ーAnother Viewー
ぐちゃり、それは肌が粟立つ程に厭な音で―――。いつか見た光景を思い起こさせるものだ。
肉を喰み、血を啜り、人間が壊される音。
屋敷の仄暗い室内の奥でそれは聞こえてくる。暗い雲の隙間を割って窓から差し込む青白い月明かり。
浮かび上がるその姿は白いコートを真っ赤に染めて、必死で、忘我で、狂気を宿し何かを貪る。
視線を外すことも、瞬きすらも出来ず、そこへと歩みを進める。まるで自分ではない誰かの視点を見ている気分とでも言えばいいだろうか。
その光景は、ただ規則正しい速度で近付く。恐怖や不安、そう言ったものが感じられない程に機械的だった。
そして、何かに躓き、視線はそこへとゆっくり向けられる―――。
それは月明かりを浴びて白く広がり、赤く染まっていく長い髪。虚ろに開いた目には既に生気は無く、またその顔の下にあるべき身体は無かった。
息を呑む――――。果たしてそれは誰の感情か。
身体を赤く染めたその人影は月明かりを背に、立ち上がり、こちらに赤い瞳を向け嗤った―――。
見紛うことなどない姿、それは―――――俺だ。
「――――――っ。・・・は、あ・・・ふぅ・・・ふぅ・・・」
額に浮かんだじっとりとした寝汗を乱暴に寝間着の袖で拭い去る。左手に感じる熱いくらいのネイの体温に何故か、無性に苛立ちを感じつつも、その繋がれた手を引き剥がすことはしなかった。
静かな寝息を繰り返すネイをそっと揺り起こす。先程まで見ていた夢は朝靄に溶けて消えていく。
どんな夢だったか、そんなことはもうどうでも良かった。夢は夢で何の意味もない些末なモノだ。
「あー、うー?あーあーぅ」
「なんつー顔してんだよ。嬉しそうにしやがって・・・ハッ、嬉しそうなんてただの俺の想像か。お前の感情なんて分かるわけねぇよな。・・・着替えるか」
―――ドォンッ!屋敷を揺らす振動と共に鼓膜を震わせた轟音に俺は床に尻餅をついた。
一体何が起こった?多数の人の叫び、いや、雄叫びのようなものが響き渡る―――。
「くそッ、何だ!?一体、何が起こってんだ!!・・・ッ」
「あー・・・うー・・・あー!あー!」
俺から離れたことで騒ぎ出すネイを担ぎ上げ、おんぶ紐で自分の体にさっと固定した。
「マリア・・・ッ」
断続的に続く振動と轟音、怒号のような叫びを感じながら俺は着の身着のままにマリアの元へと走り出した。
寝ぼけきった身体に鞭を打つように力一杯廊下を蹴りながら駆け抜ける。この屋敷は人食いの鬼が住む。ならば、それを討伐する者達が襲撃することは稀にあるのだ。
人はその脅威に対して群れをなし攻め立て滅ぼそうとする。ハンター達がこうやって襲来するのは初めてのことではなかった。だが、これ程に騒がしく、大規模と思わしきものは味わったことがない。
じわりと滲む冷や汗は一体何を思っているからなのか、分からない、が、俺はただ階下を目指して階段を転げ落ちるように走った。
――――そこは、戦場だった。
壁はひび割れ焼け焦げて、扉は無残にバラバラに打ち壊され、人間の腕や足が散乱し、事切れた人の虚ろな瞳が虚空を見つめている。
この短時間でこれだけの惨状を起こせるのは偏にマリアが人ならぬ化物だからだろう。
俺がマリアの元に駆けつけても何も出来ない、それどころかただの足手まといどころか人質に取られるかもしれない。まぁ、それがどうしたとマリアは思うだろうが・・・。
「子供!?―――保護します!救護班を回してッ」
「っ!?」
階下の惨状を呆けて見つめていた俺の背に、凛とした声が響く。心臓を鷲掴みされたように身体が硬直し、錆びた人形のようにゆっくりと振り返る。
そこには、眩しい朝日を背にし、金色の髪を靡かせ白銀の鎧を纏った女騎士が優しく微笑む姿があった――――。
「もう大丈夫、怖かったわよね。安心していいの、私達が貴方達を救うわ」
その女騎士は朗らかに歌うような優しく響く声音で、それでいて芯のある力強い言葉を発する。
――――だが、救いとはなにか。きっと、この人物にとってはただの子供を安心させるための虚言のつもりはないのだろう・・・。でも、それでも、この女には俺も、そしてネイも救えない。
――――救いとは、なにか。俺の、救い。ネイの、救い。お前達には、分からない。
「もう、何も心配いらないわ・・・」
「・・・」
女騎士は膝を突き、俺達を優しく抱きしめる。俺達を撫で付けるその温かな手も、慈愛に満ちた瞳も、偽善と自己満足に塗れたとてもくだらないモノに見えてしまう。
「お待たせしました!エクセリア様」
「この子達を診てもらえる?衰弱はしてないようだけど、怪我をしていたら手当を。テス、戦況はどうなってる?」
「はい!情報通り、人喰いの力は弱ってるらしく我々の優勢です。間もなく討伐できるかと――」
―――――――何を言ってる?
駆けつけてきた教会のシスターのような衣服を纏った者と、鎖帷子に皮の胸当てをした者と始めた会話に俺の頭はガツンと殴りつけられたように真っ白になった。
――――待ってくれ、弱っている?人間が優勢?・・・何、言ってるんだ?あのマリアだぞ、人なんて一瞬で肉塊にしてしまう程に圧倒的な、人ならざるもの、化物だぞ―――・・・それが、倒される?倒すって何だ、倒すってことは、殺すってことか?・・・は?
「!?どうしたの、君?どこか悪いの?ステラ!早く診てあげて!」
「は、はい!」
力無く崩折れるように床に膝を付けた俺に驚いた女騎士が何かを喚いている。それは、俺の耳に意味を持った言葉には聞こえない。
――――殺すって、何だ・・・?人間は簡単に死ぬ、マリアに食べられる。そうだろ?それはマリアが殺してきたってことで、ああ、殺すってことは死ぬってことか。可笑しいな、じゃあマリアが殺されるなんてあり得ないだろ、人間は簡単に死ぬじゃないか。そんな人間がマリアを殺すなんて・・・出来るわけ、ないだろうッ!!!
近付いてきたシスターが俺の肩に手を掛けるより前に弾かれたように俺は立ち上がると同時に床を蹴った。3人を縫うように走り、喧騒と怒号が響く方へと向かう。
「ま、待って!何処へ行くの!?そっちは危ないの!待って!!」
背中に掛けられる制止の声を振り切り、眩しいくらいの朝日の差し込む屋敷の出口を飛び出す。
―――――何だよ、それ。なぁ・・・いつもみたいに、嫌らしい笑顔で笑ってろよ。
重装備を着込んだ戦士、油断なく魔杖を構えた魔術師、白銀の鎧に白刃の剣を携えた騎士。
斧、弓、短剣、槍、フレイル、様々な武具を構えた十数名の兵士達に囲まれ膝を突き、あの時のように人間の血で真っ赤に染まったドレスは今や、自身の血で染まっている――――。
―――――何で、お前が、膝突いて苦しそうな顔してんだよ!!!!!
「我ら教会騎士団により、人喰い、貴様を裁く!―――断罪をッ!!」
白銀の鎧の男騎士が声を上げ、白刃の剣を振り上げた。
張り付いたように動かない足。
気味が悪いくらいに冷たい空気。
俯き、傷を押さえるように自身を抱くような格好の赤い化物――――。
――――――何だ、これ?・・・わけ、わかんねぇよ。俺、は、どうしたら、どうしたいんだよ。あれは、誰だよ、何だよ、俺にとって必要なのか必要だろわからねぇよ知らねぇ、何でお前は俯いたままで、そんなんじゃ何もわからねぇよッ!!誰か、教えてくれよ!!なぁ、頼むよ!いつもみたいに意地の悪い冗談だって、言ってくれよ・・・ッ。マリアッ―――マリア!!!!!
刹那、赤く美しい鬼は、慈しむように、愛しそうに、とても悲しい笑顔を浮かべた。
なんて簡単なことだったんだろう。それは、俺を縛る理由の分からない感情を粉々に砕く――。
答えなんていらない。何が正しいかなんて知らない。そんなものどうでもいい。
縛めを解かれたように身体が動いた。どうしたいかすら分かっていない。ただ、俺は・・・。
――――ただ、俺は、
死を告げる白刃が降りるその場所へと――――。
「だめッ!待ってクロード!!!!」
自身に感じた衝撃と、肉を斬り裂いた音は同時だったか。俺は地面を舐めるように転がっていた。
ぴちゃりと頬に赤い雫が降っていた――――。男の雄叫びにも近い悲鳴。身体を擦り切った痛み。
振り返るように身体を起こすと、先程の女騎士を抱きかかえ狼狽した男騎士の姿を捉えた。
必死の形相で女騎士の首元を抑え、悲痛な
「ぐ、くッ。大丈夫、助かる。助けるから。あぁ、エクス、痛いよな、エクスッ・・・ごめん、ごめんな。―――ッ、が、んばってくれ。なぁエクス・・・ッ」
「―――ひぅ、ぁ、なたの・・・、せい、じゃ・・・ない。わ、かるわ、よね」
「あぁ、あぁ、分かった。分かったよエクスッ・・・っ。救護班を早く!!!!何してるッ!!」
「―――ご、めん・・・ね・・・ク、ロー・・・ド」
男の頬を撫でるように添えた手は力を失い、ゆっくりと地面についた――――女の目には既に光はなく・・・ただ空を見つめているようだった。
「エクス?エクス・・・ッ、嘘だ。あぁ、ぐっ、くぅッ・・・嘘だと言ってくれ、エクセリアッ。う、ぐぁあ、あぁ、女神、女神よッどうして・・・ッ。だめだ、エクス、エクスっ、だめだ逝かないでくれ、頼む・・・」
誰もがその一瞬の刹那に起こったことに呆然とし、声を失ったかのように一言も上げることはない。
――――その騎士の死は、其れほどまでに荘厳で、尊さを持っていたのだ。
それこそ、世界の理に触れる程に―――――。
ズルリと、世界が裂ける音がした・・・。それは、全身を粟立たせる狂気、恐怖、絶望を吐き出すように黒い孔となり、全ての人間へ死というものを強烈に刻み込んだ―――――。
「―――――
驚愕に瞳を見開き男騎士が口をついて出た名は、まさに、ぬらりと孔から顕れた骸の騎士を正確に表したものだった。
闇の霧は眩しいくらいの朝日すらも飲み込み、照らすことは無い。巨大な漆黒の馬の地獄からでも響くような不気味な嘶きは身の内から恐怖を呼び起こす。
その姿、存在、それは、人に戦いを挑むという行為を考えさせることすら否定する。圧倒的な畏怖を纏って言う。
『――――理に従い。その者の魂、確と貰い受けよう』
ーAnother View Endー