陸路を行く《ナインライヴス》が収容されたのは施設強襲より三時間後の事であった。完全にC連邦部隊を撒いた事を確認し、ようやく《ナインライヴス》が《ゴフェル》との合流地点で信号を発する。
海面より浮かび上がった《ゴフェル》の甲板に《ナインライヴス》が飛び移った。
「確か……クロもここで収容されるはず……」
空を仰いでいると紺碧の雲間を裂いて《モリビトシン》が降下してきた。
ゆっくりと降り立った《モリビトシン》と《ナインライヴス》がカタパルトより艦の整備デッキへと誘導される。
「随分と疲弊していますね。《ナインライヴス》」
すぐに取り付いた整備士がミネラルウォーターを手渡しつつ、《ナインライヴス》の整備状況を伝える。
「まぁね。コスモブルブラッドエンジンの出力じゃ、何回も自律行動は出来ないから」
「それでも、よくやっていますよ、この機体も、桃さんも」
浮いた汗の玉をタオルで拭いつつ、桃は重力の投網にかかった艦内で鉄菜を呼び止める。
鉄菜は見た事もない灰色の髪の女を連れていた。
「それが、例の?」
「ああ。ミズハ、だ」
ミズハと呼ばれた女性は周囲をおっかなびっくりに見渡している。これがかつてのブルーガーデンの強化兵だとは言われなければ気づかないであろう。
「その、桃・リップバーンです。よろしく」
手を差し出すと、ミズハは逡巡しつつも握り返してきた。
「瑞葉……です。瑞々しいの瑞に、葉っぱの葉で……」
「ああ、漢字なんだ? じゃあモモやクロと同じですね」
「クロ……?」
小首を傾げた瑞葉に鉄菜は説明する。
「私の愛称だ。そう呼ぶのは桃だけだがな」
「じゃあ、わたしはなんて呼べば……」
「何でもいい。元々なんと呼ばれようと反応出来る」
「じゃあ、クロナで……今まで通りに」
「ああ。こっちもミズハ、と呼ぶ」
どこか物々しい空気に桃は何かあったのだろうかと二人を窺う。
「その……この艦はブルブラッドキャリアの強襲揚陸艦なんです。クロ、案内出来る?」
「構わないが、《モリビトシン》の稼働率は」
「モモが見ておくから。クロはほとんど連戦でしょう? 休むといいよ」
「……ではお言葉に甘えさせてもらおう。それに、いずれにしたところで、ニナイに許可は得なければならないだろうからな」
瑞葉は余所者だ。だからこそニナイには会わなければならないだろう。歩み去っていく二人の背中を凝視していると、整備士が声を振りかけてきた。
「嫉妬ですか?」
「ばか。そんなんじゃないって。……でも、不思議な縁よね。ブルーガーデンの、ただの兵力に過ぎなかった人が今、普通の人間みたいに振る舞っているのって」
ブルーガーデン兵は人間らしさが完全に欠如していると聞いていたが、あれはほとんど常人だ。どこがむしろ間違いなのか分からないほどの。
「きっとあの瑞葉っていう人も随分と苦労したんでしょう。鉄菜さんと同じように」
「クロは……不器用だから。ちょっとずつ歩み寄れればいいんだけれどね」
「《モリビトシン》の稼動結果出ます。モニターしてください」
端末を手に取ると《モリビトシン》の稼働率が読み込まれていく。液体栄養剤を飲みながら、桃は概算される数値に驚愕した。
「……すごいわね、これ。だって、純粋に言っても《ノエルカルテット》より……」
「ええ、五倍以上のパワーゲインです。凄まじいですよ。これでもまだ安定領域ではないんですから」
出力、機動力共に高水準だが、どこかに不安定要素を抱えているようであった。出力値のグラフが急に落ち込んでいる。
「これは? 何でこんなに落ちているの?」
「理由は皆目……、ただ、やっぱりトリニティブルブラッドシステムの弊害と言うべきでしょうか。どこかで三基の血塊炉が同調し損ねている感覚ですね。三基ともの主張が激しいんですよ」
「どれも一端のモリビトの血塊炉……そりゃ補助に回れって言うのが無理な話か……」
むしろ空中分解せずにここまで機動しているのが奇跡なほどだ。桃はグラフを眺めつつ、《モリビトシン》の相貌を見据える。三つのアイサイトを持つ赤と銀の機体は罪を直視するのに充分な性能を持つ反面、その本質をまだ自分達には見せていない。
「どれほどだっていうの……《モリビトシン》っていう人機は」
「今、タキザワ技術主任を呼んできます。《モリビトシン》に関して言えば、あの人が一番でしょうから」
結局、タキザワに頼るしかないのか。桃は《ナインライヴス》のピンク色の装甲を撫でる。愛機は充分に馴染んでくれているが、やはり問題となってくるのが出力面と性能面。これまで純正の血塊炉を使っていたのを、宇宙産に切り替えたのはやはり功罪として大きい。
「《ナインライヴス》……お願いだから耐えてね。モモだって、もっと強くならないといけないんだから」
「コスモブルブラッドエンジンは地上の過負荷に耐えられるかどうか、ってところですかね。宇宙で産出されたものは、やっぱり宇宙じゃないと使えないんでしょうか……」
そうだとすれば現状、ブルブラッドキャリアに残された戦力では世界に立ち向かえない事になってしまう。それではあまりにも虚しい。
「……でもモモ達は、強くあらなければならないの。それがたとえ間違った道でも」
違えたのならば、こちらは補給の線を捨ててでも戦い抜くしかない。戦い抜いて、己を示す事でしか、未来に繋げないのだ。
沈痛に面を伏せた桃へと声がかけられる。
「……また難しい事を考えているね」
タキザワがゴロウを抱いてこちらに歩み出ていた。桃は早速切り出す。
「《ナインライヴス》の出力値……もう少しどうにかなりませんか? Rランチャーを撃ったらもう限界ギリギリなんて……」
『桃・リップバーン。悔しいがそれはどうにもならない。惑星産の血塊炉ならばまだしも、コスモブルブラッドエンジンはまだ安定の目処が立っていない分野だ。これで人機が動いているだけでも儲け物だと思って欲しい。これまでの電力と僅かなコスモブルブラッドによる混在血塊炉に替わる新たな安定方式なのだからな』
ゴロウの言葉には一理ある。だからこそ、六年もの間、地上に参入出来なかったのだ。
「……でも、本隊もこれを使っている。もし、地上勢力と本隊が手でも組めば……」
「最悪のシナリオだが考えられなくもないのが困る。《ゴフェル》を墜とすのに、それが最も合理的だ」
「だったら余計に……」
「しかし今は、安定稼動している《ナインライヴス》と《イドラオルガノン》よりも、こっちのほうが重傷でね」
指し示したタキザワの視線の先には《モリビトシン》が整備デッキに収まっていた。整備班は悲鳴を上げている。
「一度にタスクを五も進めるなってば! 一タスク分でも見過ごせば、《モリビトシン》は稼動しないんだ!」
「そんな事言ったって、ここで稼動手順を少しでも早めなければ次の出撃に間に合うかよ!」
言い合いを、タキザワは諌める。
「まぁ、苛立たないで。僕が責任を持って見るから、君らはコーヒーでも飲んで落ち着くといい」
タキザワが仲裁した事によってその場は収まったが、それでも整備班同士のいがみ合いは完全に収束した様子ではない。
《モリビトシン》。原初の罪のモリビトは静かな眼差しを注いでいた。《インペルベイン》によく似た頭部構造だが、それでももう鉄菜の人機であるのはよく伝わってくる。
鉄菜はこの人機をほとんど実力で乗りこなしている。否、乗りこなしているように見せているというべきか。
六年の雌伏の歳月は鉄菜を充分な操主に仕上げるのには打ってつけであったらしい。恐らく今の鉄菜ならば、どのモリビトでも乗りこなせるだろう。
「……《モリビトシン》。稼働率に目を通しました。これ、危ないですよね?」
「分かるか。その危ないのも加味して、鉄菜には乗ってもらっている」
「もし、ですけれど、飛翔中にウイングスラスターが開かなくなったら? いえ、もっと言えば、血塊炉がオーバーヒートしたら、どうするんです? 戦場で棒立ちなんて笑えませんよ」
「その危険性は話した。だが鉄菜は譲らない。これが自分に許された力だと、《モリビトシン》を降りる気はないだろう」
「それは、鉄菜も思い詰めているから……。《シルヴァリンク》を失くしたばっかりですし……」
「そうだね。六年もの愛機を失い、縋る術がないとすれば、《モリビトシン》を操らざるを得なくなる。だが、これは諸刃の剣だ。《セプテムライン》との戦闘データを出しておいた。閲覧権限はある」
差し出されたメモリーチップを端末に差し込むと、実戦データと外部カメラが捉えた《セプテムライン》との戦いが投射される。
その戦力差が近似値を示していた事に、桃は絶句していた。
「あの戦い……やられてもおかしくなかったと?」
「それくらい、本隊は必死だという事だろう。《セプテムライン》、急造のモリビトにしてはよくやる。コスモブルブラッドエンジンだろうが、見た限りこれは三基積んでいるだろうね。出力安定値が《ナインライヴス》や《イドラオルガノン》とは段違いだ。《ノエルカルテット》に近い機体コンセプトでありながら、《シルヴァリンク》のような近接格闘における術を確立し、また《インペルベイン》のような拡張性、及び機能性を獲得している。まさしく前世代のモリビトの集大成、とでも言ったところか」
「感心している場合ですか? だって、これが襲ってくるって事に――」
『それはない』
断言したゴロウに桃はぴくりと眉を跳ねさせる。
「それは、何で? 根拠、あるんでしょうね?」
『この機体の性能面とデータを算出したが……これでは《ナインライヴス》や《イドラオルガノン》にも及ばないだろう』
「……今しがた、その二機に勝てるって言ったばっかりじゃ」
『性能を純粋に突き詰めれば、ね。操主の熟練度があまりに違う』
自分や鉄菜、林檎と蜜柑に比べれば相手操主は格下だというのか。あまり自惚れないほうがいいのでは、と危惧する。
「……確かに経験の差はあるけれど、人造血続の第二ステージ。それなりに強いと思ったほうがいいんじゃ? クロも負けかけたんでしょう?」
『この血続の成熟データベースに入った』
「また危ない事をするなぁ……」
タキザワが言葉をなくしていると、ゴロウは淀みなくステータスを呼び出す。
『この血続が経験以上に足りていないのは、生産されてからの日数だ。まだ重力圏どころか、空間戦闘でさえも危ういだろう。身体が未完成のまま、戦場に送り出されたんだ。今頃はメンテナンスに奔走している事くらいは予想出来る。それくらい、人造血続というのは成功例が少ない。それに、このプランが現実味を帯びれば一番に危ういのは血続ではない、君だろう?』
言葉もない。自分は血続でも何でもないのだから。
《モリビトシン》と《イドラオルガノン》に使用されている血族専用トレースシステムを、自分の《ナインライヴス》は適応出来ないのだ。
「……確かに、血続生産計画がもっと発達すれば、モモなんて要らないでしょうけれど」
『血続を安定生産するのはまず無理だと思ったほうがいい。これはモリビトを一機造るよりも多大なリスクと供給値を必要とする割には、実績がついていかない分野だ。だからこそ、人造血続計画に対して上は慎重であった。今回、まだ安定している血続を使用したのだろうが、それでも無為に帰す可能性は大いに高い。《セプテムライン》が追撃してくるのはあり得ないと言ってもいいだろう』
「しかし……《アサルトハシャ》部隊は? 彼らを動かしているのはブルブラッドキャリアの少年兵達のはず」
タキザワの疑問にゴロウは頭を振る。
『愚問だな、タキザワ技術主任。それこそ、替えの利かない人間そのものだ。ともすれば他の可能性もあるのに、そうそう使い潰すと? 《ゴフェル》に乗っている人間、一人一人に意味があるように、本隊からしてみても自分達の味方は少ないと思っていると断言していい』
その言葉振りに桃とタキザワは暫時、沈黙する。その静寂をゴロウが訝しげに首を振った。
『何だ? 二人して押し黙って』
「いや、思ったより人間らしい考え方をするなぁ、って。ねぇ?」
「ホント、そう。ゴロウ、あんたって元老院のコンピュータだったんでしょ?」
『……六年もこの躯体を使っていれば考え方は変位する。逆に言えば、我々は百五十年も同じ義体の中に収まっていたから、考え方が狭かったのだろうな。宇宙で自分達の開発分野を押し広げる人間達を目の当たりにして確信したよ。我々元老院は滅びるべくして滅びたのだと』
自らの滅びの原因をゴロウはこうも淡々と語る。それはもう、六年前までの敵対関係は清算した、と考えているからなのだろう。
桃も今さらゴロウを糾弾する気にはなれない。もう一蓮托生だからだ。
ゴロウの頭を戯れに撫でてやると、嫌そうに手を払われた。
『……何だ。気色悪いぞ』
「気色悪いって思えるのも、成長よ。ゴロウ」
桃の態度にゴロウは鼻を鳴らす。
『……鉄菜・ノヴァリスも着実に成長しているな。ログを閲覧したが、彼女はああいう性格ではなかったはずだ。それこそ、相手の血続と同じく、何も考えず、ただの殺戮機械であったのだろう。それが何をもって変わったのか、我々には分からず仕舞いだがね』
肩を竦めたゴロウに桃は、あら、と言ってやる。
「分からない? クロは変わろうとした。それって多分、人間だからでしょ」
「そうだね。人間だからだ」
同調したタキザワにゴロウが不機嫌そうな声を出す。
『……二人して奇妙な間を作るな。何なんだ。分からないこっちが馬鹿みたいじゃないか』
「そう思えるだけでも成長よ。ゴロウちゃん、っと」
デコピンをしてやると、ゴロウは身体を球状に変形させた。
『……もう知らん。情報開示を拒むぞ』
その様子をタキザワと共に微笑ましく見守る。こうやってみんな、少しずつでも変わる事が出来るのだ。かつての敵であった元老院でさえも。
その変化のうねりの中にあるのが、少しでも前に進めている気がして、桃は口元を綻ばせた。
面会に、と立ち会った赤髪の女性は眼鏡の奥の怜悧な瞳を細める。
鉄菜に促されるまま、ここに来てしまった事に対して、釈明でも述べるべきだろうか、と考えていると先に口火を切られた。
「鉄菜……まさか本当に助けてくるなんてね」
「私は一度でも口にした事は実行する」
全く退く様子のない鉄菜に相手は辟易する。
「そうね……そうだった。でも、もし私が棄却すれば? 瑞葉さん、でしたっけ? あなたの身柄を我々ブルブラッドキャリアが有効活用……つまり兵器転用するとでも言えば?」
「私はお前達の敵になる」
迷わず発せられた鉄菜の口調の冷たさに瑞葉は硬直してしまう。相手は肩を竦めて言いやった。
「……冗談よ。鉄菜、あなたをちょっとばかし、見くびっていたみたい。ナナツーとトウジャが展開する戦場から、よくたった一人を……救い出してくれたわね」
「私が死ぬとでも思っていたのか?」
「手痛い反撃を食らう程度なら」
差し出された手に瑞葉は逡巡する。
「ニナイよ。ここでは艦長でも……局長でも好きな役職を」
しかしその手を素直に握れる気持ちにはなれなかった。
自分はかつてブルブラッドキャリアを憎み、モリビトを恨んで戦ってきた。敵同士のはずだ。鉄菜だけならばまだしも、他の人間まで自分を受け入れられるはずがない。
「……わたしに、その資格なんて」
「大丈夫よ。みんな、ブルブラッドキャリア本隊を裏切ってきたも同じなんだから」
その言葉に瑞葉は瞠目する。意味をはかりかねていると鉄菜が補足した。
「我々は、ブルブラッドキャリア上層部に反目し、地上へとこの《ゴフェル》で降りてきた……いわば反乱軍だ。私達の敵は地上の人々でもあり、なおかつブルブラッドキャリア本隊でもある」
「痛いところよね。上からも下からも睨みを利かされるなんて」
目頭を揉んだニナイに瑞葉は驚愕して口を開けたままになってしまう。それほどまでの極限状態で、何故自分を助けたのか、より一層分からなくなってしまった。
「……何で自分が助けられたのか、分からないって顔」
見透かされて瑞葉は押し黙る。鉄菜が歩み出ていた。
「ニナイ。瑞葉は疲労が溜まっているだろう。休息の義務を感じる」
「了解。きっちりとした部屋は余っているからそれは安心して。《ゴフェル》は百日間くらい、どこからの補給もなしに航行出来るように設計されている。無論、人員が増えてもそれなりには、ね」
身を翻したニナイは卓上に備わった三次元図をタッチし、瑞葉の部屋をアナウンスする。あまりにその行動に淀みがなかったせいだろう。瑞葉は自分から言い放っていた。
「……いいのか? わたしは敵兵だぞ? 内部から破壊工作を行うくらい、わけないはずなのに……」
「敵兵があんなところにいないでしょう」
「同意だ。敵兵ならば相応しい場所に配置される。あのような扱いでは捕虜と同じだ。敵だと断じるだけの材料が足りない」
「クロナ……、でもお前とは……かつて敵同士だった。お互いに憎しみをぶつけ合うしか知らなかったはずなのに」
「それは以前までの話だ。今は現状と未来の話をしている」
あまりにも返答が意想外であったせいだろう。瑞葉はまたしても言葉に窮していた。鉄菜の決意は本物だ。本当に自分を助け出すためだけにあの場所に赴いたというのか。
敵兵のど真ん中に。
たった三機のモリビトで。
その事実が今さらに重く圧し掛かり、瑞葉は面を伏せる。
「……危険な作戦だったはずだろう。わたしは、咎は負うべきだと感じている」
「ここはどの国家でもない。法律も、条約も存在しない」
「そういう問題じゃないんだ、クロナ……。わたし自身ケジメがつかない。……これは少佐とアイザワがよく言っていた事だから受け売りだが」
「ケジメ、ねぇ。案外ちゃんとしているじゃない。もっと破天荒な人物かと思ったわ」
ニナイが茶化すのをどうにかしたいと思ったが、鉄菜はその言葉を受け入れた。
「了承した。ニナイ、扱い上は捕虜でいい。ただし、三食はきっちり出し、艦内での揉め事は私が処理する」
だがそれでは鉄菜に甘えてしまう事になる。そう言いかけたが、ニナイはそれで了解したようだ。
「分かった。……鉄菜がここまで言うのは相当よ? これ以上粘ったってよくもならないし、悪くもならないと思うけれど?」
瑞葉は渋々頷く。
「艦内Eブロックの居住区画まで案内する。ついて来い、ミズハ」
黒髪を翻した鉄菜に、瑞葉は慌てて背中を追う。部屋を出る前にニナイから声がかかった。
「……何か?」
「いや、思っていたよりも人間らしくって、安心した。じゃあね」
安心、と言われても何がどう映ったのかまるで判然としない。どうして自分だけがあの施設から助けられたのかもよく分かっていないのだ。
前を行く鉄菜の手を掴む。鉄菜は振り返るなり、渋面を作った。
「何だ? 言っておくがあれ以上待遇を悪くしても、どうしたって心象までは悪くならない。お前の事を知っているのはほとんど私だけだ。私からの伝聞で成り立っているこの艦では、連邦や他国のような偏見はない。無理に敵役に回る必要もない」
全て代弁された気がして、瑞葉は口ごもる。敵を装う必要性もない。無論、誰かに嫌われる事も。
だが、それでは自分の気持ちの落としどころが見当たらないのだ。せっかく鉄菜に助けてもらった恩義は感じている。それでも、生きていていいのかと問えばやはり疑問が残る。
「……クロナ。わたしは、ブルーガーデンの唯一の生き残り。それも、強化実験兵だ。敵兵を捕らえれば、それに帰結するところは見えている。拷問も、陵辱も、何だって甘んじて受けよう。わたしは……! だって……もうまともではないのだから」
面を伏せた瑞葉に鉄菜は紫色の瞳で問い返す。
「まとも、とは何だ? ミズハ」
その問いかけが皮肉でも何でもなく、鉄菜の奥底から溢れ出たものだと、瑞葉はその瞳に反射する己を目にして息を呑む。
鉄菜には、まともの価値観すら存在していないのだ。
「それ、は……」
「C連邦政府の庇護にあればまともなのか? それとも、どこかのコミューンで家族とやらに囲まれていればまともか? ……あるいは、戦場で拳銃を手に、銃弾の風切り音を聞いているのがまともなのか? 敵兵を躊躇いもなく撃ち殺すのが、まともなのか?」
「もういいっ! やめてくれ! クロナ! だってお前は……!」
そこまで言って瑞葉はハッとする。鉄菜にとってこの世の「まとも」など存在しない。彼女は戦い続けている。今もまだ、戦いの中にいるのだ。
自分は、もう兵士ではない。身分上でもそうだが、兵士の心を捨てた。タカフミと会う度に心が高鳴っていた、ただの「女」。タカフミの笑顔一つで心揺り動かされる「人間」そのもの。
しかし、鉄菜はまだ違う。
まだ、彼女の戦争は終わっていない。鉄菜は自分よりもなお深い場所にいるのだ。
「……すまない、クロナ。……お前の戦場を、侮辱した……」
その事実に気づいて謝ったところで、鉄菜は何でもない事のように言ってのける。
「気にするな。そういう事もある」
きっと、それで割り切ってきたのだろう。何年戦ってきたのだろう。あるいは、今も何のために戦い続けているのだろう。
世界を変えるため? 変革のための刃を振るうのに?
そんな理由だけで、彼女が戦っているとは思えなかった。自分は鉄菜と共に戦場を駆け抜けた。
だからこそ、分かる。
鉄菜は合理的なだけで動いているわけではない。
非合理も、何もかも全てをひっくるめて彼女――「鉄菜・ノヴァリス」なのだろう。
自分はまだマシなほうだ。タカフミに愛され、リックベイに道を諭された。人機にはもう乗らなくてよくなったし、誰もそれを強制しない。
だが、ひとたび掘り起こされれば、そこにあるのはただの機械天使であった頃の名残。
人殺しの兵士であっただけの存在。データに羅列されるのはその事実なのだ。
自然と瑞葉は肩口に手をやっていた。つい数ヶ月前まで、この肩に備わっていた天使の翼。
その傷跡がじくりと痛んだような気がしたのだ。
「クロナ……、でもわたしは……お前だけに戦う道を強制させられない」
「私は誰に強制されたわけでもない。着いたぞ、ここだ」
空気圧の扉が開く。中は簡素ながら、自傷防止のクッション素材の壁であり、空間戦闘や水域戦闘でも壊れにくい構造であるのが窺えた。
本当に、ただの一民間人として扱われている。
その事実に、瑞葉は覚えず反感の念を覚えていた。
「クロナ……わたしだって、戦える」
「もう戦う必要はない。本国でも軍籍は剥奪されているはずだ。そのようにデータにあった」
それはその通りなのだろう。リックベイとタカフミが取り計らってくれたお陰だ。だが、だからこそ自分は報いる人生を送りたいのだ。ただ与えられるだけではない。誰かを助けられる人間に。
しかし、この身は未だに誰かに罪を贖ってもらうばかりで、自ら購う事を放棄している。これではいつまで経っても、本当の意味の贖罪は存在し得ないだろう。
「クロナ! わたしは、お前にばかり傷ついて欲しくないんだ!」
放たれた言葉は廊下に虚しく残響する。鉄菜は双眸に湛えた光を崩す事もなく、そのまま言い返す。
「私はお前に死んで欲しくなかった。だから助けた。理由としては充分だろう」
それは、と口ごもってしまう。
――駄目だ、言えない。
言えば鉄菜の道を閉ざしてしまいそうで、何も言い出せない。弱々しい自分に嫌気が差す。守られてばかりで、何一つ守った事のない穢れた身体。枯葉にも、鴫葉にも、――そしてタカフミやリックベイにも、繋げられた命。
この命を散らせて誰かに報いる事が出来るのならば、どれほどいいだろう。しかし現実は厳しく屹立する。
鉄菜という一人の人間として。
彼女の生き方を曲げられない。何故なら、彼女は――。
「用がないのならば行く。黙っていても三食出てくる。今は療養するといい。尋問で怪我をさせられたなら、医務室に寄ればいい。リードマンという……胡散臭い男が処置してくれるだろう」
立ち去ろうとした鉄菜に、瑞葉はその手を強く握っていた。
「クロナ! お前はわたしだ! もう一人の……わたしなんだ……」
その言葉の意味するところを理解出来なかったのだろう。鉄菜は疑問符を浮かべた様子であった。
「……もう一人の、ミズハ……?」
「わたしなんだ……。うまく言えないが……お前は! 立場さえ違ったらわたしだった!」
そうだ。立場さえ違えば自分も逡巡など挟まないだろう。地上へと報復し、脅威となる兵士を排除し、ただ命令が止むまで戦うのみ。
それが自分と鉄菜で何が違う? ただ立ち位置が偶然に異なっただけ。
やっている事は似たようなものだ。
鉄菜は次の言葉を繰り出そうとして、何度か迷っている様子であった。
瑞葉は勇気を振り絞って言いやる。
「だから、死んで欲しくないんだ。お前は……わたしだから」
「私が……ミズハ? ……理由と理屈が不明瞭だ。私は……この個体は鉄菜・ノヴァリスであるはずだ。だからそのような事……」
その時、激震が《ゴフェル》の居住ブロックを揺さぶった。明滅する電灯に鉄菜が警戒の眼差しを天井に注ぐ。
「……敵襲か」
『モリビト三機の執行者は至急、整備デッキへ! 繰り返す! モリビト三機の執行者は至急、整備デッキへ向かうように!』
アナウンスが響く中、鉄菜は自分を部屋へと押し込ませようとする。
「まだ……第一警戒レベルだ。特定はされていないが、この海域を見張られればいずればれるだろう。禍根の芽は摘み取っておく」
駆け出そうとした鉄菜の背へと、自分は呼び止めていた。鉄菜が足を止める。しかし、気の利いた言葉一つ言い出せない。
「……何だ。まだ何か?」
「……クロナ。お願いだから、生きて帰ってくれ。お前が死ぬのを、わたしは見たくないんだ……」
震える声で懇願したのは自分でも驚くほどであった。誰かの生死にここまで入れ込んだのはいつ以来だろう。誰にも消えて欲しくない。鉄菜にも、リックベイにも、タカフミにも。そう願うのはいけない事なのだろうか。
分不相応な願いなのだろうか。
鉄菜は振り返らずに首肯する。
「……分かった。約束しよう」
駆け出した鉄菜を止める言葉は、もうなかった。
赤色光に染まる廊下で瑞葉はただ立ち竦むのみであった。