《キリビトエルダー》のコックピットに入った刃は確かな手応えを持っていた。
鉄菜は息を切らしつつ、最後の最後に聞こえてきた操主の声を思い返す。
「勝利者は、私達ではない……?」
どういう意味なのか。それを問い質すような時間もなかった。
エクステンドチャージの残り時間ギリギリまですり減らした機体の損耗率は五割を切っている。帰投に必要な血塊炉の出力を概算しても限界であった。
「帰るんだ……。私達は、そのために……」
身を翻しかけた《シルヴァリンク》のコックピットを震わせたのは接近警告であった。熱源に習い性の身体が盾を構えさせる。
射出されたのは実体弾のパイルバンカーであった。リバウンドの盾へと命中したパイルバンカーが亀裂を生じさせる。
あまりの威力にリバウンドフォールが発動しなかったのである。
「まさか……まだ敵が……!」
視線を投じた先にいたのは赤く照り輝く流星であった。宇宙の常闇の中でも一段と映える色彩を持った機体がこちらへと急接近する。
左腕にはリボルバー式のパイルバンカー射出装置を持ち、右手は腰に装備した得物を握り締めていた。
『――待ち焦がれた。この時を、今か今かと。俺は、この瞬間のために生きていた!』
不意に入ってきた通信チャンネルと共に不明人機が抜刀する。鉄菜はRソードを突き上げ、その太刀筋を受け止めていた。
干渉波のスパークが激しく散る。驚くべき事に相手の武装は実体剣であった。
「ただの……刀だと言うのか」
否、その刀身には穴が無数に開いており、リバウンド効果を内側より発生させ、穴を星座のように稲妻が繋いでいる。
『幾たびの戦い、数多の犠牲と魂の怨嗟を受け……ここに馳せ参じた。この俺と! 《プライドトウジャスカーレット》が!』
向かい合った剣の圧力は本物だ。本物の強者の刃。鉄菜はRソードの出力を上げて応戦する。
「お前は……何者なんだ!」
『忘れたとは言わせない……。この宿命、この因果! 俺を堕落させ、この星に落ちてきた凶星そのものが!』
繋いだ通信回線の声に鉄菜は思い出していた。惑星に降りた日、執拗なまでに追ってきた《バーゴイル》の使い手を。その操主の声を。
「まさか、あの時の……」
『ようやく思い出したか。だが、まだだ! モリビトッ!』
薙ぎ払われた一閃が《シルヴァリンク》の肩口を削る。Rソードでも完全な受け流しは出来ないほどの刃。その洗練された太刀筋は最初の比ではない。似た感触を、鉄菜は覚えている。
「C連合のリックベイ・サカグチの剣術……。だがどうしてそれをお前が……」
『知る必要はない。貴様に人生を狂わされた俺が、自らの手で! 報復の刃を向けるだけなのだから!』
実体剣の生み出す辻風にエクステンドチャージで損耗した機体が震える。盾で受け止めようとしてリバウンドの効果が完全に剥がれ落ちている事に気づいた。
「リバウンドフォールが……」
視線をやると突き出たパイルバンカー同士が電子を伴って繋ぎ合わされ、ジャミングの電磁波を放出していた。
『この連装型パイルはリバウンド兵器を麻痺させる。それだけではない。貴様を討つのに、この装備は相応しい!』
リボルバーよりパイルバンカーが連射される。鉄菜は盾で受け流そうとするがあまりに相手の威力が高いためか、あるいは執念がそうさせたのか、盾が左腕諸共引き剥がされる。
残った左手で刃を受け止めようとしてその掌が寸断された。
「何を望む! この戦い、お前は何のためにここまで来た!」
『何を、だと? 知れた事。俺は全てを守り通す。この手から滑り落ちたもの、その全てを取り戻すんだ。そのためならば鬼にも悪魔にもなろう。そうだ、俺が――守り人だ!』
「お前が、モリビトだと」
気圧された勢いで振るわれた刃にRソードが弾き飛ばされそうになる。鉄菜は今にも吹き飛ばされそうな操縦桿を必死に持ち堪えさせて応戦の刃を振るっていた。
相手はモリビトを名乗っている。それも己から全てを奪ったであろう、呪縛の名前を。
だが、と鉄菜は奥歯を噛み締める。それは自分達にとっての希望の名前。決して呪いであってはいけないのだ。
「違う! お前は、モリビトではない!」
呼応した刃が《プライドトウジャスカーレット》の左腕を落とす。敵は激しく推進剤を焚いて後退しつつ、実体剣を振るった。密集したリバウンドのエネルギーが刃の形となって結実し、こちらへと剣閃を飛ばす。
Rソードでも打ち返せないほどの密度を持つ残像の刃に鉄菜は舌打ちした。
『俺は全てを守ってみせる。俺の手で、何もかもを。それこそ世界さえも!』
「傲慢な! そのような事、人間が出来るはずもない!」
『ならば、人間なんてやめるさ。俺は全てを捨ててきたんだからな。今さらヒトを超える事に、いささかの躊躇いもあるものか!』
「違う! それは諦めただけだ! 強さと履き違えてるんじゃない!」
自分がそうであったように。何かを諦める事でしか、前に進めないというのならば、それは強さではない。ただの弱者の抗弁だ。
斬り返したRソードの二の太刀が《プライドトウジャスカーレット》の胸元を引き裂く。血塊炉の青い血潮が瞬時に蒸発して焼き付いた。
相手の剣筋が《シルヴァリンク》の頭部を射抜く。過負荷に耐えかねた頭部が引き裂け、青い血が迸った。
『頭が弱点ではないのか。……だが、そんな事さえも関係がない。俺は強くなったんだ。高みへと到達した。守り人として、全てを守る。貴様に奪われた何もかもを。恨みの代行者、人々の声を聞け! モリビトォッ!』
「その声から耳を背けているのは、お前自身だ! お前の傲慢な考えが、また罪を重ねる!」
《シルヴァリンク》が顔面の半分を失いながらも《プライドトウジャスカーレット》を睨み据える。隻眼のデュアルアイセンサーが倒すべき敵へと向けられた。
《プライドトウジャスカーレット》は己の機体を回転軸にして竜巻のような剣筋を見舞う。Rソードで弾き返しつつ、その竜巻の中心軸を狙った。
破、と声にした一突きは敵人機の右足を貫いていた。
足を犠牲にした敵が大きく周回し、こちらへと最後の一閃を見舞おうとする。
『傲慢でもいいさ。願うのならば、傲慢なほうが!』
「それをエゴだと! お前自身が分かっていないのならば! 私はお前を斬る! 《モリビトシルヴァリンク》! 鉄菜・ノヴァリス!」
『いいだろう! その力で俺の正義を曲げられるというのならば! 俺はこの力を押し通す! 《プライドトウジャスカーレット》! 桐哉・クサカベ!』
お互いの咆哮が相乗し合い、相手へと浴びせる一太刀に全てを賭ける。自分の心。これまで培ってきた何もかもを。
切っ先と一撃に信念を。
赤い流星と青い軌跡がうねり合い、もつれ込んで――直後、全てが弾け飛んだ。
どこをどう貫いたのか、刃がどのように切り裂いたのか、それはどちらにも分からなかった。
今、自分達の持つ全てを乗せた争いの剣は、互いの人機を打ち破る。
『リーザ……燐華、俺は――』
「モリビト、私は……」
青い血潮が宇宙の闇に散り、爆発と共に二つの人機は消えていった。
指先がコンソールに触れて、ああ、まだ生きているのか、と感じる。
コツンと冷たい感触。耳朶を打つのは先ほどから漏れ聞こえている救難信号であった。あらゆる通信チャンネルが介在し、この宙域における生存者を問いかけている。
つんとブルブラッド特有の刺激臭が鼻腔を突き抜けて、桃はようやく目を覚ました。
《ノエルカルテット》はほとんど大破同然であった。外部から働きかけられて、この宙域を少しずつ離れているのが分かった。
「ここは……」
ヘルメットの一部が割れたからか、額に疼痛を感じる。血が滴っており、片目が開けなかった。
『無事ですか、三号機操主様』
問いかける声に桃は逆に質問を返していた。
「クロは……?」
その名前に相手は沈黙を是とする。桃はコックピットの中で項垂れた。思えばフルスペックモードで出撃したのに、残ったのは損耗した中心軸の機体だけ。これだけ自分が争い合ったのだ。本陣へと奇襲をかけた鉄菜が無事なわけもない。
だが、どこかで期待もしていた。鉄菜ならば生きていてくれる。自分にないものを持っているのだと。
その詮無い希望が、現実の前に打ち砕かれる。
桃は本隊よりもたらされる情報を聞いていた。
『ブルブラッドキャリア本隊は安全地帯まで撤退いたしました。この回収作業が最後の出撃となります』
その言葉に桃は操縦桿を握り締めていた。《ノエルカルテット》を稼動させ、《アサルトハシャ》の拘束を振り解く。
『……どこへ! 三号機操主!』
「クロを、助けなきゃ……。きっと、一人で、寂しい思いをしている。あの子、見た目よりずっと、脆いから。儚いから……。誰よりも、傷つきやすいから。だからモモが……」
しかしすぐに《アサルトハシャ》に追いつかれその行く手を遮られた。
『いけません! 今、離反すればそれこそブルブラッドキャリア全体の指揮権に――』
「組織なんて関係がない! ……モモは、モモは、クロを助けたいのっ!」
初めて発露した感情は頬を伝う涙となって熱く燻る。しかし《アサルトハシャ》二機は譲らなかった。
『ここでの敗走はまだ決定的ではありません。まだブルブラッドキャリアはやれます。そのために、無事帰投していただきたい』
「でも、クロも、アヤ姉もいないブルブラッドキャリアなんて! そんなの家じゃない! 家族の形じゃ……ない」
搾り出した声には嗚咽が混じっていた。もう自分の知っている居場所は奪われてしまったのかもしれない。そう思うと居てもたってもいられない。しかし、《アサルトハシャ》の操主は落ち着けと返す。
『それこそ、相手の目論見通りになります! 今、三号機操主様が失われてしまえば、それこそどうしようもないのですよ!』
荒らげた声音にはこれから先の未来を憂うものがあった。しかし、桃からしてみれば、それは決定的な今を失う事。
今を失いたくはない。
彩芽も、鉄菜も、今のために戦ったはずだ。
無論、未来も含まれていただろう。だが、今がなければ未来はない。過去を洗い流せないように、誰しも今を生きているのだ。
「でも……モモはモモの今のために、クロを失ってまで……」
『達する。三号機操主』
ニナイの通信であった。《アサルトハシャ》の操主がうろたえる。
『き、局長……。操主様が……』
『桃・リップバーン。あなたの功績は素晴らしいわ。だからこそ、現状、帰還しなさい。《スロウストウジャ》部隊を全滅せしめ、さらに生き延びた経験があれば、ブルブラッドキャリアは次に行ける』
この女も次しか考えていない。自分達に、次があるものか。
「冗談……! クロを助けなくっちゃ……そうしないと何もかもが――」
『自惚れないで!』
怒声に桃は硬直する。ニナイは一拍置いてから、平時の声を吹き込む。
『……三人失うのと、二人失うのは違うのよ』
彼女も彩芽を失った。担当官としてあってはならない失態のはずだ。それでも持ち直そうとしている。未来を見据えようとしているのだ。
だから、ここでの敗走は決定的な敗北ではない。
いつかの勝利を掴むための、必要な足がかり。
鉄菜を助け出す事はもう不可能であった。宙域を後続の《バーゴイル》部隊が包囲しようとしている。熱源反応に《アサルトハシャ》の操主が逸る。
『操主様! 一刻も早く』
戦いの心得がない操主からしてみれば包囲陣を敷かれ、戦闘態勢に入った敵に勝つ術はないのだろう。
桃は項垂れたまま、返答した。
「了解。《ノエルカルテット》、三号機操主、帰還します……」
それしか選択肢はない。だが、それは今だけの話だ。次がある、とニナイは言っている。皆が皆、そうとは限らないが、ブルブラッドキャリアはここで潰えるべきではないはず。
ならば、その次に繋げるための一手を育むために。
桃は拳をぎゅっと握り締めていた。戦いの螺旋はまだ終わりではない。勝手に終わらせていい命では、もうなくなってしまった。
組織のためでも、ましてや担当官のためでもない。
自分のために、桃は生き残る事を決めた。
「クロ……それにアヤ姉。いつか、きっと。だから、その時に強くなるから。今だけは、モモを叱らないで……」
一番に叱責したいのは自分自身であったが、桃は奥歯を噛み締めてその言葉を霧散させた。
吊り天井の星空が眩く輝いている。無辺の闇に手を掻いた。世界はどこまでも空虚に広がっており、連動して動いた人機の腕でも何も掴めそうにない。
呼吸が途切れかけている。
生命維持装置は正常に働いていたが、意識は靄のように薄らいでいた。
眼下に映るのは虹色に染まった惑星。罪の象徴たる果実が熟れたように滲む。
あの罪の地上から解き放たれた命がいくつもの軌跡を描いて崩落した戦場へと、青い推進剤の光を棚引かせていた。
終わりを告げた戦地。何もかもが静寂の中に漂う。
誰かの刃。誰かの命。誰かの信念。誰かの覚悟。誰かの涙。
――違う。この涙だけは誰かのものではない。
「泣いているのは……私」
どうしてだろう。止め処ない涙の粒がヘルメットの中で浮かび上がり、鉄菜は白く染まった息を吐く。
どうして、こんな風にしか生きられないのだろう。
どうして、こんな風にしか死ねないのだろう。
何もかも分からないまま、モリビトの機体が黎明の光を受ける。果てしなき宇宙に広がる太陽の恵み。
罪を知っていても、あるいは知りもしないでか、日は昇り、朝を迎え、夜の帳は落ち、世界は一日を繰り返す。
どこかで誰かが殺し合っているかもしれない世界。どこかで誰かが愛し合っているかもしれない世界。
気の触れた兵士が世界のどこかで死体を撃つ。
慈愛に満ちた聖母が世界のどこかで赤子を抱く。
飢えた子供が世界のどこかで盗みを働く。
満たされない日常に没する少女が世界のどこかで己を切り売りする。
今も世界では、銃弾が飛び交っているのかもしれない。
あるいは、愛し合う言葉が交わされ合っているのかもしれない。
どちらも等価だ。
どちらが優れ、どちらが劣っているわけでもない。どちらも同じく、世界の事象。切り捨てられない世界の現象。
ならば、せめて銃弾の代わりに愛を。
そう願うしかなかった。
願う事だけが何にも邪魔されない。願う事だけが誰にも冒されない。
祈りは淘汰され、悲しみは西の空に沈む。
陰惨な現実は遊離し、希望は東の空に昇る。
ただ手を伸ばすだけだった。この世界を掴み取る手を。未来を、手にするべき指先を。
しかし、この指は闇を掻くばかり。
《シルヴァリンク》の残骸が宇宙を流れていく。
無数の人機の骸と同じように、モリビトであったという証明もなく、世界の中では全てが当たり前に同じ価値でしかない。
うねりの只中にある惑星は今日も明日を夢見る。
明日には終わっているかもしれない世界。
昨日には始まっていたかもしれない世界。
そして、夢想する。
いつか、今日よりもよくなっているいつかを。それがいつになるのか。誰にも分からない。分かる人間などいるはずもない。
世界を変えようなど、傲慢の一言だろう。
触れてはいけない場所だったのかもしれない。
だが、人々は禁断に手を伸ばした。禁忌を操った。
そうでもしないと、明日が変えられないから。今よりいい未来を描けないから。
――ああ、今にして思えば分かる。
「私達はきっと、一瞬よりずっと、長く感じていたかったんだ。幸福を」
掴めば消えてしまう砂のように儚いもの。言葉にすれば陳腐な泡のような代物。
それでも人々は願った。祈った。誓った。戦った。削った。殺した。愛した。
愛した誰かが殺し、祈った誰かが死に、戦った誰かが祈り、削った誰かが願い、目指した世界を手に入れようともがく。
それがどれほどまでに穢れていようとも。
罪の上に成り立つ世界を変えたくって、この指は彷徨う。
虚空に伸ばしていた手が力を失い、コンソールの上に落ちた。
――それでもただ、未来を信じては、いけないのだろうか。