崖を登る部隊は、総勢五百余名。
当然だが、その殆どが身のこなしが軽い者ばかりだ。
とは言え、それだけで全員が断崖絶壁を登れるとは限らない。
そこで涼は、この中で特に崖登りに自信がある者を数名選ぶと、彼等に太く長い縄を渡して登ってもらった。
断崖絶壁とはいえ、幸いその角度は九十度を超えておらず、またでっぱりも沢山在るので登れなくはない。それでも普通は登ろうと思わないくらいの急な崖ではあるが。
所々に在る大きなでっぱりで休息しながら、彼等は無事崖を登りきった。
次に彼等は、渡された縄を繋いで更に長くし、一端を近くの大木に巻き付けてからその縄を下に降ろす。
繋げた縄は地面に着いても余る程長く、籠を繋げても余裕だった。
籠には新たな縄を複数入れ、登頂に居る彼等はその籠を引き上げた。
引き上げた籠の中の縄は繋いで別の大木に巻き、最初の縄や籠と共に下に降ろす。
その縄にも籠が繋げられ、やはり複数の縄が入れられた。
そうして引き上げたり降ろしたりを繰り返した結果、現在の崖には幾つもの縄が垂れ下がっている。
そして今は、剣や槍を束ねてその縄に巻き、登頂に引き上げる作業に移っていた。
また、引き上げたのは武器だけでなく、松明や太鼓、銅鑼といった物も有った。
そうして一通りの物資を引き上げ終わると、いよいよ次は奇襲部隊そのものの番である。
彼等は垂れ下がった縄の先を輪にし、その中に入ってから縄を掴み、登り始めた。
縄の両端がしっかりと巻かれていれば、登る際に解けて落ちる事も無い。
奇襲部隊はこうやって次々と断崖絶壁を登りきり、残すは涼、桃香、愛紗、鈴々だけになった。
「……ゴクッ。」
桃香はこれから登る崖を見上げ、その高さに思わず唾を飲み込む。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫だよっ。」
心配する涼を不安がらせない様に笑顔を見せながら、桃香は縄を掴んだ。
縄の輪に体を通し、縄を引っ張りながら足を崖に着ける。
崖を歩くかの様に、かつ慎重に足を動かし、少しずつ登っていく。
「ほらっ……涼兄さんも早く早くっ。」
「ああ。」
桃香に促され、涼も同じ様に縄に手を伸ばす。
よく見れば、愛紗と鈴々も既に登り始めていた。
そうして慎重に、でも出来るだけ速く登り続け、全員が無事に崖を登りきった。
「……大丈夫か?」
「わ……私は平気……。」
桃香は息を切らせながら答えた。
勿論、息を切らしているのは桃香だけではない。
桃香の隣に座っている涼もそれなりに息が乱れているし、愛紗や鈴々も同じだった。
(やれば出来るもんだな……ロッククライミングやフリークライミングの知識は有っても、やった事は無かったのに……。)
涼がそう思うと、何故だか手足が震えているのに気付いた。
今更ながらに恐怖を感じているのかも知れない。
(かなり無茶したな……けど、これで奇襲が出来る筈だ。)
涼は震える手足を気力で抑え、しっかりと立ち上がった。
崖下からは、連合軍が鳴らす銅鑼や太鼓の音が鳴り響いてくる。
黄巾党が奇襲に気付かない様に、本隊が注意を引きつけているのだ。
「董卓達も上手くやってる様だし、俺達も早く支度をしよう。」
呼吸を整えながら、奇襲部隊に指示を出す。
それを受けて各員は武器を手にし、銅鑼や太鼓を持つ。
「よし、それじゃ……。」
「あ、涼兄さん、ちょっと待ってくれる?」
出撃の号令を出そうとした涼だったが、そこに桃香が割って入った。
「どうした?」
「戦う前に、ちょっとね。愛紗ちゃん、小さい火を焚いてくれる?」
「火、ですか? それは構いませんが……。」
「折角回り込めるのに、何をするのだ?」
「まあ、見ててよ。」
鈴々の疑問に桃香は曖昧に答え、愛紗は枯れ木や落ち葉を集めて火を点ける。
やがて小さな焚き火が燃え始めると、桃香はその前に立って靖王伝家(せいおうでんか)をゆっくりと鞘から抜いた。
愛紗や鈴々、そして奇襲部隊の面々は桃香が何をするのか判らないまま、その様子を後ろから見ている。だが只一人、涼だけは桃香の行動に心当たりがあった。
そんな涼も静かに桃香を見守る。
桃香は靖王伝家を両手で持ち、目の前で真っ直ぐに立てる。
それからゆっくりと目を閉じ、何かを呟き始めた。その声は小さくてよく聞き取れないので、何と言っているかは解らない。
暫くしてその呟きが終わると、閉じていた目を開いて靖王伝家を左上から右下、右上から左下へと振り、再び目の前に立てると浅く御辞儀をし、やはりゆっくりと鞘に収めた。
一連の動作が終わると桃香は小さく息を吐き、奇襲部隊の面々に向き直った。
「皆、今のはちゃんと見ていた?」
桃香の問いに全員が頷いて答える。
それを確認した桃香は微笑みながら言った。
「今のは破邪の祈祷。私の御先祖様、
(破邪の祈祷? ……成程。)
愛紗は桃香の意図に気付いた様だが、敢えて何も言わずに桃香を見守る。
一方、鈴々は未だよく解っていないらしく、首を傾げていた。
「この祈祷で、張宝さんの妖術は効力を失いました。もう、皆が怯える事はありません。」
桃香がそう言うと、それ迄どこか暗かった兵達の表情が明らかに明るくなっていった。
元々、張宝の妖術を避ける為に集められた奇襲部隊だが、彼等もやはり人間。恐怖が無いと言えば嘘になった。
「皆、空を見て。下に居た時に見た空は曇っていたのに、今はこうして青空が見えている。これが、張宝さんの妖術の効力が無くなった何よりの証ですっ。」
笑みを浮かべながら高々と空に向かって指差す桃香の姿は、そんな彼等を勇気付けるのに充分だった。
今の兵士達には、恐怖という感情は微塵も見られない。
(三国志演義でも、劉備が破邪の祈祷を行って兵の不安を取り除いている。女の子になっていても、桃香はやっぱり劉備玄徳なんだな。)
涼は桃香達を見ながらそう思う。
「それじゃあ、今度こそ行こうか。」
「うん!」
そして、程良く場が温まった所で改めて号令し、皆と共に進み出した。
涼達が張宝の本陣に向かっていた時、その反対側の森の中では別の一団が動いていた。
短い髪の少女が木々の間を縫う様に走る。
その先の茂みには、四人の少女が身を屈めて辺りを窺っていた。
その中の一人、眼鏡の少女が走ってきた少女に小さく声をかける。
「黄巾党の様子はどうでした?」
「官軍と対峙したままだな。」
「つまり、官軍は未だ動いておらぬのか?」
走ってきた少女が答えると、今度は白い衣服の少女が尋ねた。
「攻め倦ねてるって感じじゃないけど、未だ攻撃していないな。」
「成程ね……ねえ、貴女はどう思う?」
走ってきた少女の報告を聞いていた長い黒髪の少女は暫く考え込み、次いで左隣に居る長い金髪の少女に尋ねる。
「すぴー……。」
だがその長い金髪の少女は寝息をたてて眠りこけていた。
「寝るんじゃないっ!」
「……おおっ!?」
それを見た長い黒髪の少女は、思わず左手で長い金髪の少女の後頭部を軽く叩く。
「いや〜、
「今ので痛いのなら、誰が叩いても痛いわよ。」
長い金髪の少女は頭をさすりながら、ヒラヒラと手を振る長い黒髪の少女をジッと見ていた。
「そんな事はどうでも良いから、
走ってきた少女は長い黒髪の少女、長い金髪の少女、そして眼鏡の少女をそれぞれ雫、風、稟と呼びながら尋ねた。
「そう言われてもねー。
「解ってはいるが、軍師であるお前達なら何か策を考えられるかと思ってな。」
雫は走ってきた少女を時雨ちゃんと呼んだ。ちゃん付けした所を見ると、二人はかなり仲が良いらしい。
そんな中、その時雨を見ながら軍師組の二人が口を開いた。
「……時雨さんは軍師を何か勘違いしているのでは……。」
「軍師にだって、出来る事と出来ない事が有るのですよ〜。」
二人は呆れながらそれぞれそう言った。
軍師組の残る一人である雫も、深く溜息を吐いてから意見を述べる。
「ここは、黄巾党が官軍の攻撃を受けて混乱する迄待つべきよ。」
「何だ、雁首揃って俺とそんなに変わらない考えなのか。」
「そう言うな時雨。こちらは五人しか居ないのだ、仕方あるまい。」
雫の提案に時雨は落胆するが、すかさず白い衣服の少女が窘める。
「お前は何とも思わないのか、
時雨は白い衣服の少女を星と呼んだ。
すると、星と呼ばれたその少女は時雨に向き直り、不敵な笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「……大軍相手に一人で立ち向かうというのも、確かに悪くない。」
「だろ? なら……。」
「だが、こんな所で命を散らす訳にはいかぬ。我々には、それぞれやるべき事が有るのだからな。」
「くっ……!」
未だ何か言いたかった時雨だが、星の言葉も理解出来る為、結局二の句が継げなかった。
時雨は無意識に手のひらを堅く閉じ、力を入れた。力を入れ過ぎて、手の甲の血管が浮き出た程だ。
「時雨ちゃん、私達がここに来た目的は忘れていないよね?」
そんな時雨を案じる雫が、時雨の右手を両手で包みながら尋ねる。
突然の事に戸惑いながら、時雨は呟く様に言った。
「世を乱す黄巾党を倒す事と、劉玄徳……桃香の力になる事だ。」
「うん。なら、桃香ちゃんの為にも今は様子を見ようよ。ね?」
「……解った。まったく、雫には適わないな。」
苦笑しながら雫の頭を乱暴に撫で、時雨は風の左隣に腰を下ろした。
暫しの休息に入る時雨達。だが、彼女達が再び動き出す迄、そう時間はかからなかった。
涼達や時雨達が動く少し前、鉄門峡の前では連合軍が先に動きを見せていた。
「良い? 銅鑼と太鼓は思いっきり鳴らすのよ!」
「最前線の部隊は、私の合図と共に前進し、敵の動きに合わせて後退を。決して前に出過ぎないで下さい。」
賈駆と雪里はそれぞれ馬上で前線の兵に指示を出し、同時に辺りに注意を払った。
「……敵の動きが無いわね。」
「そうね……私達が此処に攻めてきたのは判ってる筈だし、あちらも様子見という事かしら。」
二人の少し後方では、馬に乗った曹操と盧植が並んでその様子を見ていた。
そこに、曹操の命令を後方部隊に伝えに行っていた荀彧が戻り、話に参加する。
「この場に居るのは黄巾党の主力部隊。幾ら賊でも用心深くなっているという事でしょうか。」
「恐らくね。」
荀彧もやはり馬に乗っていたが、曹操の近くに来ると即座に下馬し、身を屈める。
どうやら、主従関係をハッキリさせている様だ。
「曹操さん。」
「どうしたの、董卓?」
次に曹操に声をかけたのは董卓だった。
初めは曹操達と共に前線の指揮をしていた董卓だが、奇襲部隊が気になっていたらしく、途中で指揮を賈駆に任せて後方に下がっていた。
因みに、勿論董卓も馬に乗っている。
董卓は盧植の隣で馬を止め、そのまま言葉を紡いだ。
「つい先程、清宮さんの部隊が全員崖を登りきりました。」
「本当に? ……やるわね。」
「ふふ。流石は天の御遣いさんといった所かしらね。」
「只の偶然ではないですか?」
董卓の報告を受け、三者三様に感想を口にする曹操達。
「それじゃあ、そろそろかしらね。」
「だと思います。」
「なら、一度部隊を纏めましょうか。華琳ちゃんはどう思う?」
「私も同意見です、翡翠様。」
盧植と曹操の意見は直ぐに一致した。
「良かった。なら、戻ってきたばかりで悪いけど、桂花ちゃんは前線の徐庶ちゃん達にこの事を伝えてきてくれるかしら?」
「了解しました。」
盧植の命を受け、荀彧は再び騎乗し前線へと進む。
それから暫くして、雪里と賈駆は部隊を纏めて後退してきた。
「あとは、涼達の働き次第ね。」
「清宮さん達なら、きっとやってくれますよ。」
曹操と董卓は、共に崖の上を見ながらそう言った。
奇襲部隊が上手く事を運べば、直ぐに戦いが始まる。
そして、敵将張宝を討てば、黄巾党は弱体化する。
その為の時を曹操達は待っていた。