その夜、涼は自室で仕事を片付けていた。
連合軍の総大将ともなると、報告書の類の処理だけでも膨大な時間が掛かる。
昼間は雪里や賈駆といった軍師達に手伝ってもらったりしているが、流石に夜中に呼びつける訳にはいかない。
涼は男で雪里達は女だから、有らぬ噂が立ったり間違いが起こってはいけないからだ。
但し、今からこの部屋に来る人物だけは例外だ。
部屋の扉が二度ノックされる。
本来この世界にノックという風習は無いのだが、涼は総大将という立場を利用し、天界の風習として全員に徹底させていた。
結構好評なのか、今では皆違和感無くやっている。
「どうぞ。」
涼の声を合図に、ゆっくりと扉が開いた。
「劉徳然、入ります。」
そう言って入ってきたのは、水色の髪の少女だった。
少女は扉がきちんと閉まったのを確認してから、ゆっくりと涼の前に進んだ。
因みにこの部屋には机とベッドとテーブルと箪笥が在り、涼は今机に向かって仕事をしている為、少女とは机を挟んで対峙している。
「いつもこんな時間に呼び出して悪いな。」
「いえ、事情は解っていますから。」
そう言葉を交わした後、涼は椅子を勧め、少女はそれに従った。
それから暫くは取り留めない会話をしていたが、やがて涼は腕時計に目をやり、時間を確かめてから言った。
「……そろそろ良いかな。いつも通りに戻って良いよ、“
「ふーっ。やっと楽出来る〜。」
そう言って両手を組んで上げ、伸びをする劉徳然。
そんな彼女を、涼は「地和」と呼んだ。
「ゴメンな、いつも堅苦しい思いをさせて。」
「ううん、気にしないで。これも、ちぃを守る為に涼がしてくれてる事だから、そんなに堅苦しくないわ。」
「そっか。流石に、連合軍内で張宝って名乗る訳にはいかないからな。」
「まあね。」
そう、先程劉徳然と名乗った少女の正体は、張三姉妹の次女、張宝だったのだ。
涼が張宝を匿うと決めた後、外見は髪型を変えたり服装を整えたりして何とか誤魔化す事が出来たが、名前をどうするかは決めていなかった。
すると桃香が、
『じゃあ、“劉徳然”って名乗ったら良いよ♪』
と言ってきた。
桃香によると、劉徳然という名前は桃香の従姉妹の名前で、現在は桃香の生まれ故郷である
その者の名を借り、時雨達と共に桃香に会いに来たという設定にすれば、張宝がこの場に居ても不自然じゃないという事だ。
因みに本物の劉徳然の真名は「
「……それで、話は何?」
「うん……。」
張宝――地和が尋ねると、涼は一瞬目を逸らしてから言った。
「……今日、広宗の官軍から報告書が届いた。……曹操が黄巾党広宗部隊を征伐したらしい。」
「え……。」
そう聞かされた地和は、まるで言葉を失ったかの様に絶句した。
やがて、手や体が震えだし、目の焦点も定まらなくなっている。
「嘘……よね……?」
地和は声を震わせながら、絞り出す様にそう言った。
瞳は潤んでおり、いつ決壊して涙が零れ落ちてもおかしくない。
「……こんな嘘を言う程、俺は意地悪じゃないよ。」
「……っ!」
涼の言葉によって、地和の瞳の堤防は呆気なく決壊した。
涙はとめどなく流れ出し、地和が両手で抑えても塞ぎきれない。
「……お姉ちゃんや……
涙を流しながら地和は尋ねる。
因みにお姉ちゃんとは張三姉妹の長女である張角の事で、人和とは張三姉妹の末妹である張梁の真名だ。
「……報告書には、張角・張梁共に討ちとったとあった。そうして指揮官を失った広宗の黄巾党は、呆気なく全滅したらしい……。」
「そう……なんだ……。」
涙の量が更に増える。
血を分けた姉妹を失ったのだから、その悲しみや辛さは相当なものだろう。
「どうして、こんな事に……ちぃ達は、只三人で歌っていたかっただけなのに……。」
「地和……。」
涼は泣き続ける地和に近付いて、まるで子供をあやす様にそっと抱き締める。
髪や背中を撫で、落ち着かせようとするが、その優しさが却って地和の涙腺を緩くし、泣き声は激しい嗚咽へと変わった。
どれだけの間泣き続けただろうか。
地和の嗚咽は漸く沈静化し始めていた。
「……落ち着いた?」
「うん……。」
涼の胸元に顔を埋めたまま、地和は力無く答えた。
そんな地和を、涼は優しく撫で、更に落ち着かせていく。
「ゴメン……。」
「……どうして涼が謝るの?」
「……俺が部隊を広宗に残していれば、張角と張梁も匿えたり逃がせたり出来たかも知れないから……。」
「有難う……。けど、あの状況じゃそれは出来なかったでしょ?」
「うん……。」
涙を拭きながら地和が言うと、涼もまた力無く答えた。
広宗の旧張宝軍を倒した後、涼達連合軍は南陽に向かった。
涼はそのまま残って張角と張梁を探したかったが、南陽黄巾党が依然として勢力を誇っていた為、その討伐に連合軍があてがわれた。
南陽は広宗からかなり離れた場所の為、涼は皇甫嵩将軍と朱儁将軍に頼もうとしたが、二人は豫州に向かう事になっており、また、広宗に残っていた張角軍と張梁軍には洛陽から派遣された何進の部隊が対処する事になっていた。
実はこれは、張宝を討った連合軍に張角や張梁迄討たれては大将軍としての立場が危ういと考えた
何進とは、洛陽の街を取り締まる大将軍という役職を務める女性だ。
元々は洛陽に在る肉屋の女主人だったが、何進の妹が時の帝である
その様な経緯から、何進は実績を欲していた。
今のままでは、妹――
それでは何れ、帝や何后に何か有った場合に追いやられてしまうだろう。
何進が広宗に来たのは、張宝が討ち取られて士気が落ちているであろう張角軍・張梁軍を討つ事で実績を得ようとしていた訳だ。
だが、張宝を討たれたと思っていた張角軍・張梁軍は弔い合戦と意気込んでおり、何進は苦戦を強いられた。
そこに、軍を再編した曹操軍が援軍として現れ、何進を援護。遂には張角・張梁を討ち取ってしまった。
何進は大将軍としての面目を潰してしまったが、かと言って曹操を非難する訳にはいかず、曹操に恩賞を与えている。
この様な経緯があった為、涼達連合軍は南陽に進軍しなければならなかった。
大将軍である何進の命に従わなかったら、逆賊として討たれる危険性も有った。それだけは、どうしても避けなければならかったのだ。
「……涼は連合軍の総大将。だから、連合軍を危険に曝す訳にはいかなかったでしょ?」
「それはそうだけど……他に何か出来たんじゃないかって……。」
地和を抱き締めながら、涼は自らを非難していく。
この世界に来る迄は、こんなに考え込む事は殆ど無かったのだが、今や一軍の指揮官を務める身。そんな状況では、考え込まない方がおかしいだろう。
地和はそんな涼を見つめると、今迄とは逆に涼を抱き締めた。
「確かに、何か方法は有ったかも知れない……。けど、涼が頑張っていたって事、ちぃは知ってるよ。」
「地和……。」
「だから……余り考え込まないで。涼が辛そうにしてると、ちぃはもっと辛くなるから……。」
そう言いながら、地和は涙を流した。
だがそれは、先程の様な沢山の大粒の涙ではなく、頬を伝う一筋の涙だった。
「地和……解った……。」
涼はそう言って地和を抱き締め直す。すると、地和も再び涼を抱き締めた。
気がつけば、互いの首に手を回し、互いの呼吸が感じ取れる距離に二人は居る。
地和の、それ程大きくない胸も涼の体に当たっている。
当然ながら、涼がそれに気付かない訳が無い。
心臓の鼓動が自然と速くなる。
地和の翡翠色の瞳は、涙によるものとは違う潤いに満ち溢れていた。
涼はその瞳に惹き込まれ、目を離せなくなった。
それと同時に、昼間の雪蓮とのキスを思い出す。
突然の事だったとは言え、あの時の感触は今でもハッキリと覚えている。
柔らかい唇と、透き通る様な蒼い瞳。
思い出すと、心臓の鼓動は更に速くなった。
雰囲気としては、このまま地和とキスしてもおかしくない。
地和もその雰囲気を感じているらしく、頬に紅が差している。
(……こんな時に、良いのかな……。)
涼は雰囲気や地和の態度から、キスしても良い様な気がしていた。
だが、キスとは本来恋人同士がするものであり、涼と地和は恋人同士ではない。
雪蓮とも恋人同士ではないのだが、何故かキスをされた。
(だから、俺と地和がキスしてもおかしくはないけど……。)
一日の内に二人の女の子とキスをして良いのか、それに何より、地和の姉と妹が討たれたと告げた時にキスをして良いのだろうか。
そう迷っていると、地和が尋ねてきた。
「……涼は、ちぃを一人にしないわよね?」
「そんなの、当たり前だろ。」
「だったら……ちぃにその証拠を見せて……。」
「えっ……!?」
「……ちぃは、寂しいのが一番嫌い……。だから、涼はちぃを寂しくさせないで……。そうしたら、きっと地和は頑張れると思うから……。」
「地和……。」
再び、涙を流す地和。
そんな地和を見て、涼は気付いた。
地和は姉妹の死から立ち直っていない。そんな当たり前の事に、気付いていなかった。
泣き止んだから大丈夫だとでも思ったのか、自分を異性として意識していたから大丈夫だとでも思ったのか。
どちらにしても、人は身内を亡くして直ぐに立ち直れる程強くはない。
そう、強くはないのだ。
だったら、少しでも強くなれる様、力になりたい。
涼はそう思った。
「地和……。」
「涼……。」
涼は地和を抱き寄せ、その瞳を見つめる。
暫くの間二人は見つめ合っていたが、やがて地和はゆっくりと瞳を閉じた。
それに合わせて、涼は唇を重ねようと顔を動かしながら目を閉じる。
そうして唇と唇が重なろうとした瞬間、
ギシッ。
と、いう、床が軋む音が部屋の入口付近から聞こえてきた。
意外と大きな音だったので、涼は動くのを止めて目を開け、地和もまた閉じていた瞳を開けた。
触れ合う程近い距離で見つめ合う二人。
二人はそこで、今しようとした事を思い出し、瞬時に顔を真っ赤に染めた。
(……今、絶対にキスだけで終わる雰囲気じゃ無かったよな……。)
(……ちぃったら、な、何考えてたんだろ……っ。)
涼も地和も、あのままだったらキスより先の事をしただろうと確信した。
互いにチラチラ見ながら、更に紅く染まる二人の顔。
暫くの間そのままジッとしていたかったが、先程の音の正体を確かめなければならなかった。
涼がゆっくりと立ち上がると、地和も立ち上がろうとしたが、もしもの事が有ったらいけないという涼の説得を受けてその場に留まった。
涼は入口に近付いた。
今は真夜中で殆どの人間が眠りについている。
起きているのは涼の様に仕事をしているか、見回りをしている兵士くらいだ。
だから、本来なら気にする必要は無いのだが、足音が一度しか聞こえなかったのが気になった。
近付く音なら聞き逃した可能性が有るが、立ち去る音を聞き逃した可能性は低い。
何故ならあの音に気付いてからは、赤面しながらもずっと集中したので、僅かな物音も聞き逃していないのだ。
だから、音の主が未だ居る可能性が高い。
涼はそっと扉に手をかけた。
同時に剣の柄に手を置き、不測の事態に備える。
自然と息を潜め、生唾を飲み込む。
地和も同様に息を殺し、扉を見ながら護身用の剣の柄に手を置いた。
涼は一拍だけ息を吐くと、一気に扉を開けた。夜中なので大きな音を立てない様にしながらという、何とも器用な開け方だった。
瞬時に辺りを緊張感が包む。
が、また瞬時に緊張感が消えていった。
何故なら扉の先に居たのは、不審者等では無かったからだ。
「こ……こんばんは……。」
「あ、ああ……こんばんは。」
そこに居た人物の一人が慌てながらも挨拶してきたので、涼は丁寧に挨拶を返した。
「な、何挨拶してるのよっ。」
「だ、だって、私達見つかっちゃったし……。」
「えーっと……。」
扉の先に居る人物達の会話を聞きながら、涼は現状の分析をした。
また、地和も状況が変化しているのを理解しつつも、緊急事態では無い様なので涼の言い付け通りに待ち、微かに聞こえる声の主が誰か考えながら座っている。
やがて、涼は目の前に居る人物達に声をかけた。
「取り敢えず、廊下に突っ立っているのも何だから、中に入らない?」
「えっ?」
「……変な事をするつもりじゃないわよね?」
「違うってっ。」
涼は苦笑しながら答えた。
つい数分前迄、地和と「変な事」をしようとしていた涼だが、当然ながらそれを言う訳は無く、平静に努めながら二人を招き入れた。
「あ……誰かと思ったら月と賈駆だったのね。」
「地香さん……。」
二人の姿を見た地和は、二人の真名と姓名を言った。
一方、董卓は地和を偽名である劉徳然の真名を呼んだ。地和として名乗っていないので当然だ。
暫くの間沈黙が流れたが、やがて董卓は意を決して二人に対し話し始めた。
「あの……済みませんが、二人のお話を聞かせて貰いました。」
「……可愛い顔して盗み聞きとは意外とやるわね。」
「
董卓の問いに地和が皮肉を込めて言うと、賈駆が怒気をはらみながら言い返した。
「賈駆、今は夜中だから少し声を抑えて。」
「アンタねえ……!」
「取り敢えず、ちゃんと説明するから暫く我慢してくれ。頼む。」
怒りを隠さない賈駆に対して、涼は頭を下げて事態の収拾を図った。
「し、仕方無いわね……。なら、ちゃんと話してもらうわよっ。」
それが効いたのか、賈駆は瞬時に怒りを収めてくれた。
「ああ、ちゃんと話すよ。」
そう言って、涼と地和はこれ迄の経緯を話し始めた。
それによると、張三姉妹は元々、三人で歌を唄う事で生計を立てていた事。
余り人気は無かったが、その最中、旅人から貰った「
そうして集まった若者達がいつしか暴走し、「黄巾党」という集団になった事。
彼等を止める為に三姉妹もそれぞれ将軍を名乗り、何とか暴走を止めてきた事。
だが、遂には漢王朝に目を付けられてしまい、仕方無く戦っていた事。
大義名分として、腐敗した漢王朝を打倒して新しい世の中を作るというスローガンを掲げていたが、本心では上手くいくとは余り思っていなかった事。
そして遂に連合軍の前に敗れた時に、涼が助けた事。
その後、桃香と涼から新しい名前と真名を貰い、連合軍に同行していたという事。
簡単に言うとこの様な流れになる。
「……で、張宝がここに居るって訳ね。」
「ああ。もっとも、最初は隙を見て地和を張角や張梁の許に帰す予定だったんだけど……。」
「その機会が無くて、結局地香さんを連れているって訳なんですね?」
「そうなんだよ。あはは……。」
涼は苦笑しながら答える。
そんな涼に呆れつつ、賈駆は真面目な表情で言った。
「……けど、これってバレたら洒落にならないわよ。幾らアンタが天の御遣いでも、流石に問題になると思うんだけど。」
「解ってる。……だから、二人にも黙っていてほしいんだ。」
「……どうしようかしらねえ。」
「詠ちゃんっ。」
賈駆が涼の頼みを意地悪な表情をしながら答えると、直ぐ様董卓が注意した。
注意された賈駆は慌てながら答える。
「わ、解ってるわよっ。今のは冗談なんだから、そんなに怒らないでっ。」
「まったく……。清宮さん、地香さん、私達はこの事を口外しないので御安心下さい。」
「良かった〜。二人共、有難う。」
「月、賈駆、有難うっ。」
董卓が秘密を守ると約束すると、涼が喜んだのは勿論の事ながら、渦中の地和は二人に抱き付く程に喜んでいた。
「じゃあ、今みたいに周りに誰も居ない時は、本当の真名の“地和”って呼んでね。」
「はい、解りましたっ。」
「勿論、賈駆もそう呼んでね。」
「ボクも良いの? なら、ボクも真名を預けないとね。」
賈駆はそう言うと、董卓と涼をチラッと見た。
「そうだわ、
賈駆は暫く考えた後にそう言った。すると、言われた涼だけでなく董卓も驚いていた。
「良いのか?」
「ええ。図らずも長い付き合いになったし、アンタの実力も認めないといけないからね。」
賈駆はそう言いながら、隣に居る董卓に目配せをした。
董卓は、始めの内はその意味を理解していなかったが、賈駆が董卓と涼を交互に見ている事に気付くと、漸く賈駆が意図している事を理解した。
「あの……清宮さん。」
「ん?」
直ぐ様董卓は行動に移った。
だが、涼の顔を見ると言葉に詰まってしまう。
それから何度か言葉を言おうとして、やはり言えないという状況が続いた。
時間にして、二分弱。
その間、涼は董卓の意図に気付かなかったが、地和は直ぐに気付いていた。
だが、敢えて何も言わなかった。
何故そうしたのかは地和にしか解らない。
いや、ひょっとしたら地和にも解らないかも知れない。
只、今はそうするのが一番だという確信は有った様だ。
そうして地和や賈駆が見守る中、董卓は漸くその言葉を口にした。
「あの……清宮さんっ。私の……私の真名を貴方に預けます……っ。」
そう言った董卓は、まるで告白した少女の様に顔を紅らめていた。
いや、彼女にとって、これは正に告白と同じ事なのだろう。
そして、その告白は未だ終わっていない。
「わ、私の姓は“董”、名は“卓”、字は“仲穎”、真名は“月”。……この真名を、貴方に預けます……。」
董卓――月が涼の目を見ながらそう言うと、涼は笑みを浮かべながらその真名を受け取った。
瞬時に月の表情が明るくなる。
それは祝福すべき光景。それなのに、賈駆は何故か複雑な心境で見ていた。
「……じゃあ、次はボクの番ね。」
そんな心境を払拭する様に、賈駆は居住まいを正して涼達に向き直り、言葉を紡いだ。
「ボクの姓は“賈”、名は“駆”、字は“文和”、真名は“詠”。この真名、アンタ達に預けるわ。」
賈駆――詠は、涼と地和を見ながら自己紹介をし、自身の真名を預けた。
「最後はちぃの番だね。」
地和は月と詠に向き直り、以前と同じ様に言った。
「ちぃの姓は“張”、名は“宝”、字は“
地和は改めて本当の真名を二人に預けた。
こうして、涼達は真名と秘密を共有する事になった。
「ふふ……♪」
その帰り道、月はいつになく御機嫌だった。
漸く想いを伝え、そして受け入れられた少女の様に、その表情は晴れ晴れとしていた。
「良かったわね、月。」
「うん♪」
詠が声をかけると、月の明るい声が返ってきた。
黄巾党の乱が起きて以来、乱の鎮圧に一生懸命だった月は、余り笑顔を見せなくなっていった。
だが、涼と出会ってからは少しずつ笑顔を見せる様になり、今では以前と同じ様に笑える様になっている。
(……アイツのお陰ってのは癪だけど、月が喜んでくれるなら良しとするわ。)
相変わらず複雑な表情と気持ちのまま、詠は月と並んで歩いていく。
「ねえ、詠ちゃん。」
「なあに、月?」
月が詠を見ながら話し掛ける。その表情はやはり笑顔だ。
「色々有ったけど、今日は私達にとって良い一日だったね。」
「そうね。ボクもそう思うわ。」
笑顔の月を見ながら、詠はそう言った。
(……ん? “私達”ってどういう事かしら?)
詠は、月だけでなく自分にとっても良い一日だとも言われた事を疑問に思った。
だが、幾ら考えても答えは出なかった。
詠がその答えを知るのは、未だ先の事である。
一方、涼と地和もそれぞれの自室に戻っていた。
地和は未だ涼と居たがっていたが、月達の存在や良い雰囲気では無くなっていた為に、結局諦めた様だ。
涼は、まるで確認する様に、月達に地和の事について念を押してから、三人に「お休みなさい。」と挨拶して自室のベッドに潜った。
月や詠、そして地和にとって今日色々有った様に、涼にとっても色々有った。
孫策との対決と突然のキス、そして孫策が雪蓮という自身の真名を預けた事。
地和に彼女の姉妹の最期を伝え、慰めていたら良い雰囲気になってキスやそれ以上の事をしようとした事。
劉徳然と名乗っていた地和の正体を董卓と賈駆に知られるも、彼女達が秘密を守ると約束してくれた事。
更に、董卓は月と、賈駆は詠という自身の真名を預けてくれた事。
どれも、涼にとって大きな出来事だった。
(地和とあんな風になるなんて、思いもしなかったな。……俺は、地和をどう思っているんだろう?)
涼は考えた。
地和を好きなのは間違い無い。だが、それは友達や仲間としてであり、恋人としてではなかった筈だ。
(それとも……本当はそうなのか?)
涼は更に考えた。
そしてそのまま眠りについていった。