鬼剣の王と戦姫   作:無淵玄白

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長らくお待たせして申し訳ありません。ではどうぞ。


「鬼剣の王Ⅴ」

 

 

 

 温泉と言うのは本当にいいものだ。越後の竜と甲斐の獅子が愛するのも分かるほどに己の体の疲れが取れていくかのように感じる。

 

 だが今後のことを考えれば休んでもいられない。

 

 なんせ『魔王』が来る。きっと来る。あいつが来ると『勝ちの目』ばかり拾う羽目になりそうだと、少しばかり苦悩していたのだが……。

 

 

「むつかしい顔してどうしたの?」

 

 

「いや、その疑問に答える前に、何でここにいるの?」

 

 

 

 湯船の中に身を沈めていた自分の横に現れたのは、桃色のバスタオルで起伏に富んだ身を包んだ黒髪の女性。となりのサーシャちゃんといった感じに現れた姿に驚く。

 

 

 

「色々と疲れただろうから背中流してあげようと思って」

 

 

 

 他の客が居ないとはいえ、もしも誰かが来たらばどうするんだといった感じで、頭を抱えるも、その場合の対策はあるようだ。

 

 

 

「君と初めて会った時の事を忘れちゃったの? 僕は結構頑張ったんだけど」

 

 

「ああ。その手があったか。けれどそんなことに使われてバルグレンは不満じゃないのか?」

 

 

 

 思い出してから問い掛けると、手桶に入れられた短剣二振りが、それぞれの炎を横に振ることで否定の意を示したように見えた。

 

 

 せめてそこは不満に思って欲しかったのだが、どうやらこの双剣は予想以上にサーシャに懐いているようだ。

 

 

 そうしてから、しっとりと濡れて切り揃えられた髪を掻きあげると同時に見えるうなじの艶を見ていけない想いを抱いてしまいそうになる。

 

 

 

「僕と一緒の部屋に泊まれなくて少し後悔している?」

 

 

「一応、正式な外交の場なんだからそういう男女のあれこれってどうかと思う……私人としては凄く後悔している」

 

 

 

 本音を最後に付け足すと、微笑を零す美女がそこにあった。

 

 

 

「今度二人っきりで来よう。もしくはヤーファの温泉に連れて行ってくれると嬉しいな」

 

 

「ああ、けど基本的にヤーファの温泉は男女混浴だから……まぁいつか貸切で使うか」

 

 

 

 目聡く、心に聡くそんなことを言ってきたサーシャ。こうしてやってきた理由がそれだけだとは思えないのだが、果たして何だろうかと思う。

 

 

 

「まぁ、風呂から出てからでも良かったけれども……こうして君に寄り添いたかったから」

 

 

「―――」

 

 

 

 本当に後悔の連続ではある。

 

 

 艶っぽくしなだれかかってくるサーシャの柔らかさに理性を崩されそうになりながらも抑えておかなければならない。

 

 

 あれだけティグルにあれこれ言っていたというのに本末転倒も同然に自分がこれでは示しが着かない―――などと焔の姫との混浴状態でのぼせそうになっている最中に、戦姫専用の大浴場では、氷の戦姫がティグルと一緒にのぼせそうになっていたことなど知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 † † † † †

 

 

 思い出すに、どうにも熱くなるもの。それは先程、部屋にいた時にやってきた風の姫であった。

 

 

 濡れて透けたローブで、「戦姫専用の浴場」を使えと言って来たエレン。自分の「剣」に自信が無かったが故にリョウの誘いを断ったが、誰にも見られない浴場ならば大丈夫だろうと感じる。

 

 

 

(まぁ自分が男子の標準なのかどうかすら分からないしな……)

 

 

 

 実際、ライトメリッツでの虜囚の日々の中でも水浴びは隠れてやるしかなかったことも多かった。

 

 

 それは、そこまで開けっぴろげになれなかったのも一つだが、自分が標準以下であったらどうしようかという恐怖でもあった。

 

 

 つくづく、自分の交友関係が狭いことを呪った時だ。しかしながらエレンの提案はある意味では渡りに船。リョウに「失望」「落胆」されたりするよりはいいだろう。

 

 

 そんな考えで濡れて透けたローブのエレンを頭から追い出そうとしていたのだが、どうにもやはり落ち着かないのは……。

 

 

 

(リョウが変な事を言うからだ)

 

 

 

 自分とて健全な男子。ここまで魅力的な女の子に囲まれて、弱小貴族だからと高嶺の花として世俗を捨て切れてもいない。

 

 

 されど貴族としての礼節でそんなことも出来なかった。

 

 

 結局の所、今までの自分は、同年代の「馬鹿」をやれる友人がいなくて、枯れた「フリ」をしていたのだろう。

 

 

 苦笑をする。そんな目で自由騎士を見るやつなどそうそういないのではないかと思って少しの優越感を感じたからだ。

 

 

 とにもかくにも湯浴みをしようと思う。

 

 

 そうして言われた戦姫専用の湯治場というのは、その人間しか使っていないというのに、立派にしてあった。

 

 

 あの焼けつくされた別荘といい、経済規模が違いすぎる。吝嗇が、ある意味上流階級の勤めというのも分かる気がした。

 

 

 こういった「無駄」を出すことでも下の経済を回しているということなのだろう。脱衣場で服を脱ぎながら、正直今からでも男湯に向かうべきなのではと考えつつも、エレンの厚意を無駄にも出来ないな。と考え直す。

 

 

 籐で編まれた籠に衣服を放り込んで、湯籠を持ち立派な造り―――贅を凝らしつつも、様々な調度「バーニクの像」「黒竜の壁画」などが配された浴場だ。

 

 

 もうもうと立ち込める湯気の向こうに湯船があるだろうとして、入ろうとした瞬間に――――。

 

 

 

「戻ってきたの、サーシャ? あなたと義兄様の仲は知っているけれど……も、もうちょっと節度を弁えた方がいいと思うわ。そ、そりゃあ、私のお母様とお父様も一緒の風呂―――――」

 

 

 

 どもりどもりの言葉が途切れる。色々と衝撃的な事を吐き出した彼女だが、現れたのが見知った戦姫ではなく、最近知り合った男子となれば、言葉を途切らせて固まるも当然か。

 

 

 彼女のアイスブルーの髪と相まって、暖かさ云々よりも氷雪の精霊。リョウの国で言う所の「雪女」を想像させた。

 

 

 湯船には先客がいた。裸身を晒すオルミュッツの戦姫「リュドミラ=ルリエ」が、そこにいた。

 

 

 

「……冷えるわよ。さっさと入ったら」

 

 

「いやいや、えーと、お、男湯『今の話を聞いて、出歯亀しにいくとは随分とスケベね』……どうすりゃいいんだ」

 

 

「いいから入りなさい。どうせエレオノーラ辺りから使っていいとか言われたんでしょ。もう少ししたら私も上がるから」

 

 

 

 絶望しきったティグルとは対称的にリュドミラは肝が太いのか、それとも自分など男として見られていないのか、湯浴みを推奨してきた。……とりあえず今、男湯に行ったらば色々と『あれ』な場面に出くわすのは間違いない。

 

 

 よってティグルの選択肢は一つでしかなかった。掛け湯をして腰にタオルを巻いてから、湯船に入る。

 

 

 静寂の中で自分が入った時の音が奇妙なほど大きく響いたように思う。

 

 

 如何せん、そんな風な状況だというのに温泉に入った瞬間に身体が緩むのを抑え切れない。リョウの国でも温泉は療養のために使われているそうだが、その理由が分かる。

 

 

 魅力的過ぎる心地よさだ。

 

 

 

「随分と疲れていたみたいね」

 

 

「んっ、まぁ何というかディナントから始まって、どうにも血腥いことが多すぎたからな」

 

 

 

 伸びをした自分の弛緩した様子に感想を述べたリュドミラ。

 

 

 捕虜としてライトメリッツにいた時にも、何とか脱走出来ないかと色々とやってきたことを考えれば、あれ以来、自分の日常は戦いの日々に変わってしまった気がする。

 

 

 そう考えれば運命とはどうなるか分からぬものだ。

 

 

 

「ただ、それでも本当に絶望した時は無かったかな……何とかなるだろうと考えていた」

 

 

「暢気ね」

 

 

「言われれば否定しようがない。ああ、けれども身代金の額には絶望したかな」

 

 

 

 あれは衝撃的だった。戦の神を呪いたくなるほどの衝撃だったのだ。幸いにもその後は自分には軍神のような人間ばかり集まってくれたので、やはり諦めぬものに神の加護はあるのかもしれない。

 

 

 

「少しだけ感謝しているわ……義兄様の主が、義兄様の剣を汚いことに使わない人間で」

 

 

「加えて、自分の仲を取り持ってくれてって、ところかな?」

 

 

「寂しかったわ。これから私と敵対することも辞さないなんて言われて……」

 

 

「それに関してはすまないと思っている。ただあいつは……真の武士だから節度を守りたかっただけなんだ。それは理解してやってくれ」

 

 

 

 自分の戦いに着いて来る。それはつまりリョウ・サカガミが今までこの西方で培ってきた縁を断つ行為にも直結していた。

 

 

 身じろぎして湯船の中で姿勢を正しつつ、口を開く。

 

 

 

「あいつが、君や君の親しい人間などとの縁を切ってまで、俺に味方してくれている以上、俺はあいつに報いたい―――リョウが求めていることをかならず成し遂げたいんだ」

 

 

「……意思だけではその道は途切れるわよ。多くの味方を作りなさい。公爵の逆道で以ってブリューヌに仁と礼を取り戻す。その意思で戦うことが一先ずは義兄様の求めよ」

 

 

「助言ありがとう。リュドミラ」

 

 

 

 結局の所、まだ分からないことだらけではあるが、それでも……戦うと決めた。その決意に揺るぎは無いのだから。

 

 

 顔をリュドミラの方に向ける。ピンク色のバスタオルで包まれて、とりあえずまじまじと見ることはせずとも、礼自体は彼女の方を見ながら言わなければ失礼に当たる。

 

 

 

「……ある意味、あなたが私から義兄様を奪っていきながらも、その仲を取り持ってくれたわ。だから―――お礼に後で紅茶(チャイ)をご馳走してあげる」

 

 

「リョウから聞いている。リュドミラは「可愛い茶娘」だから、仲良くしてやってくれって」

 

 

「!!!……訂正するわティグルヴルムド卿。あなたと義兄様は似たものどうしだわ……」

 

 

 

 会話の前半は、笑顔であったのだが、会話の後半になってからは、少しのふくれっ面を見せるリュドミラ。

 

 

 湯に顔を半分沈ませて泡をあげる少女らしい仕草を行う姿が、可愛らしく思えた。

 

 

 茶娘という言葉が気に障ったのだろうか、と思いつつも湯に当たり過ぎたのか顔を紅くしているので、そろそろどちらかが上がったほうがいいだろうと感じる。

 

 

 感じていた時に――――、「脱衣場」の方から変化が―――発生しつつあった。

 

 

 

 

 

 † † † † †

 

 

 

 

 

 おかしい。おかしすぎる。あれから何分経った。ティグルをからかってから、何分たったんだ。

 

 

 濡れた浴衣から楽な客服に着替えて、結構な時間が経った。最初は戦姫三人で入っていた浴場。そこにてリュドミラの胸の「慎ましさ」をあれこれやっていたのだが、やりすぎてサーシャに怒られて、そのまま湯船から揚がってティグルをからかうという方向にシフトした。

 

 

 一応、悪戯気分でティグルと二人が鉢合わせするようにしたのだが……、幾らなんでも遅すぎる。

 

 

 サーシャはともかくとして、リュドミラは怒って自分を怒鳴りつけてきそうなものだが……天啓が降りる。

 

 

 まるで砕かれた時計塔を見て相手の能力を察したようにエレンに最悪のシナリオが降りてきたのだ。

 

 

 

「落ち着け……落ち着いて考えるんだ。私の辞書にパニックという言葉は無い……! そうだ! たしかルーリックも前にこんなことを言っていた……!」

 

 

 

 ―――そういう時は、そうですな。無理に引き剥がそうとするから必死に抵抗されるのです。逆に―――あげてしまってもいいやと考えるのです。―――

 

 

 

 女性関係が色々とあれなルーリックの人生体験談の教訓を思い出して、エレンは……絶え間なき波紋が発生する如き心を静めるべく―――考えることは無理だった。

 

 

 

「ティ、ティグルは私のものだーーー!!! 例え親友であろうと、ましてや不倶戴天の敵などにくれてやるものかーーー!!!」

 

 

 

 立ち上がり、脇に置いてあったアリファールを手に取り向かうは、脱衣場。

 

 

 廊下に出て脱衣場への道をとる。周りの客の大半は先程の戦姫であると気付いたようだが、その視線に構うことなくエレンは大股で歩いていき、目的地に辿り着いた。

 

 

 そして其処にてとんでもないものを見てしまったのだった……。

 

 

 

 そうして……一刻ほど経ったころには、戦姫専用の大浴場には砕かれた氷と砕かれた調度などが散乱することになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「成程、『私は人間をやめるぞ!!ティグルーー!!』と言わんばかりに襲撃してきたエレオノーラによって、あの惨状に成り果てたと……」

 

 

「今回ばかりは弁解の余地が無いし、二人を止めてくれたアレクサンドラとリョウには感謝している。で、エレンは?」

 

 

「サーシャが正座させて、お説教しているよ」

 

 

 

 そんな騒動が起こったのを収束させた後には全員お互いの部屋に戻ることになった。不幸中の幸いというか深刻な怪我などは起こらなかったが、湯冷めする可能性を考えて二人にはそれぞれの湯で暖まるように言った。

 

 

 その間に、エレオノーラをサーシャと二人でしょっ引いた後に、暖衣を用意させたので今のティグルの格好は浴衣のような薄着ではない。

 

 

 換えの下着なども多めに用意したのだが、まぁ二人とも相応に鍛えているしミラはラヴィアスの効果であんまり寒さというものを感じない。

 

 

 要らぬ心配ではあろうが、総大将に風邪引かせるわけにもいかず一応そうしておいた。

 

 

 

「しかしまぁミラと裸の付き合いするなんてやるじゃないか、戦姫の色子の襲名も間近かな?」

 

 

「そんな屋号にもならんものを頂きたくないな……第一、隣の浴場にも戦姫はいたわけだし。暫くはその称号はお前のものだリョウ」

 

 

 

 皮肉を言い合うと同時に、テーブルの対面で「歩」を動かしたティグルに対して、「香車」を指す。

 

 

 温泉の後に、飯を食べるは少しばかり騒動が大きくなりすぎてさりとてやること無くて暇だというティグルの為に郷里での「遊戯」を教えることにした。

 

 

 別に『チェス』もティナの相手で知らないわけではないが、ヤーファの盤上遊戯が知りたいというティグルの要望に付き合う形で、『将棋』を指すことに。

 

 

 

「にしてもこの将棋ってのは、思考が複雑になるゲームだな……」

 

 

「チェスと違う最大の点は……奪った駒を自分のものに出来るという点にある。まぁ現実には、奪った「兵」を完全に自分達のものに出来るとも限らないがな」

 

 

 

「桂馬」を中央にまで進めてきたティグルに対して、「飛車」を「王」の前に置くことで、威圧する。

 

 

 現在の所、盤上は整然と動いている。ティグルも自分も乱戦というものをあまり好まない。

 

 

 動くべきときにはプレデトリー(猛獣的)に噛み付きにかかるが、それまで整然と動く。

 

 

 取りあえずどうやって駒を動かすかを知ることであり、負けてもそこから何を得るかが将棋の肝だと伝える。

 

 

 よって――――、

 

 

 

「四十七手で詰だ」

 

 

「結局、リョウの陣地に入城することすら叶わないのかよ……、しかも全ての駒が成ってないなんて」

 

 

 

 頭を抱えて落ち込むティグルに苦笑してしまう。事実入城したこちらの駒を成らせることをしなかった。

 

 

 そしてティグルには『そちらが入城すれば成りの『動かし方』を教えてやる』と言っておいたのだ。

 

 

 

「落ち込むことは無いぞ。最初は飛車角金落ちでやってやろうと思っていたぐらいだ」

 

 

 

 初心者教習というわけではないが、実際ティグルの読みは鋭くて、こちらとしても全駒動員しなければならなかった。

 

 

 流石に超一流の「弓士」ともなると、その読みは『ずば抜けている』。

 

 

 

「まずは一手ずつ、俺の陣地で駒がどう変化するか知ることだよ」

 

 

「長い道のりだな……しかし、この『角』っていう駒は気に入ったよ。何ていうか……うん気に入った」

 

 

 

 幼い感想ではあるが、それでも言わんとすることは分かる。そして彼が気に入った理由も何となく分かった。

 

 

 結局、ティグルが武人として動く時にその役目と言うのは敵を真正面から断ち切ることではなくて斜めから切り込んで寸断することにあるからだ。

 

 

 だからこそ角というのに惹かれるのだろう。

 

 

 そして、角が成ることでどういう『役目』になるかを知るリョウとしては、それを伝えられる日が来る時には、きっとティグルがどう呼ばれているかが、何となく分かる気がした。

 

 

 そんなリョウの勝手な評価に構わずティグルは「飛車」はリョウに似ていると感想を内心で漏らしていた。

 

 

 

 † † † † † 

 

 

 

 ブリューヌ領地マルセイユ。その領地の中でも港町として栄える『マッサリア』は、その日―――歴史を転換させられた。

 

 

 始まりは港町へと入る前の『野』に多くの野犬、野狼が跋扈している所からであった。野に蔓延るそれらは気味が悪く明らかに人間に敵対的であった所から、すぐさま領主であるピエール・マルセイユ公爵に伝えられた。

 

 

 若き日には王国の先槍『武のピエール』と呼ばれて、ボードワンと対比させられることありし老いてなお精強な武人貴族であった。

 

 

 ピエールには一人の息子と一人の孫が居り、二人ともがピエールと同じぐらいに武人として優秀で、その野犬殺しに同行させることにした。

 

 

 とはいえ野に跋扈する害獣などに武人を動員するなどとんでもないというのが普通の感覚、せいぜい狩人を向かわせるのが普通なのだが……ピエールは報告が上がった時から嫌なものを感じていた。

 

 

 この害獣達は恐らく―――自然のものではないだろうと……。足跡はテナルディエのネメタクムから続いていたのだから……。

 

 

 

「弩、及び―――場合によっては火砲も使うだろうな。弓兵部隊、期待しておるぞ」

 

 

「はっ、領主様のご期待に応えたく存じます」

 

 

 

 老公マルセイユはブリューヌ貴族でありながら、伝統というものに拘らぬ人間であった。

 

 

 彼の戦いの部隊が平原よりも海、河と水軍を率いることが多かったからだ。更に言えば貿易の要衝であり、様々な文化の交流地点でもあるのだから、そんなことに拘って命を落とす方が馬鹿らしい。

 

 

 そういった考えの戦士ばかりであるから、戦となれば本当に強力であった。

 

 

 館にて、息子と孫の出陣準備が整うのを待っていた老公にとって気がかりなのは王宮のことである。

 

 

 ディナントはマルセイユにとって遠すぎた。それゆえ出陣見合わせを願ったのが後悔の始まりだ。

 

 

『王女殿下が殺された』

 

 

 その事実が深く胸にしこりとなって残っていた。

 

 

『レギン』を殺されて塞ぎこんだ国王、両公爵の覇権争い、自由騎士の来訪と言い、このブリューヌに―――何かよからぬ気配が漂っている。

 

 

 その良からぬ気配の一つが―――もしかしたらば自分に降りかかりつつあるのかもしれない。

 

 

 ただのテナルディエ公爵の脅しではない何か―――。それを考えて、13歳になった孫である「ハンス」に一つの言伝を残した。

 

 

 

「―――何を弱気になっているんですかおじい様。ただの害獣狩りではありませんか……」

 

 

「そうですよ父さん。たとえここに来るのが奸賊テナルディエであったとしても我々は討ち取るだけの力はあるはずです」

 

 

 

 孫が嘆くように、子が窘めるように言ってきたが、それを介さずにピエールは絶対にそれらを『万が一』の時には実行しろと伝えた。

 

 

 自分の気迫に押されたのか、二人はそれを了承した。

 

 

 とはいえ、それが杞憂に終われば、それで良い。そうであったならば威圧したことを謝る形で、ムオジネル料理の一つをご馳走するのも一つだろう。

 

 

 もしそうでなければ―――レギンに野鳥を食べさせたあの若者の所に孫を行かせるだけだ。

 

 

 

 

 

 そうして――――一世の英雄ピエール・マルセイユ老は、闇の如く塗りつぶされた「黒の軍団」によって敗死することとなった。

 

 

 その凄まじい死に様は後世に語り継がれるものであり、同時にブリューヌに現れた『怪異』のおぞましさをも強調するしていく。

 

 

 

 

 

 タッチの差で難を免れつつも、頼れるものがまた一つ喪われたことを嘆く王女の姿が破壊され焼き尽くされたマッサリアの港にあった。

 

 

 

「酷い有様ですね……住民の方々は?」

 

 

「縁故を頼ったり近隣の港湾都市に逃げ込んだそうです。それらを「手厚く」テナルディエ傘下の貴族たちは養っているそうですが……」

 

 

 

 隣に居たジャンヌの声が苦痛に響く。

 

 

 これによって、南部は全てテナルディエ公爵のものとなってしまったようなものだ。

 

 

 住民達がマッサリアに戻ってくるには、テナルディエの影響を消すしかない。その道のりは容易いものではないだろう。

 

 

 しかしわからぬのは……誰がこの『襲撃』を行ったかだ……。

 

 

 状況から考えてもテナルディエの手のものがやったに違いないのだが、襲ってきた敵には―――殆ど「人間」はいなかったとのことだ。

 

 

 唯一と言ってもいいのは、マルセイユ老が最後に戦いを挑んだ『人間』。黒い衣装で己を包み込んだ剣士。

 

 

 周りを敵だらけの中、総指揮官とでも言うべきものに挑みかかったマルセイユは全身から血を出しながらも一矢―――報いることも出来ずに殺されたそうだ。

 

 

 

(……私に……もっと力があれば、私が死んでないと喧伝出来ていれば……ピエールお祖父さんが死ぬことも無かったというのに……)

 

 

 

 勢力図のあれこれよりも親しい人間が死んでしまったことにとても、嘆き悲しみが発生する。

 

 

 だが絶対に負けない。例え、どんなに絶望的な状況ばかりになっても、自分を生かすために死んでしまった者たちに報いるためにも、戦わなければならない。

 

 

 立ち止まることは―――許されないのだから―――。

 

 

 

「それでヨハン卿とハンスは?」

 

 

「ヨハン様は、既にドンレミ近くまでやってきています。協力を申し出ればいいですよ。ただ……ハンスは分かりませんね」

 

 

 

 生きてはいるでしょうが、と言うジャンヌの表情はあまりよろしくない。

 

 

 まぁ『オバちゃん』などと言われて良い感情を持っていけるわけがないだろうが、それとてまだ7.8歳の頃の話だろうに……。

 

 

 とはいえ、あの二人の武者達を仲間に引き入れること出来れば、これからかなり楽になる。

 

 

 だが……それでも不安は尽きないのだ。

 

 

 

「敵の正体が掴めないのが……少しばかり怖いですね」

 

 

「―――黒い獣の軍勢―――」

 

 

 

 焼き尽くされて黒く朽ち果てた木材と石壁の中に、恐らくその獣の色が混ざっているだろう。

 

 

 嫌な予感を感じながらも――――レギンとジャンヌは、ドンレミに戻ることにした。

 

 

 

 

 

 その帰り道に草木は無くただ朽ち果てて黒く塗りつくされた大地が、行きと同じく広がっていた――――。

 

 

 


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