一瞬、時間が止まった。
そう誰もが錯覚したのは何も間違いではない。事実、彼らの時は止まったのだ。それを認識する前に、もたらされたのは声であった。
「――こんなところにいらっしゃったんですね。皆様方」
歩みを進める人影を関知した迎撃システムがタレットの照準を注ぐ。
『何者だ!』
『ここをどこと心得る! この惑星を管理する元老院の』
「総本山、でしょう? 存じていますよ。何も、分からずしてあなた方と話し合おうだなんて思っちゃいない。アタシがそれほど無鉄砲に見えますかな」
元老院の義体達がその人物をカメラに捉えようとするが、どうしてもノイズがかかっており、人物の顔だけが加工されていた。
獅子の皮を被った何者かは潜めたように嗤う。
『貴様……何奴』
『元老院を知って、この空間に潜り込んだ、という事は死んでも文句は言えない、と分かっての狼藉か』
「あなた方は偏狭ですなぁ。そんなだから、百五十年も、地下のこんな陰気臭い場所で、世界を回し続けていたわけですか」
そこまで理解して、と元老院のシステムが総毛立つ。一体、この相手は何者なのだ、と。
『……ここに、人間が来られるはずがない』
『敵対システムか?』
「生身の人間ですよ。正真正銘。ただ、あなた方と違うのは、アタシはたった一人の、この世界を止めて欲しいっていう願いのために来たって事ですかな。大義名分も無論、ありますがね。まずは個人として、この元老院の最高決定議会に足を踏み入れたのだと、認識していただければ」
『……命がよほど要らぬと見える』
タレットの照準がその獅子の面を狙いつける。獅子の顔を持つ人物はせせら笑った。
「しかし、あなた方もよっぽどこの世界を変えるのが意地汚く、どこまでも無茶無謀だと信じていると思えますなぁ。そんなに面倒ですか? 罪を直視するのは」
『人は罪を直視するようには出来ていない』
『左様。人間は繰り返す。どうしようもなく愚かなのだ。だからこそ、半永久的に支配する存在がいなくてはならない。客観的に判定を下す、真の裁定者が』
元老院の放つ覇気に圧された様子もなく、獅子の人物は笑みを浮かべる。
見れば見るほどに奇妙な取り合わせだ。獅子の顔立ちであるのに、口元の輪郭はヒトのそれである。
「それがあなた方、元老院、と。ここまでよく出来たシナリオであったと思いますよ。プラネットシェル計画、三つの国家へのそれぞれの支配権、ブルブラッドキャリアを使っての誘導。全て、あなた方の仕向けた通りに動いた事でしょう。ですが、こうは考えませんでしたか? ――人間は、それほど簡単ではない、とも」
『何が言いたい? 狼藉者が』
『貴様の開く口などない。ここで蜂の巣になる前に、答えよ。どこの回し者か』
「回し者とは、随分な言われようだ。何なら調べればどうですか? お得意の世界を見渡すシステム――バベルを使ってね」
バベル。その呼称は元老院の中でも秘匿レベルの最大値に高い名前だ。それを紡いだ時点で、眼前の人物は命を捨てたも同然。
『バベルの事を知っているとは、貴様、ますます怪しいな。どこで仕入れた?』
「世界を回すのが少数の特権層だと思い込んでいるあなた方には一生分からないような場所から、ですよ。アタシはドブの中でも生き永らえる……虫けらのような存在です。悠久の時を生きてきたあなた方からしてみればそりゃあ、羽虫の些事でしょう。ですが、羽虫ってのは怖いんですよ。蚊の媒介する病原菌は遥か昔、人類の死滅原因とさえもされていましたからね」
『何者かと聞いている。バベルを知って、ただで済むはずがない』
『ブルーガーデンの生き残りか? あるいは、ブルブラッドキャリアの諜報員か』
「いい線行っていますよ。ほら、もう一声。それで真実が詳らかになる」
乾いた拍手を浴びせる相手にタレットの銃弾が床を抉った。拍手が止み、沈黙が降り立つ。
『嘗めないでもらおうか。さぁ、言え。何者なのだ、貴様は』
「……何者でもありませんよ。世界は、名もなき何者にも成り得ない者達で構築されているんです。それは、確かに小さなうねりであったかもしれません。ですが、それを百年、二百年と積み重ねられたら? 代を重ね、その都度、世界の広さを知る事が出来たとすれば? 人類が霊長の頂点に達する事が出来たのは何も一代限りの強力な進化系統樹のためではないでしょう? 生物は、進化をする事が出来る。そして、学ぶ事が出来る。過去の過ちから、未来にすべき事象までを」
『人類に叡智は必要ない。我々が支配し、屈服させ、そして隷属させる。それこそが幸福なのだ』
「そう信じて疑わないのならば、それでも結構ですがね。アタシは違うと思いますよ。だって、百五十年前、この場所に来られた人間がいましたか? いえ、おりませんとも。これから先も、恐らくはずっと。アタシだから出来たんです」
『驕りが過ぎるぞ、凡人。我々に牙を剥く事、どれほどの反逆か知れ』
タレットがその額へと照準する。しかし獅子の人物はその言葉の調子を緩める事もない。
「ここは静かでいいですなぁ。地上の喧騒も、人々の争いも、ましてやブルブラッドキャリアの闘争も、全てが世界の向こう側の出来事です。あなた方は世界の向こう側、本当に届かない場所から今まで観察してきた。だから出来た偉業もある。プラネットシェル、それが大きな一つであった。惑星をリバウンドフィールドで覆い、人々をこの惑星の保護下に置く。一見、良心的に見えます。汚染大気を宇宙に放ってはいけない。人類の原罪はこの星で留めなければ。……ですが、その実は違うでしょう? あなた方はただ、闇雲に進化していく人類が怖かっただけだ。この星から進出し、銀河を渡る術さえも手に入れた人類を籠の中に入れたかっただけ。小心者の作った小心者のためのシステム。それがプラネットシェル。自分達の制御出来る人間以外は必用ないという、これこそ比肩する者のいない傲慢。その過ちのしっぺ返しが、ブルブラッドキャリア。……とまぁ、ここまでは用意周到なあなた方の事だ。予測は出来たんじゃないんですか? だがまさかそれが三大禁忌の代物とは、思わなかったのでしょうが」
眼前のこの人物が話す真実に、元老院は震撼していた。どうして、誰も知る由もない事を、こうもつらつらと言ってのける? この獅子面の人物は何者なのだ、と。
『……ブルブラッドキャリアも焼きが回ったな。口が軽いと命も軽い。それを理解していないようだ』
「おんや? 理解していないのはそちらも同じでしょう? この地下都市に人類が一人でも踏み込めば、それは大きな損失となる。プラネットシェルの詭弁も、人類の生存圏の保護、という大義名分も、ましてやコミューン国家に今までやらせていた戦争もどきだって、もう通用しなくなる。バベルは人類史に残る発明です。まさしく、神代の領域の産物だ。ヒトの動き、人類の方向性を画一化させ、統一し、何もかもを監視下に置く。我々が唯一掴み損ねたのは、バベルがここにある一基だけではなく、もう一基存在する事。そっちとこっちを統合させて初めて、可能であると」
『可能、だと……、何がだ』
獅子面が浮かべたのはこの上なく卑しい笑みであった。
「――人類の統一と新たなる歴史の創造。ヒトは、少数者に回されるのではなく、多数者こそがこの世界を回すのに相応しいのだという再確認」
その言葉に元老院が固唾を呑んだ。このたった一人に過ぎない存在が、自分達の存在を揺るがそうとしている。そのあまりに現実からかけ離れた行動に、義体が哄笑を上げた。
『馬鹿な! 人類に今以上の幸福など、あり得ない! 歴史の創造と言ったな、小童が! 歴史を紡いで来たのはいつだって強者だ。それを理解せずして、何が!』
『理想論だけでは世界は回らん。しかも貴様は小さき肉体が一つ。そんなもの、塵芥以下だ。我々のような高尚な存在に任せればいい』
「高尚? 機械の中に自分の脳みそを浮かべて、ガチガチの鎧で固めたその身が高尚ですか? それはまた、随分と」
ほくそ笑む獅子面に元老院からの叱責が飛んだ。
『無礼もその辺りにしておくのだな! 人間風情が! 我々元老院の導き出す答えこそが人類をより、高度な場所へと引き上げるのだ!」
『モリビトも、ましてやブルブラッドキャリアも無用。我々の頭脳さえ、永久に生き続ければいい』
「あなた方はこう思っていらっしゃるんで? 一部の特権層が生き残れば人類が消滅し切ってもまだ、望みがあると?」
『そう思っていて、何が悪い?』
「いや、悪いとは一言も言っておりませんとも。ただ、非現実なのはどちらなのか、という話です」
『喋り過ぎたな、狼藉者。ここいらで打ち止めと行こうか。貴様の口の軽さも、何もかもを』
タレットの照準は五十個以上。確実に獅子面を葬り去るであろう。だが、この極地に至っても獅子面から余裕は消えない。
「あら? 命乞いでもしたほうがよかったですかね?」
『今さら遅い。最後に聞いておこう。どの組織の使い走りか』
獅子面は頭を振って、これだから、と述べる。
「あなた方は古い、と言っているのです。組織という楔という概念は最早、この星の生命体には相応しくない。我々は大勢がゆえに。群体なのですよ、アタシ達レギオンはね」
『聞いた事もない組織だな。ならばここで潰えろ。レギオンとやら』
タレットが弾丸を放つかに思われた。しかし、どのタレットからも銃弾が発射される気配はない。それどころか元老院の人々にもたらされたのは電力面のレッドゾーンであった。
次々と地下都市の電力が奪われていく。その緊急事態に全員が困惑した。
『地下都市の電源が……!』
『謀ったか!』
「謀るも何も、何も対策せずして来るはずもありませんでしょうに。あなた方を生かし続けるのは地下都市に張り巡らされた電力と言う名の生命の果実。それも、ここまでです。義体になったのが仇でしたね。どれほど優れた義体であろうとも電力を奪われれば、たちどころに消滅する」
『馬鹿を言え! この地下都市の電力は二重三重の策が施されている。落ちるはずが……!』
「では、ごゆるりとこの映像を」
元老院ネットワークへと映像が強制投射される。
そこには元老院が秘匿し続けてきた地上のエネルギー施設へと一斉に攻撃が成されていた。
傍目に見ればどこのコミューンに使われているのかも分からない施設ばかり。それらを同時多発的に、確実に焼き払っている。
あり得ない、と元老院の一人が告げる。
『分散して、情報を細分化していたはず……。元老院のネットワークですら、電源の位置を完全に把握していないのに』
「では、バベルを上回った、という賞賛と受け取っていいのでしょうかね」
『貴様ァッ!』
タレットへと電力が行き届かない。それどころか義体の維持すら難しくなっていった。常時の電力が失われ、元老院の議席が一つ、また一つと空席になっていく。
灰色に染まった元老院の義体が永遠の眠りにつく中、最後の足掻きを元老院ネットワークへと続けた。
「どれほど怒りに震えたところで無駄だという事です。今や、世界は我々レギオンの手に落ちた。多数派が少数派を圧倒し、その力を世界に示す」
『……何がしたい。多数による偽りの民主主義はいずれ破綻する。少数派が回すべきなのだ、世界は。そうでなければ壊れるのは目に見えているというのに……!』
「壊れてもいいから、今の世界を変えたいんですよ。いけませんかね?」
元老院の生き残りが笑止と鼻を鳴らす。
『それはブルブラッドキャリアと何が違う』
「彼らの理想も、いずれは潰えますよ。なに、もう終焉は見えています。モリビト三機は完全に駆逐され、安寧のうちに世界は回り続ける。よかったではないですか。完全に我々のものになる世界を目に出来て。光栄な瞬間ですよ、これは」
元老院はバベルへと直結させる。しかし、その行動を予見したようにバベルにウイルスが流し込まれていた。
汚染した元老院メンバーが断末魔の叫びを上げながら義体から黒煙を噴き出させる。
「ほら、余計な事をするとこうなります。バベルはもう使えませんよ」
『貴様……ただで済むと思っているのか。百五十年だぞ! その平和を、一時の感情で破局させるなど』
「一時の感情? 確かに百年以上も生き永らえれば、一刹那でしょうね。でも、人間っ
て言うのは、その瞬間瞬間に生きているものなんですよ。この地下都市……ソドムは我々レギオンが管轄する」
『傲慢な! 結局支配の頭が挿げ替わるだけだ!』
「ですがあなた方に任せるよりかはマシなはずです。なに、もうすぐそこまで来ていますから。安心して、死んでいいんですよ」
元老院が声を荒らげ、全タレットに命令を下す。
『殺せッ! このちっぽけな人間を、生かして帰すな!』
しかし、その命令も誰の聴覚をも震わせなかった。議席の半分以上が既に死んでいる。元老院消滅は時間の問題であった。
「さて、こんなちっぽけな人間一人殺せずに、死していくのは少しばかりかわいそうだ。あなた方はそもそも、間違っていた。その種明かしでもしましょうか」
『間違っていた、だと……』
「バベルです。惑星を掌握し、全ての選択権を持っていた高次システム。それがブルブラッドキャリアに踏み台にされていた事、まさか全く気づいていなかったのですか」
生き延びた元老院はその情報を同期するも、誰一人として知り得ていなかった。まさか、忌むべきブルブラッドキャリアに踏み台にされた?
その事実を飲み込めない元老院に獅子面は笑みを浮かべる。
「愚かなのは、あなた方そもそもだったって事です。バベルのような万能システム、押さえた側の勝ちなのは揺るぎない。おかしいとは、おもいませんでしたか。惑星から追放された者達が、どうして惑星の現状を誰よりも速く察知出来たのか。あなた方の読み取る情報が筒抜けだったんですよ。三大禁忌も、重要拠点も、何もかも。言ってしまえば罪人は惑星の人々ではなく、あなた方元老院であった。罪人達にせっせと情報を与え、報復の機会を与えていたのは他ならぬあなた方であったのですよ」
まさか、と絶望に身を震わせる義体達が声を荒らげる。
『あり得ない! それだけは、決して! それではまるで我々は道化ではないか! 何のために、今日の平和を築いてきたと思っているのだ。全て! ブルブラッドキャリアの! 百五十年前の悲劇を繰り返さないためだぞ! だというのに最も罪深いのが我々など、そのような事、あって堪るものか!』
元老院の振り絞った声に獅子面は醒めた様子で頬を掻く。
「実際、その通りなんですがねぇ。死ぬ間際でも認められませんか。悲しいもんですなぁ」
議席が一つ、また一つと失われていく。機能停止した義体を他所に残った元老院はネットワーク接続を強行した。ウイルスに感染したメンバーを振り払い、踏み越え、全てを犠牲にしてでもネットの海に逃げ込もうとする。獅子面が指をパチンと弾いた。
途端、電源システムがダウンし、全ての義体は表面上の稼動を停止する。
元老院の面々はただただネットの海を目指した。生き延びるために。そのために潜り込んだのはバベル使用履歴である。キャッシュに侵入した元老院の構成メンバーは最後の足掻きを使って自分の足跡を消し去った。
元老院議席が静寂に沈む。
地下都市、ソドムに居を構えていた元老院は、百五十年の隆盛を感じさせるような暇もなく、闇の中に沈殿した。
「陥落しましたよ。元老院は」
ユヤマが偽装ホロを引き剥がし、伝達する。通話先の相手は満足そうに声にした。
『そうか。では我らレギオンの行動は次の段階へと引き上がる』
「ええ。義体は残っています。地下都市ソドムに残存するデータを使い、この元老院議会から、世界を回す手はずくらいは整えられましょう。これから先を動かすのは、今を生きている人間。生身のそれなのだとね。彼らは特別でありましたが、だからと言って少数がいつまでも他者を引きずっていいものではない」
『全ては総体のために。多数派の、何も持たぬ人間こそが、支配層になる。時代を作るのは我々レギオンであり、凡人の集まりだ』
「ですが……これはこれは。妙なところで逃げ道を造ってしまったようですなぁ」
義体の一つに端末を繋ぐと最終アクセス地点が割り出される。皮肉な事に、それはたった一機の人機のメインメモリーであった。
『どうした? 元老院議会は電源を完全に落とされて義体は全員死んだはずだろう?』
「それが、数名のお歴々は逃げ切ったようです。甘く見ていました。ですが、この逃げ場所は絶好の機会です。送り狼を出しましょう」
『了承した。掃除屋に任せるとするか』
端末に位置情報を伝え、ユヤマはあまりに広大な地下空間を見渡す。義体数十機のために百五十年も保存された人間の罪悪の象徴。
選民思想の最たるものである元老院の議席の中、たった一人の生身であるユヤマはただ嘲った。
「惑星の罪悪を背負った特権層がその場所に逃げ隠れするとは、それもまた、相応しい末路かもしれませんなぁ。果たして、彼らはあなた方を赦しますかな?」
それさえも賭けだ、と胸中に結び、ユヤマは沈黙した義体を仰ぎ見る。
惑星の汚染から隔絶された地下都市。どれほどまでも利用価値はある。ここを発信源にして、レギオンは生まれ変わるのだ。
総体が惑星を管理する。
人々の意思の塊を代弁する存在が必要なのだ。それを買って出ている。今は小さなうねりでもいずれは変わってくるだろう。
そのための布石が打たれた形となった。
「人が封じた因縁は、人によって解き明かされる。地下都市ソドム。罪の象徴たるバベルを奪取されてどう動くと言うんです?」