一体どんな歌なのか気になった涼だったが、地香に睨まれると直ぐに諦めた。触らぬ神に祟り無し、である。
その地香がこの場から早く離れたがっているのに気付いた涼は、諸葛亮や鳳統を皆に紹介しようと提案し、その場は解散となった。
(うぅ……ちょっとだけと思って抱きついていたら、そのまま眠っちゃうなんて……ちぃとした事がしくじったわ。)
執務室から一旦自室へと戻る道すがら、地香はそんな事を思っていた。
地香が心中で呟いている通り、始めはちょっとした出来心だった。
桃香が
この世界の人間ではない涼は勿論、黄巾党時代は優秀な妹が居た地香もまた、こうした頭脳労働は余り得意ではない。
一応、立場上ずっと桃香を補佐してきた涼は少なからず出来るが、それでも州牧の桃香や文官筆頭の雪里と比べたら大きく落ちる。
桃香はいつも大変そうにしながら政務をしていたが、
州牧代理やその補佐という立場になって初めて、涼達は桃香の凄さを思い知ったのだった。
そう思いながら二人は政務をこなしていったが、慣れない仕事や自身の許容量を超える
その為、休み休みに仕事をしていったが、やむを得ず徹夜になる事も勿論あった。
昨夜も二人は徹夜する筈だったが、地香の疲れが目に見えていた為に涼はその仕事を一手に引き受けた。
勿論、地香は大丈夫だと反論したが、最後は州牧代理命令だと言われてしまい、仕方無く自室にて睡眠をとる事にした。翌朝、早くに起きて手伝おうと思いながら。
普段は早起きが苦手な地香だが、今朝はちゃんと起きる事が出来た。
起きると直ぐに身支度を整え、執務室へ向かう。
徹夜したであろう涼がそこに居るか、自室に戻ったかは判らなかったが、どっちでも良かった。どっちにしろ、政務に取り掛かる予定だったのだから。
執務室の扉をノックする。寝ている場合の事を考えて控えめに。
返事は無かった。居ないのかと思いながらゆっくりと扉を開くと、長椅子に寝ている涼の姿が目に入ってきた。
机の上の書簡を見ると、その殆どが処理されていた。今日の分はこれから届けられるだろうが、どうやら今は何もしなくて良い様だ。
折角張り切って来たのに意味無かったかな、と、思いながら、地香は何気なく涼を見た。
よっぽど疲れているのか、地香が来た事に気付いて起きる気配は無い。
だからだろうか、地香はちょっと大胆になってみた。
その行動に若干の後ろめたさを感じながら、地香は涼の顔にそっと手を当てる。
起きる気配はやはり無い。続けて、上半身だけ体を預ける。
涼の温もりと鼓動を感じると、自分の体温が上がり、鼓動が速くなっていくのを感じた。
年齢的及び精神的に大人と少女の狭間の地香でも、何故そうなっているかの理由は解っている。
それがどういった感情によるものか、この次はどうしたいかも解っている。
だが、だからこそ地香は躊躇う。
こんな事をして良いのか? “あの子”は今居ないのに。
恐らく、自分と同じ想いを抱いているであろう少女の顔を思い浮かべながら、地香は涼の顔を覗く。
結局、ちょっとだけ誘惑が勝った。
彼女が本来望んでいる事は勿論しないものの、涼が起きていたら多分してくれない事はやってみたい。
だから、上半身だけでなく体全体を涼に預けてみた。
ほんの少しだけ、と思いながらしたその行動が、先程の騒動の原因になったのだった。
(まさか、あのまま寝ちゃうなんて……。しかも、そんな時に限って桃香達が帰ってくるし……。)
感じた温もりや鼓動が心地良くて、つい二度寝をしてしまった。
それ自体はそれ程後悔していないが、その場面を桃香達に見られた事は後悔している様だ。
(後で何か言われるわよね……。まあ、遅かれ早かれこんな日が来るのは解っていたけどね……。)
地香は髪を梳きながらそう覚悟を決めると、衣服を整えてから自室を出た。
だが、結果的にはその覚悟は要らなかった。何故なら、
「彼女達が、新しく私達の仲間になった軍師の諸葛亮ちゃんと鳳統ちゃんだよ。」
「しょ、諸葛孔明でしゅっ。」
「ほ、鳳統でしゅっ。あう、また噛んじゃった……。」
というやりとり、所謂、自己紹介が玉座の間であった為に、桃香による詰問は無かった。
因みに、朱里と鳳統を見た諸将の感想は、往々にして先程の地香や涼と同じだったらしい。
勿論、二人の容姿からその実力を疑問視する者も居たが、隆中で朱里が桃香に対して行った献策――青州獲得とそれに伴う同盟の構築――を改めて涼に語り、鳳統が徐州軍の改善策を述べるのを見ると、皆一様にその認識を改めていった。
彼女達の自己紹介が終わった後に詰問されるかと思っていた地香は、結局その後も何も言われなかった事に拍子抜けしたが、いつ詰問されても良い様に身構えてはいた。
桃香が不在の間、涼や地香が代理を務めていたとは言え、桃香が州牧の仕事を放棄してきた事に変わりはない。
よって、桃香はその間の仕事の内容を頭に叩き込む必要があった。
「はい、じゃあ次はこの書簡に目を通してくれ。」
「あの……。」
「桃香様、その次はこちらをお願いします。」
「えっと……。」
「「……何か?」」
「何でもありません……。」
桃香は何も言い返せずに執務室でうなだれた。
結局、彼女はこの日から三日三晩、涼と雪里によって選別された必要最低限の量の書簡を読まされる事となった。
因みに地香は、桃香が帰ってきた事によって州牧代理補佐の任から解放されている為、本来の仕事に戻っていた。
その為、桃香が半ば軟禁状態で政務をしていたとは知らなかったのだ。
地香がそれを知ったのは、全ての書簡に目を通して解放された桃香が、フラフラになっている所に出くわして話を聞いた時になる。
この時、仕事に忙殺されていた桃香は涼と地香の一件を忘れていた。それどころでは無かったのだから、仕方ないのだが。
そんな訳で、地香は追及される事無く、無事に日々を過ごしていった。
青州から一人の傷だらけの将がやってきたのは、そんな時だった。