時は少し戻り、ハジメが巧を襲った翌朝。
「貴方にオルフェノクとしての生き方を指南していただく方です。これからは、彼に教えを請うように」
そうして紹介されたのは、エリート街道を歩んできたのだろうと分かる、生真面目そうな男だった。ハジメからすれば、娘夫婦と同じぐらいの年代である男が、一度死んでいるという事実に心を重くする。
ただ、この男は奇妙な雰囲気を纏っていた。
無言のまま促されるように外へ出たハジメだったが、二人の間に会話はない。
「貴方は、戦いが怖いですか」
「……!?」
だから、男からの呼びかけが意外で、ハジメの思考に空白が生まれる。
「……戦いが、怖いですか?」
「――――恐れぬ者など、いないだろう……!」
それが普通だ。かの大戦こそ経験していないが、困窮の時代は父母から聞き及んでいる。
「私もです」
「……なに?」
「私もまた、戦いが恐ろしい。十年前で私はもうこりごりなんですよ……!」
眼鏡を掛けた男の表情が恐怖にゆがむ様が、ハジメの心情と一致する。
「十年前?」
「かつて、私も戦ったのですよ。あの乾巧と、その仲間達を相手に」
「何だって……?」
ハジメは違和感の正体を悟った。オルフェノクでありながら人間として生きようとする男。なぜ前川はこんな男をよこしたのだろうか。
「私には当てがあります。ともに逃げましょう? ね?」
男は興奮気味にハジメに迫った。身構えるハジメに慌てたように離れ、
「す、すみません! まだ名前も名乗っていませんでした。私は
男――琢磨はそう名乗って、必死な様子でハジメを説得しようとする。
「……とりあえず、その当てを頼ろう。儂もあの副社長とやらは好かぬ」
「ありがとうございます! すぐに!」
徒歩でも、スマートブレインが用意した自動車でもなく、タクシーを手配する琢磨。
とある場所で下車し、複雑な道順をたどる琢磨に何とかついてきたハジメは、なぜこのような道を使うのか訪ねる。
「追っ手がついていたら大変ですから。――つきました」
そこはとあるマンションの一室だった。
数人程が生活できるぐらいの広さを備え、スマートブレインが提供した部屋と遜色ない豪華さ――つまりハジメにとっては、分不相応とさえ思える部屋だった。
「十年前の戦いの折に、今の私たちのように人間として生きようとしていた、オルフェノクの一派がいました。そのまねごと、というと気を悪くされるかも知れませんが……」
琢磨は申しわけなさそうにしてハジメに語りかけた。
「その、人間として生きようとしたオルフェノク達は、どうなったのだ?」
「――ひとりは死に、後の二人については……私は知りません」
「三人か……」
いきなり人を襲えと命じられても、オルフェノクとて元は人間だ。躊躇いを覚える者は多いのだろう。
ただ十年前と言っても、スマートブレインに反発したのがその三人だけとは思えない。
琢磨によると、三人はオルフェノクと人間の共存を求め、その方法を模索していた。スマートブレインの刺客から身を隠し、人間を襲わないようにして過ごしていたのだ。
「――――当時の私は、離反した彼らを始末するという立場にいました」
「なに?」
「ですが、戦ううちに私ではどうしようもない事が……」
「待ちなさい、君」
話し続ける琢磨を遮る。
「君は、どちらの立場にいる? 人間か、オルフェノクか」
「そ、それは……」
「君は、人間を襲ったことがあるのだね?」
琢磨は何も言わず、うなだれた。
それが何よりも雄弁な答えだった。
「――――――貴重な話を聞かせてもらったよ。後のことは、ワシ一人で考える」
「ま、待ってください! 私は――」
「来るなっ!」
近寄る琢磨を制止する。
「来るな。ワシは君を、いや、誰を信用するべきかわからん」
「…………」
琢磨が黙り込んでいるうちに、ハジメはマンションを出ていってしまった。
(迂闊……)
失敗の理由はそれだけだろうか?
「いえ、私の自業自得ですね……」
ラッキークローバーとして、ほかのオルフェノクよりも多くの人間を殺してきた。鬱屈した感情を、人間を襲うことで解消してきたのだ。
それは歪んだプライドとしてかつての琢磨の性格を形成した。それに見合った教養も力もあったことがその傾向を強めた。
だが、琢磨のプライドは
この十年を人間として過ごしながら今とかつての自分を冷静に見つめ直し、琢磨は今の恐怖に震える自分を受け入れた。
琢磨逸郎という男の本性は、戦いを恐れる小さな男だ。プライドの高さは、その裏返し。周りの人間よりも優位に立っていないと不安で仕方がない、卑怯な人間。なんてこと無い、面倒なタイプではあるが、何も特別なことはない人間だった。
そんな風に折り合いをつけて平穏に過ごしていた琢磨だったが、そんな彼のもとにスマートブレインの勧誘があった。かつてのスマートブレインのやり方を知る琢磨は、逃げても無駄だと悟り、形だけでもと彼らに従ったのだ。
何時かの平穏を夢みて、雌伏の時と自分に言い聞かせて。
そうして、ようやく得た同志には受け入れられることはなく、琢磨の元から去ってしまった。
当然だ。人間を襲っていた過去を覆すことは出来ない。平均的なオルフェノクよりもさらに襲った数が多いと知れたら、彼はどう反応するだろう。
(人間にも、オルフェノクにもなれない。……彼らは、こんなにも難しいことに挑んでいたわけですか)
そして
それでも、半年以上にわたって仲間とともに過ごせていた事実は変わらない。出だしから躓いた琢磨とは大違いだ。
「私と、あなた方。同じようにいかないものですね……なんて、無様」
返事など無いただの独り言。
――――本当に、馬鹿な琢磨君……
「……っ!?」
だが気がつけばどこからともなく女の声が聞こえてきた。ひどく懐かしい、妖艶な女の声だった。
「っ、ど、どこです! 貴女は、どこから、どうやって!?」
――――どうだっていいじゃない。ずいぶん面白いことを始めたみたいね……
からかうように、面白がるように聞こえるかすかな笑い声。その出元はすぐにわかった。
(風呂場から……? そんなバカな!)
――――あら、見つかったみたいね……
風呂場には異常はないように見える。ただバスタブにはなみなみと水が張られ、琢磨を迎え入れるようにたたずんでいた。
――声の主は、
「それが、人間を捨てて手に入れた力ですか……!」
――――意外と不便なのよ、この力も。やっと直接話せるようになったのに、怖い顔ね。琢磨君……
よく目を凝らすと、人影のような何かが水面に写り込んでいることに気がついた。だがもちろん、バスタブに誰かが潜っているわけではない。
その灰色の体色は、紛れもなくオルフェノク。それも琢磨がよく知る人物のものだ。
「なぜここが分かったのです、冴子さん!」
――――偶然よ。私の場所にあの男が転がり落ちてきたから、ちょっと追いかけてみただけ……
その人影は、ロブスターオルフェノクの姿をしていた。
「ハジメさんをつけてきたわけですか」
――――そうよ。まさか、琢磨君が接触するなんて、思っても見なかったけれど。でもむしろ都合がいいわ……
「まさかこんな形でスマートブレインに居場所が知られるとは……」
――――バカにしないで……!
それまで、十年前すら感情を見せず余裕があった彼女の声が、初めて怒りを露わにした。
――――私は認めない。あんな半端な組織、私たちを侮辱する気……!
「…………」
――――ねぇ、琢磨君。私と組まない?
「……なんの、ために……?」
この恐ろしい女怪が、何のために琢磨を仲間に引き入れようというのか。
――――今のスマートブレインは、私たちオルフェノクの為にならない。貴方達はスマートブレインから逃れたい。手を組めばあの会社をつぶせると思わない……?
「しかし、私もオルフェノクとして暮らせというのでしょう? 人間としてではなく」
――――そう……
琢磨は答えると同時に、バスタブの栓に手をかけた。最初から答えは決まっていたし、彼女がどう答えるかも予想がつく。
――――
二人の声がかぶり、琢磨はバスタブの栓を抜いた。流れ落ちる水に吸い込まれるように、ロブスターオルフェノクの影が消えていく。
――――今のスマートブレインは、何かがおかしいわ……
その言葉だけが、琢磨の頭について離れなかった。
◇ ◇ ◇
(はぁ……)
ハジメは気がつくと、大牙と出会った橋に来ていた。昔から、悩みがあるとつい川辺へ向かうクセがあるが、勝手の違う土地でも変わらないらしい。
結局、ハジメにとって受け入れられないのは、人を襲うこと。この一点さえ何とか出来るならハジメは前川副社長に従い、オルフェノクとしてでも生き延びて娘達に会うつもりだった。生き延びることさえ出来れば、どうにかして娘達の居場所を調べ、会いに行けるはずだ、と。
琢磨の提案は、スマートブレインから逃げ延びて、人間として余生を過ごすというものだ。そこに行方知れずの娘達を探すことは含まれない。むしろ、探そうと行動を起こすことがスマートブレインに見つかる隙となることを思えば、断念しろと迫られるかも知れない。それでは意味がない。
「ワシは、どうすればいいんだろうな……」
そう一人ごち、ハジメは川面を見つめる。
「ハジメさん……」
そこに遠慮がちに声をかけたのは、大牙だった。走ってここまできたのか、汗だくで衣服も乱れている。
近くまで来ていいと無言で促したハジメは、ぼんやりと水面を見ていた。大牙も隣で同じ様に見つめる。
「どうしたんですか。その、またたそがれて……」
「ああ……ちょっと、ね」
どう言ったものかと思案する。当然、すべてを余さず語ることは出来ない。人間である大牙がオルフェノクであるハジメを受け入れてくれるなど、とうてい思えない。
「娘さん達、まだ見つからないですか?」
「ああ」
つい気のない返事をしたハジメに、大牙は向き合った。
「本当に、どうしたんですか? 元気ないよ」
「ああ……いや、少し道に迷ってな」
とっさに口をついて出たのが、こんな言葉だった。
「……俺、道案内とか無理だよ?」
「言葉の綾じゃて。……少し聞いてくれるか」
首肯する大牙を視界の端に収め、ハジメは語り始める。
「ワシは、女房に先立たれてな。男手一つで娘を育てた」
もちろん、男のハジメではどうにもならない部分は、周りの人々に助けてもらいながらだ。
「口癖のように『こんな田舎、出て行ってやる!』と言って聞かん娘でな、とうとう家出して、帰ってきたら『私、この人と結婚するから』とな」
「おおう……」
大牙は呻き声をあげた。ハジメは当然の反応だと苦笑する。
「そのとき、初めて
「――会いたいんですか」
「ああ、会いたいね」
ハジメは頭の中で話をまとめ、本題へ入る覚悟を決める。
「ただ、少し厄介なことがあってな。……ワシは、どうも長くないらしい」
嘘ではないと言い聞かせて。
◇ ◇ ◇
「ウソ……」
「すぐに死ぬというわけじゃないが、治療は難しいようじゃ」
嘘ではない。
「家族にも会えなくなるような、とても遠い場所に行かねば、生きながらえることは出来ないようじゃ」
嘘ではない。
きっと、人間として大事なものを無くしてしまうから。
「巧君や、君にも一生会えなくなるかもしれん」
嘘では、――ない。
「そんな、そんなこと、無いよ……元気になれば、きっと……!」
大牙はそれでも信じられないといった様子だったが、他ならないハジメ自身が会う資格が無くなると考えていた。
「ただ、第三の道を示そうとした男が居たんじゃ。余りに胡散臭くて、逃げてきてしまったが……」
これも嘘ではない。琢磨の示す道は、険しく、実現性に欠ける理想だった。
「じゃが、必死じゃった。怪しまれることを承知で、それでも偽りなく自身をさらけ出そうとしておった。少なくとも、ワシに対しては誠実であろうとしたのじゃな」
大牙はただ黙ってハジメの話を聞いていた。
ハジメは嘘は言っていないと自分に言い聞かせ、――ここですべて話してしまうことは出来ないのかという考えをよぎらせる。
「――――それに気づいたら、どうすればいいのかわからなくなった。自分がいまどうしたいのか、どこへ行きたいのかさえ見失って……気づけば迷子になっておった」
まだ言えない。口をついて出てきたのが、ただの話の続きだったことを受けて、ハジメはオルフェノクであることを隠し通す。
「……どうすれば良いかの」
大牙はしばらく黙っていたが、やがて意を決して口を開く。
「俺には、分からないよ。ハジメさんが死ぬなんて、信じたくない」
真剣な表情でハジメを見つめ、
「信じたくないけど……だからこそあなたは、家族に会うべきだ」
少し表情を緩めて、そう言いはなった。
「俺も家族が居ないから分かる。今は平気でもきっと最後には家族に会いたくなる。だから、えっと……」
大牙は照れくさそうにして、
「うまく言えないけど、どうせ最後は自分がやりたいようにやるんだ。なら、今自分の心の思うままに行動した方がいい。その方が後悔しなくて済むと思う」
少し早口で言い切った。
実際照れているのか、少し顔を赤くしていたが、ハジメの心は少し軽くなったのだった。
◇ ◇ ◇
「ああもう、せっかくだ! 俺の悩みも聞いてくれハジメさん!」
どうやら耐えられなくなったらしく、大牙はハジメに詰め寄った。
「こんな爺の役割は若者の愚痴を聞くことじゃろ、格好つかないところを見せたしな」
「カッコ悪いのは俺の方だろうがぁ!」
バリバリと頭をかく大牙を止め、ハジメは若者の言葉を受け入れる。
少し心が軽くなって、いろいろと考える余裕ができた。その礼代わりに話を聞くのもやぶさかではない。
「あのさハジメさん、例えばの話だけど……」
「――――――この世界に怪物が住み着いているって言って、信じられるかな」
そんなハジメをあざ笑うかのように、大牙の言葉は心を抉った。
Open your eyes, for the next riders!
「私はもう、戦いたくない! 信じてください!」
「私たちの世界を、創り出すのよ」
「社長の信念、理想的なオルフェノクの世界を理解できない愚か者どもめ……」
「――変身……」
――――Complete
「お前が、おまえ達が罪もない人々を殺した!」