真・恋姫†無双 ~天命之外史~   作:夢月葵

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第十九章 帰還、それから・11

 何はともあれ、徐揚同盟は強化され、その結果として孫家の末妹である小蓮が徐州に住む事となった。

 婚約者としてではあるが、実質的には嫁入りと言って良いだろう。勿論、本当に結婚した訳では無いので一緒の部屋に住んだりはしていないし、約束通りここでの決まり事はきちんと守っている。

 だが、孫家の末妹であるという事は「姫」という事でもある。別に孫家は王族とかそういう事ではないが、扱いには気を払うべき相手なのは確かである。

 正史において孫夫人に関する記述は少ないと既に述べたが、その数少ない記述にこうある。

 

『北に曹操、南に孫権、更に内にあっては孫夫人の脅威があり、その中で我が君が志を遂げたのは、ひとえに法孝直(ほう・こうちょく)(蜀漢の文官、法正の事)の功績である』

 

 これは諸葛亮の言とされるが、要するに孫夫人は劉備にとって曹操や孫権と同じくらい厄介だったという事らしい。一体どんな鬼嫁だったのだろうか。少なくとも、非常に気を使っていたのはよく分かる。

 その反動からだろうか、演義や小説などでは仲睦まじい夫婦になってたりするが、五十歳前後の劉備と二十歳前後の孫夫人が結婚というのは現代の感覚でなくても結構無理がある気がするが、どうであろうか。

 さて、この世界の孫夫人こと小蓮は流石に鬼嫁では無い(まだ結婚していないし)が、別の意味で涼たちを困惑させていた。

 

「義兄上! 少しは小蓮殿を大人しくさせられないのですか!」

 

 ここは涼の執務室。そこで程昱(ていいく)こと(ふう)にとある書類仕事を手伝ってもらっていた涼に対し、入室と同時にそう言ったのは、彼の義妹の愛紗である。

 

「そうは言っても~、実際問題難しいのではないですか~。」

 

 愛紗の言葉に答えたのは涼ではなく風。彼女が何故答えたかと言えば、既にこの問題は他の人からも言われてきた事なので、また涼の手を煩わせたくないという気遣いからであった。

 桃香から、地香から、朱里から、その他にも何人かが、先程の愛紗と同じ様な事を言ってきた。

 その内容を詳しく言うと、

 

『小蓮が仕事を手伝おうとしてくるけど、空回って失敗する事が多い』

 

という事であった。

 これがいたずらなどの悪意ある行動の結果ならば、わざわざ涼に頼まなくても自分達でハッキリと文句を言えているだろう。

 だが、一連の出来事は全て小蓮の善意から起きている。善意の行動をハッキリと断れる人間はそう居ない。比較的ハッキリ言う趙雲(ちょううん)こと(せい)や、孫乾(そんかん)こと霧雨(きりゅう)でさえ、余り言えないでいる。小蓮が涼の婚約者で、ここでは新人という事もあるかも知れないが。

 

「小蓮ちゃんが仕事を手伝おうとしているのは、早くお兄さんや愛紗ちゃん達に認めてほしいからだと思うのですよ。」

「そんな事は解っている。解っているから……上手く言えないのだ。」

 

 風は愛紗に座る様促しつつそう言った。愛紗も理解しているらしく、椅子に座りながら答える。

 先日、建業から大量の荷物が届いた。それは孫家の屋敷にあった小蓮の服や髪飾りといった物であり、身の回りの物を必要最小限しか持ってきていなかった為に困っていた小蓮にとっては渡りに船であった。

 だがその荷物の量を見た朱里たち幹部クラスの文官は、皆一様にその意図を見抜いていた。即ち、

 

『いずれはどうせ嫁になるのだから、これから娘(妹)をよろしく♪』

 

という事であった。何度も言うが、涼と小蓮は婚約中ではあるが結婚はまだ先の事であり、予定は未定である。

 朱里たちも徐揚同盟のメリットは理解しているので、婚約という事には反対していない。それが後で良くも悪くも影響するだろうなとは思っているが、そうしたデメリットを差し引いてみても同盟を続けるべきだと、徐州の頭脳達は判断していた。

 小蓮が仕事を手伝う様になったのはそんな後である。それまでは毎日の様に涼と一緒だったのだが、荷物が届いた翌日から仕事をしたいと申し出てきた。

 まだ本格的に徐州に住み始めたばかりなので手伝わなくても良いと言っても、何でも良いから手伝いたいと譲らなかったので、仕方なく簡単な仕事を頼んでみた。

 揚州ではよく勉強をサボっていると雪蓮たちから聞いていた涼は少し不安ではあったが、仮にも孫家の姫だからか小蓮はそれなりに知識があった。最初は戸惑いつつも何度か説明を受けたりしていく内に理解し、仕事をやり遂げていった。

 そうして簡単な仕事を次々にクリアしていった小蓮であるが、これで自信をつけた小蓮は更に仕事を求めた。

 とは言え、簡単な仕事は本来文官達がやる事であり、州牧が治めるこの下邳城には大勢の文官が勤めている。文官達が判断出来ない仕事は彼等の上司に回される。その上司とは霧雨や陳珪(ちんけい)こと羽稀(うき)たちであり、彼女達でも判断に困るものは朱里たちに回っていく。また、州牧や補佐じゃないと決済出来ないものもある。

 今、涼が風に手伝ってもらっている書類もその類いであるが、涼は一旦筆を置き、愛紗たちの話に加わった。尤も、元々は涼に対して話し掛けられたのではあるが。

 

「シャオは風が言った様に認めてほしいんだろうね。徐州に来て日が浅いし、俺が特別扱いはしないって言ったから。だから焦って失敗したり、実力以上の仕事をしようとしてるんだと思う。」

「……義兄上は、小蓮殿を“シャオ”と呼んでいるのですね。仲良くなられて何よりです。」

「え、今気にするの、そこ?」

 

 義妹にジト目を向けられた涼は困惑しつつツッコミをいれた。

 一緒に住み始めてしばらくは「小蓮」と呼んでいたが、その小蓮から「シャオ」と呼んでほしいと言われたので、涼はそう呼ぶ様になった。

 

「愛紗ちゃんの嫉妬はともかく~、風もお兄さんと同じ意見なのですよ~。」

「し、嫉妬ではない!」

 

 顔を紅くしながら抗議する愛紗を見ながら、涼は「そういや関帝廟の関羽も顔が赤いなあ」なんて事を思っていた。どこかズレてる義兄妹である。

 

「ですが、だからこそハッキリ言った方が良いと思うのですよ、お兄さん。」

「だよなあ……。とは言え、どう言えば角が立たないかなあ。」

「おうおう兄ちゃん、仮にも嬢ちゃんの婚約者だろ? ビシッと言ってやらないでどうすんだい?」

 

 涼が悩んでいると、風がいつもと違った声音で話しかけてきた。

 いや、正確には風の頭の上に乗ってる謎の造形物が話しかけてきた、という事になっている。勿論、物が話し掛ける筈が無いので、その声の正体は風なのだが、そこは突っ込まないという事になっている。

 設定としては、風の頭の上の造形物、太陽の塔をコミカルにした様なそれは「宝譿(ほうけい)」という名前で、性別は男らしい。風と一緒にお風呂に入った事のある鈴々曰く、『宝譿の顔に手拭いが巻かれていたのだ!』らしいので、それに間違いは無いのだろう。何故入浴中も一緒なのかは置いておく。

 その宝譿はこの様に時々話し掛けてくる。勿論、正確には風の腹話術によるものなのだが。この時の風は、いや宝譿は普通及び少し早めの口調で話してくる。普段の風がのんびりとした口調なのを考えると、二重人格なのかと思うくらい違う。もちろん風は二重人格ではない。

 そんな宝譿に対して、涼は煮えきらない返事しかしないでいる。

 

「まったく、兄ちゃんは男だろ。そんなんで本当に○○ついてんのかよ。」

「はしたないですよ宝譿。お兄さんは小蓮ちゃんに嫌われたくなくてガツンと言えないのですから、仕方ないのですよ~。」

「風、それは違うから。あと、女の子がそんな事言っちゃいけません。」

「風ではなく宝譿が言ったのですが、分かりました~。」

 

 風がそう言った後、涼は愛紗に何とかするからしばらくは小蓮を助けてあげて、と頼み込んだ。愛紗は小さく溜息を吐くと渋々ながら了承し、退室した。

 愛紗の退室を見送った後、涼は椅子の背もたれに体を預ける。事務仕事ばかりで固まっていた筋肉や骨が動き始め、ある程度の快感をもたらす。

 そんな涼に常のジト目、もしくは眠たそうな目を向けながら、風が改めて言う。

 

「まあ、お兄さんがどうするかは任せますが、早めに解決しないといけないとは思いますよ。」

「分かってるよ。」

 

 常の性格である楽天的な考えで、今回も何とかなるだろうと思っていたが、現実には何とかなっていない。

 いい加減この性格を直した方が良いのかなあ、とも思うが、性格は一朝一夕に直るものでは無いので早々に諦めた。

 今の涼にはそれよりも先に片付ける事があるのだから。

 

「それよりも風、この陛下への奏上文ってこんな感じで良いのかな?」

「あー、そうですねえー……ここはこうしたら……。」

 

 涼と風は、以前華琳に頼まれていた皇帝陛下への奏上文を書くのを再開した。その為、小蓮の事はしばらくの間忘れる事となった。

 

 

 

 

 

 徐州は平和である。いや、漢全体は平和である。

 先の青州遠征で黄巾党残党の中でも最大勢力だった青州黄巾党は壊滅した。賊自体は他にも存在しているが、各州がしっかりと治めている今は黄巾党の様な大規模な反乱は起きないだろう。

 それでも、武将や兵士達は戦に備えて訓練を怠らないし、文官達は州の運営の為に書類を片付け、要人と話し合いをしたりと忙しいのである。

 その為、人材は常に不足していた。正確には、優秀な人材が不足していた。

 かつては王朗(おうろう)趙昱(ちょういく)といった優秀な人材を前州牧である陶謙(とうけん)から借り受けたりして乗りきっていたが、今はその二人も役目を終えて陶謙の許に戻っている。

 もっともその後、朱里たちが加わった事で内政に関してはだいぶ楽になっている。それでも経験が浅い彼女たちに徐州全土をカバーする能力はまだ無いので、それを補う為に人材を募集している。

 そうして集まった中には、朱里たちが来る前に来ていた笮融(さくゆう)や、つい最近来た闕宣(けつせん)の様に人格に難のある人物も居たが、意外と仕事は出来るので採用されている。

 ここ徐州は漢王室の縁者である劉備と、天の御遣いである清宮の二人が治めているので人が沢山集まっているのだが、元来の人材不足を完全に解消するには到っていない。

 なので、そんな徐州の手伝いをしたいと小蓮が思うのはある意味当然の事だった。

 

「という訳で、今日もシャオが手伝ってあげるわね♪」

「結構よ。」

 

 ここは城内の一角、劉燕こと地香の仕事部屋。今ここに居るのは地香、小蓮、そして地香の副官である廖化こと飛陽の三人だけである。本来は徐庶(じょしょ)こと雪里(しぇり)も居るのだが、今は所用でここには居なかった。

 

「そんなに遠慮しなくて良いのよ。確かに今のシャオは涼の婚約者だけど、特別扱いはしないって涼も言ってたし。」

(別に特別扱いをしている訳じゃないわよ! アンタが手伝うと余計な時間がかかって、ちぃ達が困るの!)

 

 地香は心の中で地和に戻り、愚痴を叫んでいた。

 彼女がこうした態度なのにはもちろん理由(わけ)がある。つい先日も小蓮は地香たちを手伝ったのだが、慣れない仕事をやったからかミスが多く、結局は小蓮が帰った後に修正する羽目になった。

 その時にハッキリとミスについて言わなかったのは、彼女が孫家の姫で涼の婚約者という事もあるが、慣れない仕事なのに頑張っている姿を見たのが一番の理由(りゆう)だったかも知れない。

 

(けど、まためんどくさい事になるのは御免だし、かといって断るとそれはそれでめんどくさい事になりそうだし……。どうしたら良いのよー!)

 

 地香は心の中で頭を抱えた。

 人手はいくつあっても足りないので、仕事を手伝ってくれる事自体は助かる。だが、それで足を引っ張られては堪らない。自身も今の立場になってから何度も涼や桃香たちに迷惑をかけてきた。二人は特に何も言わなかったが、それでもきっと迷惑をかけた筈だと地香は思っている。

 

(なのにこのチビッ子は…………ちょっと待って。)

 

 それまで内心で怒っていた地香が、急に冷静になった。

 

(この子……仮にも孫家の姫なのよね。きっと、私よりしっかり勉強とかしてた筈……。)

 

 実際はよくサボっていたらしいが、間違ってはいない。

 

(よく分からないけど、その中には、こういった時に場の空気を読む勉強とかもあったんじゃないかしら。)

 

 勉強かは分からないが、場の空気を読む事はある意味死活問題にはなるかも知れない。

 

(だったら、ちぃでさえ気づけた事をこの子が気づけないって事、あるのかしら。……もしかして…………。)

 

 地香はそこまで考えを纏めると、小蓮に向き直る。妹の人和(れんほう)より背が低い彼女を見ていると、昔の事を思い出す。

 

(まあ、あの子はこんなに天真爛漫じゃなかったけど。)

 

 それはどっちかと言えば天和(てんほう)姉さんか、なんて思いながら、地香は小蓮と同じ目線になり、言葉を紡ぐ。

 

「ここは私と飛陽だけで良いから、他の所を手伝ってあげて。」

「…………う、うん。」

 

 地香の言葉を聞いた小蓮は、若干表情を暗くしながら頷いた。

 

(やっぱり、この子……。)

 

 何かを確信した地香はそのまま小蓮を送り出す。一言、言葉を添えて。

 

「貴女の行動は間違ってないわ。ただ、手順や方法が違うの。それを忘れないで。」

 

 小蓮はそれに小さく頷いて応え、部屋を後にした。

 しばらくの間、部屋は静寂に包まれた。また小蓮が戻ってくるのではないかと思いもしたが、それは杞憂に終わる。

 その静寂を破ったのは飛陽だった。

 

「よろしかったのですか、ちぃ……地香様。小蓮様は恐らく……。」

「ええ。あの子は焦ってる。そして、“寂しがっている”。だからこうして毎日、どこかに行って仕事を手伝おうとしているのよ。」

 

 認められたくて、温もりが欲しくて、安心したくて、彼女はああしてると地香は続けた。

 地香には小蓮の気持ちが解る様な気がしていた。彼女もまた、ある日突然家族と離ればなれになったのだから。

 それも、小蓮とは違って地香は、地和は永遠に家族と会えなくなった。それを知った時の地香は温もりを求め、認めて欲しくて、安心したくて毎日を生きてきた。

 そんな彼女だからこそ、何となくだが小蓮の気持ちが解る様な気がした。だが、助言をする気は無い。

 

(これは、アンタが自分自身で乗り越えないとダメなのよ。頑張って、シャオ。)

 

 ただ、心の中で応援はしていった。

 

 

 

 

 

 小蓮は廊下で外の景色を観ながら佇んでいる。時々通りすぎる人々は皆彼女に一礼して去っていく。涼の婚約者なのだから当然の事だった。

 それは本来、彼女にとって嬉しい事の筈だが、心の中では何故か溜息を吐いていた。

 

(何でだろ、涼の婚約者としてここに居るのに、あんまり嬉しくない……。)

 

 自分自身でもよく解っていない事に戸惑いつつ、小蓮は再び心の中で溜息を吐く。

 

(ううん、最初は本当に楽しかった。涼と居るだけで、桃香たちと遊んでいるだけで……。)

 

 結婚ではないが、涼と一緒に住めるという事が決まってからの約二週間はとても楽しかった。

 朝になったらすぐに涼を起こしに行き、涼の仕事振りを眺め、時々構ってほしくて抱きついたり、お昼休みにはいろんな話をし、午後の仕事中もやはり眺めたり、夜には一緒に寝ようと誘ってやんわりと断られたりした。

 

(それだけで良かったのに……建業から届いた荷物を見た途端、急に不安になった。何でか解らなかった。でも……今なら解る気がする。)

 

 もう一度外の景色を観る。紺碧の瞳には澄みきった青空が写し出された。

 

(きっと……恐いんだ。お姉ちゃん達ともう会えないかも知れない事と、涼たちに嫌われたりした時の事を考えるのが。)

 

 そう思うと、青空の筈なのに空が暗く見えた。

 建業からの荷物。その意味を朱里たちは「嫁入り道具」として捉えている。そしてそれは間違いではない。事実、小蓮でも知らない新しい家具や服などがいくつもあった。それはつまり、現代日本の風習とは少し違うが、結納の品の様なものだったのかも知れない。

 だが、小蓮はそれを見てもう一つの意味を感じ取っていた。

 それは朱里たちも感じていた「小蓮を人質として預ける」という意味に似ているが、小蓮にとってそれは「そのまま帰って来なくて良い」という意味にとっていた。

 勿論、雪蓮たちはそんな風に思っていないが、揚州の屋敷に有った筈の小蓮の荷物が殆どここ徐州に届けられたのを見て、そういう風に思ってしまった。

 しばらく考えて、自分の家族がそんな事をする筈が無いと気づいたが、婚約者というのはいずれ結婚するから婚約者なのである。結婚したら気軽に揚州に帰るなんて出来ないかも知れない。

 徐州と揚州は南北に隣接しているが、その間には長江という大河が横たわっている。現代と違い、ここには飛行機は無いし船もそんなに大きくない。お盆や正月に帰省する現代日本の様にはいかないかも知れない。そうでなくても、病気や戦で永遠に会えなくなるかも知れない世界である。生まれて十数年の少女がこの現実を知ったのだから、その衝撃は如何(いか)ばかりか。

 ただそれでも、涼と結婚して幸せな暮らしが出来るならまだ良いだろう。人はいずれ独立し、家族を作っていくものである。それは時代や身分の差、それぞれの事情はあれども、家族という目的には大きな違いはない。

 だが、「幸せな暮らしが出来なかったら」どうなるだろうか?

 小蓮が徐州に居るのは、婚約者の涼と一緒に住み、いずれ結婚する為だ。だが結婚とは、必ずしも幸せなものとは限らない。まして、小蓮の結婚は言うなれば政略結婚である。普通の結婚より幸せになる確率は低いかも知れない。

 今回の同居はその成功率を少しでも上げる為だが、現実的には失敗する事も充分考えられる。

 前述の通り、正史や演義、小説でも劉備と孫夫人は政略結婚で一緒になっていて、演義や小説では仲睦まじい夫婦だが、正史ではどうやら険悪な仲だったと思われる。もちろん小蓮はそんな事を知る由も無いが、孫夫人と同じ立場の小蓮はそうした正史や演義の影響を受けないとも限らない。

 そうして万が一、涼と結婚出来なかったら、または結婚しても幸せな日々を送れなかったらと思うと、不安で胸が張り裂けそうになった。

 もしそうなったら、恐らく桃香たちとも険悪な関係になるだろう。揚州から一人残された小蓮には誰一人として味方が居ない。四面楚歌である。いや、その項羽でさえ四面楚歌の後も八百騎を従えていたが、小蓮には本当に誰も居ない。

 涼との結婚が上手くいかず、桃香たちとも仲良く出来ないとなれば、小蓮がここに居る意味はあるのだろうか。

 そう考えると、不安で仕方がなくなった。

 どうしたら良いんだろう? と考え、出した結論が「涼や桃香たちに認めてもらい、ここに居る意味を作る事」だった。

 それからは周知の通り、涼たちの仕事を手伝ってきた。少しでも印象を、関係を良くしようと頑張ってきた。

 だが、焦りや不馴れな事から失敗を繰り返し、却って迷惑をかけてしまった。

 小蓮は子供だが、それでも十数年生きている。周りの雰囲気がどうか、人々の反応がどうかとかを感じ取れない程の子供ではない。

 それでも、自分が暗くなる事で心配をかけたくなくて、表面上はいつも通りに過ごしてきた。だから愛紗などは小蓮の変化に気づかず、苛々している。

 愛紗たちが小蓮を「孫家の姫」として見ている様に、小蓮もまた愛紗たちを「監視者」と見ている。どちらも間違ってはいないが、それではいつまで経っても溝は埋まらないし、関係も良くならない。

 

(雪蓮お姉ちゃん……シャオがこんな気持ちになるの、分かっていたの? だったら、教えてほしかったな……。)

 

 小蓮は今、ここに来てようやく、自分自身の立場の意味と大きさを知ったのだった。

 

 

 

 

 

 桃香はこの徐州の州牧である。要は徐州で一番偉いのである。

 だが、桃香自身は自分が偉いとか思っていない。義勇軍を立ち上げてから今に至るまで、そんな風に思った事は一度も無い。

 寧ろ、何故自分がこんな立場になっているんだろうとは何度も思った。

 確かに、桃香は中山靖王・劉勝の末裔、という事になっている。それはつまり漢王室の縁者という事だが、実家はとうに没落しているのでそれらしい暮らしをした事はない。寧ろ、(むしろ)を売って生計を立てていたくらい貧乏であった。

 それが今や州牧である。お金は沢山あるし、美味しいものは食べられるし、仲間も一杯居るので言うこと無しの状況だ。

 今は仕事が忙しいのでゆっくり出来ないが、一段落したら故郷の母親を呼ぼうかと考えたりもしている。その時は誉めてくれるかな、喜んでくれるかな、とか思っている。

 だが、それはまだしばらく先の事だと桃香は理解している。

 徐州はつい先日、青州救援という名目で十万という大軍を動かした。青州黄巾党を討って青州の人々を助けるという目的は達成できたが、要は戦争をしたのだ。戦争は金がかかる。武器も人も失う。孫武の時代からそう言われている。

 今回の遠征でいくら使ったのか、どれだけ物資を消費したのか、何人が亡くなったのか。そうした戦後処理がまだ完全には終わっていない。

 その戦後処理が驚くべき速度で進んでいるのは、朱里を始めとした優秀な文官達のお陰であるが、州牧である桃香自身の決済も必要なので、恐らくあと数日は掛かるだろう。

 そんな忙しい桃香であるが、今は廊下をテクテクと歩いている。彼女の名誉の為に言っておくが、決してサボっている訳ではない。

 

(朱里ちゃんに心配をかけちゃったみたい。ダメだなあ、もっとしっかりしないと。)

 

 桃香はそう思いながら両手を繋いで頭の上に伸ばした。背筋が伸び、筋肉と骨が心地よい音を鳴らす。ついでにその際、彼女の大きな胸も形を変えたり上下したりした。ここに男性が居たら間違いなく凝視したであろう。

 朱里は、働き詰めの桃香の体調を気にしてしばらく休憩をと進言していた。

 桃香は大丈夫と答えたが、朱里は『無理をしてはいけません。ここは私達がやっておきますので散歩でもしてきてください』と言って半ば強引に桃香を部屋から出した。

 余談ではあるが、最近行った軍の再編の結果、桃香には朱里が、涼には風が、地香には雪里が側仕えの軍師となった。鳳統(ほうとう)こと雛里(ひなり)は他の軍師達と共に軍師中郎将(ぐんし・ちゅうろうしょう)に任命され、特に誰かの側仕えという訳ではないが、平時は朱里達と同じく文官の仕事をし、実質的に下の文官達の取りまとめをする事になった。また、戦時に於いては副軍師として動く事になっている。

 そんな訳でしばらく休憩となった桃香だが、特に当てがある訳ではないのでブラブラしている。

 

(涼義兄さんの所に行こうかな……あ、けど今は華琳さんに頼まれていたっていう奏上文を書くのに忙しいんだっけ。風ちゃんも珍しく疲れた顔をしてたし……。)

 

 桃香は先日見た忙しそうな涼たちを思い出した。

 何せ二人とも奏上なんてした事が無いので、いろんな人や書を頼って何とかものにしていた。特に風の飲み込みは早く、彼女のお陰で涼は何とか奏上文を書き上げつつあった。

 その際の大変そうな、でもどこか楽しげに話していた涼と風を思い出すと、何故か桃香の胸がチクリと鳴った。念の為に言うと、彼女の大きな胸自体ではなく、胸の奥、要は心がである。

 

(まただ……これって何なんだろう……。)

 

 桃香は原因不明の痛みに不安を感じた。

 徐州に帰って来て以来、時々襲う胸の痛み。その時は決まって、涼を思い浮かべたり見ていた時だった。

 流石の桃香も、それでも何となくではあるが原因に心当たりがあった。先日の華琳から言われた言葉もある。

 

(やっぱり、私は……。)

 

 いろいろと考えた結果、遂に答えが出そうになった。が、直前になってその思考は途切れる。

 空を見上げて佇んでいる、見知った少女の姿が視界に入ってきたからであった。

 

「小蓮ちゃん?」

 

 そこに居たのは小蓮だった。最近ここ徐州に住む様になった彼女は、桃香の義兄である涼の婚約者。つまりは将来、桃香の義姉になる予定という事でもある。

 義姉になるかも知れないとはいえ、年齢も身長も桃香の方が上である。それに涼との結婚はしばらく先の事になっている為、桃香は小蓮が義姉になるかもという事は余り考えていなかった。

 よって、今も普通に友達として声を掛けた。が、何だか様子がおかしい。返事が無かったのである。

 普段の小蓮なら鈴々の様に元気に返事をしてくるのに、と思いつつ、もう一度声をかけようとした。

 が、それは出来なかった。小蓮が泣いている。少なくとも、涙の跡は見えた気がする。

 

「あ……桃香。」

 

 桃香の存在に気づいた小蓮は左手で目元を(ぬぐ)う。やはり泣いていたのだろうか。

 その仕草に桃香は一瞬躊躇するものの、彼女の様子が気がかりになり、傍に寄る。似た髪の色をしている二人が並ぶと、一見姉妹に見えなくもないかも知れない。

 

「どうかしたの?」

 

 桃香はそう言ってから、何バカな事を訊いているんだろう、と後悔した。小蓮が泣く様な事は何かなんて、ちょっと考えれば分かるじゃないか、と。

 (とお)を少し過ぎた年齢の子が、揚州から一人で来た様なものだ。不安になっても仕方がない。桃香は当然知らないが、現代でいうホームシックである。

 それに何より、小蓮は最近ここの仕事を手伝い始めた。それは良いのだが、失敗を重ねている。好意の末の事なので誰も文句は言えないが、正直なところ勘弁してくれないかなあと思っている。桃香もその一人だった。

 

(良い子なのは間違いないんだけどね……。)

 

 桃香はそれでも小蓮を好ましく思っている。普段の彼女の天真爛漫さは見ていて心地の良いものだから。

 小蓮は幼さ故か、自身の力量を測りきれていない。実際、手伝い始めの内は慣れないながらも仕事を完遂させていた。失敗が多くなったのは、調子に乗って自身の手に余る仕事まで手伝い始めた頃だった。

 それを桃香が知ったのは、小蓮の事を朱里に相談した結果だが、それ以来どうにか出来ないかも相談した。だが朱里は、

 

『小蓮さんの行動を止めさせるのは簡単ですが、後の事を考えると得策ではありません。一番良いのは、小蓮さんご自身が行動を改めていただく事なのですが……。』

 

と言って口を濁した。「後の事」とは孫家との関係の事だろうか。そう考えた桃香もそれ以上は何も言えなかった。

 小蓮は小さく答えた。

 

「なんでもない……。」

「何でも無いって感じはしないよ。」

 

 桃香は小蓮の強がりを一言で否定した。瞬間、小蓮の瞳が潤み始めた。

 

「なんでも……ない……っ!」

「……場所を変えようか、小蓮ちゃん。」

 

 小蓮を抱き寄せた桃香は、そのまま来た道を戻っていった。

 散歩に出した筈の主君が程なく戻ってきたので、朱里は一瞬驚いた。だが、その隣に居る人物を見て全てを察した将来の名軍師は、二人に一礼してから退室した。その際、扉に「会議中につき入室禁止」との掛札を下げるのも忘れずに。

 朱里が退室してしばらく後、落ち着きを取り戻した小蓮に改めて桃香が訊ねる。返ってきた答えは家族と離れて寂しい事、みんなに認めてほしくて仕事を頑張ってるけど失敗が多くなってきた事など、桃香の予想通りの内容だった。

 ただ、失敗してもへこたれてない様に見えていたので、失敗を悔やんでいるのは意外だった。また、それによりみんなに迷惑をかけているんじゃないかと思っているのも同様に思った。

 桃香にとって、いや、涼を含めたこの徐州で小蓮を知る者全てにとって、小蓮は天真爛漫で小さい事に拘らない少女に見えていた。そしてそれは基本的に間違っていない。

 だが、年端もいかぬ少女である彼女はいろいろと経験が足りていない。黄巾党征伐時も十常侍誅殺侍も揚州に留め置かれた小蓮が、一人で揚州以外の土地に住んでいるというのは、彼女自身も気づかなかった自分自身の事を気づかせるのに充分すぎる環境の変化だったのだろう。

 それに気づいた桃香は静かに小蓮を抱き寄せる。豊かな胸の中に小蓮の小さな顔が埋もれていく。

 

「わぷっ。……と、桃香?」

 

 突然の事に戸惑う小蓮。だが桃香はそのまま抱きしめ続ける。羨ましい。

 

「ゴメンね……小蓮ちゃんが寂しがっている事に気づけなくて。本当にゴメンね。」

「桃香……。」

 

 桃香は自分を恥じた。何故こんな当たり前の事に気づかなかったのだろう、何故きちんと話さなかったのだろう、何故補ってあげられなかったのだろう、と、いくつもの後悔と懺悔を繰り返す。

 桃香の双眸(そうぼう)から滴が落ちる。小蓮の褐色の肌に落ちて弾けた。

 それが何なのか気づいた小蓮もまた、桃香を抱きしめる。

 それからしばらくの間、義姉妹予定の二人は抱き合ったまま泣き続けた。

 

 

 

「大丈夫、小蓮ちゃん?」

「シャオは大丈夫よ。桃香こそ大丈夫なの?」

「私も大丈夫だよ。」

 

 どれくらい経ったか分からないが、ひとしきり泣き続けた桃香と小蓮は先程までと違い笑みがこぼれている。

 人間は泣くとストレスを発散するとかいうが、今の二人はまさにそんな状態だった。今回の事はお互いに変に気を遣い、面と向かって話さなかった事が原因の一つと言えなくもない。それが解消されればこうなるのも自明の理であった。

 小蓮は軽く呼吸を整えると、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「シャオね、恐かったんだ。涼や桃香たちに嫌われるのが。」

「私達が小蓮ちゃんを嫌う? そんな事ある訳無いよ。」

「うん、こうして桃香と話していると、きっとそうなんだろうってよく分かるわ。けど、シャオは桃香たちと……ううん、涼ともちゃんと話してなかったから、それに気づかなかったんだなって思うの。」

「涼義兄さんとも? けど、私達から見たら仲良く話してる様に見えたけど……。」

 

 桃香がそう言うと、またも胸の奥がチクリと鳴った。

 当然ながら桃香のそんな様子に気づかない小蓮は、そのまま話を続ける。

 

「確かによく話してたよ。雪蓮姉様たちの事や、涼の居た世界……天の国の事とか。けど、シャオも涼もきっとどこかで、まだ遠慮してたんだと思う。どっちも心から話していた“つもり”だったんだ、多分。」

 

 そういった小蓮は、どこか寂しげだった。

 涼は先日の一件以来、自分の思うように、かつ今迄以上に楽天的に行動している。勿論、真面目にやらないといけないところは真面目にやっているが。

 なので、小蓮についても涼は涼なりに真摯に向き合ってきた。それが女友達とのそれか恋人同士のそれかなどの違いはあるが、婚約者に対し、将来の結婚相手に対し彼なりに真面目に向き合ってきたのである。

 だが、小蓮からすればそんな涼も自分と同じく、心のどこかで遠慮していたという。言われてみれば、いくら真面目に、真っ正面から向き合うと言っても二人は付き合いが短い。婚約者とかを抜きにしても、遠慮してしまうのは仕方のない事だったのかも知れない。

 小蓮は続ける。

 

「だから不安になったんだよね。シャオが遠慮しているから、涼もきっとそうだって思ったら恐くなって、そしたら今度は寂しくなって、不安になってったの。」

 

 その様にして出来た不安が小蓮の手伝いにも影響し、ただでさえ慣れない仕事を失敗させていったのだろう。そうして更に不安になり、失敗を重ね、情緒不安定になった末が先程までの小蓮という事らしい。

 今はこうして桃香と話したり泣いたりして気持ちを発散したので、明るさの中に影を含んでいたさっきまでとは全然違っている。同盟に則って徐州に来たばかりの頃の、天真爛漫な小蓮に戻っていた。

 そんな小蓮を見た桃香は、不意に言葉を紡いだ。

 

「小蓮ちゃん、不安になんてならなくて良いよ。」

「え?」

 

 桃香の言葉の意味を図りかねる小蓮は、そのまま次の言葉を待つ。

 

「不安になる気持ちも解るけど、小蓮ちゃんはやっぱり元気一杯の小蓮ちゃんが一番だと思う。……きっと、涼義兄さんもそう思ってるよ。」

「そ、そうかな。」

「そうだよ。」

 

 桃香が肯定すると、小蓮は嬉しかったらしくはにかんだ。その表情を見て、桃香は自分が言った事が正しいと確信した。同時に、胸の奥がまたチクリと鳴った。

 小蓮は数度呼吸を整えると、意を決した表情になり、すっくと立ち上がる。

 

「ありがとう、桃香! シャオ、頑張ってみるね!」

 

 そう言って悩みを吹っ切ったかの様に走り出し、部屋を出て行く小蓮の後ろ姿を眺めながら、桃香は小さく呟いた。

 

「……良いなあ。」

 

 その言葉の意味を、桃香は理解していたのか。それは彼女自身にもまだハッキリとは判らなかった。

 

 

 

 

 

 現在、涼達が本拠にしているここ下邳は、歴史的に有名な人物が何人も住んでいた。前漢の初代皇帝、高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)の軍師の一人だった張良(ちょうりょう)もその一人である。

 張良が下邳に来たのは、始皇帝暗殺に失敗した後、偽名を使って逃亡していた時とされる。

 この時期の張良の逸話として、黄石公(こうせきこう)から太公望(たいこうぼう)の兵法書を授かったというものや、項羽の叔父である項伯が罪を犯して逃亡していた時に匿ったなどがある。

 そうした歴史があり、今現在は州牧である桃香が治めている下邳であるが、本来はその様な重要な都市ではない。徐州の州都は本来、東海郡(とうかいぐん)に在る(たん)であり、後年、曹操が治める様になると彭城(ほうじょう)を州都とした。この世界では今現在、陶謙が治めている都市が彭城である。

 そうした史実との齟齬があるこの世界だが、そもそも武将たちの性別が違っていたりする世界なので些末な事ではあった。よって、涼もちょっと気になったくらいで深く考えはしなかった。

 

(というか、異世界に来るとかマンガじゃないんだから。)

 

 涼は寝ながらふと思い、心の中で苦笑しつつ呟いた。尤もな事である。

 陛下への奏上文を大体書き上げ、夕食を食べ終え、風呂に入った涼は今、自室の寝台に横たわり、一日の疲れをとっていた。

 現代の様に電気もネットも無いここでは夜が早い。灯りすら貴重なこの世界では自然と夜更かしをする事が無くなり、急な仕事以外では早めに寝ている。現代の時間に直せば、午後九時には寝る事が多いだろう。

 今日もこのまま寝るのだろうな、と涼は思いながら、何度も読んだ司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を手に取った。この世界に来た時に持っていたバッグに入っていた数冊の本の一冊だが、元々読み込んでいたのもあって見た目はボロボロになっている。それでも読むのに支障は無いので、涼はこうしてたまに読んでいる。ちなみに他には宮城谷昌光の「三国志」、「長城のかげ」などがある。

 そうして数十ページを読んでいると、扉がノックされた。

 こんな時間に誰だろう? と思いながら涼は返事をし、入室を促す。

 

「こ……こんばんは。」

「シャオ?」

 

 入ってきたのはシャオこと小蓮だった。彼女も風呂上がりなのか髪は下ろしていて若干濡れている。また、褐色の肌は赤みを帯びていた。この後は寝るだけなので、服装は寝間着である。ちなみにピンクのミニスカ半袖だ。

 

「ちょっと話があるの……良いよね?」

「う、うん。」

 

 涼が頷くと、小蓮ははにかみながら近づき、涼が寝ている寝台の端に座った。シャンプーの香り……とは勿論違うが、何かの良い香りが涼の鼻腔をくすぐった。

 何だかいつもと雰囲気が違うなあと思いつつ、涼は起き上がって本を片付ける。

 

「それで、話って?」

「うん……あのね。」

 

 それから小蓮は話し始めた。

 内容は昼間に桃香と話した時と同じだったが、あの時の内容を小蓮なりにブラッシュアップし、真摯に伝えていった。結果として、涼は失敗を咎める事はせず、逆に小蓮の寂しさに気づけなかった事を謝った。

 すると小蓮は急に泣き出し、涼の胸に顔を埋めた。突然の事に涼は戸惑うばかりだったが、やがて小蓮が何か言っているのに気づく。

 

「ゴメンナサイ……それと、ありがとう……!」

 

 それは謝罪と感謝の言葉だった。

 桃香には既に同じ様に述べていた。実はその後、地香などにも同じ様に謝ったりお礼を言ったりしてきた。そして、桃香や涼と同じ様な反応をされていた。誰もが小蓮の事で困ってはいたが、同時にその頑張りも認めていたのだ。

 皆がそんな反応をし、認めていた訳であるが、やはり彼女にとっては涼に認められなければ安心出来なかったのだろう。そして認められたからこそ安心して、涙腺が緩んでしまったに違いない。

 涼はその事に気づき、優しく抱きしめた。二人はまだ恋人というには早すぎるからか、涼の仕草は幼児(おさなご)に対するそれに近いが、今の小蓮にはそれで充分だった。

 しばらくの間、涼は小蓮の髪を撫でたり背中をさすっていった。

 

 

 

「……シャオ、そろそろ良いかな?」

「だ~めっ♪」

 

 泣いたカラスが、いや小蓮がもう笑っている。

 涼に認められ、謝られて安心した小蓮はひとしきり泣いた後、すっかり以前の元気溌剌な孫家の姫様、孫尚香こと小蓮に戻っていた。

 それはそれで良い事なのだが、ずーっと抱きついているので涼は困っていた。もう夜も更けている。そろそろ寝ないと明日に響くと。

 それなのに小蓮はずーっと抱きついたままなので、寝るに寝られない。

 

「シャオ、そろそろ寝る時間だから部屋に帰った方が良いよ。」

「そっか。じゃあ、シャオも寝るね。」

 

 やっと寝られる、と涼が思ったのも束の間、小蓮はそのまま涼の隣に移動して布団の中に入ろうとしている。

 

「シャオ、何してるの。」

「寝ようとしてるの。」

「シャオの部屋はここじゃないでしょ。ちゃんと自分の部屋に戻りなさい。」

 

 まるで小さい子を(たしな)める親の様に優しく、だが強く言った涼。……なのだが、当の小蓮はそんな涼のお小言もどこ吹く風。それどころか、涼の服の袖をつまみながら、上目使いで訊いてくる。

 

「一緒に寝ちゃ……ダメ?」

 

 どこでそんなテクニックを身に付けたの君は、と涼が内心でツッコミを入れる。

 いくら婚約者とはいえ、今迄一緒に寝た事は無い。涼はまだ小蓮を妹の様に見ているが、万が一にも間違いがあってはいけない。小蓮はまだ十代前半とはいえ、作ろうと思えば作れるのだ。気を付けて気を付けすぎるという事はない。

 

『早くシャオとの子供を見せてよねー。』

 

 なんて事を言う、江東の麒麟児の幻聴が聞こえてきそうだ。それくらい、今の小蓮は歳の割に色っぽかった。風呂上がりだったからだろうか。眼が潤んでいるからだろうか。寝間着だからいつも以上に薄着に見えるからか。そのどれもなのか。

 そんな事を考えつつ、涼は決断した。

 

「い、良いよ。」

 

 愛紗さんこっちです。いや、勿論冗談だけど。

 とはいえ、涼の気持ちも分からなくはない。小蓮は幼いが美少女である。美少女だが幼いのである。なら、一緒に寝ても大丈夫じゃないか、なんて思っても不思議ではない。

 意思薄弱だ○リコンだなんて言わないでやってほしい。涼も男の子だし、同時にここでは兄もやっている。その両方が複雑に混ざった結果、この決断になったのだ。仕方ない。そう、仕方ないのだ。多分。

 それに、涼の返事を聞いた小蓮は満面の笑みを浮かべて抱きついてきた。こんな反応をされて、「やっぱりダメ」なんて言えるだろうか、いや出来ない。

 涼は「仕方ないか」と、「まあいっか」と思いながら灯りを消し、布団をかぶった。小蓮は抱きつき直し、やはり笑みを浮かべていた。無邪気な表情をしている小蓮を見ていると、これで良かったと涼は思う。

 恋人同士ならお休みのキスをしたりするのかも知れないが、今の二人は婚約者ではあるが恋人ではないという複雑な関係。よって、涼は小蓮の髪を撫で、小蓮は涼の腕に抱きつくだけで終わる。今の二人にはそれだけで良い。

 

「お休み、シャオ。」

「おやすみなさい、涼。」

 

 涼と小蓮は小さく、優しく言葉を交わし、そのまま眠りについた。そして夜が明けた。

 

 

 

 

 

「……で、こうなったという訳なんですね、りょう、にい、さん?」

「は、はい。」

 

 涼と小蓮を床に正座させている桃香は、その目の前で仁王立ちに笑顔のまま怒っている。器用だなと言ったら火に油を注ぐ事になりそうなので言わなかった。涼、よく我慢した。

 何故こうなったかと言えば、先程涼の部屋に桃香がやってきた為だ。

 彼女は珍しく早くに起き、折角だから涼義兄さんも起こそう! なんて考えてしまった。まだ起きなくて良いなら寝かせてあげてほしいものだ。

 そんな事は考えなかった桃香はルンルン気分で涼の部屋にノックもせずに入った。するとどうであろう、涼しか居ない筈の部屋に誰か居るではないか。それも涼と同じ寝台に。難しい言葉で言うと同衾(どうきん)である。

 それを見た瞬間、桃香はパニックになった。パニックになり過ぎて寝台に突撃した程である。

 突然の事に『ぐえっ!』『きゃあ!』との声をあげた涼と小蓮は瞬時に目が覚めた。そして事態を把握しようと見ると、何故か桃香が居るではないか。「あれ、ここって桃香の部屋だっけ」と間抜けな事を思ってしまったのは仕方がなかった。

 二人が起きたのを確認した桃香は、涼の襟をつかんで揺さぶりながら『これは一体どういう事なんですか!?』と訊ねた。起き抜けにそんな事をされては堪らない涼は、苦しみながらも説明し、揺さぶられからは解放された。が、それから二人して正座を命じられ、そして先の桃香の言葉に繋がる。

 涼は自分が軽率な事をしたと認めて謝罪し、小蓮も涼に倣って頭を下げた。そんな二人を見て溜飲が下がったのか、桃香は二人を許した。

 気がつけばいつも起きてる時間になっている。涼はここで、小蓮は自室に戻ってそれぞれ着替え、桃香は二人を待ってから三人で朝議に向かった。

 

(まったくもう、涼義兄さんも小蓮ちゃんもしっかりしてくれないと困ります。)

 

 移動中、そんな事を考えた桃香であるが、似た事を既に先程言ったので言わなかった。

 

(けど、昨日と比べたら小蓮ちゃんの表情が明るくなってる。これって、朱里ちゃんが言っていた事と関係があるのかな?)

 

 小蓮自身が変わらないと意味がない、そう言った軍師の言葉を思い起こしながら、桃香は隣を歩く義兄とその婚約者を眺め、小さく微笑んだ。

 そんな時でも、相変わらず胸はチクリと鳴るのだった。

 一方、涼は先程の事についてマズったかなあとは思いつつも、桃香が許してくれたので余り気にしていなかった。少しは気にした方が良いと思うぞ。

 また、小蓮はといえば涼と一緒に寝られたので満足していた。今までは断られていたので尚更だろう。

 なお後日、この事を揚州への手紙に書いたのだが、『一夜を共にした』と表現していたので、揚州ではいろいろと混乱したりなんやらあったのは別の話である。

 

 

 

 涼と風の二人が推敲(すいこう)に推敲を重ねた奏上文が完成したのは、それから一週間後だった。

 だが、これで終わりではない。この奏上文を洛陽に居る帝に届けなくては意味がない。涼は電子メールがあれば瞬時に届くのになあなんて思ったが、仮に電子メールがあったとして、奏上文は電子メールで届けて良いものなのだろうかとかの問題が出てきたので、深くは考えない事にした。

 そんな訳で、奏上文を届ける役目を誰かに任せなければならない。尤も、誰に任せるかは悩む事もなく決まった。

 

「星、しばらくの間、風を頼むよ。」

「承知。主もご存じでしょうが、風とは以前も共に旅をした仲。ご安心めされよ。」

「ああ。それじゃあ風、奏上文を頼んだよ。呉々(くれぐれ)も陛下に失礼の無い様にね。」

「承知したのです~。」

 

 涼は書き上げた奏上文を風に託し、彼女の護衛には星を選んだ。愛紗でも良かったのだが、星が『風の噂によれば、洛陽に極上のメンマがあるらしいですぞ、主!』という謎のアピールをしたので任せる事にした。なんでも、星はメンマにうるさいらしい。ラーメンじゃなく何故メンマなのかは分からない。

 涼たちは風と星を見送ると、皆一様に背筋を伸ばして肩や骨の音を鳴らした。それだけ疲れていたのだ。

 

「これでしばらく休めるな。」

「お疲れ様、涼義兄さん。」

「桃香もね。」

 

 この一週間で急ぎの仕事を全て終えた涼と桃香は、そんな会話をしながら久々にのんびりしようと、それぞれの部屋へと戻っていった。

 まさか、こののんびりとできる時間が僅か一週間しか無いなどとは、この時の彼等は思いもしなかっただろう。


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