「東方剣士リョウ・サカガミ――――、随分とその子にぞっこんなのねヴァレンティナ」
「年甲斐もないとか思われたくないのですけど、ちょっと知り合う機会が出来まして、今はその剣士のお供をさせてもらっているわ」
ジスタートの王都―――シレジア。その王宮には贅と美を両立させたいくつもの庭園があった。その内の一つ、色とりどりの薔薇の美術品と花壇が作られた庭園。
そこはヴァレンティナ・グリンカ・エステスと戦姫ソフィーヤ・オベルタスが、お茶を飲みあう場所として何も言わずともそう取り決めていた。
庭園の中でも奥まった場所でソフィーヤの竜具の能力を使えば、盗み聞きは出来ない。
つまりはあまり人には聞かれたくない会話の場所ということだ。
「それにしても体力が無いあなたにしては頑張ったわね。サーシャの領地からエザンディスを使ってシレジアまで飛んでくるなんて」
「愛ゆえに、東方の格言の一つに「愛は万里を超える」というものがありまして、私はリョウのためならば、今すぐにでも海賊の首を千は献上しますよ」
「そ、そう……」
身もだえするように自らの身を掻き抱くヴァレンティナの様子に若干、引きつつもソフィーははぐらかされた感覚を覚えた。
だが彼女が、その剣士に何か思うところがあるのは事実だろう。ここまで感情を露わにしている彼女は初めて見る。
「なんとリュドミラご自慢のトリグラフ・アーマーを五つ叩ききったのですから、尋常な実力者じゃない。私はその水飛沫のような剣の冴えに英雄を見たと言っても過言ではないです♪」
「はいはい。リョウ・サカガミの噂は聞いているわ。万の軍を一人で食い止めたとか、アスヴァールに現れた邪竜(イビルドラゴン)を殺したドラゴンスレイヤーとか、神秘の術を使う魔法使いとかね」
「それは全部事実です。疑うならば直接見るといいでしょう」
ソフィーはここまでヴァレンティナが入れ込むほどに、その剣士は超絶した実力なのだろうか。疑わしくも少しばかり信じてしまいそうになる。
「それであなたは、何を聞きに来たの? 私が知っていることならば教えられるけれど、知らないことは教えられないわ」
「エリザヴェータとアレクサンドラの領地を襲おうとしている海賊―――それに対する王宮の対処と各戦姫達の対応を」
飲んでいた
オステローデは、ジスタートの北東部にあり、賊がヴァルタ大河を朔上でもしなければ彼女の領地に直接の被害は出ない。
オルガや自分の領地も同様である。だからこそ彼女の本気が分かった。
「まずは、王宮としても―――援軍を出す構えはあるわよ。二人の領地はジスタートにおいても大きな貿易港を備えているから、ここに被害が出すぎるのはまずいでしょう」
海賊が王都にまで攻め込むことは無いだろうが、それでも荷卸しの場所として二人の領地は大きいのだ。
あまり被害が出ては困る。ヴィクトール王としては、公国の事は公国のこととして処理させたいが、事はジスタート全体の経済にも及ぶのだ。討伐軍を出すことも吝かではあるまい。
「他の戦姫達―――行方知れずのオルガは置いておくとして、エレンやリュドミラは―――救援する動きを出していたんだけど……ね」
「エリザヴェータはエレオノーラの介入を良く思わず、かつアレクサンドラもエレオノーラに来られて連携を崩されるのを嫌った。そんなところですか?」
ソフィーとしては呆れつつ首肯をするしかない。もっとも二人とも海戦になれていない陸の戦士を揃えているのだから、アレクサンドラが嫌うのも分かる。
確かに救援はありがたいが、慣れない戦場の兵士を揃えられるよりも気は合わなくても、熟練の兵士を揃えられる相手と共闘した方がいいだろう。
「そのエリザヴェータなのだけど、件の東方剣士殿が来ていることを陛下にお伝えしたらしいのよ。特に陛下は今は何も言っていないけど、今後次第では何か言ってくる可能性は高いわ」
次に紅茶を置いたのはティナの方であった。今後というのは現在、始まろうとしている海戦の結果如何によっては彼は、何かの駒にされる可能性があるということだ。
「私としては、二人の厄介ごとが済んだならば我が領地に来てほしかったのですけど……そうはいきそうにありませんね」
「ええ、隣国にも色々な火種ができつつある。アスヴァールも休戦してはいるもののどちらかの体制が整えば条約は破棄されるでしょう。そんな中、東方からやってきた剣士は良くも悪くも台風の目になるでしょうね」
エリザヴェータが言わなくても、もしかしたらば気付かれたかもしれないが、その前に雲隠れという形でヴァレンティナの領地に来させることも出来たはずだ。
厄介なことをと、内心でのみ歯ぎしりをして、今後に関してどうするかだ。
(アレクサンドラは、どうせ体が重くて出てこれないでしょうし。彼女が、必要以上にリョウを歓待することもない。その点は安心。問題はエリザヴェータね)
あのコンプレックスの塊のような異彩瞳女のことである。自分の領地の安定と繁栄のためにリョウを誘うこともありうる。
色々あるが自分の人脈と策略を以てすれば穴など無くなる。まさに完璧な謀略が完成する。
「ところでソフィーヤ。あなたまた胸大きくなっていないかしら、私が王宮にあまり来ないからそう感じるだけでしょうか?」
「私からすればあなたをそんなに見ていないから、あなたのスタイルも良くなっていると感じるのだけど」
そんな風な殿方拝聴拝見禁止の会話をすることで、会話の質を変えていくことにした。
この時のヴァレンティナにはどうすることも出来なかったが、彼女の謀略は、チーズも同然―――既に穴だらけのものとなっていた。
◆ ◇ ◆ ◇
「本当にいい日だった。ここまで楽しかったのは本当にいつぶりなんだろうかな」
「大袈裟な。いつだってこんな事出来るだろ」
「そうとは限らないよ。それに君は本当にレグニーツァを気に入ってくれたみたいで本当に嬉しかったんだ」
リプナの街に降り立った時から感じていた。あの戦争ばかりを行っていた国とは違って色んな人々が泰平の世を謳歌しているとわかる。
本音で言えば、アスヴァールの争乱は人心を荒れさせて娯楽というものが壊滅的だった。花魁、夜鷹の類以外は―――と付くが。
レグニーツァの首都を一望できる山まで上がり、夕焼けに染まる世界を二人して眺めていたのだが、本当に彼女は晴れやかな笑顔をしている。
風で飛ばされそうになっている麦藁帽を抑えているアレックスの表情は本当に可愛すぎて―――正直、ヴァレンティナに対してものすごく後ろめたくなってしまう。
だが本当に後ろめたくなってしまうのは、ここからだった。いきなりに手を握られる。驚愕してしまう。
そして彼女の生きる目的を思い出す。この行動の意図を。
『子供が欲しい』
待ってくれ。それはいくら何でも早すぎる。俺はまだ君のことを全て知っているわけじゃない。リョウの内心の叫びに反比例するかのように。
熱っぽい視線がリョウを見つめてくる。寄り掛かってきたアレックスの表情に、どうしようもなくなり、そしてそのまま―――――彼女は肩で息をしていた。
熱っぽいどころか熱がある。反対に自分の体温が下がるのを感じる。
「―――『戦姫アレクサンドラ』殿!! しっかりしろ!!」
「な、なんだ……分かっていたのか。結構、ウソは上手いと思っていたんだけど……君は最初から分かっていたのか……」
身体を支えながら、意識の有無を確認するとしっかりとした返事が返る。
すぐにでも山を下り、公宮へと向かわなければいけない。かかりつけの医者もいるはず。急がなければならない。
リョウの判断は早く、そして行動も早かった。
「首に手を回していろ。怖ければ目を瞑っていろ。ついでに言えば、口も開くなよ。舌を噛むぞ」
「……!!」
軽すぎる身体に、悲愴を感じながら戦姫アレクサンドラ・アルシャーヴィンの身体を抱きかかえて、山を下りる準備をする。
先ほどよりも顔が赤くなっているアレクサンドラの顔を見て、本格的に不味いと考えて更に身体を密着させて彼女の身体を離さないようにしなければならない。
途中で弛緩されると、正直彼女を『振り落してしまいかねない』。
「意図は分かるんだけどさ………本当に君は、自分が分かっていないよ。ずるいよリョウ……」
その言葉を最後に意識を飛ばしたアレクサンドラを見て山を下りる
『素は軽。肩に風実―――』
己の身体に軽量化を果たして地面を蹴り、そのまま跳躍をする。するとその跳躍は普通のものではなく、山から飛び立つかのように空中に上がった。
腕の中で意識を無くしたアレクサンドラを見て、彼女に気遣いつつも早く公宮へと向かわねば。焦燥と不安を混ぜながら街へと降り立つとその足を尋常ではない速度で早めていったのだが――――。
その姿を多くの人に見られてしまい、色々とレグニーツァの住人達には誤解を招いていくことになるのだが、それはまた別の話である。
† † † † †
「鬼剣の王? 初めて聞くねぇ。それに関しては―――」
「他の事ならば何でも知っているような口ぶりはやめろ。お主には口利きをしてもらいたい」
「その鬼剣の王を倒すためにかい? 随分と慎重じゃないか、そいつは今はジスタートにいるんだろ。ならば、まだ手は下さなくてもいいはずだけど」
緑色のバンダナを垂らした短い黒髪の「青年」は、話し相手である「占い師」に対して疑問を呈する。
軽い調子で聞いてくる青年とは反対に、その疑問に重い空気を含ませながら占い師は語る。
「最初は、わしもただの東方剣士が分不相応なものを持っているだけだと思っていた。だが「将軍」の報告で危険性を認識した。剣士自体もまさしく「妖刀」一度抜けば眼前の魔は斬られるが道理の真の鬼剣だ」
「そこまで。けれどどうやって殺すんだい? 直接対峙すれば「将軍」みたいになるんだろ?」
感嘆とも驚嘆とも取れる反応をする青年は、暗い部屋の中で聞かされた通りならば将軍は当分の間。動きを封じられたようなものだということを思い出していた。
直接斬られたわけでもないのに将軍は、鬼剣の王によって牙と爪を叩き折られたようなものとなっているのだ。
「だからこそ「人間」を使う。『屍兵』の玉と海竜(パダヴァ)の船をジスタートを襲う海賊に与えろ。首尾よくいけば戦姫の一人と共に潰せるはずだ」
自分たちは人間ではないといわんばかりの占い師の言葉に特に反論せずに青年は続ける。
「邪竜を殺した相手に通じるかねぇ。まぁ所詮、死ぬのは人間だしね構わないか。それで、あんたがさっきから机に揃えている『果実』は何なんだい?」
「わしも雇われの身だ。仕えている方の勝利を願うもので、閣下には少々毛色の違う兵士を用意してやろうと思っているのだよ」
欠片もそんなことを願ってもいない口調で言う占い師に対して若者は占い師の新たな「実験」に対しては興味を無くして渡された礼金を「胃袋」に納めてから早速動き出す。
(鬼剣の王ね―――またの名を「神剣」。一度ぐらい戦っておきたいよねぇ。戦姫とも戦いたいけど――)
今回に関してはそこまでのものを望めないだろうということを青年は己の身を水に『溶けさせ』ながら思っていた。
◇ ◆ ◇ ◆
目が覚めた。暗い室内に自分はいて、見慣れた天井がそこにあった。公宮の自分の寝室だ。
先程まではとてつもなく熱くて幸せな気分を味わっていたのだが、今はそんな気分が無かった。
抱きしめられた胸板の厚さも無く、回した腕から伝わる硬さも何もかも夢だったのではないかと思っていて、不意に泣きそうになったが、嗚咽を零しそうになる寸前に自分の手が握られた。
「気が付いたか。気分はどうだ?」
握りしめていたのは、自分に戦姫としてではなく女としての行動を起こさせた一人の男の子だった。
「それなりに良いよ。なんていうか夢ではなかったんだと思えたから―――すごく幸せだ」
起き上がりながら自然に笑顔が出来たが、今はこの嬉しさだけに浸っているわけにもいかず、あの後どうなったかを聞くことにする。老従僕を呼んで来ようとしたリョウを引き留めてリョウに説明させた。
「君はどんだけの健脚なんだ。そんな事が出来るなんて」
「御稜威という一種の呪術を俺は使えるんだ。詳しいことは省くがそれを使って移動速度を速めた」
何気ないことのように語るリョウではあるが、それを使えば自分を手際よく暗殺することも出来たのではなどと邪推する。
だがそんなことはしないだろうとサーシャは思えた。リョウの人格はそんなことをしないと思えた。
(まぁ少し「旺盛」ではあろうけど…それも年相応かな?)
姫抱きをされた時にそれとなく腰と尻の辺りに手が回ったことを考えるに、少しばかり「男の子」らしいと感じた。
「なんか不愉快なことを考えていないか?」
「さぁ? まぁとにかく改めて自己紹介させてもらうよ。ジスタート王国の公国が一つレグニーツァを治めている戦姫アレクサンドラ・アルシャーヴィンだ。周囲の人間からは
(戦姫達には初対面の相手には自らの素性を隠すとかっていう約束事でもあるのか?)
自己紹介をしてきたアレクサンドラには悪いが、少しばかり悪態を突きたくなるというもの。
「にしてもリョウ。君はいつから僕が戦姫だと気づいていたんだ? 何もボロを出した覚えは無いんだけど……」
「名前だよ。西方では己の名乗りにおいて「名」を先に「姓」を後にするのが習わしなんだろ。俺は君に自己紹介をした時に、東方式の名乗りをしたんだ」
姓であるサカガミを先に、名であるリョウを後に。そうして語ったというのに、この戦姫は何の疑問もなくこちらの名前を呼んできたのだ。
無論、彼女が事情通でそれなりに東方文化に対する教養を持っていたというのならば別だが。
「失態だね。浮かれすぎていたよ。名前の呼び方だけでそれを看破するなんて」
「そのぐらいの茶目っ気があった方が女の子は可愛いと思うけど、完璧すぎる女の子はスキが無さ過ぎて男が近づけない」
「身持ちは固くても男への門戸は開け放つか、まぁやってみようかな―――とりあえず私のことはサーシャと呼んでほしいよリョウ。アレクサンドラなんて呼び方はいやだ」
まだ熱があるのか、少し頬を紅潮させているアレクサンドラもといサーシャに対してティナもそうだが、こうして見るとやはり普通の女の子にしか見えない。
何故このような乙女達に戦う宿命をこの武器は与えるのだろうか。ティナはいい。彼女には最初から確固たる野望があった。
それに対してエザンディスは、それを実現させるだけの力として彼女の手元に来たのだから。だが目の前で茶目っ気を出している彼女は違うだろう。
炎を上げる金と赤の双剣は何を求めて彼女を選んだのか――――。
「煌炎バルグレン―――討鬼の双刃という名を持つ戦姫の武器だ。知っていたかい?」
「一応はな……建国神話を最近教えてもらったから。サーシャが持つ武器がその一つだということは知っていた」
「どうにもこの子は悲しんでいる。どうやら君に嫌われたことが、ひどく嫌なようだ」
「朝にも似たようなことを言われた」
サーシャの掛け布団の上に置かれた双剣の炎の揺らぎはどことなく不規則だ。エザンディスは自己主張が激しかったが、どうやらバルグレンは楚々とした性格のようだ。
(『鬼』を討つ刃か)
皮肉な名前だ。『自分』、リョウ・サカガミにとってはである。
「ここからは真面目な話をするがいいかな。東方剣士リョウ・サカガミ。君は何を求めてジスタートに来たんだ? ヤーファには西方進出の野望でもあるのかい?」
「俺もやんごとない方と話す機会があるが、とりあえず今の最高権力者にそんな意思は無いな。そして俺の目的は昼間に語った通りただの武者修行だ。アスヴァールであんな大立ち回りをしたのは…まぁ気紛れだ。戦争ばかりやられていると嫌気が差すんだ」
「それも君の本心なんだろうけど、本当のことを言っているようには思えない」
細い目でこちらを見抜いているサーシャに、どういったものかと悩む。誰にでも言える内容ではないし、場合によっては彼女を無用の危険に晒すかもしれないのだ。
ティナに対して言ったのは、あちらもそういったことを知っていそうだったからだ。神秘的な所が陛下と似ていたから自然と口が滑っただけかもしれないが。
「まぁいい。君にも語れないことがあるだろうことは理解しておく」
「すまない。ただ俺の剣は人の為に振るう剣だということだけは信じてくれ。俺が君の領地の傭兵選抜に参加したのもマトヴェイの依頼もそうだが、俺自身、そうしたかったからだ」
「それは信じる。そして僕はこの通りの身体だ。情けない話だが戦場には出られないかもしれない。リョウ―――僕の民達を守ってくれ。頼む」
「言われるまでもない。依頼を受けたからにはそれをこなす。ただサーシャお前も戦場に出ろ。ここはお前の土地だ。どんな経緯があれどお前が治めてお前が繁栄させてきた土地だ」
無責任とまでは言わない。ただ戦場に出て、味方を鼓舞することだって出来るはずだ。それすらも彼女には無理な注文かもしれないが―――。
「今日見た光景は全て君の治世の賜物だ。その輝きを失わせたくなければ君は戦姫として戦場に出ろ。実際に動くのは俺だけでもいい」
握りしめた細い手。その手で敵を殺さなくとも、その声で味方の戦意を上げることは出来るはずだ。彼女が本気で生きようとするのならば、己に課せられたものを全うさせなければならない。
「マトヴェイから聞いたはずだ。一応、君の病に対する処置はある。完治は『今』は難しいだろうが海賊討伐の日には五体満足で動けるようにしてやるよ」
「……ありがとう。嬉しいな。ここの文官、武官も私を戦場に出したくないというのに、君は逆のことを言うんだな。私自身も領民の危機に対して動けない領主であることに情けない思いでいたところだ。力を貸してくれ。私が領主としての責務を全うするためにも」
大切な姫君だ。そう考える人は多かろう。しかしそれ以上に戦姫と共に戦場を駆けたいと思っているものも多い。マトヴェイや老従者のように。
「それじゃゆっくり寝といてくれ。侍医の方の指示には従ってくれ。色々と苦い薬も出るだろうが耐えられるか?」
「君が側に居てくれるなら―――なんてことは言わない。ただ……また僕に会い来てくれるか?」
不安げな顔をする年上の女性。その顔を晴らすためにも虚言は交えずに、ただ誓う形で言葉を吐いた。
「必ず。お休みサーシャ」
「お休みリョウ」
振り返ったサーシャの顔は安堵に満ちていて、それに安心して彼女の寝室を出た。
またここに来る。それだけは確かだ。その約束だけが彼女を安らげる良薬であるというのならば、何度でもここに来る。
◇ ◆ ◇ ◆
「随分と遅かったですねリョウ」
「すまない。夕飯食べていて良かったんだぞ? 別に待っていなくてもよかったのに」
「一人で食べるご飯ほどさみしいものはありません」
もっともともいえるし、それに慣れるのも旅だとも思えるが、サーシャはそれを何年間もやってきたのか。
少しさみしいものではないかと思う。宿屋の女主人が温めなおしてくれたシチューとパン。それと果物数種類を部屋で食べる。
「そうだな。ありがとうティナ」
「お気になさらず。ところでどうしてここまで遅くなったのですか?」
ティナは邪気の無い珍しく裏が無い顔で、聞いてきた。純真な少女の如き問いかけに、内心冷や汗ものだ。
という刹那の思考の後には。
「―――って聞くまでもありませんね。リョウほど卓越した剣士様であれば、色んな武官・文官にあれやこれや言われて遅くなったのですね。ここの領主は病床で動けませんから、そのぶん本当の意味で官僚制が生きています」
ティナが、そう勝手に解釈してくれた。ここで正直に「アレクサンドラ・アルシャーヴィン」と会っていたと言えば―――。
(まぁ宿の人に迷惑を掛けるわけにもいかないよな……。うん、そういうことにしておこう)
女というものは嫉妬深い生き物であることは、身を以て知っているので、とりあえず黙っておくことにした。
「それで明日はどうするんですか?」
「傭兵選抜には合格した。そして、海賊共は殲滅出来る。俺も「遊撃剣士」として自由に動ける立場にしてもらえたからな。問題は……ルヴーシュの方だと言われたよ」
「自信満々ですね。ただエリザヴェータの方に問題ですか、何かするようにでも言われましたか?」
「いや、そちらとの連携などは武官・文官でやってくれるそうだ。ただ機会があれば準備の間に行っておいてもらえるかとも言われた。ティナはどう思う?」
サーシャが目覚める前に、城の武官・文官に一通り挨拶をすると同時にそれらの諸々のことを詰めていく過程で出来た問題。
それは河を挟んだ先にある違う戦姫に関してであった。話によればかなり好戦的な性格のようで、場合によってはこちらの領地を侵すこともあるし、領海に関しても色々とあるそうだ。
「薦められただけでしょ。あなたは今はレグニーツァに雇われている立場なのですから、ルヴーシュに気を遣わなくてもよろしいかと、第一行ったところで何を話すのですか? 戦いは船上。即ち海戦なのですから」
「まぁそう言われればその通りなんだが……何事にも万が一というものはあるだろ。その際に俺の自由行動を咎められたくないな」
シチューに浸したパンを咀嚼してから、このまま海賊退治が順調に行くとは思えないのだ。何かしらの盤のひっくり返しがあるのではないかという疑念もある。
しかし、ティナの意見ももっともだ。下手に雇われ兵ごときがその協力者に会いに行くというのも間が悪い。
(騙されたかな……)
病床のサーシャが戦場にいないという仮定であの武官たちは、自分を万が一止める存在としてエリザヴェータを利用したかったのだろう。
これがサーシャの意思を代弁する使者としての立場だとしたらば、ルヴーシュの戦姫も無下にはしないだろう。
「優れた英雄とは見方を変えれば冷酷な殺人者ですからね。武官たちの危惧もわかります―――全く、リョウをそんなことで害するなんて、せめて私が王位を獲るまではそんなことされては困ります」
「王位を獲ったら俺は殺されるのか……」
「もちろん剣士としてのリョウではなく私の夫として生きてもらいますが」
「……本気なのか?」
その言葉に一笑してから、人差し指を自分の唇に持って行ったティナに何も言えなくなる。その艶めかしさは彼女のドレスと相まって、本当に魅力的になってしまう。
とはいえ、明日の方針を打ち出さねばなるまい。ルヴ-シュに行かずともとりあえずやることはある。サーシャの身体のための薬や様々な戦支度。
この辺りの植生を見てからでなければ決められないが、一般的な薬草程度ならば作れるだろう。故に――――、
「明日は山に行こうか。どうせ数日後には腐るほど海を見ることになるんだからな」
「バイキングを殺す前にハイキングとか洒落が利いてますね」
そういうことではないのだが、まぁとりあえず方針は決まり食事も終わったので寝るという段になって、やはりティナは自分のベッドに入り込んできた。
「今日ばかりは、ベッドで寝たいんだけどなぁ……」
「ではどうぞ」「だからどいてくれ。そして自分の部屋で寝てくれ」
昨日と同じ様な問答。しかし今回ばかりは彼女の瞳と顔に怯えは無い。ある意味、覚悟を決めているとも言えるが、そんなことを軽々しく出来ない。
「女性の身体は最高のクッションなのです。それを使って寝るは男の本懐。さぁ、私は逃げも隠れもしません。どこからでも―――」
「素は夢、微睡の中に揺蕩う―――」
呪言を全て唱え終わると、いきなり来た睡魔にティナは行儀よく眠りに着いた。
昨日からそうしておけばよかったなどと後悔先に立たずではあったものの、何とか自分が寝るスペースを確保して、ティナの整った顔、長く整えられた睫毛で彩られたそれを間近にしながらも眠りに着く努力をする。
背中を向けて眠れば眠ったでその大きな胸の感触が否応なしにリョウの体温を上げる。仕方なく正面にする形で眠ることにした。
(胸板ならば、まだ理性を保てると思っていたんだけど……)
ティナの美貌と発育良すぎる身体に見当違いの悪態を突くと、リョウにも睡魔がやってきた。眠りは近いようであり、その流れに身を任せていった。
「リョウから……違う女の匂いがします……酷いですよ……あんまりです……」
―――だから、眠りに着いて悲しき涙混じりのティナの寝言を聞くことは無かった。