お互い雨に濡れたあとは着替えたり、髪を乾かしてから学校に行く予定だった。
だというのに、ビスマルクは「せっかくだからシャワーを浴びてくるわ」と言い放っては俺にいったん戻るようにと俺の家へ指を向けた。
シャワーを浴びてるのなら時間がかかるのだろうなと遅刻確定を確信した。
ビスマルクに従って親が仕事に行って誰もいない家に戻ると替えのワイシャツと下着を変え、ズボンにはドライヤーを当てて乾かす。
乾かしているあいだ、ぼーっと過ごす静かな時間の中で考える。
もしかしたらビスマルクは俺のことを考えてくれていたんだろうか、とそんなことを。あんなふうに言われでもしなきゃ、着替えなんてせずに学校へ行くところだった。
もし俺の体調なんかを考えているのなら、俺が思っているよりも姉らしいなと感心する。毎朝だらしない姿を見ては手のかかる姉だとため息をついていたが、ちょっとだけ見直してしまう。
心が暖かくなり、再びビスマルクの家へと行って玄関のチャイムを鳴らす。
……だが30秒経つも出てこない。それどころかいる気配すらもない。シャワーの時間がかかるのを考えて20分は待ったのだが。
もう1度チャイムを鳴らすもさっきと同じ無反応。
学校へ行くのは面倒になってしまったかと思ったが、それなら俺に連絡ぐらいはあると思う。もしかしたら壁にぶつかった拍子に転んで足の小指をどこかにぶつけているかもしれない。
そんな心配をしてドアノブを回すと鍵はかかってなく、不用心だと思いながら家へと入っていく。
「もう出かけれるか?」
玄関に来ても物音がせず、2階の部屋にいるであろうビスマルクへと大きな声を出すとすぐに返事が帰ってくる。
ただし声は1階から聞こえてきた。
「乙女の身だしなみには時間がかかるものなのよ? それに初めての遅刻なんだから、ちょっとした背徳感を味わっていたいじゃない」
不機嫌そうにやってきたビスマルクはバスタオル1枚だけを体に巻いていて、まだ湿っている金色の長い髪の毛をタオルで拭きながらやってきた。
健全な男子高校生なら、そういうのは素晴らしく色っぽく感じて顔を赤くして背を向けるか、じっくりと見つめるものだと思う。
だが俺はそんな感情はカケラぐらいしか出ない。こっちは心配していたというのに、さも俺が悪いかのように言う。自分だけ暖かいシャワーを浴びていたことに腹が立ち、待っていた俺にありがとうの言葉さえもない。
たとえバスタオル姿といえど、俺の心はそんなに動かない。
そう、バスタオルのない部分から見える輝くような白い肌の太もも、それに大きく柔らかそうな胸になんてものにはこれっぽっちも。
「俺は意味のない遅刻なんて嫌なんだが」
「なによ、せっかく私の裸が見れたのにそれしか言わないの? その、褒めるというか、えっと、もっと違う反応があるんじゃないの!?」
ビスマルクの豊かな体から目をそらしてため息をつくと、なぜか怒鳴られてしまう。変なことを言ったわけじゃないと思うんだが。俺が悪いのか、今のは。
ぐぬぬ、と唸り声をあげていたのを無視し続けていると顔へとバスタオルを投げつけられた。
「ユウのばーかばーか! ……ああもう、
ビスマルクと同じ良い髪の匂いがするバスタオルを顔からどかすと、不機嫌に階段を上がって2階へといった。
日本語で俺を罵倒し、ドイツ語で自分に文句を言う理由がわからない。いったい何がしたかったんだ。
よくわからないビスマルクがいなくなってから俺はバスタオルをそこらに置き、ビスマルクが制服を着てやってくるまで考えていたが何がしたかったか分からないままだった。
機嫌が良くないビスマルクと一緒に家を出て、歩きで15分ほどの距離がある学校へ続く住宅街の道を歩いていく。
今までと違い、家を出てすぐに距離を開けることはせずに並ぶ。
でも隣に並ぶのではなく、俺の前にビスマルクが。
距離はすぐ近くなのに遠く感じる。それは雨が降って気分が滅入り、傘があることで後ろ姿が見えないからかもしれない。
このまま学校まで変わらずに行ってしまいそうだ。まぁ、今まで別々に学校へ行っていたのが急に一緒になるというのはお互い戸惑うかもしれない。
俺もなにか話をしようかと思ったがしたい話は思い浮かばなかった。
だからビスマルクの後ろをずっとついていくと、時々ゆらゆらとビスマルクの傘が不自然に揺れる。それを不思議に思っていると俺へと振り返っては目が合い、また前を向く。
どこか寂しげで怒っている表情で、それを3度繰り返された。
……いらいらする。高校生になって初めての一緒な登校だというのに。このまま会話がないままなのは嫌な気分になる。
「ビスマルク」
「なによ。私と距離を離したいの?」
「そんなことは言ってないだろ。俺は隣で歩いて欲しいと言おうと思ったんだが」
「隣!? も、もう仕方ないわね。可愛いユウのためなら本当に仕方ないわね!」
言った途端に表情がゆるみ、ビスマルクは今にもスキップしそうな声の上ずりで俺の右隣へとやってくる。
でもそれだと道路側にビスマルクがいることになるから、俺はすぐにビスマルクの右隣へと行く。こうすれば車がやってきて、水たまりを跳ねてもビスマルクへの被害は減るはずだ。
俺の説明がない不可解な行動に疑問を顔に浮かべていたが、すぐにその意味に気付くとにんまりと笑みを浮かべては俺の頭へと手を伸ばそうとしてくる。
だが、俺と同じく傘と手提げバッグを持っているからできなかった。
でもすぐに傘を持つ手にカバンを持ち直すと、満足げに俺の頭を撫でまわす。その手つきはいつもよりも優しくて、姉ってこういう優しいものかと思ってしまう。
「あら、もしかして恥ずかしいのかしら」
「高校生にもなって頭を撫でられるのは恥ずかしいからな」
「弟なんだから、私にもっと甘えてもいいのよ。ユウも私みたいな立派なお姉ちゃんのことを褒めてもいいし」
にまにまと笑みを浮かべるビスマルクに目を合わせないようにし、撫でてくる手を少し乱暴に掴んでは撫でるのをやめさせる。
ビスマルクは手を戻しても優しい視線で俺を見続けてくる。
……素直に撫でられて嬉しいとは言いたくない。そんなことを言ってしまえば、ビスマルクは調子に乗って変なことを色々としてしまう。それにこれからのパワーバランスが変わってしまうのは困る。
ビスマルクは俺の前ではだらしない姉とし続けて欲しい。でないと対等な関係じゃなくなって俺が構いづらくなる。
普段から学校でいるようにクールビューティーな大人の対応を取られてしまうと、自分が能力のない小さな存在に感じてしまうからだ。
「あぁ、こんな楽しいのなら早くに味わいたかったわ。ユウのことを考えすぎて、距離を置いたのはどっちにも良いことはなかったんだから」
「2カ月だけの遅れなら大丈夫だろ。卒業するまではたぶん一緒に歩いて行くんだろうし」
俺と一緒に歩くのをそんなにも楽しみにしてくれていたことに嬉しくなり、姉みたいだなと感じてしまう優しい言葉を聞いて、普段は言わない慰めの言葉を言うとビスマルクはきつい目で俺を見てきた。
何か言葉を間違ったのかと内心ひんやりと焦る。
「だって4月からだったら初々しいユウのことをたっぷり見れたじゃない! 新しい学生生活が不安だとか友達できるかなとか悩んでる様子をね。そして、お姉ちゃんに頼ってくる姿が最高に萌えるに違いないわ!!」
さっきの心がほかほかしていた暖かい感情は急速に冷えてなくなり、後悔の気持ちでいっぱいだ。
なんでこんな残念な姉なんだろうか。俺のちょっと尊敬してしまった純真を返して欲しい。
学校でのクールビューティーな姿を知る人から見たら、今のとギャップの差が強すぎてどうなってしまうか気になる。
いや、そもそも今日からこんな姉が学校で見れてしまうことになるかもしれない。今までの対応を変えると言っていたから。
「俺を気にせず、もっと自由にしてくれ。俺のせいでお前がダメになるのは嫌だからな」
そう言うとビスマルクは首をゆっくりと横に振り、遠くへと視線をやって小さくため息をついた。
「『自由に呼吸をするだけでは生きているとは言えません。役に立たない生活は早い死です』」
唐突に口調が変わった言葉。それはビスマルクの言葉ではなく、小説かなにかの言葉だと思う。読書好きなビスマルクは時々こうやって深い言葉を使って俺に伝えようとしてくる。
「それは誰の言葉だ?」
「ゲーテよ」
それはビスマルクが好きな人物のひとりで、部屋には詩集などの本が色々あったのを思い出した。以前にゲーテの本を渡されて読めと言われたが、それほど好きにはならなかった。
でも今言った言葉はなんだか心に響いてくる気がする。つまりは趣味とか恋愛で生きる楽しさを持ったり、誰かの役に立つ人間でないと、人間は人間として生きていないということだろうか?
「心配してくれているのは嬉しいが、それよりも自分が先だろう。学校で見たときはいつも忙しそうだった」
「そう、そこを聞いてちょうだい! 今まで私が頑張って学校に奉仕してきたのは奥深い理由があるわ」
自信たっぷりな表情を俺に向けて一歩近づいてくるビスマルクを肩で押し戻し、落ち着いて少ししたところで俺は聞く。
「聞こうじゃないか」
「ユウにすごいと思ってもらいたいからよ。どう、思い切り褒めるべきお姉ちゃんだと思わない?」
「自分から言わなかったらな」
感心しようという心構えだったから、俺から褒めてもらいたいというだけでやっていたのは呆れるべきかを悩んでしまう。
「……日本人はそういう控えめなのが好みというのが私は嫌いだわ」
「俺はお前が猫のように気まぐれなのが嫌いだよ」
そうしてお互いに、にんまりと人の悪そうな笑みを浮かべた楽しい朝の会話をしていると学校の校門前へとたどり着く。
もう授業中ということもあって校門前は人がいなく静かだ。
学校の敷地内に入り、自然に俺とビスマルクの距離は離れていった。
それは学校での俺とビスマルクの距離。
学校へ行く前に家でビスマルクが言っていたこと、中学と同じようにするというのはすぐにはできないんだなと理解して寂しく思う。
校舎の中に入った下駄箱前で俺より先に歩いていたビスマルクが立ち止まり俺へと振り返る。俺もそれに合わせて足を止めた。
「『猫は誰の猫でもなく、猫自身の猫である』」
今までのテンションが高かったり低かったりのと違い、とても穏やかで静かな声だった。
また何かの言葉を引用して俺に伝えたいことがあるらしい。
「それもゲーテか?」
「いいえ。昔に読んだ海外小説の言葉よ。とてもお気に入りなの」
「へぇ、どんな意味なんだ?」
ビスマルクは目をつむり、一呼吸置いてから優しい目で俺を見てきた。
「ユウから見れば、私は周りの目や意思ばかり気にしているように見えるのでしょうけど、私は私のやりたいように自由に生きているつもりよ。ユウがいった猫のようにね」
近づいてきたビスマルクは俺の頬を大事なものかのようにそっと柔らかく一撫ですると気分良さげに靴を履き替え、先に歩いていく。
「私は出会った時からずっとあなただけを見ていたわ。それは今も同じ。あなたは私に文句を言ったり雑に扱っているけど、必ず最後には大事にしてくれる。そんなあなたを私が大事に思わないわけがないでしょう? この気持ちは決して気まぐれなんかじゃないわ。……それじゃあ、また後でね、ユウ!」
静かな校舎に響き渡る、強くはっきりした声。勉強している人のことなんか気にせず、言いたいようにいうのはさっきの言葉の証明かとも思う。
まぁ、ビスマルクがそこまで深く考えているわけがないから、感情のままにいったのだろうけど。
俺は撫でられた頬をさわり、撫でられた瞬間に心臓の鼓動が強くなったのはただの勘違いだと自分に言い聞かせる。小さい頃からビスマルクのだらしない姿を見てきた俺がときめく訳がないのだと。
まるで愛の告白を受けたかと錯覚してしまった。でもそれは姉弟としての関係なはずだ。ビスマルクが恋愛感情として俺を好きになるはずがない。
そう自分に言い聞かせた。ビスマルクは俺のような勉強は結構できて運動がそこそこなのよりも、もっと立派な人と恋人関係になるべきなんだ。あんな美人で賢い人なんだから。
本人にはとても言えないが、ビスマルクは俺の自慢の姉なんだ。
それに姉と弟という関係を気にいっている。朝に起こしに行くのが楽しく、小さな幸せとなっている今の関係を壊したくない。
深呼吸を何度かして心を落ち着かせると、靴を履き替えた俺は自分の教室へと静かな校舎の中を歩いていく。