第9話・プロローグ
ゴールデンウィーク最後の週末。
蛍は外出の支度をしながら、小学校に入る少し前のことを思い出していた。
保育園から帰って来た蛍は、たまたま休みだった父と遊びながら母の帰りを待っていた。
そして日が暮れた頃、仕事を終えて帰宅した母は、部屋に鞄を置いて着替えてから休む間もなく夕食の支度に取りかかったのだ。
蛍はそんな母の姿に細やかな疑問を抱き、父に問いかけた。
「ね~、ぉとーさん。ぉかーさん、つかえてないの?」
蛍には自覚がなかったが、父と母が言うには当時の蛍は今以上に舌足らずで、特にラ行の発音が上手く出来ていなかったらしい。
そんなまだ呂律も上手く回っていなかった頃の蛍だが、幼いながらも、母の一日の生活が重労働であることに気づいていた。
朝早くから夜遅くまで外で仕事をし、家に帰れば夕ご飯の支度。
休日も炊事、洗濯、掃除と主婦業に追われ、まともに体を休めているような日がないように思えたのだ。
「大丈夫、お家の中のことも、お母さんの仕事だからね。
蛍はお母さんのお邪魔しないように、ここで遊んでなさい?」
その時の父の『大丈夫』という言葉が、蛍を不安にさせないための優しいウソであることには気づいていた。
同時に母の顔がどこか優れていないことにも気づいたのだ。
そしてその日の夜、父と母の間で寝ていた蛍は、自分よりも早くに熟睡した母を見て、母が疲れている原因を自分なりに考えるのだった。
(おしごとでつかえて・・・、ごはんつくって、つかえて・・・そえかあ・・・。)
そこで蛍はもう1つの原因に思い当たる。
人見知りの強かった蛍は、保育園に通っていた頃から友達がいなかった。
その上両親以外の大人のことはみんな怖がっており、先生のことも恐れていたのだ。
その反動で、父と母にはベッタリであり、特に母に対しては、自分の言うことであれば何度も聞いてくれると信じていたので、随分と無理な我儘を言ったのだ。
我儘を聞いてもらえなければ、大声で泣くこともしょっちゅうだった。
(ほたうの・・・せい?)
もしそんな自分の面倒を見ることが、母の疲労に繋がっているとしたら。
弱虫な自分が、我儘な自分が、母に負担をかけていたのだとしたら、
そう思った時、蛍は弱虫な自分が大嫌いになった。
(・・・ほたうのせいで、ぉかーさんがつかえてるなんて、
そんなの、やあ・・・。)
その時から蛍は、せめて母の負担を減らすために、家での仕事を手伝おうと思ったのだ。
そして次の日、その思いから朝早起きをすることが出来た蛍は、母の立つキッチンへと向かった。
「蛍?こんな時間にどうしたのよ?」
普段なら、母に起こされて起きる自分が、1人で起きてきたことに母は驚いた。
「あのね、ほたう、きょおから、ごはんつくうの。」
「え?」
「ぉかーさん、つかえてうの。だかあ、ほたうがおうちのおしごと、
ぉかーさんのかわいに、ぜんぶやうの!」
最初は驚いていた母だったが、次第に笑顔を見せて蛍に料理を教えてくれた。
それ以来蛍は料理だけでなく、母から家事全般を教わるようになった。
そして小学生に上がると同時に、1人で自立するために母にはもう甘えないと誓った。
1人部屋を与えてもらい、目覚まし時計も買ってもらったので、母に起こしてもらうこともなくなっていった。
母親っ子であることを自覚している蛍は、母親離れすることが寂しかったが、それ以上に大好きな母の力になれることを喜んだのだ。
「おかーさん・・・。」
そして今の自分は、母に教えられたことを全て身に付け1人で家事全般をこなせるようになり、その過程で料理の楽しさを覚え、それが転じてお菓子作りも学んだのだ。
懐かしの記憶を振り返った蛍は、現実へと意識を戻してカレンダーを見る。
明日は5月の第2日曜日。つまり母の日だ。
日頃から母への感謝の気持ちを忘れたことはない蛍だが、明日はそれを形として伝える、蛍にとっては一年で最も大切な日なのだ。
「ことしは、どんなプレゼントをしようかな・・・。」
ここに引っ越してからの初めての母の日。
商店街やショッピングモールにはどんなプレゼントが売っているのだろう。
蛍はプレゼントに思いを馳せながら、家を後にするのだった。