生命の唄~Beast Roar~ 作:一本歯下駄
『…………えっと、ぼくの眷属、沢山死んだんだ』
『いや、それ前にも聞いたやん。襲撃されとるんやろ?』
『あー、その、実は……』
『なんやねん』
『君の眷属と行動を共にしてた子らがね、
『……おい待ち、どう言う事や!』
『だからね、その、ロキ、君の眷属も襲撃に巻き込まれたかも……』
『シバくぞ恵比寿っ!』
雲より高い戦場。
目の前に唐突に現れたヒヅチ・ハバリに表情を凍り付かせるヒイラギを他所にペコラがヒイラギを強く抱き締めて下がり、妖精弓を握り締めたジョゼットが前に出る。
斬り殺されかけたシェトはしきりに自身の首をさすりつつも目の前の狐人を見て舌打ちを零した。
「嘘だったら嘘だって言ってくれ」
「彼女は……本物、の様ですね」
声を震わせたジョゼットの呟き。
彼女の眼に映るのは禍々しい輝きに彩られた入れ墨の様な紋様が怪しく浮かび上がる悍ましい姿。その目に映る色はまるで黒く塗り潰した様な淀んだ色合い。
間違いなく正気を失っているであろう姿にマイペースを貫くペコラですらも動揺していた。
「あはは、嘘でしょう。この人、めっちゃくちゃ強そうなんですけど」
第一級冒険者になったペコラ・カルネイロが危機感を覚える程の凄まじい圧。
ヒヅチから放たれる圧に気圧されたペコラとジョゼット、それに対しヒイラギが目を見開いて口を開きかけ、閉じた。
ヒヅチの背後。一番艦から架け橋の様に伸びた帆柱の上を全力疾走で駆け抜けてくる白毛の狼人の姿。
幼い体躯に見合わぬ巨大な片刃の剣を肩に担ぎ、歯を食いしばりヒヅチを見据える彼女。
カエデがヒヅチの背後から斬りかかった。
激しく飛び散る火花。カエデの放った背後からの斬撃はヒヅチが瞬時に振り返って振るわれた細い刀に阻まれて動きを止める。カエデの持つ大刀に対し、ヒヅチの持つ打刀は折れるでも欠けるでもない。
むしろカエデの持つ百花繚乱の刃が大きく欠けた。火花を散らしながらもカエデがヒヅチの横を駆け抜け、ヒイラギを抱えるペコラとヒヅチの間に割り込んだ。
「ヒヅチ、やめてください」
懇願するような、縋る様なカエデの言葉にヒヅチは眉一つ動かさずに口を開く。まるで機械の様に。
「退け、ヒイラギ・シャクヤクを渡せ」
無機質で感情の感じられない彼女の言葉にカエデが身を震わせ、ペコラが小さく呟いた。
「これは、まず過ぎますよ」
焼け落ちかけた飛行船。
ペコラは専門家でもなければそもそも搭乗自体が初めての為詳しい事はわからないが、今自分が足場としている飛行船が非常に大きな損傷を受けている事ぐらいはわかる。そしてその損傷状態のまま永遠に飛べない事は簡単に想像がつく。
カエデの強襲を簡単にいなした姿を見ればヒヅチが只者ではないのはすぐにわかった。
ジョゼットも同様の感想を抱いたのか口元を引き攣らせてぽつりとつぶやいた。
「不味い、ペコラ、一番艦にヒイラギさんを連れて逃げ────」
ジョゼットの言葉が終わるより前に激しい爆発が一番艦の後部で発生。折れて一番艦と二番艦を繋ぐ橋として機能していた一番艦の
パラパラと木屑が飛び散ったのを見てペコラが顔を引き攣らせ、カエデが下段の構えでヒヅチを見据えた。
炎上し黒煙が舞い上がる中、焦げ臭い匂いに包まれた二番艦の船倉から数人の【恵比寿・ファミリア】の団員が飛び出してきて一番艦に信号旗を使って何かの呼びかけをし始めたのを尻目に、ヒヅチは静かに口を開いた。
「ヒイラギ・シャクヤクを引き渡せ。そうすれば────命だけはとらん」
無機質な声質。けれども今度は慈悲の感情が宿った彼女の言葉にシェトが笑う。
「嘘だね、アンタはアタシらを逃がす積りなんかありゃしない」
もし命を助けてくれる気なら今すぐ周りを飛び交う鳥共を引かせろ、そう語るシェトは弓を引いてヒヅチに狙いを定め、矢を放ち────瞬く間に矢を斬り捨てられ、其れ処かシェトの持つ弓が真っ二つになって破壊されて魔力の残滓を残して消滅した。
「────はぁ? おい、今アンタ何しやがった」
自身の持つジョゼットの魔法で生み出された弓が破壊されたシェトが驚きのあまり呟く中、シェトを見たカエデがぽつりとつぶやく。
「斬られました……」
「は、何を────」
赤い花が咲いた。シェトの胴から噴き出す赤い血。深紅の色合いが派手に飛び散り、驚愕の表情のシェトがそのまま倒れ伏した。甲板に広がる赤色にヒイラギが身を震わせた。
「おい、シェト姉ちゃん……? なぁ、何が、何が起きたんだよ」
ペコラの腕の中で困惑し騒ぎ出すヒイラギ。彼女を腕に抱きながらペコラも目を見開いたまま更に一歩後ずさった。
見えなかった。
ただシェトの持つ弓が突然真っ二つになり、次の瞬間には真っ赤な花を咲かせて血の池に沈んだのだ。ペコラには何が起きたのかさっぱりわからなかった。それはペコラが
いくら他の第一級冒険者の中で敏捷が低くはあったとしても動きを見切れない程じゃないし最低限防御行動がとれるだけの余裕だってある。そのはずなのにペコラには何が起きたのかわからないのだ。
「カエデさん、一つ……質問が」
シェトが血の海に沈んだのをちらりとみたジョゼットが緊張のあまり脂汗を大量にかきながら質問を飛ばす。
「彼女、ヒヅチ・ハバリと戦って────勝てますか? この戦力で」
【ロキ・ファミリア】が誇る戦力の中でも十二分に第一軍、第二軍に参加する事が許された強者である彼女等三人。
これだけの戦力が揃っているのなら、大半の冒険者は蹴散らせるであろう事は間違いない。
オラリオ内の冒険者であってもやすやすと手が出せない強者三人に対し、オラリオ外の冒険者が勝つ事は不可能。そのはずであるにも関わらず、カエデは苦い表情を隠しもせずに尻尾を震わせた。
「無理です。勝つなんて……
青褪め、震え、それでも気丈に刃をヒヅチに向けるカエデの姿にジョゼットが目を見開き、ペコラが目を瞑る。
対するヒヅチは頬を彩る入れ墨を撫でながら静かに刀をカエデに向けた。
「邪魔をするのなら、本当に殺すぞ?」
向けられたのは殺気、ではない。そんなモノは向けられていない。
まるで路傍の石ころ、否、道を塞ぐ岩に向けられる様な、ただ道を塞ぐ邪魔なモノにでも向ける様な視線。殺気等という
殺す、そう口にしながら殺意すら向けない姿にカエデが身を震わせ、ペコラが静かに目を見開いてヒイラギに語り掛けた。
「ペコラさんが何とかしますので────ヒイラギちゃんはジョゼットちゃんの所へ、カエデちゃんと一緒に逃げてください」
「は? 何をする気だよ」
腕に抱き締めていたヒイラギの体を放し、ペコラは背負っていた巻角の大槌の柄をしっかりと両手で握りしめ、肩に担ぐ。
ペコラの動きを見たヒヅチが視線を彼女に向け、呟いた。
「引き渡す気になったか?」
無機質でいながら、感情の篭った矛盾した彼女の声にカエデが身を震わせ、ペコラがヒイラギを静かにジョゼットの方に押し出しながら一歩、また一歩と踏み出して前進し始めた。
それを見たジョゼットが目を剥き、ヒイラギを抱き寄せて声を上げた。
「ペコラ、何をするつもりですか」
「……うぅん、別にトクベツな事は何もしないですよ」
真っ直ぐ言って大槌を振り下ろす。それ以上の事が自分には出来ないのだと笑い、ペコラが吠えた。
「動くな」
その言葉に驚愕を示したのはカエデのみ。『邪声』系の技の一つ『
ヒヅチ・ハバリの動きが完全に止まった。それを見たペコラは迷わず真っ直ぐ突っ込む。
「動くな」
重ねて発動し、効力を強め、ペコラがヒヅチの目の前で大槌を振り上げる。それと同時にカエデが駆け出した。
敵味方問わずに効力を発揮してしまう『
残念な事に【恵比寿・ファミリア】の生き残りはほぼゼロ。先程信号旗を振るっていた者も、気が付けば短矢に撃ち抜かれて絶命している。そうであるが故に効力が効いたのはヒヅチとヒイラギの二人のみ。
「でぇやぁっ!!」
ペコラの全力の振り下ろしがヒヅチの脳天を穿ち、そのまま狐人を叩き潰した。
轟音と共に甲板がめくれ上がり、へしゃげ、大穴を開けた。
飛び散った木片からヒイラギを庇いつつもジョゼットが顔を上げれば、ヒヅチが居た位置に空いた大穴と、それを見下ろすカエデとペコラの二人の姿が黒煙越しに見える。
ボスンボスンと不可思議な音が響くと同時にその大穴から黒煙と炎が立ち上がったのを見てジョゼットが舌打ちし、響いた破砕音に目を剥いた。
ガスンッガスンッと木製の船体を穿ち貫く音。そしてギチギチと縄の軋む音と同時に船が斜めに傾斜しだした。
「何が起きて、これは……」
「な、なんだありゃ、あっちの船からなんかとんできたぞ!」
ヒイラギが指さしたのは一番艦、その側面から突き出た無数の太い縄。
驚きの表情を浮かべたジョゼットを他所に一番艦の側面の小窓がギチギチと音を立てて開き、鋭い切っ先を持つ
「放てっ!」
バシュンッという独特の発射音。そしてその太い矢の様な何かはジョゼット達の乗る二番艦の甲板に突き刺さる。その矢の後部には太く丈夫な縄が付いており、船内で爆発音を響かせて止まった。
「これはいったい……」
ジョゼットが驚きの表情を向けるその兵器は【恵比寿・ファミリア】が開発した『捕鯨砲』である。
本来の使い道は海上から海中に居る大型モンスターに打ち込み、強引に船上に引き上げて討滅する為の代物であるが、彼らはそれを大地への緊急着陸およびに破損した僚艦の保護の為に使用している。
矢の先端部分は刺さった銛が抜け落ちるのを防ぐため、突き刺さると同時に装てんされた火薬が爆発して鋭いスパイクが開き、銛を対象に固定する。
返しが付いたその牽引用の縄がギチギチと音を立てて引っ張られ、操舵不能に陥っていた二番艦が半ば強引に一番艦に引き寄せられ始める。
急ぎ周囲を確認すれば空を飛ぶ殆どの鳥の式は落とされ、数少ない式も一番艦の前方部から放たれる高精度の射撃────ベート・ローガが放つ
「……このまま一番艦に乗り込んでしまえば」
「あぶねぇっ!」
ジョゼットが腕に抱えていたヒイラギが唐突に叫び、腕の中で暴れる。
響く鋭い斬撃音。音につられて視線を向けた先。真っ赤な血を飛び散らせたペコラがよろめきながら膝を突く姿がジョゼットの瞳に映った。
驚愕が脳裏を支配し、思考が停止する。
ペコラの持つスキルはありとあらゆる
常に打撲や骨折等の打撃による負傷ばかりするペコラが斬られた。それも羊人特有のスキルによって
ジョゼットの知る限り、それこそガレスの全力の一撃を受けて耐え切る程の耐久を持つ彼女が膝を突いた。
そして何よりペコラの背後、カエデが目を見開いたまま青褪めた表情で震えている姿に言葉を失った。
つい先ほど、甲板を粉砕する一撃が直撃し姿を消したヒヅチが平然と立っている。
ペコラとカエデに切っ先を向け、額から血を流した彼女が口を開いた。
「良い一撃であった。うむ、本当によい一撃だ……」
罅割れた首輪が音を立てて砕け散り彼女の足元に鎖と首輪の残骸が散らばる。
ヒヅチ・ハバリを繋ぎとめていた楔であるその首輪と鎖。彼女はヒイラギ・シャクヤクの奪取を目的としていたはずで、先程まで正気を失っている反応しかしていなかったにもかかわらず、今の彼女は非常に感心した様にペコラを褒めていた。
背筋が泡立ち、鳥肌が立つ。
「ペコラっ! カエデさんっ! 逃げ────」
赤い花が咲いた。膝を突いていたペコラが大槌で防御しようとし、そのまま刃で柄諸共切り捨てられ、倒れ伏す。
カエデが慌てたように立ち上がり、百花繚乱を構え────ぽとりと腕が落ちた。
驚愕の表情を浮かべ、呆気にとられたカエデの腕。左腕が綺麗に切断され、手にしていた百花繚乱諸共甲板を転がった。
腕に着けていた手甲も含め、綺麗に切り取られた断面。ピンク色の筋肉に黄色い脂肪、白い骨、色鮮やかな断面を晒すその切断面を呆然とカエデが見つめ────血が噴き出した。
切断された左腕を押さえ、カエデが膝を突く。痛みは無いのか、それとも痛みを感じる間も無かったのか切断されてから数秒経ってから思い出したかのように噴き出した血。一瞬で甲板を赤く染めるカエデの血と、倒れ伏したペコラの血が混じり合い、炎が照らす甲板を地獄絵図へと変えた。
斬られた。腕が、落ちた。
斬られた。ヒヅチ・ハバリに斬られた。
いつ、どうやって、どのように。
「あ、ああぁぁああああああっ」
口から飛び出したのは悲鳴の様な叫び。痛みは、不思議となかった。
ただ傷口から噴き出す血が、命の源が凄まじい勢いで身体から減っていくのを感じるのみ。
斬られた時も、自身の腕が甲板に転がった時も、血が噴き出すその時も、そして血が噴き出る今この瞬間であっても、痛みは無い。
ただ、熱い。傷口から溢れる血が灼熱の溶岩の様な熱を放っているかのようで、思考が全て持って行かれた。
今すぐ落ちた腕を拾い上げ、
まるで噴水の様に溢れる血。一瞬で思考が重くなり、体が重くなり────目の前に切っ先が突き付けられた。
「痛いか、すまんな。苦しめる積りはない。すぐに────楽にしてやるからな」
あぁ、どうしてだろう。
ヒヅチが自分に刃を向けている。
ヒヅチが自分に殺意を向けている。
ヒヅチが自分を殺そうとしている。
それなのに、ヒヅチは他ならないワタシの為に動こうとしているのが理解できた。
『例え世界の全てが敵に回ろうと、ワシだけはお前の味方でいてやる』
ヒヅチは、今この瞬間。ワタシを殺す為に刃振るっていてなお、ワタシの味方なのだ。
振り上げられた刃の切っ先。周囲に立ち込める黒煙と炎、飛び散った血が織りなす赤と黒の
回避は、出来ない。動こうと足に力を込めても、立ち上がれない。
それで、良いのだろうか。ワタシは、此処でヒヅチに────。
『
身を捩る。落ちていた腕を胸に掻き抱きながら、背中に走る鋭い熱を感じながら、身を投げ出す。
背中に感じる熱が、背中から溢れ出す赤色が、
腰のポーチから
目の前で散る火花は、ヒヅチが放つ斬撃とワタシが投げた投擲短剣がぶつかり合うモノで、チカチカと真っ赤に照らされたヒヅチの金色と、火花の色合いが視界一杯に移り込む。
まだ、心臓は動いているか? 動いている。いっそ止まってくれた方が静かで良いと思える程に爆音を立てて跳ねる心臓。胸を突き破って飛び出してきそうなぐらいに跳ね回る鼓動に突き動かされ、落ちていた【恵比寿・ファミリア】の団員の武装だったらしい
一瞬で刀身が罅割れ、二撃目で砕け散り、残骸を散らす。
商売系ファミリアである【恵比寿・ファミリア】が取り扱うだけはある。性能は良かったはずだ、実際手にした感触も【ヘファイストス・ファミリア】のブランド品に多少劣る程度でしかない程の高品質な代物だと言えるものだった。
少なくとも下級冒険者が持つ武装としては最上級処か過ぎたる物だと言える代物。それでもヒヅチの前で握るには不足し過ぎている。せめて百花繚乱程の性能がなくてはいけない。
しかし、肝心の百花繚乱はヒヅチを挟んだ向こう側に転がっている。回収しようにもヒヅチを突破しなくてはいけないのに、百花繚乱無しで突破等不可能だと言える。
それにペコラさんを治療しなくてはいけない。瀕死の重傷を負いながらも、即死を免れたペコラが血を吐きながらもぞもぞと動いているのが目に入り歯を食いしばる。
彼女に構っている余裕が無い。むしろワタシが助けて欲しいぐらいだ。
振るわれる刃が頬を掠める。拾い上げた
布操術、そう呼ばれる技法があるとは何処かで聞いていた気がする。確か自身の衣類すらも武器として扱って敵を制圧する為の武術だったはずだ。例え無手であろうと────ひらひらとした袖が鋭い刃にもなれば、敵の武装を奪い去る長い腕にもなるというモノ。
そう、ヒヅチが教えてくれたものだ。ワタシでは扱い切れないとそういう武術があるとしか教えてもらえなかったソレ。
気が付けば自身の腕にヒヅチの袖が絡んでいる。ワタシも似たような水干を身に着けているのだから、反撃として行えれば良かったのに。
腕が引っ張られる。ただの布地のはずなのに、
「カエデさん、無事ですか」
「……ありがとうございますっ」
ジョゼットさんが放った矢が直撃した。そのおかげでヒヅチの斬撃圏内から一気に抜け出せた。しかし、もう下がれない。
自身の背が手摺りに当たる。一瞬だけ後ろを見れば、焼け焦げて黒くなった船の手摺り。当然その向こう側に足場なんてある訳もなく、これ以上下がれない。そして周囲に武器になりそうなモノが無い。
背水の陣よりも酷いかもしれない。背後が川なら運が良ければ生き残れるかもしれないが、雲の上から地上まで真っ逆さまであるならば確実に死んでしまうからだ。
カエデが息を呑み、ヒヅチを睨み────声が響いた。
「アマネっ! 早く頭脳を確保せよっ」
先程のハイエルフの老婆。彼女が大声を張り上げてヒヅチに叫ぶ。
対するヒヅチは一瞬だけちらりと老婆を見やり、溜息を吐いた。
「お断りじゃ、ワシはやる事がある」
「っ! 貴様、首輪を破壊したなっ!」
「……ワシが壊したのではないのだがなぁ。おい、ワシを縛るな、動けんじゃろ」
ヒヅチはカエデを見据えたまま動きを止め、怒気を孕んだ声を上げた。
彼女の頬を彩る刻印が怪しく輝き、ヒヅチの動きを阻害している。今のうちにとカエデが百花繚乱を手にすべく動こうとした瞬間にカエデの目の前に火球が叩き込まれ、爆炎を上げてカエデの動きを阻害した。
「動くな、小娘……」
ヒヅチを操る為の『隷属の刻印』そしてその効力を強化する『首輪』、二つ揃ってようやく操れるヒヅチ・ハバリという女性。狂気に彩られ本来の在り方が歪み────それでも愛おしい者の為に刃握る彼女を操るすべが失われた。
老婆は静かに俯き、溜息を零し、声を上げた。
「黒毛の巨狼の長よ、話がしたい」
どろどろと濁り、淀んだ瞳で黒煙立ち昇る船を見下ろす。一番艦から飛んでくる投げ矢を魔法で無力化しながら、彼女は大袈裟な仕草で両腕を大きく広げて語りだす。
「巨狼の滅びの原因は神々にある。それはもう聞き及んでいるのだろう? ならばお前も神を恨む一人だ。今すぐ姿を見せてはくれないか? もし姿を見せるなら────彼女等を解放しよう」
杖を振るい、太いロープで結ばれた二番艦の一部を吹き飛ばす。爆炎が上がり、船体の後部が大きく欠けて傾斜が増した。機関が停止したのか、それとも出力不足に陥ったのか少しずつ船体が下がりだす。一番艦の方からベートの『ふざけてんじゃねぇぞ』という叫びが響く中、老婆が静かに杖を下ろした。
「アマネも、その裏切り者も解放してやる。だから私の手を取れ、巨狼の頭脳よ」
数少ない生き残りを人質に取り、隠れたヒイラギに語り掛けるハイエルフの老婆。彼女は静かに甲板を見下ろし、黒毛の狼人の少女を見つけて口元を歪めた。
「さぁ、私と共に来るのだ」
「……お断りだよ」
「────は?」
断られるとは微塵も考えていなかったのか、彼女は呆けた顔をしたのち、目を細めた。
「神に裏切られ、殺された同胞の恨みを晴らそうとは思わないのか」
「思わない。アタシら黒毛の巨狼は、選択を間違えたんだよ」
「間違えたのは神の責任であろう。何故神を恨まぬ」
「……人にも良い奴と悪い奴がいるだろ? 同じように神にだって良い奴がいるんだ」
ヒイラギの言葉に老婆は口角泡を飛ばし、叫ぶ。
「ふざけるなっ! 神は我々地上の人々を玩具程度にしか考えていないのだぞっ!」
「そういうのも居るって話だけどよ────」
恐れる事も無く、隠れていた木箱の影から出てきたヒイラギ・シャクヤクは苛立った様に老婆を見上げて睨み付けた。
「────アンタだって同じじゃねぇか」
「は? 私が神々と同じ? 何処が」
「何処が、じゃねぇよ。ヒヅチ姉ちゃんを、カエデ姉ちゃんを、道具としか思ってねぇんだろ?」
ヒヅチ・ハバリを刻印と首輪で縛り付けて操ろうとした。
カエデ・ハバリを頭脳であるヒイラギを使って操ろうとしている。
「神と何が違うんだよ、アタシにはわかんねぇ」
幼い狼人の指摘にハイエルフの老婆が震え、抑えきれないドロドロとした憎悪の篭る声を上げた。
「私が、私が神と同じだと? この、私が……あの、神々と、同じ?」
ガタガタと異常な程に体を震わせる姿にカエデが顔を引き攣らせる中、唐突に大槌が老婆の乗る鳥の式にぶち当たった。
「なぁっ!?」
「隙ありって奴ですよっ! ジョゼットちゃんっ!」
「わかってますっ!」
老婆が乗っていた鳥の式がペコラの投げた巻角の大槌によって消しとばされ、老婆が中空に投げ出された瞬間、彼女に向かって無数の光矢が飛翔する。
密かにペコラを治療したジョゼットと、治療されたペコラの不意打ち攻撃。驚愕した老婆が杖を振るい自身を守る障壁に包まれ、そのまま雲を突き破って落ちて行った。
「よしっ、ハバリさん、攻撃をやめて────」
ヒヅチを操っていた張本人を離脱させることに成功したペコラがヒヅチに向き合おうとし、目を見開いた。
金髪の狐人の腕の中に、ヒイラギ・シャクヤクの姿があったのだ。
「な……いつの間にっ」
「放せよっ、放せって!」
「ヒイラギ……」
カエデの気付かぬ間にヒイラギを確保したヒヅチは、静かにカエデを見据えて呟いた。
「カエデ、良いか? 自分を見失うな。誰の命令でも、頼みでもない、自身の抱く想いを貫け」
ぞくりとする感覚。ヒイラギが暴れるのを気にも留めず、ヒヅチ・ハバリは静かに、微笑んだ。
まるで、そうまるで何時もヒヅチがカエデに対して向ける、愛情の篭った微笑み。
「強く生きろ」
「まってっ!」
カエデが手を伸ばし、武器も何もないというにも拘わらずそれでもヒヅチに向かって走ろうとしたところで、ヒヅチの姿が霧に包まれていく。
「お願い待って、ヒヅチっ!!」
驚愕の表情を浮かべたペコラ、ジョゼットの二人。そして呆然とした様子でヒヅチの立っていた場所に倒れ込んだカエデ。
血によって赤黒くそまった緋色の水干の重さを感じながら、カエデは拳を握り締めて呟いた。
「他の誰でもない、ワタシだけの、想い……」
ヒイラギ・シャクヤクが連れ去られ、残ったのは炎上し今にも落ちそうな飛行船のみ。
ガゴンッと音を立ててようやく一番艦が接舷し、ベートとフィンが駆け寄ってきたのを見ながら、カエデは握り締めた拳を甲板に叩きつけた。
ヒイラギの体を抱きながら空を行く。
呼び出した鳥の式に身を任せ、空を行くヒヅチは腕の中で暴れるヒイラギの頭を優しく撫でた。
「大人しくせい」
「放せっ、糞っ」
「……安心しろ、お主を傷付ける積りは無い」
「姉ちゃんを殺す積りだろっ!」
腕に噛みつき、必死の抵抗を続ける彼女に苦笑を浮かべ、ヒヅチは雲の上に浮かぶ船を見つめた。
既に襲撃者は去り、残ったのは炎上した二番艦と鎮火し終えて二番艦を救おうとする一番艦。
猫人の少女が賢明に
「狂っておる、か……」
「放せって言ってんだよっ!」
「お主、此処で放したらぺちゃんこになって死ぬが良いのか?」
「…………うるせぇっ! 姉ちゃんを利用しようとするやつなんて知るかっ! シェト姉ちゃんまで殺しやがってっ!」
シェトという名を聞いて考えを巡らせ、ヒヅチは小さく吐息を零した。
「いや、多分死んどらんぞ、そのアマゾネス」
「は?」
「派手に血を流しておったが、あ奴普通に死んだふりしてただけじゃしな」
最初に斬り捨てた彼女。なんだかんだ言いつつも彼女は致命傷を回避した上でド派手に血を流しながらも止血だけはしっかりと行い、その上で死んだふりを敢行した。
おおよそ想像は付くがホオヅキに脅されている内容と此処で立ち上がる危険性を天秤にかけ、ホオヅキがほぼ死んだも同然の状態であるからと死んだふりをしてヒイラギを見捨てたのだろう。
「まあ、あの船を襲撃した式は全てワシが操っとったからのう。あそこでの死者はワシの責任といえばそうじゃな」
「……なあ、ヒヅチ姉ちゃんって狂ってるって聞いてたんだけどよ、もしかして狂ってないんじゃ」
「いや、ワシは狂っとるよ」
自身の事を狂っていると称したヒヅチは雲を抜け大地を見下ろせる高度になった所で鳥の式に高度を維持する様に指示を出し、微笑んだ。
「ワシは本気でカエデを殺そうとしている」
「……にしては手を抜いてる様に見えたぞ」
「まあ、手を抜いたからな」
ヒヅチの言葉を聞けば、きっとカエデは驚愕のあまりスッ転ぶことだろう。一瞬で追い詰められたにも関わらず、ヒヅチが
「まぁ、殺す気はないのだがなぁ」
「……何がしたいんだ?」
「とりあえず、お主を安全な場所に送る。ツツジとの約束もあるしな」
「…………なぁ、一つ聞いていいか? アンタ誰だ? ヒヅチじゃネェだろ」
ヒイラギの言葉にヒヅチが目を細める。
彼女の母からも同じような質問をされた事を思い出しながら、彼女は呟いた。
「どうしてそう思ったんじゃ?」
彼女がどうこたえるのか、ヒヅチはその言葉を思い浮かべ、きっと『勘だ』とでも言うのだと苦笑を浮かべた。
「なんとなく、勘だけどさ」
「ほう、そうか。ではそう言う事にしておこうかのう」
「……いや、どっちなんだよ?」
「すまんが今は答えられんな、まあ答えはもうカエデに伝えてあるが」
カエデは妙に頭が固い所がある。父親であるツツジ・シャクヤクに似てしまったのだろう。其処さえなければ、もっと柔軟に────そう考えた所でヒヅチは目を細めた。
「いや、カエデはあのままで良いな」
「……?」
彼女の母の奔放さと頭の回転の速さ。そして