雪里は朱里の言葉に驚いている。今の朱里の言葉が、単なる「拒否」ではなく、「拒絶」に近い言い方だったからだ。
「……理由を聞かせてくれるかしら?」
だが、雪里はその驚きを極力隠しながら、表面的には冷静にして訊ねる。
対する朱里も、その幼さの残る顔を引き締めながらハッキリと理由を述べる。
「一言で言えば、戦には関わりたくない。只、それだけだよ。」
「……それは解るけど、貴女が手伝ってくれたらその戦を早く終わらせられるし、そもそも戦を起こさずに済むかも知れないのよ。」
雪里は少し苛つきながら言葉を紡いだ。
彼女は、昔馴染みの親友に断られる確率は低いと思っていた。
だが、実際には朱里は雪里の要請を頑なに拒否している。
その事実に雪里は違和感を感じるが、一番の違和感は「あの朱里が何故、世の為に動こうとしないのか」という事だった。
学生時代、朱里は同級生の中で、いや、その私塾で学んだ全ての生徒の中で一番の秀才だった。
真綿が真水を吸い込む様に知識を得ていき、尚且つ誰も考えつかない応用を瞬時に閃く。
雪里は朱里のその才を、周の
そんな朱里が、今の世を憂いていない筈が無い。世の中を正す為なら、絶対に力を貸してくれる筈だと思ったからこそ、断られる確率は低いと思っていたのだ。
朱里は、学問を役立てず、学問の為に学問をする無能者達や、論議の為に論議をする
「朱里、貴女は一生その才を埋もれさせたまま、この隆中で過ごすつもり?」
「……うん、そうだよ。」
そう訊かれた朱里は僅かの間考えたが、彼女が出した答えは雪里を落胆させるものだった。
(どうして……? どうしてあの聡明な朱里が、こんな馬鹿な判断をしているの?)
雪里は、朱里を見つめたまま呆然としている。
そして朱里は、そんな雪里をジッと見据えていた。いや、半ば睨んでいたと言った方が正しいだろうか。
「……朱里ちゃん、せめてちゃんとした理由を言わないと、雪里ちゃんは納得しないと思うよ。」
そんな二人を静かに見守っていた雛里が、オドオドしながらそう言った。
すると朱里は、それ迄の固い表情を和らげ、ふうっと一つ息を吐いた。
「……そうだよね。有難う、雛里ちゃん。」
「ううん、良いよ。」
朱里の表情が和らいだのを見て、雪里は一体何を話すのか気になった。
先程迄睨んでいた表情が、瞬時に穏やかな表情に変わったのだから、その戸惑いは仕方ない。
そんな雪里の戸惑い等関係なく、朱里はその表情をやや厳しくして、真っ直ぐに雪里を見つめ直すと、ゆっくりと、だがハッキリとした口調で話し出した。
「……雪里ちゃん、私が何故雪里ちゃんの誘いを断るのか、その訳を教えるね。」
「う、うん……。」
真剣な朱里の表情と口調に、雪里は無意識に唾を飲み込む。
そして朱里は言葉を紡いだ。
「……実はね、黄巾党の乱が起きてた頃、叔父夫婦が亡くなったの。」
「えっ……!?」
予想外の告白に、雪里は絶句するしか出来なかった。
朱里の両親は、朱里が幼い頃に二人共他界しており、朱里達四姉妹は父が生前娶った後妻と共に、江東の叔父夫婦の
その後、朱里の姉の
それから数年後、成長した朱里は妹の緋里と共にここ隆中に移り住み、育ててくれた叔父夫婦に恩返しをする為に書を書いて生計を立てていた。
「ま、まさか、黄巾党に……!?」
「ううん。……
元黄巾党の人間が徐州軍に居る事もあり、雪里はもしそうだったならどうしようと気が気でなかったが、違うと判ると安心し、同時に自己嫌悪に陥った。
朱里の話によると、何でも朱里の叔父である
その結果起きた戦争で叔父夫婦は戦死し、朱里と緋里は最近迄鬱ぎ込んでいたらしい。
(まったく……あのおチビちゃんは何をやってんのかしら。)
朱里から話を聞いた雪里が最初に思ったのは、溜息混じりの様なそんな一言だった。
本来、太守を任命出来るのは朝廷、つまり漢王朝だけである。
だが、黄巾党の乱は勿論、それ以前から続く乱れた世の中では、地方の豪族は朝廷の命を待たずに勝手に決めてきた。
今回の事件は、そうした先例に則った袁術が勝手に決めた為に起こった悲劇だった。
(……もっとも、どうせ
そう考えると、袁術も被害者だなと、雪里は思う。
だが、そのお陰で朱里を連れて行く事が出来なくなりそうになってるので、同情はしなかった。
「……つまり、朱里は戦に係わりたくないから徐州に行きたくない、という訳ね?」
「うん……。」
雪里は、朱里の話から導き出した答えを、それが正しいか確認する様に訊ねる。
その問いに朱里は只の一言で返すと、俯いたまま口を閉じた。
そんな朱里を見ながら、雪里は溜息を吐いて髪をかきあげた。
(……今日は駄目みたいね。)
雪里はそう思いながら雛里にも訊ねてみたが、彼女もやはり要請を断った。
雛里が断った理由は、朱里と同様に戦に係わりたくないという事だったが、その表情からは、今の朱里を置いていけないという理由も有る様だった。
徐州軍の軍師としては無理矢理にでも二人を連れて行きたい雪里だったが、彼女は二人の親友でもある為、それを出来ないでいる。
「……解ったわ。」
雪里はそう言うと、小さく息を吐きながらゆっくりと立ち上がり、入ってきた扉に向かいながら話し掛ける。
「取り敢えず、今日は帰るわね。」
「何度来たって、私の答えは変わらないよ。」
朱里は俯いたまま即答する。雛里はオロオロし続け、雪里は振り返らずにそのまま扉を開け、部屋を出た。
扉を閉めて歩き出すと、雛里が朱里に対して何かを言っているのが聞こえた。だが、雪里は足を止めず歩き続ける。
廊下を歩いていると、四人分のお茶と甘味が乗ったお盆を持った緋里と出会った。
「あれ、雪里お姉ちゃんどうしたの?」
「……ちょっとね。」
余程難しい表情をしていたのか、緋里は
幼いとはいえ諸葛瑾と朱里を姉にもつ緋里である。雪里のその答えだけで、二人に、若しくは三人に何かあったと察した様だ。
「……解りました。また来て下さいね。」
「ありがと、緋里。」
二人はそう言葉を交わすと、それぞれの行く先へと向かった。
「お姉ちゃん、
緋里は、朱里達が居る部屋の扉を開けながら何かを伝えていたが、雪里は歩き続けていたので最後迄聞こえなかった。
雪里が玄関を出ると、そこには一人の少女が立っていた。
紅く長い髪に健康的に焼けた肌。大きな碧眼に活発そうな表情、子供特有の八重歯が特徴的だ。
背丈は朱里や雛里と同じくらいで、服装は白を基調としたノースリーブに黒いホットパンツ。靴下は履いておらず、素足に紅いサンダルを履いている。
雪里が少女に一礼すると、少女も同様に返し、朱里の屋敷へと入っていった。
(……朱里の友達かしら?)
そう思いながら、乗ってきた馬に騎乗し、ゆっくりと走らせる。
段々と遠ざかる朱里の屋敷を一瞥し、これからの事を考えた。
(さて……大見得をきったのに手ぶらで帰るのも何だし、取り敢えず兵だけでも集めてこないとね。)
雪里はそう思いつつ、気持ちを切り替えて徐州へと帰って行った。
因みに、帰還時に雪里が集めてきた兵数は、軽く二万を超えていたらしい。