりのツケがついて回る。ブルブラッド汚染も、この星の未来も。見ないようにしてきたから、払わされる事にも気づけない。……愚かなのは人の業以上に、見たいものしか見ないという身勝手だ」

 

「でもさ! ダメなの? 見たいものだけ見ちゃ……!」

 

 見たいものだけに目を向けて、見たくないものからは目を背けて生きるのは許されないのだろうか。林檎の問いかけにレジーナは嘆息をつく。

 

「……戦士ならば、そのようなやり方は不覚悟もいいところ。人の命を奪う事をもう自分の人生の勘定に入れているのならば、見ないようにする、などというのは既に許されるはずもない。殺してきた者達に失礼だ」

 

 自分は、もうとっくに汚れた手でその覚悟を手放そうとしていた。もう血に濡れているのに。これ以上、汚れたくないからと言って身勝手な物言いに違いない。

 

「……ボクは」

 

「深くは考えるな。どうせ、ロジックと本能は噛み合わない。それは、分かり切っている事だからだ」

 

「……ボクも、眠くなるまで火を見ているよ」

 

「いい。テントで休め」

 

「いや、ボクも見ておく」

 

 きっと、今は同じ火を見つめる事しか出来ない。そうする事でしか、自己を正当化出来ないほどに、自分達は桁違いの罪を抱えている。

 

 レジーナも自分も等しく罪人だ。

 

 殺してきたから、その言い訳をするつもりがない彼女のほうがまだ潔い。

 

 そうだ。殺してきた。何の迷いもなく、その遂行任務こそが自分の存在理由だと。

 

 領分を侵されたから、鉄菜を憎んでいただけなのだろうか。それはお門違いだというのに。

 

 自分の意志で殺してきたくせに、いざ自分が使い物にならないとなれば、言い訳ばかり並べ立てる。

 

 子供のような理屈で、誰かを傷つけ自分も傷つけていく。

 

 いつまで経っても――度し難いほどに愚か者。

 

 だから、戦い抜くしかないと思っていた。しかし、《ゴフェル》に銃口を向けた手前、そう容易くも帰れない。

 

「林檎、火とは大義だ」

 

 語り聞かせるレジーナはその双眸に寂しさを浮かべる。

 

「大義……?」

 

「大義の炎に投げ込まれた薪は燃え尽くすのみ。我々は薪なんだ。どこまでも炎を延焼させる事しか出来ない、何の力も持たない燃料。それが人間だ。だが大義のためならば、人はどこまででも炎を大きく出来る。それが星を覆うものになったとしても」

 

 その大義の炎が、世界とブルブラッドキャリアの間に横たわるものだというのか。誰かの投げ込んだ薪が、大義の炎で惑星の人々との協調を拒絶する。

 

 自分が薪なのか、それとも炎を燃やす側なのか、まるで分からなかった。

 

「……戦う事になったら、嫌だね」

 

「ああ。嫌だな。だが、それでも戦うからこそ、兵士なのだろう。嫌だと言う理屈で外れていいのは戦士ではない。それならばただの女であればいい。しかし、自分達は人機という鋼鉄の虚無を動かす事に人生を捧げる戦士だ。ならば、もう帰り道は見えなくてもいいのだろう」

 

 たとえ一方通行なだけの矢でも、自分達はもう引き絞られている。標的に命中するか、それとも空を穿つかだけの違い。

 

 そんな瑣末な違いで争い合う。

 

 林檎はコンロの火を眺め続けていた。

 

 この火が消えぬうちは、まだこのような静かな時間が続いてもいいような約束手形のような気がして、意識が落ちるまで目に焼き付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……林檎、林檎……』

 

 漏れ聞こえた通信にハッと目を覚ます。眼前にコンロはなかった。それどころかテントもレジーナがいた痕跡もない。

 

 幻だったのか、と口にしかけて、地面に置かれている携行食糧の袋が視線に入った。掴み上げると裏側には乱雑な文字が記されている。

 

「……レジーナ。行っちゃったのか。でも……」

 

 書かれているのは軍用のボールペンで刻まれたであろう文字であった。小さく、整った書体で「戦場以外で会える時を望む」と書かれている。

 

『林檎ってば……。通信が途絶してもう六時間以上! 《ゴフェル》がこっちを見つけたみたいだから、移動を開始するよ』

 

 蜜柑の声に林檎は携行食糧を手に洞穴を抜け、砂浜を駆けていった。

 

 水平線の向こう側で《ゴフェル》の甲板が朝陽に煌く。

 

 ぎゅっと握り締めた携行食糧を今一度目にする前に、移動してきた蜜柑の《イドラオルガノン》が樹林を潜ってくる。

 

『林檎! 早く戻らないと。そりゃ、不満はあるかもしれないけれど……』

 

 蜜柑は自分が戻るのをまだ渋ると考えているのだろう。林檎は素直に《イドラオルガノン》のマニピュレーターに掴まった。

 

 そのまま頚部コックピットハッチに至り、ウィザードの操縦席に座る。

 

「もうっ! こういうのはなしにしてよ……、心配したんだから。敵兵と話し込むなんて……!」

 

 蜜柑の苦言を聞き流しつつ、林檎は暗号通信がもたらされている事に気づいていた。蜜柑に見えない位置で暗号を解く。

 

 暗号に使用されているパスコードは携行食糧の末尾に記されているものと同じであった。

 

 番号は「0422」。昨日の日付である。

 

 参照機体データが浮かび上がった。

 

「《バーゴイルフェネクス》。操主、レジーナ・シーア」と記録されていた。自分にしか読む事の出来ない、レジーナの足跡である。

 

 林檎は参照アドレスに暗号メールを送った。

 

「……何してるの? 妙に静かだけれど」

 

「いや、何でも。戻ろうか、蜜柑」

 

「う、うん……。何だか昨日の事が嘘みたいだね。敵兵と会敵した事は……」

 

「報告はするよ」

 

 だがレジーナとの誓いまでは話すまい。昨夜の事は自分達だけの秘密だ。

 

 決して誰にも脅かされる事のない静謐に包まれた夜。罪の只中にあっても、ヒトはこうして、分かり合ったようになれる。

 

 人造血続であっても、それは関係のない事なのであろう。

 

 ある意味では、鉄菜が瑞葉に入れ込むような意味も分かった。

 

「……こうやって、あの旧式……いや、鉄菜は変わっていったのか」

 

「林檎……? 《イドラオルガノン》を出すよ?」

 

「うん。出してくれ」

 

《イドラオルガノン》が海中に移行し、《ゴフェル》へと帰投軌道に入った。

 

 ――きっとこの夜の事を、自分は一生忘れないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『暗号通信です。中尉に、ですよ』

 

 迎えに来た同じ隊の《フェネクス》が関知したそのメールを、レジーナは開いていた。

 

 パスコードは自分が設定したのと同じ。林檎と出会った日、昨日の夜の日付――。

 

「《モリビトイドラオルガノン》。林檎・ミキタカ」の文字列にレジーナは暫し、沈黙を挟んだ。

 

 相手は義を通してきた。ならば自分も……。

 

『どうなさいましたか? 中尉。艦隊司令部に戻れば報告をしなければならないのは分かりますが……』

 

 そうだ、兵士ならばこのメールの中身を上官に報告せねばならないだろう。

 

 世界の敵、モリビトの足跡。

 

 しかしレジーナは、そのメールを機密ファイル扱いに設定し、《フェネクス》の中に隠した。

 

 自分だけ知ればいい。彼女との夜は、得がたいものであった。ゾル国に「男」として所属しているこの身では、同性との会話など。

 

 レジーナは操主服の気密を確かめ、返答の声を吹き込む。

 

「いや、何でもない。レジーナ・シーア。帰投する」

 

 空を駆けていく黄金の《フェネクス》の軌跡が、自分の思いを物語っていた。

 

 虹のまやかしの中で、自分達は出会ったのだ。それがほとんど間違いであったとしても、これから先の戦いにおいての覚悟には必要であった。

 

 通信を遮断し、レジーナは静かに言いやる。

 

「林檎……、出来るのならば戦場以外で会いたいと思った。その気持ちに、嘘はなかったんだ」

 

 それでも、相手がモリビトならば仕方あるまい。

 

 自分はゾル国最後の要――不死鳥戦列の隊長である。

 

《フェネクス》が墜ちる時はゾル国崩落の時だ。

 

 そうと決めたレジーナの声音にもう、迷いはなかった。

 

「自分は……不死鳥の人機乗りだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰投コードが入力されたのを確認し、ニナイは《ビッグナナツー》の甲板に降り立っていた。

 

 二機のモリビトの警護はあっても、それでも物々しい空気には変わるまい。相手方は三十機近い人機の編成。物量で押し負ければこの海域で地獄に落ちるのみ。

 

 それでも、一両日経ってラヴァーズを名乗る組織からの敵対信号はなかった。

 

 それどころか、こちらの補給を易々と受け入れた相手の懐の深さに、警戒心を覚えたほどだ。

 

『……聞こえているか。ニナイ』

 

 耳にはめ込まれたゴロウへの直通にニナイは首肯する。

 

「聞こえているわよ。にしたところで、やっぱり……どこか気圧されるわね」

 

 人機ばかりが並び立つ異様な光景。甲板上に位置するナナツー警護隊は銃火器を仕舞い込み、三叉の槍を構えていた。そのままナナツーの機体を心持ち傾斜させて、頭を垂れている。

 

 まるで敬謙な信徒のように。

 

 ――否、実際に彼らは信徒なのだろう。

 

 ラヴァーズという組織を信奉する者達。最奥に位置する金色の機体が、こちらを睥睨していた。

 

 世界最後の中立。データとしては存在していたがほとんど眉唾物であった。しかし、実在の証明がこれほどまでに圧倒的だとは思いもしない。

 

《ビッグナナツー》の艦橋の前で《ダグラーガ》が頭部コックピットを明け放っている。

 

 信徒達からしてみれば、「あり得ない」光景だそうだ。操主の姿を一切見せず、この組織は成り立っていたというのか。

 

 その不確かさに怖気を覚えるより先に、曝け出された操主の姿を目にしたニナイは硬直していた。

 

 背筋に埋め込まれた循環パイプ。首から提げた数珠。僧衣を纏っているが、全身これ武器とでも言うように、彼の身体には一つとしてまともなものは見受けられなかった。

 

 どれもこれも、異様な存在感だ。

 

『……失礼。拙僧は人機からは降りられなくってな。無礼を詫びたい』

 

「……いいえ、大丈夫です。こちらも、モリビトの操主は見せていません。おあいこのようなものです」

 

 笑みを浮かべた僧兵は《ダグラーガ》を傾斜させる。驚くべき事にその操縦方法はどの国でも廃棄されているはずのマニュアルであった。

 

 二十を超える物理操縦桿に、三十を超える機体補佐の機構。どれもこれもが、この人機がこの世に在らざる存在であると告げている。

 

《ダグラーガ》から身体を持ち上げた相手がすっと手を差し出してきた。

 

 僧兵は傅くように名乗った。その唇が紡ぎ出したとは思えないほどに、硬質な声音で。

 

「サンゾウと申し上げる。この世を見つめ続けてきた俗物の名前に過ぎないが」

 

 それでも、世界最後の中立の名前には違いない。

 

 他の人機乗り達も恐らくは今も今まで知らなかったであろうラヴァーズの頭目の名前に、ニナイは差し出された手を見つめ返すのみであった。

 

 サンゾウは首を傾げる。

 

「おや……宇宙ではこの流儀は違ったかな? ブルブラッドキャリアの諸君」

 

「いえ……とても紳士的だと。ニナイです。《ゴフェル》の艦長を務めています。地上に降りたブルブラッドキャリアの、責任者も」

 

 握り返した手は人間とは思えないほど冷たかった。

 

「ニナイ女史。我々ラヴァーズはブルブラッドキャリアを……歓迎する。そして願わくは我が大願の成就、その手伝いをしていただけると助かる」

 

 ラヴァーズが何を目的にして自分達に近づくのか、どうしてアンヘルからこちらを援護したのか。

 

 謎のままに事態だけが転がっていく。

 

 少なくとも何の考えもなしに協力したわけではないのだろう。

 

 三十機近い人機が見守る中、ニナイはこの時ほど笑みが引きつった時はないと思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第十章了

 


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