諏訪でのお話で、諏訪子さん視点となります
第閑話~見えているから~
その日の天気予報は午後から曇り空が広がり、ところにより、雨。そんな予報だった。
そのことは私も知っていたし、普通に考えれば傘を持ってくるか、そもそも外出を控えるべきだったんだと思う。
それでも私は傘を持つこともせず、ひとりでいつものようにフラフラと出かけた。
「あーあ……雨、降ってきちゃったかぁ」
予報通り。
ホント、便利な世の中になったともう。
季節は夏。暑い日が続く今にとっては恵みと雨と呼んでいいのかもしれないけれど、正直遠慮してもらいたかった。
昔は……それこそ、私の姿がまだ人間に見えていた頃は雨が嫌いじゃなかったと思う。私と同じ名前の湖のおかげで水には困らなかったけれど、炎天下が続くような季節に降る雨は貴重だったし、そもそも私自身、雨が好きだった。
雨の音を聞いていれば心は休まり、傘など差さずただただ雨に打たれることも好きだった。
「……でも、今はあまり好きじゃないかな」
湖の畔にある東屋から雨景色を見ている私はそんな言葉を落とした。
空は黒く厚い雲に覆われ、この雨もなかなか止んでくれやしないだろう。傘を持ってこなかった私が悪いのだけど、このまま濡れて帰ったらまた早苗に怒られてしまう。別に怒られることは気にしないけれど、早苗にはあまり心配させたくない。
はぁ、仕方無い。帰る時間まではまだまだ余裕があるんだ。望みは薄いけれどこの雨が止んでくれるのを待ってみるとしよう。
なんてことを決めた私は東屋にある木の椅子へ腰掛けることに。
そして、タバコの煙の匂いがした。
「ああ……降ってきてしまったか」
どうやら私以外にも雨宿りをしている者がいたらしい。
声の聞こえた方を向くと、其処にはタバコを吹かすひとりの老人の姿。
「どうやらそうみたいだね。おじーちゃん、傘はないの?」
その老人に私はそんな言葉を投げかけてみたけれど、老人から言葉が返ってくることはなかった。
私の姿も声も届かない。知っていたことだ。
そんな私が、祈ってくれる人間に何ができるっていうのだろうか。
「諏訪の神様が悲しんでいるのかねぇ」
「……そんなことはないよ」
そんなことは、ない。たぶん、きっと。
だって……もう慣れたから。こんな状態には慣れてしまったから。
それから老人は独り言を溢すこともなく、傘を差さずに帰るには強すぎる雨を見ながらタバコを吹かしていた。私もそれ以上老人に話しかけることもせず、老人がタバコを吹かしているのをただただ見ていることに。
聞こえるのは雨と、老人が吐き出した息の音だけ。
どれくらいの時間、そんな世界にいたのか分からないけれど、私には酷く長い時間のように感じた。
「おっ? なんだ、ここにいたのか」
そして、そんな世界を壊してくれたのは、最近になって漸く帰ってきたひとりの人間の言葉だった。この静かな世界に加わるひとりの人間。
その姿を見た私は何故かやたらと安心してしまった。
「全く、傘も持たずに出かけやがって……探したんだぞ?」
青の言葉を聞いてか、タバコを吹かしていた老人がチラリと青の方を向いた。
この老人には私の姿が見えていない。つまり、この老人にとって青は誰もいない場所へ話しかける不審者にしか見えないだろう。
早苗の時もそうだけど、こういう時、私は何も喋らないようにしている。別に私が気味悪がれたり、避けられたりするのは構わない。けれども、私のせいで相手がそんな扱いをされるのは嫌だったから。
「うん? さっきからだんまりだけど、どうしたんだ? 何かあったの?」
そうだというのに、青は私に話しかけるのを止めない。
多分、まだ今の私と一緒の生活に慣れていない青にとって、その行動がどんなにおかしなものなのか分かっていないんだろう。
「うん、分かった。分かったから……青、それ以上喋らなくていいよ」
「えっ、なんでそんないきなり辛辣なのさ……」
いや、違う。確かに今の言葉はちょっとキツかったけど、そうじゃない。
んもう、私の考えていることくらい気づいてよ!
「そうじゃなくてさ。今は他に人がいるんだから、私には話かけないでって意味……」
「はぁ、ん~……ああ、なるほど。そういうことか。いいよ、俺は気にしないから」
私が気にするんだよ、このやろー。
なんなんだコイツは。いや、青は変わった奴だってことは知っていたけど……これじゃあ、私ばっかり変に気を遣っちゃってるみたいじゃないか。
「……少年よ」
「うん? どしたよ」
そして、ついに老人が青に話しかけてしまった。
青の方を向かないまま、新しいタバコへ火をつけながら。
「其処には誰がいるんだ?」
「ずっとずっとあんたらを見守ってくれてきた大切な大切なこの地の神様だよ」
「ちょ、ちょっと青!」
何んてことを話しているんだ。
そんないきなり意味のわかんないことを言ったら……
「……そうか。私には見えんな」
「でも、俺には見える」
莫迦みたいに心臓が暴れる。
だって、このままじゃ私のせいで青が傷つくことになってしまうから。それは……それだけは嫌だった。
「……不思議な気分だ。到底信じられるようなことではないが、君の言葉を信じてしまっている自分がいる」
「事実を言ってるんだ。そりゃあそうだろうさ」
そして、老人の言葉へ青がそう返したところで、老人は笑った。
「ああ、そうか。そこに居られるのか」
「貴方の直ぐ隣。俺の目の前にな」
青の言葉を受け、老人が私の方を向き――目が合った。
「やはり私には見えんよ」
けれども、直ぐに視線を戻してから諦めたように笑う老人。
「そりゃあ、もったいない。言っておくが、諏訪の神様はめちゃくちゃ可愛いぞ」
「ふふ、そうか、そうか……それは見てみたいものだ」
どうすれば良いのかが分からなかった。私の話のはずなのに、ついていくことも口を出すこともできない。だって、こんなことは今までも一度もなかったのだから。
「残念だけどさ。神への信仰が薄まっちまった今じゃもう、貴方たちは神様の姿を見ることはできないんだ。それでも俺には見えるし、そこにいる。そして、今でも貴方たちがちゃんと生活できるよう見守ってくれているよ」
「それは、信じても良いことだろうか」
……確かに私の姿は見えなくなってしまった。それでも、信仰をしてくれる民草は多く、毎年数多くの神事を開いてくれることには感謝している。
だから、これだけはしっかりと言うことができる。
「うん。私は今でも貴方たちの幸せを願っているよ」
未だに心臓は暴れたままだけど、そんな言葉はあっさりと出てきてくれた。だからきっとその言葉は嘘や偽りなんかじゃないってことなんだろう。
どれだけ時代が進もうが、どれほど時間が流れようがその気持ちばかりはずっとずっと変わらない。
「ああ、神様もそう言ってる。だから、信じて良いだろうさ。確かに、貴方はこの目の前にいる神様を見ることはできない。けれども……触れることくらいはできるんだぜ? ご老人、手を」
本当に、この老人が青の言葉を信じているのかは分からない。
それでも、青の言葉を聞いた老人は吸っていたタバコの火を消してから、そっと私の方へ手を出してくれた。
「ほれ、諏訪子。こんな機会なんてなかなかないんだ。せっかくだから触ってあげるくらいはしてあげなよ」
私の方へ差し出された深いシワのある老人は震えていた。
私にとっては短いものだけど、人間にとっては長い時間を生きてきたはず。きっとたくさんの苦労や葛藤があり、今の老人の手がある。
そんな手へ、私は優しく両手で包んだ。
「ああ、暖かい。本当に……本当に其処に居られるのですね」
「ふふっ、そうだよ。貴方には見えなくても私は此処にいる」
どれくらい振りかは分からない。
それほどになってしまった久方振りに触った人間の手は冷たく……けれども、確かに暖かかった。
それから、青と私に何度も何度もお礼をいう老人と別れ、私たちは帰ることに。
「あー、すまんな諏訪子。お前分の傘を忘れたから一緒にこの傘を使わないといけないんだ」
そんな言葉を青が落とした。酷い棒読みだった。
蹴飛ばしてから、青が持っている傘を奪おうとも思った。けれども、その時の私は――
「うん、分かった。それでいいよ」
なんて自分でも驚くような言葉を落とすことに。きっと先程のできごとでの動揺がまだ抜けていないんだと思う。
正直、もう諦めていた。
もう私は人間と触れ合うことはできないものだとばかり思っていた。
それがこんなにも簡単に私は触れ合うことができてしまったんだ。それがどれほど大きなものなのかきっと青は分かっていない。どれほど私がそれを望んでいたのか青は知らない。
「へっ!? い、いいの? いや、でもこの傘、小さいし……ああそうか。それならこの雨、止ませるか? それなら大丈夫だろ」
青が私たちと別れてからどんな生活を送ってきたのかは知らない。けれども、どうやら自分で突っ込んでおいて、直ぐに引いてしまうその性格は変わらないらしい。
ホント、臆病者だ。
「このままでいいよ。……雨は、嫌いじゃないから」
むしろ、今なら雨を好きって言えるかもしれない。
そう思わされてしまうのはきっと全部、コイツのせいなんだろう。他人の気も知らないで、よくもまぁ、そんなに私の心を動かせるものだ。
そんなことも昔と変わらない。ホント、ずるい奴。
「……そっか。まぁ、たまにはそれも良いかもな。そんじゃ、ま。この雨を楽しみながらのんびり帰るとするか」
うん、たまにはそれもいいと思う。
小さな傘から身体が出ないよう、お互いに身を寄せ合い、お互いが遠くに行ってしまわぬよう、手を繋いでみた。
……青のおかげで久しぶりに人間と触れ合うことができた。こんな冷たい世界で、人間の暖かさを知ることができた。
だから、思ってしまったことがある。
「ねぇ、青」
「うん?」
「……私さ、やっぱり人間が好きみたい」
「うん」
「私のことを想ってくれる人間が好き。そんな人間と触れ合うのが好き。だから……」
だからこそ――
「私、幻想郷に行くよ」
なんて思ってしまった。
もうこの世界では手に入れることができなくなってしまったものを、もう一度掴むために。もう一度、人間たちと触れ合うために。
「……あいよ。大丈夫、幻想郷は全てを受け入れてくれる場所なんだ。それほどに残酷な場所ではあるけれど……きっと諏訪子が望んでいるものだって手に入るさ」
いろいろと迷惑をかけちゃうかもしれないけどよろしくね。
「よっし、そうと決まれば、神奈子にも伝えないとだな。まだ焦る必要はないかもしれんが、どうせなら早い方が良い。お酒でも飲みながら話し合おうぜ」
「あーうー……そ、それはなんだか恥ずかしいんだけど……」
「今更恥ずかしがるようなことじゃ……おー! 見ろよ諏訪子! あそこにいる娘、雨でワイシャツが透けて……」
台無しだった。躊躇なくぶん殴った。
せっかく良い感じに終わりそうだったのにホント、コイツは……
ただまぁ、きっとそれがコイツなんだろうし、それを嫌ってはいない自分もいた。