“もう一つの監視部隊”から『袁紹軍が南下を始めた』との報告を受けた華琳は、一つ深い溜息を吐くと、傍に居る秋蘭に向けて愚痴を
「折角、昔からのよしみで見逃してあげたも同然なのに、あの馬鹿は……。」
「袁紹ですから、仕方ありません。」
曹操軍の陣地の中の一ヶ所、武官文官を集めて軍議をする天幕の中で、まさに軍議を進めていた所だった。即席の卓を中心に椅子を並べ、集まった将兵は
華琳は家臣達を正面左右に見ながら、左側最前列に座っている荀彧に軍議を進めるよう促す。
「仕方ないわね。……
荀彧、真名を桂花と言う小柄な少女だが、彼女はこう見えて曹操軍の筆頭軍師を務める程の実力の持ち主である。
元は身内や同郷の者が居る事もあって袁紹軍に居たのだが、その袁紹は荀彧の理想とする人間ではなかった事もあり、理由をつけて袁紹軍を離れ、曹操軍に入った。
先の黄巾党の乱では、兵糧の数を華琳が決めていた数より少なくし、その兵糧が無くなる前に賊を討ち果たすという才を見せつけ、軍師としての地位を確実なものとした。
その後も華琳の右腕としての献策を続け、今回も筆頭軍師として帯同している。
「敵は“あの”袁紹です。十回や百回戦っても、曹軍が負ける事はないでしょう。」
桂花は初めにそう断言した。それ自体はこの場に居る者全員が思っていた事でもある。
「ですが、敵は十万。対して私達は四万です。兵法に基づけば、まず勝てない状況なのも事実です。」
兵法、例えば孫氏の兵法では「戦争をするなら相手より多く兵を集めるべし。出来ないなら戦うな」とあるので、桂花のこの見解は正しいものである。
「とは言え、ここで戦わないという選択肢はありません。もし戦わなければ、“
華琳様が袁紹などに屈するはずがあるか! とは夏侯惇。そんなの当たり前でしょ! でも、世間はそう思わないのよ‼ と桂花。
二人共落ち着きなさい、と華琳が言うと、二人は慌てて落ち着こうとする。
暫くして桂花は咳払いを一つし、話を再開した。
「よって、曹軍は寡兵で袁紹軍と戦い、勝たなくてはなりません。それも、可能な限り兵の損耗を抑えつつ、です。」
「そんな事が可能なのですか?」
「可能よ、
桂花は流琉に向かって断言した。流琉とは典韋の真名である。
「戦は、必ずしも敵を全滅させる必要は無いわ。勝利条件なんてものは、その時々によって変わるものよ。流琉、今回の勝利条件は何だと思う?」
「えーっと……袁紹軍を、兗州から追い出す、ですか?」
「その通りよ。」
自軍の倍以上の数である敵軍を全滅させるのは、かなり難しい。倍どころか何十倍もの数の敵に勝った
桂花は軍師であり、理想と現実の見極めは出来ている。理想は曹操軍が袁紹軍を全滅させる事だが、現実的にそれは無理だと理解している。その上で華琳に勝利をもたらすにはどうすれば良いか、と考えれば、この答えに行きつくのである。
「その為の布石は……残念ながら私の手柄じゃないけど、既に打ってあります。ですが、その前に曹軍がする事は、“こちらが袁紹軍を敵視している”という事を相手に分からせる必要があります。」
桂花がそう言うと、再び流琉が声を出した。
「それって、攻撃を仕掛ける、って事ですか?」
「そうよ。既に警告をしているのだから、約を破ったらどうなるか、思い知らせる必要があるわ。……相変わらず、袁紹は華琳様を味方だと思っている様だし。」
桂花はそう言うと華琳を見つめた。先日、その華琳から見せられた袁紹からの手紙。そこには華琳に対して徐州を共に討とうという説得文が書かれていた。ハッキリと断られたのに、まだ望みがあると思っている様だと知ると、一応元主君である袁紹を哀れに思ってしまった。
「だから、袁紹軍にはここで敵味方の認識をハッキリさせる必要があるの。そうする事で、後で起きる事に大きな影響を与える事が出来るわ。」
後で起こる事とは何だ? と夏侯惇。アンタが知る必要は無いわよ、と桂花。当然また口喧嘩になった。そして華琳が収めた。
華琳はそこで桂花を座らせた。彼女の役割はここまで、という意味だ。
続いて指名したのは、最近曹操軍に入った文官だった。
「
「はっ。」
稟と呼ばれた短めの濃い茶髪の少女は、起立しながら眼鏡を合わせ、華琳や諸将に向かって自身の見解を述べ始めた。
「桂花殿も仰られましたが、袁紹軍は曹軍の倍以上です。普通に戦っては被害が大きくなります。ですが……。」
「ですが、何だ?」
夏侯惇が訊くと、稟は視線を彼女に向けて説明する。桂花の様に口喧嘩をする関係ではないらしい。
「戦いは天、地、人、三つが揃って勝つと言います。つまり天の時、地の利、そして人の和、です。今回はその中で地の利を生かしたいと思っています。」
稟の説明を聞いた夏侯惇は頭に「?」マークを浮かべているかの様な表情だったが、稟は構わず話し続けた。
「平地で戦えば、質では勝っていても数で劣る曹軍は苦戦を免れないでしょう。損害も多くなります。ですから……。」
稟はそう言って、卓上に広げてある地図の数ヶ所を指さす。その場所は南武陽、合城、南平陽といった、どこも山沿いの地域である。
「私達は袁紹軍の進路を“それとなく”誘導し、この三ヶ所のいずれかで迎え撃ちます。」
「成程、高地での優位性を生かす、という事ね。」
「はい。そして、この中で一番良い場所は南武陽と思われます。」
南武陽は南北を山に囲まれた場所に在り、この中では一番平地が少ない。行軍には少々骨が折れると思われる。その為、行軍の進路としては選ばれないと思われるのだが。
「普通は、そうでしょう。ですが、他の場所に曹軍を配置しておけば、それも大々的に部隊を展開させておけば、袁紹軍はそれらの道を通る事はしないでしょう。」
「私に対する負い目が有れば、そうなるでしょうね。けど、そうならなかったらどうするの?」
「その場合は、兗州から出る様に警告を出します。それで大人しく戻ったり誘導できればそれで良し、もし逆上して攻撃してきたのなら、退却を優先しつつ、可能ならこのいずれかに誘導します。」
「そう簡単に出来るかしら?」
「それぞれに伏兵を置き、その際にこちらの兵を多く見せる偽装をすれば、余程の馬鹿でない限りは引き返すでしょう。」
「麗羽は多分、余程の馬鹿よ。」
華琳は言い切った。誰も異論を挟まないという事は、曹操軍での袁紹の評価はその通りという事になる。まあ、恐らくそれは正しいのだろう。
「袁紹自身はそうでも、彼女の周りにも文官は居ます。伏兵を見れば危険性を察知し、袁紹に進言するでしょう。華琳様から聞いた袁紹の性格ならば、その様な場面になった場合に撤退すると私は思っています。」
それは、確信に近い言葉だった。稟自身は袁紹と会った事は無い。会った事の無い相手の行動を考えるのは難しいが、それもまた軍師の仕事であり、稟にとっては普通の事だった。
華琳は暫し考える。彼女の手には二通の手紙が握られている。一通は北から、もう一通は南東から来たものである。
既に中身は読んでおり、それがこれからの戦いについて書かれたものだという事は確認している。それらを踏まえて熟考した結果、華琳は指示を出した。
「稟の策を採用しましょう。伏兵を率いる将には……春蘭が良いわね、稟?」
「ええ。夏侯惇将軍以外にこの役は無理かと。」
「ありがとうございます、華琳様‼」
伏兵部隊の指揮官に指名された春蘭こと夏侯惇は、感激の涙を流しながら、早速部隊編成に向かいます! と言って天幕を出て行った。
春蘭が指名されたのは、もちろん彼女の実力を買っての事だが、それだけではない。夏侯惇という武将の名声も考慮しての事だ。
今の華琳には、まだまだ人材が少ない。正史では陣営に加わる筈だった
そんな中で、名のある武将は夏侯惇、夏侯淵の姉妹と荀彧くらいだった。他のメンバーも、正史や演義においては名だたる武将、文官ではあるが、この世界ではその殆どが駆け出しだったりで、世間に知られていない。
となると、伏兵部隊の指揮官はこの三人の中から選ばざるを得ない。
文官の荀彧も部隊指揮は出来なくもないが、彼女の本領は軍略にある。よって除外される。
結果、残る夏侯姉妹の内のどちらかとなるが、ここで重要なのは、指揮する部隊が「伏兵」、それも袁紹軍を混乱させる為の部隊という事である。
通常の伏兵部隊ならば、九割九分九厘の確率で夏侯淵になっただろう。彼女は武官の中では冷静沈着で思慮深く、いつ部隊を動かせばより効果的かを熟知している。
だが、今回の伏兵部隊の役割を考えると、夏侯惇が適任である。彼女の武勇は夏侯淵以上に世に知られており、その名前を聞いただけで敵は驚き竦みあがる程である。これ程今回の伏兵部隊の指揮官に最適な者は、今の曹操軍には居ない。華琳と稟はそうした事を考え、春蘭を指揮官に任じたのである。