家族はほとんど帰ってこない。だからか、ベルの冒険はほとんど一日中であった。
地下室への階段は口うるさいセバスチャンにも知られていない。他の使用人も自分を追って城内に深追いすれば、後戻り出来なくなるからか、誰も諌めようとはしなかった。
地下室は涼しげな風が吹きつける。青い大気ではないので、汚染はされていないはずだ。
怪物は自分を白亜の神像の上からじっと見下ろしている。ベルは今日も使用人が作った焼き菓子を持ってきていた。芳しい香りに、きっと怪物とも仲良く出来るはずだ、と思っていた矢先、怪物が降り立ち、ベルを金色の瞳で睨み据える。
その眼差しの眩しさにベルは手を打っていた。
「なんて綺麗なの! あなたの瞳!」
宝石を散りばめてもこれほどまでに輝くまい。怪物はベルから焼き菓子を引っ手繰り、再び神像の上に跳躍してぼりぼりと齧り始めた。
ベルはそれを微笑ましく見守る。
「あなたの事、なんて呼べばいいかしら? お名前はやっぱり、ないの?」
怪物はぐるると喉の奥で呻ってから、神像を伝い、ベルの眼前に降り立つ。もしかしたら名前を教えてくれるのか、と期待したベルへと、怪物は大口を開けて威嚇した。
通常ならばこれで逃げ出すだろう。しかし、ベルにはその気はなかった。
「……とっても大きいお口なのね!」
物語の世界に陶酔し切ったベルにとって、怪物の威嚇の一つや二つは、ストーリーの中であってもおかしくはないもの。むしろ余計に冒険心を駆り立てられた。
怪物は毒気を抜かれたように咆哮をやめ、そのまま後ずさる。ベルは、今しかないと尋ねていた。
「ねぇ、お名前は? あるのよね?」
怪物は酷く澱んだ声で何かを呟いた。その声をベルは聞き取る。
「クリーチャー? それが、あなたのお名前?」
怪物はおずおずと首肯していた。ベルは自分の中でその名前を咀嚼する。まさか、怪物自ら、獣の名前を名乗るとは意外であった。
「クリーチャーさん。あなた、ずっとこのお城に居るの? この、トリアナ城に?」
怪物は口を開こうとしない。それが了承だと感じてベルは話を進めた。
「こんな辺境のお城にずっと……、寂しかったでしょう?」
クリーチャーが頭を振るって、跳躍する。人間離れした身体能力でクリーチャーは神像に張り付いていた。
その動きでベルは得心が行く。
「そっか! そのご神像がお友達なのね!」
クリーチャーは何か言いたげであったが、それでもここで言及はしないようであった。
「あたしはね……友達って言うのはいないの。ずっと、セバスチャンと、使用人に囲まれて生きてきた。……あ、別に両親がいないわけじゃないのよ? でも、二人ともお忙しいから……あたしなんかに構っている暇はないのよ。帰ってきてもあたしが今、何才なのかも分からないと思うし……」
沈痛に面を伏せたベルにクリーチャーが唸り声を上げる。どうしてだか、励まされている気がした。
「……優しいのね。クリーチャーさん。でも、あたし、励まされるような人間じゃないの。このお城を無理言って買い取ったのも、何もかも、忘れたいから。お父様も、お母様も、二人の娘であるのも、忘れたいのよ。だって、あの二人はあたしを見ていないもの。見ていられない人間なんて忘れられちゃえば……!」
その時、クリーチャーが不意に下りてきた。また焼き菓子がいるのだろうか、と思って差し出すと、クリーチャーは何やら喉の奥から声を発する。
何と言っているのかほとんど聞き取れないが、それでも何か、重要な事を言っているのが窺えた。
「慰めてくれているの?」
クリーチャーは肯定も否定もしない。ただ、獣のように唸るのみ。
それでも、傍に誰かがいてくれるだけでも救いであった。ベルは座り込んだまま、声を発する。
「……セバスチャンはね、あたしの執事として雇われた人なの。でも、口うるさいし、お金の勘定が大好きな、ちょっとケチ臭いおじさんって感じかな。使用人のみんなも、そう。あたしをこの城に閉じ込めておくために雇われたのよ。お父様やお母様が管理しやすいように……。あたしは、いつまで経っても籠の鳥。こんなんじゃ、生きている価値なんて……」
そこでクリーチャーは爪の伸びた奇異な腕をベルの肩に寄せる。鋭い爪でベルを傷つけないようにわざと拳を丸めさせていた。
「……優しいのね。クリーチャーさんは。どうしてこんな優しい人を、地下深くに閉じ込めておく必要があるのかしら? ここが気に入っている?」
クリーチャーは逡巡の後に頷いていた。
「そっか。自分の居場所があるのね、あなたは……」
自分には何もない。管理され、行く末をレールで敷かれた自分には何も。忘却のためだけにこの場所を用意され、虚飾の城で多感な時期を過ごすしかないのだ。
その時、端末が鳴った。セバスチャンが自分を探しているのだろう。
「そろそろ行かないと。ごめんなさいね、クリーチャーさん。でも、お話出来てとても楽しかったわ」
手を振って離れていくのが少しだけ名残惜しい。もっと彼とは話していたかった。別段、己の傷を慰撫してもらいたかっただけではない。ただ、この城の地下深く、こんな場所でしか生きられない彼にどこかで自分を重ねていたのだろう。
自分は籠の鳥。
ここでしか生きられないという点では同じようなものだ。
セバスチャンは中庭にいた。どうやら自分が中庭で遊んでいるのだと思い込んでいたようだ。
「お嬢様! どこにいらっしゃったのですか!」
「えっと……お友達と遊んでいて」
「お友達? ご冗談を。この城には誰も住んでおりませんよ」
「ほら! 鳥や花もお友達でしょう?」
夢見がちな少女を装えばセバスチャンはすぐに納得した。
「……ドレスに泥が跳ねていますよ。レディとして、最低限の立ち振る舞いはお忘れなきよう」
「はぁーい。……セバスチャン、このお城って、元々ゾル国のものだったのよね?」
「ええ。ゾル国富裕層の所持するコミューンの一つでしたから。城下町も含めて、城の所有者のものでした。今は、ほとんど城下に住む人間はいませんが。……もしや城から出られているのですか?」
友達、と言ったのが城下町の人間だと思い込んだのだろう。ベルは慌てて否定する。
「そんなわけ! だって、城から外に出ていたらすぐには戻れないでしょう?」
「それはそうですが……。城の外はほとんど卑しい者達の住処です。くれぐれも勝手に外出なさりませんよう」
コミューン、トリアナの八割を占める城下町はほとんどスラム同然らしい。それくらいは頭に入っている。
「このトリアナで……昔何かあったとかいう記録は?」
「何か……戦争などでしょうか。すいません、こちらの記録には何も」
端末で調べつつもこちらを窺うセバスチャンにベルは慌てて取り成した。
「何でもないならいいのよ! ただ……あまりにもお城が格安だったんでしょう? 何かあるのかな、って思って」
「何か……お調べしておきましょうか?」
「いや、調べるとかそんなんじゃ……」
もし徹底的に調べ尽くされればクリーチャーの事も明るみになるかもしれない。それはお互いにとってよくないだろう。
「ですがお嬢様。出来るだけ勝手は慎まれますよう。ご両親は心配なされてします。毎晩、こちらには定期連絡をなさるほどに」
セバスチャンには連絡しているのか。その事実にベルは拳を握り締めた。
「……あたしには直接、しないんだ」
「お二方ともお忙しいゆえ、夜半過ぎになります。仕方ないでしょう」
それでも、とベルは怒りがふつふつと湧いてくるのを止められなかった。自分がいつまでも子供だと思っているのか。
それとも、セバスチャンに定期連絡しておけばそれで手綱が取れる程度の娘だとでも?
「……ゴメン。一人にさせて」
駆け出したベルをセバスチャンが呼び止める。
「くれぐれも勝手なさりませんよう! ……まったく、手に余る」
最後の言葉まで聞こえていたが、ベルはわざと無視していた。自分の居場所なんてない。この場所もまた、籠の中。檻に閉じ込められた世界で自分はいつまでも生きていくしかない。
それが堪らなく悔しいのに、何も出来ない己を持て余すしかなかった。