その日、奈瀬明日美は手合いをサボり始めて久しい進藤ヒカルの家へと一人で向かっていた。
プロ試験予選が始まるまで残り数日。本当なら囲碁に集中する時期であり、他人を気にしている場合ではないだろう。
理由は、心配しているから――ではなかった。
その気持ちが全くないわけではない。しかし、胸の中を占める一番の理由は自らの碁に行き詰まりを感じての逃避。
奈瀬はプロ棋士になって一人暮らしを始めた和谷の家で、同じ院生の本田や小宮と共に勉強を続けている。次こそはプロになってみせるという思いで一年間、挫けずに研鑽の日々を重ねてきたが、あの二人と違って今年もプロ試験予選からだった。
始まる前から弱気になってはいけない。そんなことは分かっている。
だから必死で己を奮い立たせようと頑張ってみたが、プロ試験が近付くほど気分は沈、み、ここ数日はあまり眠られなくなるほど追い詰められていた。
「飯島くんも院生やめちゃったし、私もそろそろ限界かな……ハァ」
進藤の家を訪れたのも、自分と同じように限界を迎えて逃避しているのだと期待しているのかもしれない。
「最低だなー、私…………あ、ここが進藤の家かな?」
住宅街を歩いていると、進藤と書かれた表札の家を見つけた。
和谷から教えてもらった住所を改めて確認する。どうやら間違っていないようだ。
「どうしよう。何て言えばいいか考えなかった」
インターホンを鳴らすのに躊躇していると、玄関の扉が開く。
「ごめんなさいね、あかりちゃん。ヒカルったら最近ずっとあんな調子で……」
「いえ、気にしてませんっ。ヒカルなら大丈夫ですよ、きっと!」
あかりと呼ばれた制服を着ている女の子が振り向き、奈瀬と目が合った。
「あの、えっと、私は進藤くんが院生時代の友達で、な、奈瀬明日美と言います!」
しどろもどろになりながら自己紹介をする。
「あら、ヒカルの……」
進藤の母親らしき女性も気付いた様子で慌てて頭を下げる。
「はい! 最近、棋院に出てきていないと聞いて心配になったので来させていただきました。突然お伺いして申し訳ありません」
「そうでしたか。遠慮なさらずに入ってください――あかりちゃん、また今度よかったらきてね」
「はいっ」
制服の女の子と入れ替わるように、奈瀬は家の中に入っていった。
◇◆◇
――すいませんね、これから出かける用事がありまして。
――お気遣いありがとうございます。
そんな会話をして進藤の母親が出て行くのを見送った私は、階段を上がって進藤がいるという部屋の前まで来た。
「進藤、私。入るね」
軽くノックをしてから、声をかけて部屋の中に入る。
進藤はベッドの上で寝転びながら窓の方を向いていた。
「……奈瀬? どうしたんだよ?」
小さな声。
塔矢アキラのライバルだと言っていた時のような、がむしゃらで底なしの明るさを持っていた頃とは似ても似つかなかった。
「全然姿を見せないから和谷たちが心配してたわよ」
「……奈瀬もそれで?」
「ううん。私は息抜きで。ほら私、実力ないからプロ試験また予選からでさ」
そう言って、進藤の部屋をちらりと見る。
碁盤や碁筒の上にはホコリが溜まっていて、しばらく全く使っていない様子が窺えた。
「進藤こそどうしたのよ。手合いも研究会もずっとサボってなんて、らしくないじゃない」
「いいんだよ、俺のことなんか」
背を向けて呟く進藤。
微かに震えたように見えたのは錯覚かもしれないが、何かに苦しんでるように感じた。
「そっ。じゃあ、一局ぐらい打ってくれない? 弱い私のためを思って」
「ごめん――俺、碁をやめるつもりだから」
「えっ……」
突然の告白に驚き、言葉を失う。
しかしそれと同時に安堵の気持ちが湧いた自分に気付く。
「…………私もやめちゃおっかな」
背中を向けていた進藤が身体を起こし、私の顔を見てくる。
ずっと頭の片隅で考えていたことだ。いつまでも芽が出ないのに、碁を続けても仕方がない。
どこかでやめる判断は必要になってくる。自分一人だと踏ん切りがつかなかっただけ。
「だって私の青春、ずっと囲碁に費やしてきたのに報われないんじゃ仕方ないじゃない。今ならまだ少しぐらいは普通の青春を楽しめる時間が残っていると思うし」
秘めていた思いを吐露する。これは今まで誰にも言っていない思いだ。
どうして話す気になったのか分からないが、肩の荷が下りたことで暗く沈み込んでいた気持ちが楽になった。
「いや、奈瀬までやめる必要はないだろ。せっかくここまで続けてきたのに――」
「進藤がそれを言うの? プロにまでなったんだから、そっちがやめる方が勿体ないじゃない」
「――――」
言い返せなくなった進藤が黙り込んでしまう。
沈黙がしばらく場を包むが、私はふと気になったことを訊いてみる。
「そう言えばさっき玄関で見た女の子。あれ、進藤の彼女?」
「あかりのこと? ただの幼馴染みだよ」
「ふーん」
――ヒカルなら大丈夫ですよ、きっと!
先ほどの玄関での言葉。
なんとなく、あの女の子は進藤のことが好きなんだろうなと思った。
「じゃあ、さ……。進藤、私と付き合ってみる? 同じ碁をやめる者同士として」
唐突にそんな言葉を口にしてしまっていた。自分でもどうしてそんな言葉が出てきたのか分からない。
言われた方の進藤はもっと分からないだろう。理解できない、という表情をしている。
「……変な冗談やめろよ」
「冗談でこんなこと言わないわよ」
「――にしてもっ! 和谷や伊角さんだっているのに、なんで俺なんか!」
「だから言ったでしょ。同じ碁をやめる者同士として、って。碁をやめるのに碁をやっている相手と付き合うなんて変でしょ」
なんだろう。
進藤の言葉を否定していく内に、このまま本当に進藤と付き合ってみたいと思いが湧いてくる。
自分より二歳年下の男の子。今までそんな対象として見ていなかったけど、意外としっくりする気がした。
「進藤は私と付き合うの、嫌?」
「……嫌じゃないけど」
顔を真っ赤にして俯く姿を見ていると、からかいたくなる気持ちが大きくなる。
「さっき進藤のお母さんは出かけたから、今この家の中に……私と進藤しかいないよ?」
ベッドに近付き、肩と肩が触れ合う距離で隣に座る。
びくりと身体を震わせた進藤の手を握った。
「ね、どうする?」
自分でもやり過ぎなことは理解していたが、止められなかった。
向かい合う形になると、肩に手を置いて――押し倒した。
◇◆◇
その日の夜。
奈瀬明日美は進藤ヒカルの家を出て、自宅に帰ってきていた。
(あ~どうかしてた、私! こんなことするタイプじゃないのに!)
一人、自室のベッドで頭を抱えながら悶える。
まさか勢いでとはいえ、自分があんなことをする人間だとは思っていなかった。囲碁で悩んでいたために、おかしくなっていたのだろう。
(でも、進藤のことを考えると胸がドキドキする……)
あの後、一連の行為を済ませて我に返った私は、進藤の顔をまともに見れなくて慌てて家を出てきてしまった。
(そうだ、電話しないと!)
携帯電話を取り出して進藤の自宅に電話をかける。
『ハイ、もしもし』
『あの、昼頃にそちらを訪ねた奈瀬ですが、進藤くんいらっしゃいますか?』
『あら、すいません。あの子ったら少し前に慌ただしくどこかに電話をしていると思ったら、すぐに出かけてしまったのよ』
『そ、そうなんですか。ありがとうございました……』
電話を切って、座り込む。
謝るにしても何かを伝えるにしても、タイミングを逃してしまった。どうしよう、と私は呆然とする。
その時、インターホンが鳴った。
父は帰りが遅いので、母が応対しているはず。ぼんやりと真っ暗の自室で座り込んでいると、母の呼ぶ声が聞こえて一階に下りていく。
「明日美、進藤ヒカルくんって男の子が外で待ってるわよ」
「……え?」
私は鏡を見てから急いで身だしなみを整えると、玄関を飛び出した。
「進藤……? どうしたの?」
「奈瀬に伝えないといけないことがあったから」
真剣な表情の進藤に見つめられて胸が高鳴る。
「俺、やっぱり碁をやめないよ。その……あの後で、考えていたら分かったんだ。俺の碁の中に『アイツ』がいるって」
「あいつ……?」
「そうしたら、打っても良いんだって気付いた。奈瀬のおかげだ。だから俺、奈瀬にも碁をやめてほしくない! 俺と同じ道を歩んでほしい――ずっと隣で!」
「――」
言葉が出なかった。
同じ道を歩いてほしい、ずっと隣で。その言葉で自分の中にあった迷いが一瞬でなくなってしまったのが分かったから。
私は、自分がいつまでも院生で足掻いている間に、皆から置いて行かれたように感じていた。だからその言葉が、たまらなく嬉しかった。
進藤が隣にいてくれるなら、私は迷う必要がない。
まずは間近に迫ったプロ試験予選。
それだけを目標に、ただ一心で頑張れる。
「私も……もう迷わない。碁を一生続ける! だから進藤もずっと――私の隣にいてねっ?」
人目も憚らず、抱きついてキスをした。
誤字・脱字がありましたら、そして奈瀬ファンの方、すいませんでした
なぜか今朝、突然にこの話が思い浮かんで書き殴りました
楽しんでいただけたなら嬉しいです