まどろみの中から、不意に浮かび上がる感覚であった。
記憶の海はどこまでも広く、深い。深層へと潜っていくにつれて、青々とした世界の中に放り込まれていくかのようであった。
地上での激動の戦いの日々が通り過ぎていき、根底に残ったのはそれ以前の記憶である。
原初の記憶に触れた途端、フラッシュバックが襲いかかった。
繰り返される模擬戦という名の己を殺す日々。失敗作と断じられた者達が培養液に浮かんでいる地獄絵図。
自分と同じ顔の少女達が薄っすら瞳を開きながら、カプセルの中で眠っている。
――この子達が、いずれ何のしがらみもなく、目を覚ませたらいいのに。
そう言っていた誰かの顔を振り仰ぐ。だが影になっていてその相貌は窺えない。
「私は違うの?」
単純な質問。好奇心でも何でもない。ただ知りたかっただけ。
自分はまどろんでいなくていいのか。眠りの中に漂っていなくていいのか。
その人は少しだけ目線を伏せて言いやる。
――そうね、きっとあなたは、この世界を……。
途端、ノイズが脳内を掻き乱していく。巨大な影が屹立し、血のように全身から赤い光を放出する。
《シルヴァリンク》、と断じたが、違うのは内部骨格がむき出しになっている点だ。血塊炉周辺が異常に発達した炉心で覆われており、赤い光が明滅する。
――血塊炉臨界点! アンシーリーコート、暴走します!
誰かの喚き声と共に狂乱が場を支配する。
――押し留めろ! このままでは彼女が……!
手を伸ばそうとしてその指先がガラスに遮られる。
ほとんど露になったコックピットブロックの中で、一人の女性が微笑んだのがガラス越しに映った。
――生きて。だってこの世界はこんなにも……。
その言葉が耳朶を打つ前に、視界いっぱいに赤い光が満たされた。
鮮血の空間を漂い、記憶の残滓が浮かび上がってくる。
海面の向こう側で誰かが手を伸ばしてきた。それに呼応するように自分も手を伸ばす。
触れた指先に感じた温度に、ハッと目を見開いた。
眠りの中の感覚を現実へと持ち込み、鉄菜は伸ばした手の先を掴む。
何もなかった。空を掴んだだけの己の手を改めて見やり、今しがたの夢を反芻しようとしてやはり出来ない事に呻いた。
「起きたかい」
その声に視線を巡らせる。白衣のリードマンが解析機に視線を投じていた。
「私は……」
「極度の緊張状態に晒されていたか、あるいは体力の限界か。《シルヴァリンク》の中で昏倒。その前後はジロウが記録している。ジロウがいなければ、今頃宇宙を漂っていたところだ」
リードマンの言葉振りに、鉄菜は全身に貼り付けられたコードを認識する。手を振り払ってコードを引き剥がすと彼は肩を竦める。
「不愉快だが、我慢くらいはして欲しい。君だって体調不良の原因くらいは知りたいだろう?」
床に落ちたコードを拾い上げたリードマンに、鉄菜は睨みつける。
「ここは……」
「ラボの中だ。君の担当官だからね。《シルヴァリンク》の中で異常があったとなれば一番に看るのは当然だ」
「……もう問題はない。コードを剥がせ。私は自分で動ける」
「強がるなよ。解析にかけたが、《シルヴァリンク》共々、随分とボロボロだ。敵の機体が強かったか。あるいは地上での荒仕事のせいか。《シルヴァリンク》はフルスペックモードでも勝てないとなると考え直さなければならない」
まさか操主の選定だろうか。鉄菜は真っ先に言葉にしていた。
「私は降りない」
リードマンは端末に視線を落として首肯する。
「だろうね。それは君の存在価値に依存している」
「敵は墜とせたのか? 現状の被害は? どれだけブルブラッドキャリアが危険に晒された?」
「一度にいくつも質問をするな。処理出来ない」
鉄菜は自分が二号機から降ろされた事、それに加えてリードマンが焦りもしない事から現状を推測する。
「……持ちこたえたのか」
「何とか、と言ったところか。一号機……《インペルベイン》は中破。三号機は脆さを露呈した結果となった。三号機操主、桃・リップバーンに関しては一度再考の必要があるかもしれない」
「……桃・リップバーンが何かしたのか?」
「知らなかったのか? 彼女には特別な能力がある。我々科学者の範疇からしてみれば認めたくはないが、超能力、という奴だ。まぁ、言わせれば血続由来の潜在意識に働きかけた特殊性能と認識しているがね」
何を言っているのかまるで分からなかった。超能力など飛躍している。
「……仮にその通りだとして、ではどうして」
「三号機担当官の管轄だ。こちらではどうにも。ただ、あれは使うなと厳命が降りていたらしい。先ほど知った情報だがね」
澄ました様子のリードマンに鉄菜は問いかける。
「私も、お前らから言わせれば実験台だろう」
その言葉にリードマンの手が止まった。こちらへと向き直った彼は鉄菜の瞳を凝視する。
「……記憶が戻ったのか? いや、一時的な混濁か。いずれにせよ、実験台、というのは言い方が悪い。もう君達は立派な執行者、モリビトの操主だ」
「建前だろう。私達を管理したいと思っているはず」
「何を根拠にそう感じたのかは問い詰めないが、あまり精神的にはいい兆候ではない」
「ではどうする? 私を降ろすか?」
挑発めいた言い草にリードマンは頭を振った。
「喧嘩は嫌いでね。こちらから折れる事にしている。二号機からは降ろさない。ただでさえ人手不足だ。一号機の修復までは二号機と三号機のツーマンセルになる。三号機操主も恐らくは変えないだろう。容易く執行者の替えがあるのならばそうしているはず。桃・リップバーンに関しての罪状は不問に付す、との事だろう」
「信じがたい」
「かもしれないが、案外組織とはそういうものだ。脆さが出てくれば自ずと方向性は決まってくる。今の状態で、ブルブラッドキャリアの組織存続を目指した場合、内部でのいざこざは避けたい、というのは至極真っ当だ」
鉄菜はRスーツ越しに巻きついたケーブルを見やり、その嫌悪感に眉をひそめる。
「……私を調べてどうする」
「調べているんじゃない。看ているんだ。異常がないか、ね」
「人造血続として、欠陥がないかどうか、か?」
振り向いたリードマンは鉄菜の皮肉に、フッと笑みを浮かべる。
「……嫌われたな、随分と」
「好かれたければこのような真似はすまい」
「隠し事を重ねていたのは謝ろう。いや、隠していたと言うよりも意図的に君の記憶から排除していた、か。だがもう未成熟状態は脱した。今の君は立派な人間だ」
「人間? 組織が私達執行者を、人間扱いしているのか?」
この疑念はブルーガーデンでの単独任務で発したものだ。水無瀬なる協力者の要請。あの第四フェイズには裏があった。こちらの確信を持った言い草に、リードマンはどこか困惑気味である。
「人間扱い、か。そう言われてしまえばなかなかに立つ瀬もないのだが、人造血続である己の出自を君が知りたいと言うのならば、データにして羅列してある。それを脳内に直接書き込めば、すぐに記憶にする事が――」
「それは記録であって、私の記憶ではない」
どうしてだかハッキリとした語調でリードマンの提案を跳ね除ける事が出来た。自分でも不思議なくらいである。
リードマンは暫時唖然としていたが、やがて納得したようだ。
「……なるほど。軽んじていた、という点ではその通りだ。まさかそこまで自我が発達していたとは」
「私が私であるのに、理由は要らない」
「失った記憶も、かい?」
鉄菜はケーブルを引き千切り、ベッドから身を起こす。
「勘違いをするな。失ったわけではない」
歩み出た鉄菜をリードマンは止めない。その歩みを止めるだけの言葉を持たないのか。あるいは別の理由か。
ラボから出る直前、その背中に声がかかった。
「思い出したというのかな。君の基になった女性、最初の血続の事を」
完全に思い出したわけではない。だが、この胸の中にあるのは確かに自分の鼓動だ。間違えようもなく「鉄菜・ノヴァリス」という個人の脈動なのだ。
「その人物が誰であれ、今の私には関係がないはずだ。私は、鉄菜・ノヴァリス。ブルブラッドキャリアの、執行者だ」
その返答に満足いったのか、リードマンはそれ以上声を投げてくる事はなかった。
ラボの外に出るなり、鉢合わせしたのは彩芽である。どうやらこちらのラボに訪問しようとした矢先だったようだ。
「彩芽・サギサカ。《インペルベイン》が……」
「ちょっとトチっちゃって。でも中破だから。時間さえかければ直るってさ」
いつものように溌剌とした声だが、鉄菜はその声音にどこか陰が宿っているのを感じ取った。
「三号機操主は……」
濁した言葉に彩芽は悟ったようである。
「桃は、ね。……担当官といざこざがあるみたい。まだ拘束状態のままだって」
「超能力というのは……」
「誤解しないで、鉄菜。今回ばかりは、トウジャの時みたいにわたくし達だけで隠し事をしていたわけじゃないのよ。桃も自分では言うつもりがなかったって聞いたわ」
超能力云々を信じたわけではないが、鉄菜は桃の復帰を危ぶんでいた。
「最悪の想定になるが、モリビト三機によるオペレーションに乱れが生じる。この局面でモリビトが動けないのは大きな痛手となる」
「貴女は相変わらず、仕事人間ね。でも、わたくしも迂闊だった。トウジャタイプがあそこまでやるなんて思わなかったから。《インペルベイン》の代わりと言ってはなんだけれど、別の人機をあてがわれる事になりそう。ちょっとの期間だけれどね」
微笑んでみせた彩芽であったがその笑みには無理があったのは伝わってきた。
「……彩芽・サギサカ。このままでは世界はどうなる? トウジャタイプというひずみを抱えたまま回っていっても、あるのは人類同士の諍いだけ。これまで以上に、人々は争いを続けるだろう」
自分はどうすればいいというのだ。《シルヴァリンク》でも勝てないかもしれない。その予感に自然と手が強張った。
「鉄菜、震えて……」
「勘違いするな。恐怖ではない」
恐怖ではないはずなのに、震えが止まらなかった。どうしてなのだろう。このまま世界がずるずると引きずられ後戻り出来ない場所に自分も引き入れられるのがあまりにおぞましいのか。
持て余した熱に彩芽がそっと手に触れてきた。
鉄菜は面を上げる。彩芽は手を押し包み、首肯する。
「大丈夫……なんて楽観的な事言えないけれど、でも、貴女だって強いじゃない。鉄菜は今まで、充分に戦ってきた。だから、これまでも、これからも、きっと」
大丈夫、などという生易しい言葉で済まされないのはお互いに戦いの日々を重ねて来たのは分かっているからだろう。
――これからもきっと、戦い続けられるのだろうか。
そのような自信はない。二号機から降ろされるかもしれないだけで必死になっているのだ。未来の事などまるで分からない。
頭の中でやらなければならない事が渦巻いている。
人造血続、自分の基になった人間の事。まだ知らぬ《シルヴァリンク》の真実。それに――己の過去。
向き合わなければならないのに、現実はあまりにも時間がない。
山積した事実を消す事は出来ない。だがこれから先、どうするのかを決定付ける事は出来る。
鉄菜は重ねた手に、問いかけていた。
「彩芽・サギサカ。私はどうすればいい? どうやら私は、真っ当に生きてきたわけではないらしい。造られた生命体で、造られた存在で、今ここにいるのも、全てが仕組まれた結果だ。《シルヴァリンク》に乗るのも、そこにしか居場所がないからだ。戦う事でしか、私は私であると言い切れない。かといって組織を恨む気にもなれない。私は、どうすれば――」
そこから先を遮ったのは、彩芽が抱きついてきたからだ。一も二もなく、他者の体温が伝わってくる。
「鉄菜、貴女は強いから、だからいっぱい背負ってしまう。でも、それはとてもつらい事なの。たまには、誰かに背負わせてくれてもいいのよ。だってわたくし達は、もう仲間なんだから」
仲間、と口中で呟いてみても、やはり実感はない。ただ、地上に降りて数日間、モリビトで戦い抜いた日々だけが自分達三人の証明であった。
その時、彩芽の重ねた手が小刻みに震えている事に気づいた。
彩芽にも何か自分では窺い知れないものを抱えているのかもしれない。そう感じつつも、気の利いた言葉の一つすら、今の自分からは出なかった。