戦場でうろたえれば死を招く。
そう胸に刻んでいた少年は自分の名前も、ましてや出生も知らない。だから、大人達に呼ばれる俗称だけが彼の証明であった。
「おい、レン! てめぇ、遅かったじゃねぇか! 何を道草食っていた?」
苛立った大人が自分の肩口を引っ掴んで腹腔を蹴り上げる。激痛よりもこの後に対応する言葉が浮かんだ。
「……すんません」
「すいませんで済むか! ……ったく、鈍っちい愚図だな、てめぇは」
「……すんません」
「まぁま。そこまでにしようじゃないか。我々だって急いでいるわけじゃないんだから」
諌めてくれた大人はいい人間を装っているが、レンはその大人が戦場に放り込まれると一番に女子供を犯し、殺し尽くすのを知っている。
いい人はどこまで行ってもいい人じゃない。
レンが学んだ戦場の常套句の一つであった。
「レン。召集には遅れるものじゃない。それとも、理由があるのかな?」
問いかけた相手にレンは真正面から言葉を投げる。
「いえ、犬が」
「犬だぁ?」
「居たもので。撃ち殺してきました」
「おい、レン! てめぇ、オレらが頭悪いんだと思って適当こいてんじゃねぇぞ! 犬なんて百五十年以上前に絶滅しただろうが! 野良なんているはずがねぇ!」
「……じゃあ、分かりました。連れてきます」
レンはこうなる事を何となく分かっていたので、息の根を止める前の「犬」を連れて来た。
「犬」は他国の言葉で必死に命乞いをする。先ほどまで自分を叱っていた男が愉悦に口角を吊り上げた。
「レンよぉ……そういうところ、嫌いじゃねぇぜ」
「……どうも」
「犬」は自分の上官のお気に入りになったらしい。首根っこを引っ掴まれて上官の下へと運ばれていく。
――よかった。これで一つ、いい事をした。
安堵したレンに上官を諌めてくれた大人が肩を叩く。
「レン。あれの事を今でも……犬だと思っているのかい?」
「ええ、犬です。他国の女なんて、犬でしょう?」
破顔一笑した大人はレンの肩を何度も叩いた。
「そうだ。よく言ったな、レン」
「また一つ、コミューンが陥落したらしい」
奥まった場所に座するのは自分達の統率者だ。浄化装置のマスクで顔を覆い、背中には大型の洗浄モジュールをつけている。
「またですか……連中、やり方がどんどん過激になっている」
「我々としても兵士を失いたくはない。だから、これは大きな躍進となるだろう。レン、前へ」
「はい」
歩み出たレンは統率者からキーを受け取る。刻印の施されたキーにレンは統率者を見やった。
「今日からお前が切り込み隊長だ」
その発言の天啓にレンは膝を折って感嘆する。
「ああ、なんと……畏れ多い」
「レン。お前が今日からみんなを守るんだ。とてつもない務めだぞ? 出来るな?」
「ええ。分かっています。でも、俺、心配事が一つ」
頬を掻いて口にした言葉に大人達が囁いた。
「何だ? 言ってご覧なさい」
「……相手を、殺してしまってもいいんですよね?」
その問いに統率者がマスクの下で呵呵大笑と笑った。
「レン。お前は優しいからな。殺すのが惜しいと思う事もあるだろう。だが、安心していい。その鍵は人殺しを許された人間のためにある」
レンは今一度鍵を握り締め、統率者へと頭を垂れる。
「おおせのままに」
身を翻したレンは灰色の街並みを抜け、一目散に裏路地へと入っていった。裏路地と裏路地の間に不意に沸いた、小さな空き地。そこが自分の帰る場所だ。
「レンにいちゃんだ!」
声を上げた妹達にレンは笑みを浮かべて頷く。
まだまだ笑い方を学んでいる途中であったが、妹達の前では自然と顔が綻んだ。
「ただいま」
「おかえり!」
六人の妹達はそれぞれ首筋にチップが埋め込まれている。統率者曰く、いずれ必要になるらしい。
それは素晴らしい事のように思えた。この世の中は必要のないもののほうが遥かに多いのに妹達は未来を約束されている。
統率者は心優しい存在だ。
駆け寄ってきた妹達の髪を撫で、レンはキーを見せる。
目を瞠った妹達にレンは言いやった。
「ようやく、人機に乗れるぞ!」
「ホント? レンにいちゃん、人機乗りになるの?」
「ああ。これがあればもっと守れる。もっと、色んなものを。大きなものだって」
妹達が口々に自分の事を褒め称える。
「レンにいちゃんはやっぱりすごいね! だって一番だもん!」
「オヤシロ様に連絡しなきゃね」
妹の一人が先導し、コミューンの最奥に位置するエレベーターへと踊るような足取りで歩んでいた。
自分も身体が軽い。
今まで人機の戦闘経験はなかった。だからこそ、ここまで生き残れたという事実でもあったが、ようやく人機に乗れるのだ。
妹達をより強い力で守る事が出来る。
六人の妹と自分を乗せ、中型エレベーターが下降していく。
紺碧の汚染大気が濃くなってきた。
レンは迷う事なくマスクを妹達に貸し与える。
「一人三分な」
「レンにいちゃん、大好きー!」
「あたしのぉ! あたしが被るんだもんっ!」
妹達の取り合いを微笑ましく眺めながらレンは彼女らの服飾を観察していた。
擦り切れた一枚布。機械油でまだらに汚れた服装。
また上官に頭を下げなくては、とレンは感じていた。妹達の存在は秘密にしてある。彼女らの身の上を話せば、きっと上官も黙っていないからだ。
だから他人よりも多く布を買いつけ、他人よりも多く服飾を持ち寄った。そのせいでレンの手取りは減る一方であったが、妹達の安全がなくなるよりかはずっといい。
自分の出生も、ましてや経歴もまるで不明なレンが唯一の寄る辺にしているのが六人の妹達。
彼女らの笑顔さえあればいい。他はどうなったところで知った事ではない。
たとえ他国のコミューンからのスパイが殺されようとも犯されようとも、別にどうだっていい。ただそれだけで妹達への追及が逃れるのならば安いものだ。
今月の手取りを計算しようとして、レンはそういえば百の位より先は計算出来ない事をまた思い出した。
「あっ、レンにいちゃん、着いたよ」
「オヤシロ様だぁー」
妹達が一目散に駆けていく。こけるなよ、と声を投げてからレンはコミューン地下施設に存在する空洞地帯を仰いだ。ここは上層の光もほとんど差し込まない。汚染大気濃度は深刻で、呼気は白く染まる。妹達はろくに大気汚染防備も行っていないので推奨はされないのだが、自分は何か事があると地下空洞の最奥に位置する社へと向かっていた。
鳥居をいくつも潜り、錆色に彩られた「オヤシロ様」の前で妹達が踊っていた。
思い思いの乱舞にレンは笑みがこぼれる。
「オヤシロ様」は静かにこちらを見下ろしている。その眼差しは慈悲に溢れていた。
「オヤシロ様の前だぞ。あまりみっともない真似をするなよ」
そう注意してやると妹達はオヤシロ様の御前でぴたりと歩みを止め、それぞれ深々と頭を垂れた。
自分も同じように倣う。
オヤシロ様の存在を知っているのは大人でも一握りであり、ここまでのルートを熟知している大人はといえばほとんどいないはずだ。最早、久しく忘れ去られた代物である。
レンは、自分と妹達を匿っていた男からそれを伝えられていた。
その男は最後まで抗い、自分と妹達を守り通した。時折夢に見るその相貌はどこかレンの胸に感傷をもたらす。
「オヤシロ様、オヤシロ様。レンにいちゃんが晴れて〝モリビト〟に選ばれました」
妹達の報告にオヤシロ様は下層地区を吹き抜ける風を受けていた。菩薩を思わせるその面構えが妹達の報を喜んでいるようにも映る。
「照れるからやめろって。それに〝モリビト〟には死ななきゃなれないんだぞ」
まだ〝モリビト〟には遠い。そう確信しながら、レンはオヤシロ様へと供物を差し出す。
鉄製品を足元の賽銭箱に入れてやると、オヤシロ様は何か一つ願いを叶えてくれるのだという。
この汚染大気の中、侵食を受けていない鉄製品はそれだけでも貴重。すがりたい気持ちの表れであったのかもしれないが、レンは特に気にしていなかった。
オヤシロ様の恩恵も、〝モリビト〟になれると言う事実も、どこか遊離している。
それは前線に立って引き金を絞っていると充分に理解出来た。
銃弾を前に倒れる人間は無力。
錆を欠かさず取ってやっている手持ちのアサルトライフルは幾人もの兵士を殺してきた。
鉛弾を撃ち出し、相手を屠る。
シンプルに彩られた世界は、レンにとってしてみれば、理解が容易いという意味で胸に染み渡った。
ヒトは銃撃を前に無力。ちょっとでも急所を狙えばすぐに死んでしまい「モノ」に成り果てる。
「モノ」ならばどれだけ撃ち込んでも罪悪感はない。銃弾が相手の額に吸い込まれれば僥倖。
それ以外の箇所でも相手がよろめき、一瞬でも隙を見せれば心の臓か、あるいは他の部位を撃ち抜く事が出来る。
どこまでもシンプル。
どこまでも分かり切った事象。それが自分の世界であり、妹達とは地続きではない世界であった。
妹達はこの世界がどれほどまでに短絡的なのかは知らないだろう。踊り子の衣装を腰に纏い、オヤシロ様の前で半裸になって喜びの舞を奏でてみせる。
妹達の歌声にレンは心の底から癒された。
この世界がどれほどまでに短絡的でどうしようもなくとも、妹達だけは守らなければならない。
そのための鍵だ。
レンは今一度、手にした鍵を握り締めた。
「〝モリビト〟になってやる。俺が、妹を守るために」
仰いだオヤシロ様の相貌が静かにその決意を受け止めていた。