ジンキ・エクステンドSins   作:オンドゥル大使

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♯102 原罪の証

 

《キリビトプロト》へと刃が突き立った瞬間、アンシーリーコートの皮膜は剥がれた。

 

 全身が貧血を起こした《シルヴァリンク》ではもう戦えないだろう。青い血潮が関節から浮かび上がっている。

 

 その上で撃った奥の手。通じなければ――と最悪の想定を鉄菜は飲み下す。

 

 ミズハと名乗った敵兵は無事であろうか。これもおかしな判断であった。敵兵の無事などどうでもいい。モリビトの障害となるのならば今のうちに摘み取っておくべきだ。

 

 そう冷静に考える自分の傍らで、共闘してくれた相手への未知の感情が湧き起こっていた。

 

 これは何なのか、明言化する前にアラートの音声に鉄菜は反射的に操縦桿を引く。

 

《キリビトプロト》の機銃が先ほどまで《シルヴァリンク》のいた空間を引き裂いていた。だが、相手も満身創痍だ。

 

 全身から青白い瘴気を巻き起こしている。このような状態の人機は見た事がなかった。灰色であった機体色が青く染まっていき、赤い眼窩に最後の息吹が灯る。

 

『まだ、だ……まだ、死ぬわけには……』

 

 その決着は自明の理だ。アンシーリーコートによる必殺の一撃は頭部コックピットを両断し、《キリビトプロト》は最早、戦闘不能であった。

 

「……諦めさせるのには、まだ足りないか」

 

《シルヴァリンク》がRソードを構えようとするがこちらも出力限界。リバウンドの刃はほとんど消えかけている。

 

《ブルーロンド》部隊は全滅し、トウジャタイプの生存も絶望的。

 

 ここで戦えるのは自分と《シルヴァリンク》しかいない。

 

 頭部からスパークの火花を散らせながら、《キリビトプロト》が手を伸ばす。

 

『殺し損ねたな、欠陥品め……。我々は全にして一。ここで消える運命ではない。ここで、消えて堪るか……!』

 

「その意志だけは買ってやる。引導を渡すほかないようだな」

 

 最後の一撃をもう一度だけ。鉄菜は《シルヴァリンク》に構えさせようとしたその時である。

 

『アルベリッヒレイン!』

 

 見知った声音が通信を震わせ、直後には重火器の面攻撃が《キリビトプロト》を打ち据えていた。

 

 ハッと振り返る。

 

 視線の先にはポセイドンと連結した《インぺルべイン》の姿があった。

 

「彩芽・サギサカ……」

 

『何やってるの! 鉄菜! 貴女、死に体じゃない! どうしてそんなになるまで……』

 

「それはこちらの台詞だ、どうしてここに来た? 単独行動を取ると言ったはずだが」

 

《インぺルべイン》は瞬時に肉迫し、《シルヴァリンク》の肩を引っ掴んだ。

 

『――だって貴女、もうわたくし達は他人同士じゃないでしょう』

 

「他人じゃ、ない……?」

 

 意味が分からなかった。他人は他人だ。自分でない存在。それをどうして、こうも巻き込むような言い草が出来るのだろう。

 

 どうして……そのような言葉に胸を打たれている自分がいるのだろう。

 

《インぺルべイン》が銃撃を見舞い、《キリビトプロト》を遠ざけていく。《シルヴァリンク》はほとんど棒立ちの状態でそれを見届けていた。

 

《キリビトプロト》が全身から瘴気を発し、直後にその巨体が大地に倒れ伏した。

 

 瞬間、大気汚染を計測する機器が異常値を示す。

 

 何が起こったのか、アラートの警告に塗り固められた両者共に判別がつかなかった。

 

 ただここから離れなければ、という本能だけは勝ったらしい。

 

《インぺルべイン》は《シルヴァリンク》の腕を引き、リバウンドブーツを点火する。

 

『ファントム!』

 

 一気に戦場から引き剥がされていく中、鉄菜は《キリビトプロト》から青白い気泡がブクブクと沸騰しているのを目にしていた。

 

 ――何が起こっている。否、何が起ころうとしている?

 

 判別する術を持たぬまま、《インぺルべイン》はブルーガーデンのコミューンを飛び越えて行く。

 

『こんな事……人が仕出かしたって言うの?』

 

 眼下に広がるのは汚染大気と《キリビトプロト》の武装で火の手が上がるコミューンの惨状であった。

 

 ブルブラッド大気汚染テロよりなお色濃い、ヒトの業が数多の人間を死に至らしめている生き地獄。

 

 鉄菜はその中に同じようにブルーガーデンに入国した人間もいるはずだ、と薄ぼんやりと感じていた。

 

 だが、どこか現実味に欠ける。

 

 自分がこの数時間で封印されていた人機と戦い、因縁のあった人間と共闘し、今、彩芽によってブルーガーデンを脱出しようとしているなどまるで夢の出来事のようだ。

 

 現実の感覚を抱かせぬまま、鉄菜と《シルヴァリンク》はブルーガーデンの領空を越えていた。

 

 何もかもが醒めれば消えていく悪夢であったのならばよかったのに。

 

 それは幻だと、誰かが言ってくれれば救いはあったのに。

 

 巻き起こった出来事は全て現実だ。

 

 ブルブラッドキャリアの計画に反した事。キリビトという禁忌に触れた事も。

 

 そして今自分が、成す術もないほどに弱い存在である事も、全て事実であった。事実であったと認めなければならない。

 

 そうでないのならば、前にも後ろにも行けないのは分かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの時と、同じ感覚か」

 

《ダグラーガ》を操るサンゾウは大気を震わせる怒りに面を上げていた。

 

《ダグラーガ》の血塊炉が戦慄いている。操縦桿越しでも伝わる恐れに、サンゾウは上空へと視線を投じる。

 

 遥か空の上を古代人機が行き交っている。彼らの思考を満たしているのは全て、恐怖のみであった。

 

 囁き合う声にサンゾウは瞑目する。

 

「百五十年前のヒトの功罪。またしてもヒトは罪の扉を開くか。それも己の手で。だが、それも致し方ないのかもしれない。人は、繰り返す。どうしようもなく、それだけは」

 

《ダグラーガ》が飛び去っていく。

 

 罪に穢れた丘の上で、サンゾウは念仏を唱えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「少佐! 大変ですって!」

 

 道場に何の許可もなく入ってきたタカフミにリックベイは怒声を飛ばした。

 

「何だ! この領域に、俗世を持ち込むな!」

 

 その声音にタカフミが及び腰になる。

 

「あ……すいません、少佐。でも、その……」

 

 まごついている間にリックベイは眼前の肩で息をする桐哉に声を飛ばす。

 

「立て。立てなければ死ね」

 

 桐哉には目覚めてから何度も数時間、稽古をつけていた。桐哉はほとんど体力の限界であったが、それも【ライフ・エラーズ】が吹き飛ばしているのだろう。教えを叩き込むこちらの骨が折れる。

 

 今はちょうどいい休憩か。そう判じたリックベイは竹刀を仕舞った。

 

「……十分の休憩に入る。その間に立てなければ自決しろ」

 

 ようやくタカフミがあたふたしている事に気づき、リックベイは平時の声音に戻った。

 

「……何だ」

 

「おっかないっすよ、少佐。だから来るのは嫌だったんすけれど……」

 

「何があった? 緊急暗号通信だな? その書類とデータは」

 

 即座に読み取ったリックベイにタカフミは慌てふためいた。

 

「そうなんすよ! これ、見てください!」

 

 手渡された端末には静止衛星軌道からのリアルタイム動画が送られてくる。衛星の捉えている位置はブルーガーデン上空だ。

 

 青い霧に閉ざされているはずのブルーガーデン中枢部から濃紺の噴煙が上がっていた。

 

 それも高度数千メートルほどの高空だ。リックベイはその映像に震えを止められなかった。

 

「これは……何が起こった?」

 

「まだ極秘扱いっすけれど、これはおれが聞いた情報っす」

 

「話せ。これは、何だと言うんだ」

 

 全身から怖気が這い登る。生物としての根源的恐怖が呼び起こされ、リックベイはその映像から視線を外せなくなっていた。

 

「どうにも、百五十年前の状況に非常に近い、と言われているみたいですよ、こりゃあ……。まぁ、まだ噂レベルですけれど」

 

「百五十年前……? ブルブラッドの噴火か? だが、これは? 何が噴火したと言うんだ?」

 

「まだ調査中っすけれど、まず間違いないのはブルーガーデンという国家の崩壊です。まさかおれが、生きているうちに起こるなんて思いもしなかったですけれど……」

 

「ブルーガーデンの、あの国の崩壊?」

 

 にわかには信じられない。独裁国家ブルーガーデンがどうしてこのような形で終局を迎えるというのだ。

 

「それまでの映像でも何があったのか、前後が不明なんですよ。なにせ、ずっと濃紺の霧の中でしたからね。ただ、大気汚染測定をした結果……この直下地点で生命が生き延びている可能性は、ほぼゼロとの数値が出たみたいです……」

 

「テーブルダスト、ポイントゼロ……」

 

 符合する状況を口にしていると掠れた声が耳朶を打った。

 

「……死んだのか」

 

 桐哉へと視線を投じたリックベイは、彼がよろめきながらこちらへと歩み寄ってくるのを止められなかった。

 

 端末を手にした桐哉は沈痛な面持ちで拳を震わせる。

 

「守れなかった……俺は……」

 

 この青年はどこまでも傲慢な守り手だ。世界の隅で起こった悲劇でさえも自分のせいだというのか。

 

 驕りだぞ、と指摘しようとして映像が変化した。

 

「噴火が……収まったんですかね……?」

 

「いや、どうにも生易しい状況とはいかなさそうだ。命令が下る前に確認を取る。ともすれば、新型のお披露目はこんな形になるかもしれんな」

 

「トウジャの量産型が?」

 

 問い返したタカフミはすぐさま手で口を塞ぐ。桐哉の前でトウジャ量産計画はタブーだ。しかし、桐哉はどこか気の抜けた表情で失笑する。

 

「死んだのか、俺の知らぬところで、また……人が……。俺がモリビトなのに」

 

 あまりに憔悴し切った様子にタカフミでさえも危ういと感じたのだろう。リックベイへと囁きかけてくる。

 

「……少佐、あいつヤバイですよ。何であんなのと組み合っているんですか」

 

「零式を教えると決めた。他意はない」

 

 汗に汚れた胴着に風を通し、リックベイはタカフミへと言いやる。

 

「何だってあんなヤツに零式を……。少佐の抜刀術でしょう?」

 

「いずれ継承はしなければならなかった。それが彼であっただけの話だ」

 

 心底、それだけであったのだが、タカフミはどこか承服しかねているようであった。

 

「……何だって、あいつに」

 

 リックベイは端末を片手に上官へと繋ぐ。

 

『静止衛星の映像、観たかね?』

 

 開口一番の問いかけにリックベイは状況の説明を願った。

 

「あれは何です? テーブルダスト、ポイントゼロの……百五十年前に近い現象だと」

 

『耳聡い事だ。あるいは口の軽い部下でもいるのかな』

 

 タカフミが慌てて取り成そうとしたのをリックベイが制する。

 

「問題なのは、あの現象の解明と、現時点で打てる措置でしょう。ブルーガーデンが、傾国したと」

 

『逸るなよ。まだそうと決まったわけではない。だが、上の判断は君とほとんど同じだ。血塊炉の輸出入を牛耳っていた国家の破滅。それはつまり、ある一つの帰結へと繋がる』

 

「血塊炉の輸出入の制限解除……いや、これは火事場泥棒と言ったほうが正しい」

 

『耳に痛いな。しかし、これを好機と見るか、あるいは世界の危機と見るかで話は変わってくるがね』

 

 ブルーガーデンが本当に滅亡したと言うのならば、血塊炉を巡る国家の謀が一度、ゼロに帰したと考えてもいい。

 

 血塊炉産出国。その国家が自らの首を絞めて終焉を迎えたのか。あるいは別の介入があったのか。

 

 自然と脳裏に浮かんだのはモリビトの姿であった。

 

「どうなさるおつもりですか? もう動き出しているので?」

 

『お歴々が集まって有識者会議、その後決定、という段取りは踏むが、ほとんど君の思う通りだろう。《ナナツーゼクウ》、改良量産機《ナナツー是式》を伴い、現地への調査任務。……という名目の、血塊炉略奪作戦』

 

「取れるだけ取っておく算段ですか。……全てはこの次の手のために」

 

『全てを悪だと断じる事は出来ないはずだ。これもまた、一面では政だよ』

 

 それが理解出来るからこそ、リックベイは悔恨を噛み締めた。他者の不幸が別の側面で幸福に繋がる場合はある。それは戦場で痛いほど沁みたはずだ。

 

「……ゾル国が黙っていないでしょう。まさか新たに大戦を起こす気ですか」

 

『血塊炉を巡っての大戦は二度も三度も起こすものではない。……だが、それもゾル国次第か。あの国にはここ数日で焦りが見え隠れする。手を打ってくるとすれば素早いだろう。ある意味では我々以上に』

 

 ゾル国を敵に回すのはどう考えても得策ではない。モリビトとブルブラッドキャリアの脅威にただでさえ怯えている民草をいたずらに不安に駆り立てる事になる。

 

 通信を切ったリックベイにタカフミが不安げな眼差しを向ける。

 

「……戦争が起こるんですか」

 

「戦争で済めば、まだ僥倖だな。血で血を洗う戦いだけではないのかもしれん」

 

「それは……やっぱりモリビトの……」

 

 桐哉を窺いつつ発せられた言葉にリックベイは首肯する。

 

「条約は三国であったからこそ成立した均衡だ。このままでは拮抗状態が破れる。もしもの場合には備えておくに越した事はない」

 

「爆弾が落ちてくるって……!」

 

「それも考えの上には浮かべていろ、という話だ」

 

 特にブルーガーデンの監視がなくなれば二国は容易く戦争にもつれ込みかねない。いや。その前に結託の道を歩むか。

 

 どうにも戦局が読めないのはモリビトとブルブラッドキャリアのせいだ。

 

 血塊炉を巡って惑星の人々が争い合うのならばまだ想定出来る。だがそこに第三者の介入があるとなれば一寸先は闇。

 

「あるいは……これさえも見据えての作戦展開であったか? モリビトとブルブラッドキャリア」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冗談ではない、と水無瀬はゴミ箱を蹴りつけていた。傍受した静止衛星映像に彼は苛立ちをぶつける。

 

「……それで、裏は取れたんですか」

 

『間違いなく、この汚染区域の広がりはキリビトタイプによるもの。百五十年前と同じく、大汚染の前兆だ』

 

 どうするというのだ。モリビトとブルブラッドキャリアの計画の上にキリビトへの対応策は少ない。

 

「キリビトなんて化け物……あの国が飼っていたなんて」

 

『我々も滅びたものだと思っていたが、ブルーガーデンの隠し玉であったようだな。あの国家が作り出した惨状だ。静観を決め込めれば楽なのだが、このままでは戦争が起こる。過去に、人類は化石燃料やあらゆるエネルギーを奪い合って戦いを起こしてきたが、今度は血塊炉という夢の資源を巡っての争いだ。止められまい』

 

「止めようと思うのならば、これまで以上にモリビトの介入は……」

 

『苛烈を極めなければならないだろうな。しかし、前回の落ち度がある。ゾル国相手に消耗戦に陥れられた。モリビトの弱点が、ある意味では見えてしまった』

 

 通信相手に水無瀬は声を吹き込む。

 

「どうなさるんです? このままでは惑星は争いのるつぼに……いや、それを阻もうとしてもモリビトでさえ万能ではない。血塊炉を巡っての諍いになんて、首を突っ込むべきではないのでは?」

 

『慌てるな、調停者、水無瀬。そのために君らがいる』

 

 自身の役割を思い返し、水無瀬は深呼吸する。

 

「……エホバが動くのですか」

 

『そうするまでもない、というのが全面的な意見だが、最悪の想定は常に浮かべておくべきだ。何よりもモリビト狙いの相手の矛先が乱れた場合、こちらも動きを吟味する必要がある』

 

「惑星圏での大戦の勃発……これでは我々の思惑とはまるで別の方向に」

 

『いや、そうとも限らない。ヒトは過ちを繰り返す。どこまで行っても同じ事だ。それは後戻り出来ない』

 

 妙に余裕を浮かべてみせる通話先に水無瀬は疑問を抱いた。どうして、ブルブラッドキャリアの上層部はここまで冷静なのだ。何か秘策でもあるというのか。

 

「……失礼ながら、このままで如何になさるのです? もう野に放たれた争いはどうしようも……」

 

『そうだとも。大気汚染の深刻化、あるいは血塊炉を巡っての争いはどうしようもないだろう。だが、それを人為的に遅らせる事は出来る。別の言い回しをしようか。既に手は打ってある。最悪の想定は浮かべておくべきだよ、水無瀬』

 

「どういう……」

 

 問い質す前にホテルの扉が荒々しく叩かれた。直後に放たれた銃声に水無瀬はびくつく。

 

「何が……一体何を! ブルブラッドキャリア!」

 

 扉を蹴破って現れたのはゾル国の兵士であった。統率するのはゾル国の象徴の青年。金髪の優男は兵士を指揮していた。その後ろには大柄な男の姿がある。

 

「構え。貴様の身柄を確保する。水無瀬……ブルブラッドキャリアの手先」

 

 アサルトライフルの照準が自分を四方八方から狙い澄ます。逃げ切れない、と判じた水無瀬は両手を上げていた。

 

「どうして……わたしを切ったのか……誰が」

 

 その時、不意に脳裏に閃いたのは行方を眩ませた白波瀬であった。

 

「まさか……わたしが?」

 

「三文芝居はそこまでにしろ。世界の敵の手先……!」

 

 金髪の青年が銃身で水無瀬の頬を殴りつける。転がった水無瀬は口中に血の味が滲んだのを感じていた。

 

「お前らみたいなのがいるから……戦争が終わらないんだ!」

 

 無慈悲な銃口が突きつけられる。引き金が絞られた瞬間、後ろについていた男がその手を引かなければ確実に自分の額は撃ち抜かれていただろう。

 

 その予感に水無瀬は脱力していた。銃弾が床のカーペットから硝煙の臭いを棚引かせる。

 

「……叔父さん、何故……」

 

「ここで殺すべきじゃないだろう?」

 

 金髪の青年は鼻を鳴らした。

 

「ここで殺したほうがいい」

 

「いや、お前の仕事はそれじゃない。カイル、間違えるな。もたらされた情報は最大限に活かすべきだ」

 

 歩み出た男に腕を持ち上げられ、水無瀬は無理やり立ち上がらされた。

 

「ガエル様、あまり近づかれては……」

 

「なに、この手の輩は慣れている」

 

 ガエルと呼ばれた男の膂力に水無瀬は抵抗も出来なかった。脳内で巻き起こっている疑問符に答えるべきものが存在しない。

 

 ――誰かが裏切ったのだ。

 

 その事実だけがあるものの、今は何を成すべきなのかさえも分からなかった。

 

 ただ一つだけ明らかなのは、今捕まれば調停者の役目から外れるという事。それだけは阻止しなければならない。

 

 水無瀬は男の手から一瞬だけ振り解き、ポケットの中に入れておいた自決用のナイフを取り出しかけた。

 

 しかし、そのナイフが首を掻っ切る前に男の手にある拳銃が火を噴くのが早い。

 

 膝を貫かれ、熱した激痛に水無瀬は悶え苦しむ。

 

「足くらいはなくてもいいとの命令だ。五体満足でいたいだろう?」

 

 手のナイフを男が奪い取る。もう抵抗の手段はなかった。水無瀬は自分の役割が既にブルブラッドキャリアから切り離されているのを感じていた。

 

「……わたしは、裏切られたんだ」

 

「それは災難だったな。だが、この世は騙し騙され合い。まさか世界を敵に回して、その覚悟がなかったとでも?」

 

 そう言われてしまえば立つ瀬もない。項垂れた水無瀬にかけられた言葉はなかった。

 

「重要人物確保」の報告がただただ耳を滑り落ちていくだけだった。

 

 


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