生命の唄~Beast Roar~   作:一本歯下駄

125 / 130
『ん……』

『どうしたフィン』

『ガレス、もうすぐカエデが来そうだなって』

『本当か? ならこの戦いももうすぐ終わるのか』

『残りは、ヒヅチ・ハバリ一人だしね』

『しかし────第一級冒険者10人がかりでも押しとどめるのが限界か、恐ろしいな』

『二人とも無駄口を叩くな、斬り殺されるぞ』

『わかったよオッタル』


『神殺し』

 密林の中を駆ける。見える木々も、見慣れた光景も、全てが異界の様で、身を震わせながらも黒い毛並みを持つ狼人の少女、ヒイラギ・シャクヤクは駆けていた。

 手にしているのは小弓。追いかけている対象は────神だ。

 紫色のフード付き外套を纏った、怪しげな青年。神ナイアルは密林の中を逃げ惑いながらもへらへらと嗤っていた。

 

「まさかまさか、神の恩恵の繋がりを断つ真似をするとは────狐人の技術はなんと恐ろしい」

「待ちやがれぇっ!」

 

 吠えたてるヒイラギが走りながら矢を射るも草木に邪魔され、彼女が放つ矢は一矢たりとも神に届かない。口惜しげに吠えたてながら追いかける少女。

 密林の中に住まうだけはある。足腰の鍛え方が違うのか自称アウトドア派な神ナイアルとしても、彼女の追跡を振り払おうにもうまくいかない。それ以上に、この密林に張り巡らされた妙な結界────道に迷わせるシンプルな呪術的な代物がナイアルを犯し、密林の外まで逃げ出す事をよしとしないのだ。

 彼女との追いかけっこが始まったのはつい十分ほど前、あと少しでアルスフェアがカエデ・ハバリを仕留めるはずだった所に、彼女が短筒を持って侵入したのだ。

 その短筒が火を噴いた瞬間、アルスフェアとの繋がりが途切れた。神の恩恵が力を失い、ただの人に毛が生えた程度の能力となったアルスフェアは、彼女の持つ短筒の弾丸を受けて命を落とした。序に言えば、密林の外で時間稼ぎを行っていた【夜鬼(ナイトゴーント)】も死んだ事だろう。

 どんな呪術なのか興味深い代物ではあるが────神の力こそ封じられていないものの、それ使わずに切り抜ける事が出来ないとナイアルが若干の諦めの色をその顔に映す。その瞬間、駆けあがる様に木の上に上ったヒイラギによる高い位置からの射撃によってナイアルの周囲に矢がばら撒かれる。

 

「……ふむ、ここまでくれば十分でしょう」

「ようやく観念しやがったか……ぶっ殺してやる」

 

 周囲に突き立った矢を見て動きを止めたナイアル、彼の背後から追いついたヒイラギが小弓を投げ捨て、腰からショートソードを引き抜いて彼に向けた。

 その目に宿るのは殺意、怨念、強い恨みと殺意の交じり合った蒼い瞳。ナイアルがクツクツと喉を鳴らして笑う中、ヒイラギは剣の切っ先をナイアルに向け、口を開いた。

 

「あんたが全ての元凶か」

「いえ、私ではないのですがね」

「……いや、あんた()元凶の一人だろ」

 

 地上を、玩具箱としか思っていない神の一人。地上に住まう人々の想いを無視した、神の神意(おもい)を押し通し、不幸と狂乱を地上にばら撒く邪神。闇派閥(イヴィルス)にこそ所属していないが、彼の派閥と同じ行動原理を持つ、邪神なのは間違いない。

 だが、たとえそうであったとしても地上の人の手による『神殺し』は禁忌だ。神を害して良いのは、神のみだと言われている。

 ────例外は無くは無いが。

 

「とにかく、アタシはあんたを殺してやる」

「私を殺すと、末代まで呪われますよ?」

「アタシが末代だよ」

 

 お前らのせいでな。そういって彼女は笑い、ナイアルに剣の切っ先を向ける。

 ナイアルは小さく吐息を零し、木々の天蓋を眺めて呟く。

 

「貴女、私を見ても()()()()……いや()()()()()()()()()。道理で、私の狂気を孕ませる神威が効かない訳ですよ」

「…………けっ、知った事か」

 

 唾を吐き捨て、ヒイラギはナイアルの胸に剣を押し当てた。切っ先が服を裂き、皮膚を貫き、肉を抉る。僅か数C(セルチ)だけ刃を食い込ませ、心臓に届き得ぬ傷を生み出し、動きを止めた。

 ナイアルは相変わらずフードの下で嗤い続けるのみ。いまから殺されようとしているのに抵抗の一つもしない姿に不自然さを感じ取ったヒイラギは、差し込んでいた切っ先を引き抜き、ナイアルから距離をとる様に飛び退いた。

 

「なんで抵抗してねぇんだよ」

「いえ、私はアウトドア系を自称してるんですがね? 実はあんまり運動って得意じゃないんですよ」

 

 自分の足で動いて狂わせたら面白そうな玩具探しはすれど、駆けずり回って誰かから逃げるなんて真似は一切しない。そういうのは全て眷属任せにしていたわけで、今回の様に完全に眷属を皆殺しにされてしまった場合、ナイアルは何もできないのだと嗤い、両手を広げてヒイラギに一歩近づいた。

 

「どうぞ、私の胸を抉ってください。何、構う事はありません、私は悪で、貴女は正義だ。なんの疑問も抱く必要はないでしょう?」

 

 耳にしていると、まるで雨漏りの様に染みつき、染み込み、最終的に人を狂わせるナイアルの言葉が紡がれる。それを聞きながらヒイラギは耳を揺らし、視線を逸らして呟いた。

 

()りにく。なんだこいつ……もっと命乞いとかしろよ」

 

 ヒイラギが感じたのは、殺し辛さ。殺意に満ちていたはずなのに、徐々に小さくなっていく。不気味に、不自然に、まるで穴を開けてガス抜きされてしまったかのように、殺意が抜け落ちていく。けれど、殺意が抜け落ちる原因はナイアルではない。

 彼の扱う狂気は、よりヒイラギの殺意を加速させるものであって、減衰させるものではないのだ。それゆえに、ヒイラギはやり辛さはイコールで()()()()()()()()()()()のだと理解し、舌打ちと共に剣を収めた。

 

「糞、アンタだけは何としても殺したかったってのに。母さんがやめろって言うなら仕方ねぇ……はぁ」

 

 深い溜息を零し身を翻したヒイラギの姿に、ナイアルが同じく深い溜息を零して呟く。

 

「おかしな話です。貴女を狂わせることができないのに、貴女は狂ってる」

「うるせぇな、アンタの声は()()んだよ、黙って死ね」

「死にませんよ、私は……ね?」

 

 フードを取り払い、お茶目に片目を閉じて見せる絶世の美女。その目の内側がまるで蛆が湧き出てくる穴の様にぐにゃぐにゃに歪んだどす黒い瞳なのを見たヒイラギが身を震わせ、視線を逸らして駆け出していく。

 肩越しに振り返ったヒイラギが、残されるナイアルに声をかけた。

 

「あ、言い忘れたわ。アンタが逃げ込んだその場所────ゴブリンの縄張りだぞ」

 

 彼女の言葉にナイアルが表情を消し、周囲を見回し──困った様に肩を竦めた。

 

「ありゃりゃ、人相手ならまだしも……化け物相手は話が通じないんですがねぇ」

 

 ナイアルが視線を向けた先。茂みから次々に顔をのぞかせる小怪物(ゴブリン)の姿があった。

 

 

 

 

 

 『百花繚乱』の柄を強く握りしめながら駆け抜けるカエデ。ヒイラギを追いたい気持ちもあった、けれど今は優先すべき事がある。

 ヒイラギが消えていった密林の奥を見据え、迷う。今追えば間に合うかもしれない、けれどヒヅチを止められなくなる。だからこそ、ヒイラギの事を脳裏から打ち消した。

 

「ワタシはヒヅチを、止めるから」

 

 彼女の事を投げ捨てて村の出口を目指すさ中、ベートとアイズがカエデの目の前に飛び出してきて慌てて身を捩る。驚いた表情のベートとアイズもとっさに足を止める。

 

「カエデか、神ナイアルがこっちの方に来なかったか!」

「ホオヅキさんが、【猟犬(ティンダロス)】と神ナイアルを逃がしたみたいで」

「【猟犬(ティンダロス)】は既に死んでいます。ヒイラギが殺したので。神ナイアルについては見てないです」

 

 ベートが舌打ちを零して匂いを嗅いでいるさ中、一瞬目を見開いてカエデを見据えた。

 

「おい、お前の妹の匂いがしやがるぞ」

「ついさっき会いました。でもやる事があるからと何処かに行ってしまって」

「追わなくていいの?」

 

 アイズの問いかけ。カエデは尻尾を低くして表情を歪ませ、顔を上げた。

 

「ヒヅチを止めます。だから今は追いかける暇はないです」

 

 ヒイラギを追う事よりもヒヅチを止める事を優先すると言い切ったカエデにベートが眉を顰める。アイズも若干表情を曇らせる中、カエデが鞘から百花繚乱を引き抜いてベート達に見せる。

 

「目的の物は手に入れました」

「何が変わったんだ?」

 

 ベートの胡乱げな視線に対し、カエデは剣を見つめ────首を傾げた。

 確かにヒイラギによって『退魔』の効力を付与されているはずなのだが。見た目上は一切変化が無くカエデが見てもこれっぽっちもわからない。

 それでも『退魔』の効力は発揮されていると確信しながら、カエデは村の跡地を出ようと二人を急かす。アイズとベートが一瞬村の方に視線を向け、中央に倒れている犬人の少年をちらりと見てから、反転した。

 

「本当に良いのか?」

「何がですか」

「妹の事」

 

 ベートとアイズの問いかけ。カエデは首を縦に振り、迷いを打ち払う。

 迷っていてはヒヅチに勝てない。ほんの少しの迷いがカエデの命を奪うのだから。そう言い聞かせ、カエデは密林の外に向けて走り出した。

 

 

 

 

 

 密林の入口、盛大にぶちまけられた真っ赤な血を眺めつつ、ホオヅキは半身を真っ赤に染め上げ、足元に転がる再生の止まった【夜鬼(ナイトゴーント)】の死体を見る。

 本来ならホオヅキの持つ再生能力を強化する『百薬の長』の効力で死ぬ事等、滅多にないはずなのに突然死んでしまったのだ。()()()()()()()()()死んでしまう傷でも、恩恵を持っていれば死なない。

 だからこそ今までの恨みを全てぶつける積りで拷問紛いなことをしていたというのに、唐突に再生が止まって息絶えてしまったのだ。まるで主神であるナイアルが死んで一般人に毛が生えた程度の元冒険者になってしまったかのように。

 

「ま、ナイアルが死んだって事ならアチキは構やしないさネ……それより、カエデは……」

 

 密林の方に視線を向け一歩踏み出したところで、グチュリと肉片を革靴(ブーツ)で踏み潰したホオヅキは自身の恰好を見て嘆息。

 

「これじゃカエデに会えないさネ」

 

 杯を生み出し、頭から酒を浴びる。水浴び代わりに酒を浴びて血を洗い流し、近場に転がる死体を適当に茂みの中に放り込んだ。

 酒臭い体を引きずり、自らの身から感じられる血の匂いが全部酒の匂いに置き換わったのを確認し、野営地まで這いずる様に戻って焚火の跡の前に腰掛けた。

 ぼんやりと中空を眺め、ふと焦点が合う。

 

「あ、お湯沸かしとけばなんかよさそうな気がするさネ」

 

 うまく回らない思考。酒に酔ってるからというよりは、復讐を終えた無気力感とでもいうべきものなのかもしれない。

 過去、ホオヅキは【ナイアル・ファミリア】手によって散々な目に遭わされている。あのまま最悪の道を進んでいれば────大切にしていた仲間すら全て皆殺しにしていた可能性まであったのだ。

 どれほどの恨みを抱いたのか。心の全てを埋め尽くさんばかりの憎悪の感情。それが全て抜け落ちた。つい先ほどまで『苦しめてやる』事だけを考え続け、【ナイアル・ファミリア】首領【夜鬼(ナイトゴーント)】を拷問し続けていたのだ。唐突に彼が恩恵を失ったせいでそのままショック死という形で終わってしまったが。

 それが消化不良として残っているという訳ではない。ホオヅキは自己分析を終え、静かに笑った。

 

「あぁ、復讐した後には何も残らないってこういうことだったさネ」

 

 過去に復讐したいとヒヅチに語った時の事、彼女はホオヅキをどついてこう呟いた。

 

『報復を終えた後何をするか考えよ。それをせぬ内に報復なんぞするもんじゃない』

 

 きっと、神ナイアルは死んだ。ホオヅキを苦しめ【ソーマ・ファミリア】を破壊し尽くし、羊人の姉妹を地獄に突き落とし、カエデとヒイラギを利用しようとしたあの最悪の邪神は死んだ。

 そうでなければ困るとホオヅキは乾いた笑みを浮かべ、酒盃を傾けた。

 浴びる様に飲み、無くなれば次の酒盃を生み出し、ただ酒を浴びる様に飲む。パチパチと音を立てて燃える焚火の火を眺め、ヒヅチを止める役割を担おうかと考え、首を横に振った。

 

「アチキじゃ絶対勝てっこないさネ」

 

 本気で挑んだところで、彼女の前に自分が立っている事すらできないのはわかりきった事。それどころか武器を向けて立ち向かう事すらできないだろう。そうに違いないと自嘲して酒を飲む。

 それにしても遅いなと周囲を見回した所で、鼻をつまんだベート、アイズ、カエデの三人が不愉快そうな表情でホオヅキの元まで歩いてきているのが見えた。

 テントに残された最後の食料を胃に詰め込んで、オラリオまで一直線に駆けていく積りなのだろう。沸かしていた湯で最後の食事を作ろうとホオヅキが腰を上げたところで、ベートのドロップキックがホオヅキに突き刺さった。

 

「ごぶぁっ!? なにするさネ!!」

「うるせぇっ、てめぇは何考えてやがんだ! 酒臭ぇんだよこの酔っ払いが!!」

 

 周囲一帯を覆いつくし淀む程の酒の香り。カエデがくらくらとしており、アイズも若干頬が赤い。カエデがそれとなくアイズから距離をとっているあたり、彼女は酔いが回りかけているのだろう。

 酒の香りは温めるとよく香る。それは酒精が熱で飛びやすい事を意味し、同時に火をつけるとよく燃える事もわかっていたホオヅキはポンと手を叩き、酒塗れになっていた頭をボリボリと掻いた。

 

「悪かったさネ」

「ったく……つかもうカエデの奴は行く気満々みたいだぞ、お前はどうすんだよ」

 

 ベートの言葉を聞いたホオヅキが、カエデの方を見ればテントの中から荷物を全部引っ張り出し、必要のないモノと判断したものを捨て、必要最低限の荷物だけを整えようとしている姿があった。

 それを見たホオヅキは手を伸ばしかけ、引っ込めて焚火の前に腰掛けて鍋の中をかき混ぜ始める。

 

「アチキは、良いさネ。ここに残るさネ」

「……テメェはヒヅチ・ハバリって奴を止める気はねぇって事か?」

 

 ベートの言葉にホオヅキは首を横に振った。

 

「止める気はあるさネ。でも()()()()()()()()さネ」

「またそれかよ。そのやる事ってのは────」

「ベートさん、準備が出来ました。行きましょう」

 

 ベートの言葉を遮り、武装の最終確認を終えたカエデが声をかける。彼女の言葉を聞いたベートがちらりとアイズを見れば。彼女は倒れ込んで眠っていた。ホオヅキの不用意な行動で第一級冒険者一人の戦力が欠けた事に気付いたベートが盛大に舌打ちし、アイズの体を背負った。

 

「行くぞ」

「はい……ホオヅキさんは?」

 

 場に漂う酒の香りだけで酔い潰れてしまったアイズに微妙な視線を送りつつも返事を返すカエデ。ふと気づいた様に彼女はホオヅキに視線を向ける。

 視線を向けられたホオヅキは手をふりふりと振って返事を返した。

 

「アチキはここで()()()()さネ」

「……ヒイラギを、ですか?」

「んー……そういう事にしとくさネ」

 

 若干疑わし気な視線を向けてくるカエデに対し、ホオヅキはにんまりと笑顔を浮かべた。

 

「大丈夫さネ。アチキは絶対に敵じゃないさネ……もし、アチキが敵になったら────その時は遠慮なく斬り殺すと良いさネ」

 

 少なくとも自分はカエデと敵対するぐらいなら自ら命を断つか、命を断てないのなら無抵抗でカエデに斬られる。そういってホオヅキは鍋の中をかき混ぜ続けた。

 その姿を見て、答えは得られないと察したのかカエデはテントをちらりと見てから、ホオヅキに頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

「別に構わないさネ」

 

 残りのテントやら野営道具は全部ホオヅキが片付ける事に対し礼を言ったカエデは、次の瞬間にはホオヅキの事すら頭から抜け落ちた様に一直線に駆け出していく。オラリオに向けて────そこに居るヒヅチ・ハバリに向けて駆け出した。

 その背をアイズを背負ったベートが追いかけていく。彼は一度ホオヅキの方を振り返り、彼女が鍋の中を見つめたまま動かなくなっているのを見て、視線をカエデの方に戻した。

 

 

 

 走り去っていく者達の背をちらりと流し見て、ホオヅキは深い溜息を零した。

 ホオヅキには行けないだけの理由がある。本当ならカエデの為に身を尽くしてあげたい、けれどそれができない理由がある。

 

「あーあ、なんでヒヅチと変な約束しちまったさネ」

 

 もしも、カエデがヒヅチと敵対する道を選んだら────決して邪魔をするな。手を貸す事もするな。そんな風な約束だったはずだ。そんな事になる訳が無いと、過去のホオヅキは笑ったのだ。

 

『ヒヅチはバカさネ。何がどうあればカエデがヒヅチを斬るさネ?』

 

 ヒヅチの膝に丸まって眠るカエデを指さし、ホオヅキが笑えば。ヒヅチは月を眩しげに見つめながら杯を掲げ、言い切った。

 

『ワシは予言者なんじゃ』

『何を馬鹿なこと言ってるさネ。だいたい、自称予言者なんてそこら中に掃いて捨てるほど居るさネ』

 

 そういう者たちは大抵がろくでなし共だったとからからと笑う。

 ホオヅキが思い浮かべる過去の光景の自分は、ヒヅチと共に語らう自身の表情はいつだって笑顔だった。どんな些細な事でも笑って、酒を飲んで。【ソーマ・ファミリア】を抜けて悲しい想いをしていた自分を慰めてくれた、そんな人、それがヒヅチ・ハバリだったはずなのに。

 

『ワシはな、救いようのない大空け者よ。最後にはカエデに斬られて死ぬ。むしろ────それがこやつにとっても、ワシにとっても最善じゃ』

『そんな事無いさネ。それに救いようがないなんてふざけた事言うなさネ! アチキみたいなバカでマヌケな奴でも救われるさネ! だからヒヅチも救われてとうぜ────いたっ、何するさネ!』

『静かにせい、カエデが起きるじゃろ』

 

 優しげな手つき。カエデを愛しむ様に、ヒヅチの手がカエデの頭を撫でていく。

 月明かりに照らされてキラキラと輝くヒヅチの毛並みと、月明かりの元、まるで死人の様に色が失せ、生気を感じさせぬカエデの二人。今でも記憶の奥底に焼き付いた、絵になる光景だ。決して、忘れぬ光景。

 そこで彼女と交わした言葉も、ホオヅキは決して忘れる事は無い。

 

『そうじゃ、賭けをせんか?』

『賭けさネ? アチキ酒は飲むけど賭けは嫌いさネ』

 

 よくファミリアの仲間にカモにされてきた事で、賭け事に苦手意識を持っていたホオヅキが渋ると、彼女は柔らかく微笑み、カエデの耳の付け根を優しく指先でなぞりはじめた。

 

『そんな難しい事ではない。負けたらなんでも言う事を聞く、それだけじゃて』

『バカさネ。負けたらなんでも言うことを聞く? そんなのアチキがカモになるだけさネ』

 

 だから受ける気は無い。ぷいっと子供っぽく顔を背けると、彼女はカラカラと笑って手招きをした。訝し気に彼女に近づくと、優しく頭を抱き寄せられて耳元で静かに賭けの内容を伝えられた。

 

『もしもカエデがワシと戦う事になったら。カエデにワシを殺す様に言ってくれぬか?』

『嫌さネ』

『ふむ、じゃあこうしよう。カエデの邪魔をせんでくれるか? ああ、付け加えるなら手伝うこともせんでくれると助かるな。何があろうが、どんな事があろうが』

『……わかったさネ。カエデの邪魔だけはしないさネ』

 

 それでいい。そういって胸に抱かれ、優しく頭を撫でられた。遠い昔にあった、朧げな記憶に重なり微睡む。

 真ん丸な満月が見下ろす河原の傍、焚火の火がパチパチとはぜる音色を聞きながら共に杯を傾けあい、語らいあい、そして賭けをした。

 

 カエデが自らの意思でヒヅチと敵対するのなら。決して邪魔をするな。手を貸す事もするな。

 

 過去の光景を脳裏に浮かべ、ホオヅキは口惜しそうに口元を歪めた。

 

「畜生、アチキは……なんで約束しちまったさネ」

 

 ヒヅチとカエデが敵対する。そんな事、あの満月の夜に想像なんてできやしなかった。

 約束してしまった。彼女の邪魔もできない。彼女に手を貸して共に試練に挑むこともできない。

 そして、これからヒヅチ・ハバリの元へカエデが向かう事を、止める事が出来ない。このままではカエデが命を落としかねないというのに、それを止める事が出来ない。

 膝を抱え、ホオヅキは嗚咽を漏らした。

 

「どうして、約束しちまったさネ……」

「そんなのアタシが知るかよ……姉ちゃん、久しぶり」

 

 草原を踏みしめて野営地に足を運んできたのは、ヒイラギと────彼女の横に立つ人影。

 ホオヅキが思わず立ち上がり臨戦態勢に入るも、直ぐに警戒を解いた。ヒイラギの傍に立っていたのは、人形だった。カタカタと奇妙な絡繰り人形。

 ヒイラギが絡繰り人形の胸に張られた札を引っぺがした瞬間、煙の様に消えたそれ。ホオヅキはバツが悪そうにヒイラギから視線を逸らし、出来上がった温かなごった煮をヒイラギに差し出した。

 

「その人形は、ヒヅチのさネ?」

「ああ、なんでも炊事洗濯、家事ならなんでもござれ。そのうえで戦闘も完璧にこなせる超すごい人形、らしいぞ?」

 

 狐人の技術で作られた家政婦にして護衛の人形。カタカタという駆動音がうるさいのが玉に瑕なぐらいで、非常に便利な代物らしい。とヒイラギが肩を竦めれば、ホオヅキは苦笑しつつも自分の分を深皿によそってもそもそと食べ始めた。

 

「相変わらず、酒臭いな姉ちゃん」

「アチキのアイデンテェティさネ」

 

 酒臭いのがアイデンティティとか終わってんな、とヒイラギが軽蔑の視線を向けて食事を口にし、美味いと呟いた。

 ヒイラギの背に背負われた剣、そして弓を見てホオヅキがくすりと笑う。

 

「どうしたんだよ」

「ん? いや、ちっちゃなころのカエデを見てるみたいだったさネ」

 

 あの頃のカエデは、もっと自信なさげな雰囲気で耳がいつもぺちゃってなってた。そういって笑うホオヅキ。ヒイラギは深い溜息を零し、星が見え始めた空を見上げた。

 

「姉ちゃんを止めなかったのか? アタシはてっきり、ホオヅキ姉ちゃんなら止めるって思ってた」

 

 ヒイラギの予測では、ホオヅキは必ずカエデを引き留めるだろうと考えていた。しかし蓋を開けてみればうじうじと悩んで涙を流す情けない姿を晒すホオヅキの姿あったのだ。驚きながらもホオヅキに問えば、彼女は苦笑を浮かべた。

 

「結構前に、ヒヅチと約束しちまったさネ」

 

 馬鹿なホオヅキが、絶対に来ないであろうと思った未来。

 ヒヅチが何を考えているのか、何を思ってカエデと敵対しているのか。

 

「ヒヅチは、カエデ姉ちゃんを愛してる」

「それはわかってるさネ」

 

 ヒヅチ・ハバリはカエデを愛している。それは間違いない、だというのに刃を向けようとしている。

 狂気に満ちているから? 否だとホオヅキもヒイラギも断言できる。

 彼女はどこからどう見ても正気を保っている様にしか見えない。

 

「……邪神が言ってたんだけどよ。一番の狂気は、正気な者が孕むんだって」

 

 正気を保っている様に見える者程、狂気に満ちている者はいない。邪神はそう言って笑う。ヒイラギはそう言って最後の一欠けらを口に放り込む。

 

「ヒイラギ、邪神の言う事なんて聞いちゃメッさネ」

「わかってるっての」

 

 食事を終えた二人はしばし焚火の火を眺め、互いに顔を見合わせた。

 

「どうするさネ?」

「アタシはやる事はやった。でももう一人、いやもう一柱、殺したい奴がいる」

 

 ヒイラギの言葉にホオヅキが考え込み、名案を思い付いたと言わんばかりに飛び上がって拳を振り上げた。

 

「そうさネ! ヒイラギ、お前が殺したい奴って────クトゥグアさネ?」

「ああ、アタシの村を滅茶苦茶にしやがった。だから殺してやりたい」

「アチキが手伝ってやるさネ!」

 

 カエデの邪魔をするのではない。カエデの手伝いをするのでもない。ヒヅチと交わした約束を違える訳でもない。これはヒイラギの願いを叶える為であり、ヒイラギの手伝いをする為である。

 そのためにも────ヒヅチを操っているクトゥグアを殺す。

 

「よし、そうと決まれば即行動さネ!」

「おう! 絶対あいつぶっ殺してやろうぜ!」

 

 ホオヅキとヒイラギが拳を打ち付け、即席の『神殺し同盟』を結んだ。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。