自室で一人、母や姉たちの手紙を読んでいる少女が居る。
「……みんな、元気にしてるみたい。良かった。」
その少女は手紙を読む度に、嬉しそうに呟く。
「それにしても母様ったら……早く孫を見せろって気が早いわよ。」
時には母親の無茶振りに苦笑し、
「……今はそんな雰囲気じゃないよ。分かってるでしょ。」
時には真面目な表情で反論する。
「まあ、だからこそ敢えて書いたのかもね。シャオを元気づける為に。」
そう言って手紙を抱き締め、感謝を述べる。
「ありがと。シャオは元気になったよ。……だから。」
次いで瞑目し、手紙を引き出しに仕舞いながら言った。
「次は私が涼を元気にさせる番ね!」
その少女、シャオこと小蓮は内心と違って元気よく決意をすると、部屋を出て目的地へ向かって走り出した。
「涼ー、起きてるー?」
「寝てる。」
小蓮が扉をノックしながら声をかけると、そんな答えが返ってきた。
「起きてるじゃない。……入るよ。」
苦笑と共に呆れつつ、小蓮は扉を開けた。鍵はかかっていなかった。
部屋に入った小蓮の視界に入ってきたのは、薄暗い室内と盛り上がった布団がある寝台。カーテンは閉めたままだし、間もなく夜だというのに燭台に灯りも点けていない。ひょっとしたら、「あの決断」をした時からずっとこうなのだろうか。
「いつまでそうしてるの。」
小蓮は寝台に向かって声をかけた。返事は無い。
「涼がそうやってても、何も変わらないよ。」
冷静に、かつ冷酷な言葉を投げつける。僅かに布団が揺れた。
「そうやって嫌な事から逃げて、何かが変わるなら誰も苦労しないよ。」
尤もな事を述べる十代前半の少女である。その少女の耳には、布団から何か聞こえた様な気がした。
少し間を空け、次の言葉を紡ぐ為に唇を湿らせる。
「今の涼はカッコワルイ。何かを変えられるのに、変えようとしない。“天の
「俺は元々、そんな大層な人間じゃない。」
小蓮が放った偽らざる言葉に反応したのか、布団は大きく動き、中に居た人物の姿が現れる。
「いつの間にかこの世界に来て、なんやかんやで“天の御遣い”に祭り上げられた、ただの男だ。」
そう言いきった人物--
それを見た小蓮は今すぐ抱きしめたくなった。だが、利き手をグッと握りしめながら心に、自分に言い聞かせ、言うべきと思っている事を告げる。
「けど、涼は“天の御遣い”だよ。」
「だから、俺はっ。」
「涼がどう思ってるかは関係ないの! みんなが涼を“天の御遣い”と思ったら、涼が違うと言っても涼は“天の御遣い”なんだから!」
「……っ!」
小蓮の瞳も涼と同じ様に潤んでいた。涼はそんな小蓮を見つめる事しかできないでいる。
袁紹が董卓を「悪逆非道」を決めつけた様に、人々は涼を「天の御遣い」と認識している。どちらも、本人の意思とは関係なく、勝手にそう言っている。
「母様や姉様がシャオに涼のお嫁さんになれって言ったのは、その風評があるからだよ。そうじゃなかったら、涼が普通の人だったらシャオとの縁談は無かったよ。」
「……まあ、そうだよなあ。」
武に優れている訳でも、兵法に通じている訳でもない自分に娘を預けるなんて、普通はしないよなあ、と思いつつ、なら自分に何が出来るか考えた。
情けない事だが、何も思いつかなかった。漢文は何となく読めるが、そんなものは日本人が日本語を読めるのと同じ様に、識字率の差はあるものの漢に住む人にとっては普通の事だ。
武や兵法は、愛紗や雪里たちに鍛えられているので普通の人間と比べたらアドバンテージはあるだろう。だが、当然ながら愛紗や鈴々たちと打ち合ったら確実に負けるし、雪里たちとこの世界の将棋を指してもまず勝てない。そもそも勝とうだなんておこがましい事は考えた事も無い。
涼が昔から読んできた三国志の英雄達と同じ名を持つ少女達は、その名に恥じない実力を持っている。そんな彼女達と張り合おうなんて、まず考えない。ゲームとかで関羽や
他にも、政治や計算などいろんな事で秀でているものがないか考えてみた。やっぱり無かった。ただの学生だった自分に政治の事が、それも三国志の時代の政治が分かる筈もなく。計算も基本的な事は出来るが、電卓やスマホなどの機械に頼ってきたので秀でているとは言い難く。要するに、涼は自分でも理解している様に普通の人間なのである。
そんな普通の人間でも人々が望む以上、自分は「天の御遣い」だと小蓮は言う。涼は今更だが、何とも脆く儚い立場だと思う。
「……シャオは俺が何をするべきだと思うんだ?」
涼は困惑した瞳のまま訊ねる。
「そんなの、シャオには分からないよ。」
「おいおい。」
だが、返ってきた言葉は思わず力が抜けるものであり、反射的に涼はツッコミをいれていた。
そんな涼を見た小蓮は僅かに笑み、すぐに表情を戻して言葉を紡ぎ始めた。
「けど、一つだけ言いたい事はあるよ。」
なんだ? と涼が訊ねる。小蓮の瞳はもう潤んでいなかった。
「涼が後悔しない様に生きてほしい。」
それは婚約者としての、いや、一人の少女としての小蓮が涼に望む、嘘偽らざる事だった。
「何度も言うけど、涼は“天の御遣い”なんだよ。今までその名の許に沢山の人が集まってきて、涼の為に戦ってきた。だから今、涼はこの地位に居るんだよ。」
小蓮は最近この徐州に来た。なので過去の事は伝聞でしか知らない筈だ。
それでも、涼が桃香たちに信頼されている事は理解していた。短い期間に見知った事を整理し、到った答えは、涼が涼だからこそ今の徐州軍が形作られたのだろうという事。
だからこそ、涼が涼でなければ徐州軍は変質し、やがて壊れてしまう。徐州の州牧は桃香だが、その桃香も涼が涼だからこそ安心して州牧をやっていると小蓮は判断した。
涼が涼らしく、後悔しないでいられれば、徐州は安泰だろう。何より、涼が苦しむ姿は誰も見たくないだろう。小蓮もそうだ。
そう思ったからこそ、小蓮は言葉を紡ぎ続ける。時々胸がチクリと痛んでも。
「そんな涼が、どう生きたいかを示したら、きっとみんな力を貸してくれるよ。」
「けど、そしたら皆に迷惑が……。」
「……涼、今まで何回戦ったの?」
「え? それは
「じゃあ、今まで一人も死なせずにここまで来た?」
「それは……。」
当然ながら、一人も死なせずになんて無理だ。義勇軍立ち上げの頃から戦ってきた将兵も、何人かは戦死した。参加して一日で死んだ者も多い。それが戦争だから。
「だったら、涼が無茶を言ったって今更な事だよ。」
「けど、今回は今までとは……!」
事情が違う、と涼は言おうとした。だが、その言葉は発する事が出来なかった。
いつまでも煮えきらない態度の涼に、流石の小蓮もしびれをきらしたのである。
「ほんっとうに涼らしくない! もっといつもの涼みたいに前向きにいけないの!」
「そう言われても……。」
「……助けたいんでしょ。董卓を。」
「…………。」
急に元の表情に戻った小蓮が確認する様に訊ねるが、涼は俯いて何も答えない。だが、沈黙は肯定を意味すると昔から決まっている。
俯いたままの涼を見ながら、小蓮は思ったままの言葉を紡いでいく。
「シャオは董卓と会った事がないから、どんな人なのかは知らないよ。でもね、涼や桃香たちの反応を見てたら分かるよ。きっと良い人なんだろうなって。」
史実の董卓とは全く違う、優しい性格の、この世界の董卓こと月。
小蓮も会ったらきっと仲良く出来るんじゃないかなと思いつつ、涼はその小蓮の言葉を聞き続けるしか出来ないでいる。
「だから辛いんでしょ。そうじゃなかったらこんなに苦しまないだろうから。」
小蓮の言葉に、涼は僅かに頷いた。それを見た小蓮は一瞬表情を変え、また戻してから涼の手を自身の両手で包み、同じ目線になって言った。
「……だったら助けようよ。それがきっと一番なんだよ。」
「そう言ったって……董卓軍に味方する訳にはいかないし……かといって、このままだとシャオの言う通りキツいし……。」
どうしろって言うんだよ、と小さく苦しく呻く様に呟く。
その苦しそうな表情と声を見聞きした小蓮の胸に、今日一番の痛みが。
「ねえ涼。涼の前には今誰が居る?」
「誰って……。」
涼は当然ながらシャオが居る、と答えた。
それを聞いた小蓮は、頷きながら次の言葉を紡ぐ。
「じゃあ、この徐州の城には誰が居る?」
「それは…………っ!」
答えを言おうとして涼は気づいた。小蓮が何を言いたいのかを。
いろいろあるだろうが、要は一人で悩むな、という事だと涼は認識した。
確かに決断して以来、涼は苦しんでいた。何でこんな決断をしたんだ、けどこうしないと徐州の人々が、などと何度も何度も悩みながら、同時に何か月たちを助ける手は無いか考えていた。
だが、ちょっとだけ兵法を知っている普通の高校生がそう簡単に妙案を出せる筈も無く、一人でただ悶々と時間を浪費してきただけだった。そんな事では、いつまで経っても妙案は出てこないだろう。
「……朱里たちに頼んでみろ、って事か。」
「そっ♪」
涼が出した答えに満足したのか、小蓮は満面の笑みを見せた。
確かに、一人より二人、二人より三人で考えれば上手くいくかも知れない。「三人よれば文殊の知恵」ということわざもある。しかも、この徐州には今、諸葛亮、
でも、と涼は思う。もし彼女達にも良い考えが出せなかったら、本当に終わりじゃないかと。心の中でそう思っていたからこそ、今まで彼女達に相談しようとしなかったのではないかと。
だが、今はもうその選択肢を思いついてしまった。思いついた以上、その選択肢を無視する事は出来ない。無視して他の選択肢を選んで、最悪の結果になった場合、後悔の度合いはより大きいだろう。
「それなら、やってみる価値はある、か。」
やらずに後悔するより、やって後悔する。涼はその選択肢を選ぶ事にした。例え無駄だったとしても、ひょっとしたら万に一つの可能性を手にする事が出来るかも知れない。どんな結果も、行動しなければやってこない。そんな当たり前の事に涼は気づかなかった。それだけショックだったのだろう。
「ありがとうシャオ。俺、もう少しあがいてみるよ。」
「うん。そうやって頑張ってる方がシャオの旦那さんらしくて良いよ。」
「未来の、ね。あはは……。」
苦笑しつつも、涼は小蓮に感謝しつつ部屋を出て目的の場所へと走っていった。
そんな涼の後ろ姿を見ながら、小蓮は呟く。
「……これで良かったんだよね。」
心なしか、その声は震えていた。
「例え、これで涼が“好きな人”を助けられて、シャオの事を見なくなっても。」
先程、涼に見せた笑顔と同じ表情をしながら。
「涼が喜んでくれるなら、きっとこれで、良かったんだよね……。」
主が居なくなった部屋で一人、小蓮は静かに言い聞かせる様に呟いていった。