楽しみ、という感情がもたらす昂揚感は何なのだろう。
精神点滴でも得られなかった充足に、瑞葉は満たされていた。タカフミからメッセージが端末に届いている。今日のディナーの誘いに、瑞葉は了承を返していた。
まだぎこちないお互いの関係。それでも、前に進めている自覚がある。
瑞葉が軍の研究施設から預かった自宅には無数の生態認証がある。それもこれも、まだ瑞葉を自由には出来ないという表れであったが、今の自分にはそれらの足枷もどうでもよかった。
どうしてなのだろう。
他人じゃなくなって欲しい、なんていう申し出、きっと六年前の自分ならば突っぱねていた。
戦闘機械でしかない、あのブルーガーデンの天使ならば、断れたのだろう。
しかし今は違う。ただの、一人の「女」になれている。それだけでもこの六年間の進歩だ。
枯葉と鴫葉の事を忘れた日はない。散っていったブルーガーデン兵の事も。だが、彼女らももう、しがらみに囚われる必要はないといってくれているような気がした。
「……わたしは、ようやく一端になれる」
指にはめたリングがそれを物語っている。断ち切れる事のない約束。違えるはずのない絆。
そうだ。ようやく人並みになれるのだ。戦う事しか知らなかった強化実験兵が。ただの人間に戻れる。
これほど嬉しい事はない。瑞葉は暫し指輪を眺めていたが、その時、インターフォンが鳴り響いた。
タカフミがやってきたのだろうか、と胸を高鳴らせて扉に向かう。
何一つ、警戒する事もなく開いた扉の先にいたのは愛を交し合った相手ではなかった。
赤い詰襟の集団に、瑞葉はハッと身を引き締める。
相手方はまさか私服姿の自分が出てくるとは思いもしなかったのだろう。一瞬だけ驚嘆したようであったが、やがて事務的に口にする。
「瑞葉、だな? ブルーガーデン、強化兵士」
忌むべき名前に瑞葉は敵を見る眼を注ぐ。
「貴様らは……」
「失礼。申し遅れた。我々はC連邦政府直属部隊、アンヘル。その諜報部門である。貴官の自由と権限はC連邦政府に帰属するものであり、よってここに拘束する」
歩み寄ったアンヘル兵を瑞葉は腕で制する。しかし、一喝された声に動きを鈍らせた。
「抵抗は無意味だ。それとも、こう言ったほうがいいか? ――愛する人間が悲しむぞ」
まさかタカフミの身柄を。そう感じた時には高圧電流を身体に流されていた。虚脱した両腕を手錠が拘束し、続けてID証の首輪をはめられる。
「貴様ら……はっ……」
「悪く思わない事だ。アンヘルとC連邦のこれからのために、ブルーガーデンの兵力である貴官の力は必要である。再びあの禁断の力……《ラーストウジャカルマ》を稼動させるのにはな」
瑞葉はその紡がれた名前に身をよじる。それでも、アンヘル兵を引き剥がす事さえも出来ない。
「無理はしないほうがいい。我々は貴官を無傷で運びたい。それだけなのだ。世界で活動を始めたモリビトとブルブラッドキャリアの力を抑制し、こちらが制圧するのに、あのハイアルファー【ベイルハルコン】は使える。ただ、ハイアルファーというものは一度認証した相手以外には使用不可能というデメリットが存在する。ゆえに、瑞葉、その肉体が必須なのだよ。たとえブルーガーデンの日々を忘れ、安寧と惰弱に塗れたただの女に成り果てていたとしても。その身柄があれば……」
そこから先の言葉は闇の中に埋没する意識に閉ざされた。
待ち合わせに遅れるのは珍しい、とタカフミは時計を気にしていた。
瑞葉はいつも待ち合わせればその時間よりも一時間は早く到着するというのに。仕方なく、タカフミは街頭モニターのニュースキャスターへと視線を注いでいた。
紡ぎ出されるのはやはりというべきか、モリビトとブルブラッドキャリアの脅威。正直なところ聞き飽きたニュースに誰も足を止めようとしない。
少し端末にかけてみるか、と考えた矢先、通話が繋がった。
しかしそれは軍の番号である。しかも自分からしてみれば決して無関係ではない相手の。
どうして今、と小首を傾げながらタカフミは通話に出た。
「もしもし? どうしたんです? おれ、一応休暇届は出しましたけれど……」
『そうではない。アイザワ少尉。そこはC連邦のコミューンだな?』
荒立たせた呼吸にタカフミは疑問を抱く。
「そうですけれど……何だって今? この電話にかけてきたって、意味なんて――」
その瞬間、背後に気配を察知した。その一撃に対応出来たのはひとえに鍛えていた自分の第六感と、通話相手に叩き込まれた戦闘術のお陰である。
振るわれた警棒の一撃は確実にこちらを昏倒せしめるつもりであったのだろう。大きく振るうモーションは隙が出やすい。
よろめいたタカフミは相手の顔をまじまじと見つめていた。
黒い覆面を被った相手の面持ちは読み取れないがカタギではないのだけは確かだ。
「おいおい……いくらなんでもここじゃ……」
誰も気に留めていないとはいえ、ここは街中。戦闘行為があれば見過ごされないはず。
しかし、相手は躊躇う事なく拳銃へと手を伸ばしていた。
ホルスターに留められたそれのグリップを掴むまでの一瞬の間。
タカフミは逆に相手の懐に飛び込んでいた。
うろたえた相手から警棒を奪い取り、横っ腹へと一撃を見舞う。
後退した相手にタカフミは警棒を半身になって構えた。
「……関係ないって事かよ。それと関係あるんですかね、この通話は」
『――その通りだ』
道路を逆走した車が激しく横滑りしながら路肩に停車する。
運転席から顔を出した意外な人物が拳銃を一射する。
覆面の相手が建築物の陰に隠れようとしたところで、タカフミは通話先の相手と目を合わせた。
「本当に……いつまでも退屈させてくれませんね。少佐は」
リックベイが後部座席を開放し、タカフミを手招く。
「乗れ。アイザワ少尉」
「了解です。あと、おれ、もう大尉ですよ?」
その言葉を皆まで聞かず、車が走り出す。舌を噛みそうになったタカフミはぐんぐん離れていく中央街にふぅと息をついていた。
手には謎の覆面の武器がある。しかも今、リックベイは迷わず相手を撃った。それには理由があるに違いなかった。
運転席のリックベイから漂う物々しさにこの状況が生易しいものではない事を察知する。
「少佐、おれが何で襲われたのか、見当はあるんですか?」
「つい数時間前の事だ。これを見るといい。まだC連合もC連邦も正式発表はしないが……」
濁した先に手渡された端末に表示された機密文書を読む。
「ブルブラッドキャリアの……新型のモリビトを宇宙で確認……? こっちに被害がって……これは! 少佐!」
「まずいところで火を点けてくれたな、モリビト。アンヘルの軍備増強政策が国会を通過すると思われた矢先にこれでは、まさしく燃料だ。アンヘルの発言力は増し、ただでさえ弱小なC連合の高官達は疑心暗鬼のC連邦の高官に捕縛されている。加えて……君にとっては最悪のニュースだろう」
下にスクロールすると、C連邦の所有物を確保、という文書に行き当たった。
その「所有物」の内容にタカフミは絶句する。
「嘘、だろ……。こんなの……」
「残念ながら嘘ではない。確かに彼女の身柄は宙ぶらりんの状態だった。C連邦政府の所有物だと言われてしまえば立つ瀬もない。アンヘルが強硬手段に打って出たと考えれば、君があそこで待ちぼうけを食らっていたのも頷ける」
ハンドルを切ったリックベイにタカフミは目を戦慄かせていた。
「だって……瑞葉は人ですよ? 一人の……女性なのに」
「上はそうは見ていないという話だ。ちょっと前までC連邦政府の機密に近い部分にいた一般人を逮捕するのに、大義名分は要らない。ただ、所有物を取り返しに来た、だけでいい」
「でも! そんなのってあんまりじゃないですか! 瑞葉はもう、ブルーガーデンとも……、軍とも無関係で……」
「だから、それは対外的な事情を抜きにした場合……言ってしまえば人情だ。だが冷静な頭で考えれば、瑞葉君はC連邦の捕虜であり、しかもブルーガーデン元強化兵となれば、捕虜以下の扱いとなる。現在、部下に追わせているが行方を晦まされた。十中八九、アンヘルの手際だろう」
そんな、とタカフミは項垂れる。ようやく平和を手に入れたのに、こんな仕打ち、と言葉もない。
「……アイザワ少尉。君はC連邦の仕官だ。よって、君には少しばかりの恩情があるとは思われたが、捕獲対象と深く関わった人間をでは正式に査問するかと言えば、それはノーであろう。そのような瑣末事にこだわるよりも、自白剤でも飲ませて洗いざらい喋ってもらうほうがいい」
リックベイはそれを見越して自分へと接触して来たというのか。面を上げたタカフミの視線とフロントミラーのリックベイの眼差しが交錯する。
「……君はわたしの……零式を叩き込んだ一番弟子だ。それがこのような帰結を辿る事、静観出来るほどわたしは大人ではなかった。それだけの話だよ」
「……やっぱり、少佐は少佐なんですね。おれらの事をいつも一番に考えてくれている。……でも、そうなると少佐の立場が危ういんじゃ? だってアンヘルなんでしょう? 相手は。だったら、C連合の士官である少佐は……!」
「今は他人の心配よりも自分の心配をする事だな。情況は思ったよりも早く動くぞ。わたしを軽んじられる前に、相手がどのような強攻策に打って出るか……。正直なところ読めんのだよ。どれだけこの眼を研鑽したつもりでもな。未来が曇っている」
先読みのサカグチをもってしても、読めない未来に自分は生きているというのか。タカフミは手の中にある機密情報に奥歯を噛み締めた。きっと、自分は何も出来ない。瑞葉を守る事も、自分自身をどうこうする事さえも。
だからこそ、悔しい。何も出来ぬまま事態だけが転がっていく。
手をこまねいている間にもアンヘルと連邦側の主義者によって自分達の居場所は失われていくのだ。
「アイザワ少尉……、瑞葉君の居場所の察知はわたしでも難しい。だが、君ならばまだ可能かもしれない」
「どういう……だっておれも狙われた」
「しかし君はC連邦の仕官だ。方法は一つしかないが、これならば瑞葉君を守る事が出来るかもしれない」
リックベイの考えている方法を、タカフミは察知知る。だが、それは、と口ごもった。
「アンヘルに……入れという事ですか……」
「それが最短距離だ。アンヘルに警戒されながらでも、君は属する事が出来る。しかし、連合側のわたしでは難しい。それだけの事」
「でも……! あんな連中と一緒になんて……!」
忌々しげに放った言葉にリックベイはミラー越しの視線を振り向ける。
「だが瑞葉君がまたしても破壊の使者になってしまうよりかは、英断だろう。わたしとて彼女を無碍にはしたくない。ここまで努力した君達の日々を、壊させたくないんだ」
それは自分も同じだ。六年もかかった。それだけの時間を要した自分達の関係を一瞬で壊されて堪るものか。
「……でも、上が許すでしょうか」
「君はC連邦のエースだ。転属はさほど難しくはないだろう。もしもの時はわたしからも上を説得する。……これはわたしのエゴでもあるな。自分が救えないからと言って君にばかり押し付けている」
「いえ! 少佐はだって……いつでもおれ達のために……」
そうだ、リックベイはいつでも自分達の事を考えてくれている。今は、それに報いる手段を取るべきだろう。
「アンヘルの正式部隊が君を襲ったわけではないから、転属は可能だろう。わたしはしかし、顔が利き過ぎている。ともすれば今回の一件で更迭されるかもしれんな」
危うい綱渡りの上で自分を救ってくれたのだ。感謝してもし切れなかった。震える拳をタカフミは握り締める。
「でも……、少佐はいつだって、そうじゃないですか。先読みのサカグチなんですよ、いつになったって。おれらにとって少佐は……」
「そこから先は言わないほうがいい。わたしは国家に対しての反逆者になる可能性すらある。義を立てる必要性はない」
しかし、義がなければ、リックベイはここまで尽くしてはくれないだろう。タカフミはきつく目を瞑っていた。
「すんません……少佐。おれ、何も出来ていないですよね」
「これから行えばいい。それにしても……新型のモリビト、か。ブルブラッドキャリア。どこまで我々を弄べば気が済む」
ブルブラッドキャリアを憎めばいいのだろうか。憎しみの矛先は依然として不明なまま、タカフミはただ見据えるべき明日を心に番えた。