こういうのは慣れない、と前置きした上で、タカフミは同席していた。
お歴々がスタンド席で観覧する中、自分は人機の操縦席に収まっている。変動する数値を調整してやりながら、上官に声を吹き込んだ。
「その……手加減とか出来ませんから、おれ」
『それは分かっている。しかし、少佐のお墨付きがついている君ならば、頼める、というのが大筋の見立てだ』
「だから、それが買い被りだって……。ここ地軸悪いですよ。大気汚染も酷い」
見渡した戦場は紺碧の暗夜に染まっている。見通しは悪い。有視界戦闘では本調子は出ないだろう。
熱光学センサーに切り替えようとして、上官の声が飛んだ。
『出来るだけ、有視界で交戦。それでデータを取るとの事だ』
上はいつだって勝手だ。タカフミは嘆息をつきつつ、操縦桿を握り締めた。
「一寸先も見えない青の闇……こんなので模擬戦ってのがどうかしているんですよ」
『相手側からの申し出でね。出来るだけ汚染地帯を、との事だ』
「そいつはまた……酔狂ですよね。人機のコックピットの中だからって絶対の安全が保障されたわけじゃないんですよ」
『こちらは出来うる限り相手の意見を汲む。旧ゾル国の中でも相手はまだ実効力を持っている。それに、このコンペディション。うまく運べば旧ゾル国の面子の鼻っ柱を折る事が可能だ』
どうせ、その最終目的も織り込み済みだろう。タカフミはため息を漏らして、フットペダルに体重をかけた。
推進力を得た連邦の新型機体が紺碧の大気を流れるように移動する。
正式採用されるのはまだ先との話だが、いつだって現実は予想より速く回るものだ。
六年間、嫌というほど思い知らされてきた。
X字の眼窩が煌き、水色に塗装された最新機が大地を流れ行く風を受け止める。
「《スロウストウジャ参式》……、馴染んではくれている。ただ心持ちペダルが三度ほど軽い気がしますね。もうちょっと重めに設定しないと、新兵は蹴躓く」
『言うようになったな。さすがは六年前の殲滅戦の生き残りか』
その評にタカフミはうんざりとでも言うように返す。
「あのですね……おれだって、いつまでも少佐におんぶにだっこじゃないですよ。一端にやって見せますって」
『期待している。来るぞ』
熱光学センサーに浮かび上がったのは《バーゴイル》を思わせる痩躯だ。汚染大気が濃い中を《スロウストウジャ参式》よりも随分と速く接近してくる。
近接格闘型の人機は開発を遅らされて久しいはず。珍しい型か、とタカフミは僅かに操主服の中で汗を滲ませた。
こちらに許された装備はプレッシャーソードと牽制用のプレッシャーガンのみ。そのプレッシャーガンの中身はペイント弾だ。プレッシャーソードも最小出力に抑えられており、ここで殺し合いをするつもりは毛頭ない。
あくまで模擬戦、あくまで相手を制圧するだけだ。
しかし、《バーゴイル》を模したであろう機体は一気に飛翔した。
「高濃度ブルブラッド大気は重いだろうに……あの機体、全然重さがないみたいに」
《スロウストウジャ参式》でも充分にその重さを実感している。機動力はマイナス五十ほど削がれていると思っていい。それでも、敵側の《バーゴイル》型の機体の素早さは異常だ。
超電磁リバウンドの効力で重さを消しているにせよ、あまりに軽快な動きである。
タカフミは一度下がるべきか、と《スロウストウジャ参式》を構えさせた。
姿勢を沈めさせ、片腕にプレッシャーソードの柄を握り締めさせる。
敵の距離間から鑑みて高高度よりの奇襲、あるいは一気呵成の攻撃。
操縦席の中でタカフミはぐっと息を詰めた。
《バーゴイル》タイプの機体が一挙に舞い降りてくる。
やはり高高度よりの奇襲型か。そう判断したタカフミがプレッシャーソードを払う。
相手の格闘兵器とぶつかり合ったプレッシャーソードが火花を散らした。
その刹那、敵の武装が明らかになる。
「今時、実体剣?」
まさか、と《スロウストウジャ参式》は肩にマウントされたバルカンで牽制する。紺碧の大気を引き裂いて敵人機がこちらへと踊りかかった。
その姿、躯体共に《バーゴイル》のそれであったが、違うのはゾル国の象徴である黒カラスではない事だ。金色の機体色は戦場を闊歩するのにはあまりに装飾華美。
黄金の不死鳥が肉薄し、片手に構えた実体剣で攻撃を見舞う。
浴びせかけられた剣閃をタカフミは防御し、次の攻撃への布石を打つ。
返す刀の一閃。相手は腰に装備したもう一刀を薙ぎ払った。
まさか、とタカフミは息を呑む。
「二刀流だと!」
ペイント弾を速射モードに設定し、相手の機動力を削ごうとするが、敵人機はすぐさま青い霧の中に隠れてしまった。
機動力では遥かに相手のほうが上。しかも、見た限りでは敵の人機は機銃さえも装備していない。
「単純な格闘タイプの人機……。少佐の紫電みたいな奴だな」
構えたタカフミは自分の中の教えを諳んじる。青い闇の中からこちらを狙い澄ます敵に、刃が閃いた。
「零式抜刀術は、ただの格闘術に非ず!」
呼気一閃。敵の人機が浴びせかけた剣とこちらの剣が交差する。
《バーゴイル》型の敵人機の二の太刀がコックピットを割らんと迫った。
推進剤を全力に設定し、粉塵を舞い上がらせる。即席の目晦ましに敵がたたらを踏んだその一瞬の隙。
下段より打ち上げた刀が敵人機を割る機動を見せた。プレッシャーソードの出力は最小値に設定されているが、人機に組み込まれている安全装置が模擬戦の終わりをブザーで告げる。
『勝負あり』
その言葉でようやく息をついた。
敵の人機はこちらの射線から離れ、コミューンの中へと戻っていく。
『よくやってくれた。タカフミ・アイザワ大尉』
「冗談じゃないですよ……。少佐の代役だって言うからやったものの……」
敵は遥かにこちらの予想を上回っている。旧ゾル国の面子をかけた機体は伊達ではないという事が証明されてしまった。
コミューンへと舞い戻ったタカフミと《バーゴイル》タイプの人機はお歴々の賞賛の拍手を受けていた。
どこか余所余所しく、その拍手を受け止める。
「……こんなのなら、代役なんて買って出なければよかった」
『聞こえているぞ、大尉』
「すんません……!」
びくついたタカフミに上官は笑みをこぼす。
『だが、よくやった。あれ相手にあそこまで立ち回ったのはデータ試算以上だ』
「……あれの正式名称は」
金色の不死鳥の機体を旧ゾル国の高官達は喜んで出迎えている。
まるで英雄の機体だとでも言うように。
『《バーゴイルフェネクス》。参照コードでは《フェネクス》の名前が用いられているな。《バーゴイル》の発展型だ。だが既存の人機と違うのはその機動性能もだが、用いられている特殊な仕様もだろう』
特殊仕様、という物言いにまさか、とタカフミは唾を飲み下す。
「ハイアルファー人機って言うんじゃ……」
その言葉に上官は笑い返した。
『まさか。あり得んよ。国際条約でハイアルファー人機の使用は固く禁じられて久しい。非人道的な人機は廃され、今の戦場はクリーンになっている。六年も経てばそうなるだろうさ』
ハイアルファー人機の悪夢を自分は知っている。だからこそ、出た言葉であったのだが、杞憂だと言われてしまえばそこまでだ。
「……じゃあ特殊仕様って言うのは」
『今までの《バーゴイル》のOSから一転、全く別種のものを使っているらしい。らしい、というのは確定情報を向こうがまるで与えてくれる様子がないからなのだが』
タカフミは渇いた喉を携行食糧で潤していた。どうにも胡散臭い。そう思いつつ、敵人機を仔細に観察する。
二刀を腰の両端にマウントしているのではなく、片側に集中して二刀を装備していた。
やり辛そうな機体だな、というのが総評だ。《バーゴイル》の機動性を極限まで高めた機体だが、装甲自体はさほど堅牢ではないように映る。
むしろ《バーゴイル》よりも脆くなったのでは、という懸念さえも纏いついた。
《フェネクス》の高機動を実現するに足るのはやはり黄金の装甲板であろうか。どこで採掘されたのかも知れない黄金の機体色にタカフミは警戒を注いでいた。
敵の人機を観察し、そのレポートを提出するまでが今回の自分の仕事だ。全く嫌になる
と考えつつタカフミはレポートの序文を書き始めていた。
『そちらの操主』
不意に通信回線が開き、タカフミはうろたえる。
「な、何ですか」
《フェネクス》側からの通信であった。許諾した回線を震わせたのはまだ歳若い声音だ。
『いい模擬戦であった。《スロウストウジャ参式》はこれからのスタンダードになるだろう』
「……どうも」
世事でも嬉しくないわけではない。《フェネクス》がこちらへと接近して、タカフミは構えさせる。
すると相手はマニピュレーターを差し出した。
『健闘の握手を』
あまりに想定外であったため、タカフミは声が上ずってしまう。
「握手、か……?」
『《フェネクス》はまだまだ先に行ける。それを証明してくれただけでも嬉しい』
機体の鬱陶しさに比べれば随分と溌剌とした操主の気風である。タカフミは警戒しつつも《スロウストウジャ参式》のマニピュレーターを握らせていた。
数枚の写真が撮影されているのが窺える。この一枚を大げさにあげつらって、「C連邦と旧ゾル国の和平」を謳うのは容易いだろう。
そのような外交的矢面に立たされているのはやはりというべきか、慣れない。
しかしリックベイは幾度となくそのような面倒を押し付けられてきたはずなのだ。
ならば弟子である自分が引き継がなくってどうする。
『《フェネクス》の整備に入りたい。もういいか?』
自分から握手を申し出たくせにもういいか、とは変な話だ。タカフミはどこか毒気を抜かれたように後頭部を掻く。
「ああ、うん。いいんじゃないか」
『感謝する』
離れていく《フェネクス》を尻目に、上官の声が飛んだ。
『アイザワ大尉。感覚は?』
問われた意味が分からず、タカフミは尋ね返していた。
「感覚って……」
『あの人機、まさか握手だけを目的にしたわけではあるまい。今の接触の際にこちらの通信コードくらいは抜き取られていてもおかしくはないはずだ』
あ、と思わず声が漏れる。抜き取られた形跡はないが、それをされても何もおかしくはない。
上官がため息をつく。
『……少佐ほどであれとは言わないが、もう少し軍人としての緊張感は欲しいものだ』
「……すんません。おれ、またやっちゃいましたか?」
『大目に見よう。少佐でもそう判断するだろうからな』
作り笑いを浮かべつつ、タカフミは項垂れさせた。
「へい、彼女」
そう口にされて瑞葉は周囲を見渡した。どこにもそれらしい影が見当たらないのをようやく認識して、自分にかけられた声なのだと思い知る。
「わたし、か……?」
小首を傾げているとナンパ男はこちらを覗き込んでくる。
「一人? いい店知ってるけれど」
まさか自分を相手にナンパを仕掛けてくる人間がいるとは到底思えなかったが、瑞葉はやんわりと断る。
「いや、連れがいるんだ。それを待っている」
「そんなのいいからさ。遊ばない? いい場所知ってるよ?」
どうにもこういう輩は振り払いづらい。こちらが作り笑いを浮かべていると、ナンパ男はつけ上がった。
「せっかく声かけているんだからさぁ。何かリアクションしてよ。もしかして、そーいうの出来ないタイプ?」
出来ないも何も、とまごついた瑞葉の肩を男が引っ掴む。
その行動に習い性の身体が反応した。
男の腕の付け根を逆に折れ曲がらせ、すぐさま腕を締めて相手の背中を取る。
「いたた……! お姉さん痛いって! ジョーダン! ジョーダンだから!」
その言葉でようやく離した瑞葉はナンパ男が懐からナイフを取り出したのをどこか遊離したように眺めていた。
「調子づきやがって……! 恥かかせてんじゃねぇよ!」
どうするか、と瑞葉は比して醒めた脳裏で思考する。ナイフ程度ならば護身術でどうにでもなるが、ここは穏便に済ませるのが吉だろう。
ナイフを取り上げて相手の心臓に突き刺し返すのは簡単だが、それを許されている身分ではない。
考えている間にもナンパ男はこちらの胸倉を掴んでくる。
「無視してんじゃねぇぞ!」
眼前にぎらつくナイフに致し方なし、と瑞葉は攻撃を打ち込みかけて、響いた声に制された。
「ちょーっと、すんません! 連れが迷惑かけましたか?」
駆け寄ってきた赤毛の青年にナンパ男がぎょっとする。
「……軍人の女かよ」
軍服のまま来たせいだろう。ナンパ男はナイフを仕舞って退散する。
ふぃーっと彼がため息をついた。
「ああいう手合いは恥かかせるとヤバイからなぁ。何にもなかったか? 瑞葉」
「ああ、うん。何もなかったぞ」
「そっか。じゃあとりあえず予約していた店まで行くとするか」
こちらの手を引いた青年に瑞葉は声を投げる。
「アイザワ。わたしは今日はどうにも塩辛いものが食べたいようだ」
「うん? じゃあそうするとしますか。……しかし、お医者様からあんまり衝動的な飲み食いは避けろって言われていなかったか?」
その物言いに瑞葉はむくれる。
「ちゃんと薬は飲んでいる。問題ない」
「怒るなって……、台無しだろ。せっかく整備モジュールが取れた記念なんだからさ」
瑞葉は一週間前まで自分の背中に生えていた忌まわしい片羽根が消えたのを、今でも信じられない心地でさすっていた。
羽根が生えていた箇所にも何も問題はない。最初から、自分は機械天使などではなかったかのように。
「……夢みたいだ。もう、整備モジュールからの精神点滴が必要ないなんて」
「それだけ連邦の技術も進歩しているってわけだろ。それに、お前だって投薬制限もそろそろ解ける。……ホントなら、もっと早くにこうするべきだったんだろうな」
少し顔を翳らせたタカフミに瑞葉は窺っていた。
「……何かあったのか?」
「いや、ちょっとトチッちゃって……。少佐ほどうまくは出来ないなぁって実感した。おれ、やっぱり零式の継承者は向いていないのかなぁ」
「向いている、いないではなく、弟子として認定したのだろう? 少佐は」
「そうなんだけれど……重たいんだよ、ちょっとな。たまたま少佐の部隊でおれが零式を……いい意味でパクるのがうまかったって話。他の連中でもよかったんじゃないかってたまに思う」
「アイザワ。……軍に不満でも?」
「不満はないって! そりゃ、ないよ、瑞葉。だって、おれは少佐の代役も買って出ているし、仕事はきっちりこなせている。……でもさ、満足と不満って別に同時に存在しないわけでもない感じっていうか……」
「話は、後で聞きたい」
瑞葉はタカフミの袖を引く。
ああ、と彼が悟ったらしい。
「腹減ってるのか。待たせて悪かったな」
「いい。軍の仕事だ。仕方ない」
粉雪がコミューンを舞う。コミューン内部で天候でさえも単純に設定可能であると知った時には素直に驚いたものだ。
その日の都合で天気を操れるなど神の所業だと慄いた。
しかし今ではそれに慣れつつある。不思議なものであった。六年前には戦う事でしか、己を示せないと感じていたのに、今では他の方法がいくらでも思いつく。
それもこれも、戦地から離れたお陰だろうか。
「あのさ、瑞葉。また髪の毛伸ばしてるのか?」
肩口まである灰色のセミロングを、瑞葉は指で巻く。
「そうだが……、似合っていないか?」
「いやっ! 似合ってるよ、すげぇ……うん。似合ってる!」
「……そう、か。似合っていないと言われたら、どうしようかと思っていた」
戦うばかりであった日々はもうほとんど記憶の彼方に赴こうとしている。軍籍を剥奪され、C連邦の民間人の国籍を与えられてもう三年。
三年の月日が経ったのだ。それなりに変化もあった。
高層ビルのオーロラビジョンでキャスターがニュースを読み上げている。
『昨日未明、小型コミューン、ゼルストがC連邦を含む大型コミューンに対し、宣戦布告を声明しました。それに関してC連邦政府は、特務部隊アンヘルによる強行作戦の実施を検討しているとの考えを……』
特務部隊アンヘル。世界が変わったとすればその一つとして含まれるであろう事柄であった。
この六年でC連合は連邦派と連合派閥へと分裂。連邦派は《スロウストウジャ弐式》を前提とした強攻部隊を採決し、それを実行。弱小コミューンで勃発する紛争を次々と解決へと導いている。
その実績に比して連合派閥は肩身が狭く、実績も上げ辛い。リックベイは上官に義を通すため連合派閥に属しているが、彼ほどの人格者は連邦派に祀り上げられるべきという意見も少なくはない。
「……少佐は、まだ」
「ああ。調印式にも参加しなかったし、やっぱり連合派閥の上からは逃れられないみたいだ。あの人も不幸と言えば不幸だよな。上のしがらみに囚われて六年前のカウンターモリビト戦においての英雄的な働きもまるで無視。未だに少佐という役職なのは……おれとしてもちょっとな。思うところはある」
この六年で二階級特進を遂げたタカフミは連邦派閥に属している。はからずも師匠であるリックベイとは対立構図になってしまっているのが、瑞葉としてはいたたまれなかった。
「アンヘル……、いい噂は聞かない」
「あまりおれらがどうこう言っても仕方ない話でもあるんだけれどな。アンヘルは別系統の命令を持っているし、おれは出来るだけ平和的解決が望ましいって思っているが……、っと、やめようぜ? だってせっかくのイヴだろ?」
オーロラビジョンのニュースが切り替わり、クリスマスイヴの続報を告げる。
そのような行事、ブルーガーデンには存在しなかった。信仰というよりも、ここで生きているのは娯楽である。
娯楽という観念をまるで理解出来なかったのは六年も前の話。
今では自分の中に染みついているのだから妙なものだ。
「そう、だな……。アイザワ。店というのはどこだ?」
タカフミは折れ曲がった通路の先を指差す。
「あそこの窓際。一番いい席を取っておいた」
温かな明かりの灯る店構えは今まで来た事もない高級店であった。
「大丈夫なのか……? わたし……なんかが居ても」
「何言ってるんだって。羽根も取れたし、全然大丈夫だろ」
予約を取り付けていたタカフミは迷わず入り、窓際の席へと自分を導いた。
不思議な事に他の客はいない。
「……空いているんだな」
「いや、貸し切りなんだよ」
その言葉の意味が分からずに、瑞葉は小首を傾げた。
「何で貸し切りなんだ? 別にそこまで気を遣わなくっても……」
「いや、おれが気ぃ遣っているのは、その……そういう事じゃなくってだな」
どこか要領を得ない言葉振りに瑞葉は当惑する。
自分のような人間を招くのにはやはりこのような高級店は好ましくないのではないか。
そう思った矢先、店主が赤い薔薇の花束を持ってくる。
誰に渡すのだろう、と視線を流していた瑞葉はその花束をタカフミが受け取った意味が分からなかった。
店側からのサービスだろうか、と窺っているとタカフミは姿勢を沈めて自分に花束を突き出した。
「その……瑞葉。整備モジュール取れたの、おめでとうって言いたい」
まさか自分への花束だとは思いもしない。
瑞葉は口元を押さえて頭を振った。
「アイザワ……、そんなの別にいいのに」
「おれがよくないんだっての。……それと……すげぇ後付け感と、ついでの用事感がパなくって……渡すのはすげぇ憚られるんだけれど」
「何だ、アイザワ。ハッキリ言ってくれ」
花束だけでも充分に嬉しい。ようやく機械天使の宿命から逃れる事が出来た。その証明になる。
タカフミは膝を折った姿勢のまま、ポケットから小さなケースを取り出した。
何だろう、とその掌サイズのケースを観察する。
「おれと……結婚してくれないか」
不意に出た単語に瑞葉は理解が追いつかなかった。
結婚。
浮いた言葉である以上に、自分にはまるで縁のない言葉であった。
「あっ……またやっちったか? おれ……」
言葉尻が不安定になるところもタカフミらしい。微笑もうとして瑞葉は頬を大粒の涙が伝うのを止められなかった。
「あれ? 何だ、これ……」
「ああっ! ゴメン! 瑞葉! それっぽい格好もせずに軍服で告られたら、やっぱり嫌だよな? 次からはちゃんとするからさ! だから、嫌になったとかその……出来れば言わないで欲しいし……」
「いや……嫌とか言う感情はないが……。わたしはどうすればいいのか、分からない。頷けば……アイザワ、頷けばいいのか?」
「それ……彼氏に聞くか……? えっと、おれの心情としては頷いてくれるとすげぇ嬉しい……っ!」
タカフミが嬉しいのならば自分も嬉しいはずだ。瑞葉は胸の中がどことなく温かくなっていくのを感じていた。
今まで感じた事のない、満たされているという感覚。
体温がじわりと上がってきたのを関知する。以前までならば体調不良だとして精神点滴が打たれていた現象はしかしこの時、誰にも邪魔されなかった。
これが、自分の感情。
誰に可視化される事もない、自分だけの想い。
「嬉しい……ありがとう、アイザワ」
「その……瑞葉。アイザワっての、これからはなしにしようぜ。だってさ、これ受けてくれたって事は、お前もアイザワになるんだぜ?」
「わたしも……アイザワ?」
「いや、だってよ! これプロポーズじゃん! どう考えても! だったら、ほら、ファミリーネームは一緒のほうがいいっつうか……。女々しいかもだけれどっ! おれなりのケジメにしたいんだよ。瑞葉、お前今までファミリーネームなかったろ?」
「なくともC連邦内では身分は保証されている」
「じゃなくってさ! おれはその……お前と、家族になりたいんだって!」
「家族……」
初めての言葉であった。自分にこれまで家族などいたであろうか。鴫葉や枯葉は戦友であって家族ではない。
近しい間柄などタカフミを除けばリックベイ程度しか思い浮かばない。その程度の、自分の世界。自分の認識。
だというのに、この手を伸ばせば届く距離に、家族がいる。家族になって欲しいと言ってくれている大切な人間がいる。
かつては取りこぼしたものだ。
戦火の中でしか、見出せなかったもの。それがどこでもない、硝煙の臭いもしないレストランで、ここまで満たされた気持ちで味わえるなど思いもしない。
――自分でも人並みになれるのだ。
噛み締めた感慨に瑞葉は首肯していた。
「うん。わたしも……アイザワと家族になりたい」
「だからアイザワじゃ、お前もアイザワじゃん……」
後頭部を掻いたタカフミに瑞葉は自然と笑みがこぼれていた。どうしてだろう。こうもてらいなく笑える。こうも、誰かのためを思って笑う事が出来る。
どうしてだろう。
どうして今までここまで得がたかったものが、この手の中にあるのだろう。大切なもの、手離したくないものを、瑞葉はようやく見つけていた。
「でも、六年もアイザワだったのに、今さら呼び方を変えられるか」
「じゃあ、アイザワでいいっての。っつたく、お前はいっつも強情だよな」
「……言われたくない。アイザワにだけは」
「そうかよ」
店主からしてみれば仲睦まじい二人なのだろう。感極まった店主が鼻をすすっていた。
「あ、すんません、シェフ……。おれら、勝手にイチャついちゃって」
「いいですよ。お二方。今日は何もかもが変わった日です。それをただただ祝おうじゃありませんか。最高のワインと食事で」
タカフミがサムズアップを寄越す。店主も心得ているのか、それに返した。
「しかし……アイザワ。一つだけ疑問が……」
「な、何だ? まさか俗に言う、マリッジブルーって奴……? 早くね?」
「いや、そのだな。栄養状態がよくなったので、この指輪、わたしの指のサイズに合わないぞ?」
手に取って見ても指のサイズより一回り小さい。タカフミの顔が青くなった。
「げっ……マジで?」
「マジだ。アイザワ。これではどうしようもない」
「えっ……こんな事で婚約破棄? 嫌だぜ、おれ」
その言葉にはこちらもむくれるしかない。
「嫌なのはお互い様だ。指輪というものは慎重を期して買うものだと聞く。これではご破綻になってもおかしくはない」
「いや……っ、そのさ……! だってサイズ確認なんてする時間もねぇって言うか……」
「笑って誤魔化しても駄目だ。アイザワ。この怠慢は大きいぞ」
「……少佐みたいな口振りだよなぁ、瑞葉は」
「当然だとも。わたしはリックベイ・サカグチ少佐を尊敬している」
「……おれは?」
「……言わせるな。ばか」
自然と紅潮した面持ちがその証であった。タカフミは嘆息をつく。
「お互いに、難儀だよなぁ」
「家族になるんだろう。そりゃそうだ」
「おれもまさか天使と結婚する羽目になるなんて……」
そこまで口にして失言だと理解したのだろう。慌ててタカフミが言葉を訂正する。
「いやっ、違くて……。別にあの……お前のあの姿を揶揄したわけじゃないって言うか……悪い。テンパってる」
「新型人機に乗る時よりも、か?」
「……数十倍くらい」
瑞葉はやれやれとでも言うように肩を竦めた。
「わたしも天使をやめてこんな事になるなんて。……正直テンパっている」
「意味分かって言ってる?」
「ばかにするな。……ばか」
ワインが運ばれてくる。高級料理のフルコースも、であった。
ようやく生え揃った永久歯が、物を噛んで食べるという生物ならば当たり前の感覚を瑞葉に与えていた。
解き放たれた機械天使は、ようやく堕天した。ブルーガーデンという永遠の楽園から追放され、C連邦の、一軍人の妻という、当たり前の幸せの帰結を描こうとしている。
それが自分でもどこか可笑しくって、覚えず瑞葉は微笑んでいた。