とある科学と回帰の金剛石《ダイヤモンド》   作:ヴァン

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過去への扉 その⑤

 ――夢を見ていた。

 ――だが、その内容は忘れてしまった……。

 誰かに抱かれていた、包まれていた感じだけは覚えているのだが、それ以外は思い出せない。

 そんな曖昧な夢――

 

 

 東方仗助が意識を覚醒させた時、そこには自分を心配そうに見下ろす八雲がいた。

 

「あっ!? 良かったっ。仗助君、気が付いたんだね」

「――八雲、無事だったか……良かったぜ……」

 

 頭は未だ薄ぼんやりとしている。草薙に注入された薬品の効果がまだ残っているらしい。

 仗助はふらつく身体を無理やり起こす。

 身体の痛みは無い。

 それどころかあちこちに受けた傷すら無くなっている。服も元通りだ。

 

「――そうか。八雲。お前の能力か。俺の『クレイジー・ダイヤモンド』の能力をコピーしたんだな」

 

 30秒間だけどんな能力すらコピーできるという、八雲の『ハートエイク(心の痛み)』。その能力を使い、仗助を治療したのだ。

 八雲はよろける仗助に肩を貸し、支える。

 

「うん。目が覚めたら仗助君が血だらけでぶっ倒れているんだもん。だから咄嗟に能力を使って治したんだ」

「……すまねぇな八雲。もっと注意深く行動すべきだったぜ。お陰でお前に危険な思いをさせちまった……」

「何いってんだい、らしくないなぁ。ここまで来たら一蓮托生、だろ?」

 

 八雲はにっこりと笑顔を見せ、仗助に言う。「それよりもここを出よう。敵がいつ来るかわかんないし」

 

 八雲は何も言わない。

 仗助(じぶん)を責めたりもしない。

 それどころか、努めて明るく振舞い、罪悪感を感じさせないようにしてくれる。

 その心遣いに、仗助は胸が一杯になった。

 

「……ああ、そうだな」

 

 だから仗助も何も言わない。

 後悔はあるが謝罪はしない。

 それを八雲は望まない。

 だから感謝は胸の中にしまおう。

 今は身体を八雲に預け、ゆっくりとでも出口へと向かうべきだ。

 

 

「じ、仗助君、見てっ」

「うげっ、なんだこりゃ? に、人間……なのか?」

 

 ある程度歩を進めた先に、人間の死体らしきものを見つける。

 だが、ただの死体ではない。

 頭髪と白衣はそのまま残し、まるで固形物をどろどろに溶かしたように、肌色交じりの液体を垂れ流している遺体に仗助はハッとする。

 

「これは、草薙!? 何でコイツ、こんなことになってんだ!? まるで炎天下に棒アイスを放置してたみたいにどろどろによぉ~~!?」

「そ、それにこの匂いっ! 臭っ!?」

 

 あまりの強烈な異臭に、八雲は思わず鼻を押さえる。

 この白衣、そしてもはや輪郭も分からないほど溶解した頭部。

 だが面影は残っている。

 これは草薙だ。先程まで仗助と死闘を演じていた草薙に間違いない。

 だが何故だ? どうしてこんな状態に?

 

「よ、よくわからんが、早いトコここから逃げた方が良さそうな雰囲気だな」

「ど、同意。激しく同意だよっ。仗助君、早く行こうっ」

 

 強烈な悪臭を放つ死体の謎は気にかかる。

 そして姿が見えない鏑木の存在も。

 だが、今の状態で後を追うのはあまりにも無謀だろう。ここは深入りはやめて体勢を立て直すべきだ。

 仗助と八雲は互いに顔を見合わせると、急ぎ足で施設からの撤退を試みる。

 

 

 ――それにしても。と、仗助は思う。

 自分達が気を失っていた時間、およそ2時間弱。

 その間、鏑木が何も手を出さなかった事が気にかかった。

 外部と連絡を取り、仲間を呼ぶなりすれば仗助達を始末するのは簡単だったろうに。

 

 奴らの方でも何か、トラブルがあったのだろうか?

 仗助達に対する攻撃を中断するほどの何か。

 それは一体何だ?

 五体満足で生還しておいてなんだが、そこだけがどうしても気にかかった。

 

 だが現状では逃走しか取るべき手段が見つからない。

 頭に浮かんだ疑問もやがて片隅に追いやられ、思考は製薬会社から脱出を果たす為にだけに使われるのだった。

 

 

 

 

「――はぁーーッ。――はぁーーッ。――はぁーーッ」

 

 発炎筒の光が周囲を鮮やかな赤い炎で染め上げる。

 薄暗い建物に照らし出されるのは、柄の悪そうな数名の男達。

 皆、地にひれ伏し意識を失っている。

 その男達から数メートル先の物陰で、白井黒子は息を潜め相手の出方を伺っていた。

 

「……くっ。視えないという事が、これほど脅威になるとは思いませんでしたわ。

『スタンド能力』……。なんて厄介なシロモノっ……」

 

 煙の濃度はますます広がり、周囲5mは煙で視界が利かなくなる。

 現場に踏み込んでわずか10分。

 その僅かな時間の攻防で、黒子は絶対絶命のピンチを迎えていた――

 

 

 ――事の発端は、初春から受け取ったリストだった。

 その日黒子が177支部に顔を出すと、初春が神妙な顔をしながらパソコンの画面と睨めっこをしていた。

 

「――? どうしましたの、初春?」

「あ、白井さん。――実は、『スタンド』絡みでひとつ、気になる情報が入ってきまして……」

 

 そう言うと初春は、画面上に開いてある掲示板を黒子に見せた。

 

「ん? この掲示板のデザイン、『ハーネスト事件』のものと同一ではありません事? まだ削除されていなかったなんて……」

「これは、もしもの事を考えてそれはあえて残したサイトです。

『ハーネスト』はもういませんが、サイトのアクセス方法をどこかから聞きつけ、尋ねてくる方は実はかなりいるんですよ。

もちろんアンダーグラウンドから来た方々ですので、内容はそれなりに危ない感じのものです。でもそのお陰で、今回の件に気が付くことが出来ました」

 

 初春は『ハーネスト事件』の後、サイトを完全に監視下に置いた。

 その上で再利用する事に決めた。

 表向きは犯罪サイトを運営しているように見せかけ、その実全ての情報を初春側で閲覧出来る様にする。

 そうすることで新たな犯罪の火種を摘む事が可能であると考えた為だ。

 

 その中で初春が注目したのは『薬』の売買だ。

 なんでも、どこかの製薬会社で大量に作られた薬品を、裏のルートから一般の人間に売買しているらしい。

 

「その薬品が、『スタンド使い』を生み出すと言う薬品、ですの?」

「そうみたいですね。掲示板のやりとりから推察するしかないんですが、その製薬会社は薬品の製造をストップしたらしいです。そして破棄する予定だった薬品を、所属する研究員が横流しして、アングラな方達に売買する」

「――そしてそれを一般の方々に高額で売りつける。と言う事ですのね。――それで、詳しい取引先は分かりましたの?」

 

 黒子の疑問に初春は「あくまで推測拠点に過ぎませんが」と、前置きして紙の資料を手渡した。

 

「これは?」

「彼らの取引場所と推察される地点のリストです。――ただ……」

「こんなに沢山あるんですの……」

 

 手渡された資料に目を通した黒子は、一瞬怯んだ様子をみせる。

 リストに含まれている地点は130。これだけの膨大な数の拠点を、一日やそこらで回ることは実質不可能だった。

 

「すみません……。暗号や仲間内で使うスラングがかなり含まれていて、関係拠点の絞込みがどうしても不十分にならざるを得なくて……」

 

 初春が申し訳なさそうな表情で黒子を見る。

 不十分なリストを手渡さざるを得ない現状に対し、彼女なりに責任を感じているのだろう。

 だが黒子は「これでも十分ですわ。さっそく行って来ますわね」と言い、初春の頭を撫でる。

 

「え……あ、あの……白井さん?」

「この中に本命があるのでしょう? だったら一つ一つ、虱潰しにしていくだけですの。

だからそんなにしょげる必要はありませんわよ」

「……はい、白井さん……」

 

 黒子の言葉を受け、嬉しそうな表情を浮かべる初春。

 そんな初春に向かい「では、朗報を待っていてくださいですの」と言い残し、黒子は颯爽と部屋を飛び出していった。

 

 

 

「――とはいうものの、まさかいきなり本命にぶち当たるなんて……。運がいいのか悪いのか分かりませんわね――」

 

 物陰に隠れながら、黒子は一人ごちた。発煙筒がたかれ、視界がまったく利かない中、黒子は痛む わき腹をさする――

 

 

 

 ――黒子が現場に到着したとき、そこには数人のガラの悪い男達と、気弱そうな男子学生が薬品の取引をしていた。

 廃ビルである建物の敷地内。

 「立ち入り禁止」が張られたロープをくぐり抜ければ、室内で言い争う複数の人間を確認できた。

 

「話が違うじゃないかっ。10万もってきたら薬を渡してくれるんだろ?」

「ああ、悪い。たった今値上げしたんだったわーー。後20万、それで薬を渡してやるよ」

「なっ!? ――だ、だったらさっき渡したお金を返してくれ!」

 

 どうやら取引と言うより、一方的に金だけをむしりとる恐喝や詐欺に近いようだ。

 抗議をし金銭を返還するよう求める男子学生に対し、男達は殴る蹴るの暴行を加えだす。

 

「ガハッ……。や、やめてくれ……。う、うでが……」

「止めて欲しけりゃ言えよ。『今から30万持って来ます』ってよぉ~~っ! ホラホラ、早く言わないと攻撃はどんどん強くなるよぉーー」

「そ、そんな。値段が違う……」

「そりゃあ、テメーが生意気にも楯突いた分だろーがッ! ゴミはしゃべるんじゃあねーッ! 金だけ吐き出せばいいんだよ!」

 

 攻撃を加える力がどんどん強くなっている。

 このままだと、男子学生を殺しかねない勢いだ。

 

「――いい加減にしなさいですのッ!」

 

 気が付くと、黒子は男たちの前へ姿を晒していた。

 意識的にでは無い。身体が勝手に動いていた。

 力のある人間が、無い人間に対し一方的に振るう暴力。

 そんな光景を見せられ、平然と警備員(アンチスキル)に通報出来るほど、白井黒子の感情は冷静には出来ていない。

 

風紀委員(ジャッジメント)ですの! あなた方を暴行傷害の現行犯及びに違法薬物売買の容疑で拘束しますの!」

 

 黒子は右腕の腕章を見せ付けるように突き出す。

 盾をモチーフとしたその腕章こそ、学園都市の正義の盾。

 弱きを助け強きを挫く、まさに彼女の意思の具現化そのもの!

 

「はっ! 誰かと思えばちんまいガキが一匹ご登場か。あんまり寝ぼけた事いってっと犯すぞコラァ!」

 

 地面に唾を吐きながら、男が黒子に吼える。

 詰め寄り肩口を掴み、その場に押し倒そうとする。

 

「――残念ですが……」

「ハレッ!?」

(わたくし)が純潔を捧げるのはお姉さまだけと決めていますの」

 

 何がおきたのか分からなかった。

 黒子の身体に触れたと思った瞬間、男の身体は反転し地面に頭部ごと叩きつけられていた。

 

「て、テメェッ! よくも!」

 

 地面に叩きつけられ白目を向く仲間の姿を前にしてもう一人の男は激昂し、ナイフをとりだす。

 だが――

 

「い、いない!?」

 

 一瞬だった。懐に手を伸ばす際に目を離した瞬間に、黒子の姿は忽然と消えていた。

 

「後だッ、女は後にいるッ!」

「ヘッ!?」

 

 冷静に状況を見極めていた最後の一人は、うろたえる男に声をかけるがもはや間に合わない。

 声に反応するより先に、後ろに回りこんだ黒子の回し蹴りによって男は意識を失っていた。

 

「あとは、貴方だけですわね」

 

 地面に無様に倒れこんだ男達。それをを横目に見ながら、黒子は最後に残った男に声をかける。

 

「…………」

 

 男は何も発しない。余裕のつもりか、タバコをふかしながらニヤニヤと黒子を見ている。

 オールバックの茶髪に両耳にピアス。黒のタンクトップという出で立ちの男からは、先程の不良達とは違う凄みを感じる。恐らくコイツがここを取り仕切っているボスなのだろう。

 

「なるほど、空間移動(テレポート)か。そりゃぁコイツ等には荷が重過ぎる相手だわなぁ。俺自身も始めてお目にかかったぜ」

「何、他人事のようにおっしゃってますの。次は貴方がこうなる番ですのよ」

 

 男は「フーー」っと煙を吐き出しながらピンッとタバコを黒子の目前に弾く。

 

「そうやっていつでも正義感ぶりやがって。今までの俺達はお前等風紀委員(ジャッジメント)の影にビクつきながら商売するしかなかった。だがよぉーー、それはもう(しめ)ぇだ」

「!? なんですの? 煙が?」

 

 煙の揺らぎがおかしい。

 明らかに風の流れにそぐわない動きで黒子を取り囲む。

 この動きは明らかに能力によるもの。

 しかし学園都市の書庫(バンク)には登録されていない能力。

 という事はこの男も『ハーネスト』と同じ――

 

「スタンド……使いッ――グゥッ!?」

 

 黒子がこの煙から脱出しようとした瞬間、わき腹に強い衝撃を受ける。

 見えない何かに蹴りを受けたように、横っ腹に強烈な一撃を貰う。

 その反動で黒子はビルの壁まで跳ね飛ばされ、激突する。

 

「ゲホッ、ゲホッ――」

 

 わき腹を押さえ、よろめきながらも立ち上がる黒子。

 痛みが引かず、呼吸も乱れ、額からは脂汗が滴り落ちる。

 どうやら先程の一撃で肋骨にひびが入ったらしかった。

 

「良い感触だ。骨の二、三本くらいイッたかもなぁーー」

 

 男が笑いながら黒子へと近付く。

 

「もうレベルだのなんだので区別される事もねぇ。これからは『スタンド』ッつー新たな能力がこの学園都市を台等する。分かるか? え? お前等能力者の時代は終わりなんだよぉーー!」

 

 煙が再び黒子の周りを取り囲む。

 しかし分かるのはそこまでだ。

 攻撃が何処から来るのか。

 どんな攻撃がやってくるのか。

 スタンドという通常の人間には視る事が出来ない能力を前にして、黒子はあまりにも無力だ。

 

「お前は手始めだ! 俺のスタンド『スモーク』でお前等糞風紀委員(ジャッジメント)を全員嬲り殺しにしてやるよぉ~~ッ!」

 

 迫り来る煙。

 加えられる見えない攻撃。

 その絶対的な絶望的状況に対し、それでも黒子は諦めない。

 瞳の奥に強い意志の力を宿らせ相手を、煙を、そしてスタンドを視る(・・)

 

「なんだとッ!?」

 

 男は驚愕する。

 自分の『スモーク』が加える蹴りの一撃を、黒子は紙一重で避けたのだ。

 ありえない。『スタンド』を視る事が出来ない一般人が『スタンド』の攻撃を避けることなど絶対に。

 だが現に黒子は『スモーク』の蹴りを交わし、尚且つ煙から逃れ、自分と間合いを取って対峙している。

 これは一体どういうことだ?

 

「――あまり……学園都市の……科学力を舐めないで欲しいですわね……」

 

 黒子が息を切らしながら男に言う。

 その顔に男は違和感を覚える。いや、正確に言うと黒子が顔に装着しているモノに違和感を覚えている。

 

「眼鏡……?」

 

 左わき腹を押さえ息も絶え絶えな表情でこちらを見据えている黒子の顔には、先程までなかった眼鏡が装着されている。

 この眼鏡をかけてから『スモーク』の攻撃をかわし出した。

 

「その眼鏡……特注品(・・・)か。成る程、精一杯の悪あがき(・・・・)ッてトコか?」

「あなたに……答える義務がありませんわね」

 

 そういって黒子は空間移動(テレポート)で物陰に隠れる。

 だが跳躍の距離があまりに短い。

 5mの単発跳躍を繰り返し、どうにか物陰に隠れた。

 男の目にも黒子の空間移動(テレポート)の不自然さがありありと見て取れる。

 

「どうやら欠陥品らしいなぁ。そのアイテムはよぉ~~」

 

 男が笑う。その上で懐から何かを数本取り出す。

 それは発炎筒だった。

 手にした発炎筒は4つ。それら全てを点火させ、黒子が隠れた辺りに投げ入れる。

 たちまち鮮やかな赤い炎が周囲を覆い始める。

 

「とはいえテメーが空間移動能力者(テレポーター)である以上、迂闊に近づくのは危険だ。最後っ屁ってのがあるかもしれねぇしよぉ~~。煙が辺りに充満するまでゆっくりと待つ事にするよ。俺はよぉ~~」

「ハァーー……ハァーー……」

 

 痛む脇腹を押さえながら、黒子は物陰から様子を伺う。

 その上で反撃の手を考える。

 

「この眼鏡……、『スタンド』が視えるようになるのは良いですが、反動が強すぎですわ。頭痛のお陰で演算がうまく働きませんの」

 

 黒子は耐え切れなくなり眼鏡を外す。

 

 ――この眼鏡は警備員(アンチスキル)から譲り受けた試作品である。

 『ハーネスト絡み』の事件以降、『スタンド能力』を悪用した犯罪は増加傾向にあった。

 その殆どが、「見えない何かに体を触られた」とか、「知らない間にサイフを取られていた」、あるいは「誰かに小突かれた」。――といった立証するには難しい軽犯罪ばかりだったが、警備員(アンチスキル)側では将来的に重大犯罪に拡大する恐れ有りとして『スタンド能力』に対抗する手段を模索し始めた。

 この眼鏡はその過程で作られた試作品である。

 製作に辺り、被験者に選ばれたのは『ハーネスト』こと関谷澪吾であった。

 病室にて未だ意識不明(今後も目覚める事は無い)である関谷の身体を解析することで完成したこの眼鏡。

 サンプルとして複数の風紀委員(ジャッジメント)に支給されたが、評判は芳しくない。

 むしろ最悪の部類に入った。

 

「そりゃそうですわね……。スタンドを視る為にアイテムを開発したのに、肝心の(わたくし)自身にダメージがあるんじゃ、現場じゃまったく使えませんわ」

 

 開発者曰く、――本来視えないはずのものを無理やり視える様にしているんだから、脳への反動はあってしかるべきだ――と。

 結局の所、急造品は急造品に過ぎないと言う事だ。

 

「とはいえ現状ではこれが生命線。うまく使いこなして窮地を脱しないと――」

 

 その為にも、この場にいてはいけない。

 煙が完全に充満する前に離れなくてはならない。

 チラリと上に続く階段を視界に納める。

 

「止む終えませんわね。ここは一度体勢を立て直すべきですわ」

 

 黒子は意を決して階段まで走り、上の階層へと退避する事にした。

 

 その様子に気づいた男はしかし、あえて追わなかった。

 

「――逃げろ逃げろ。そのまま逃げれるモンならなァ! テメーが死ぬまで続く鬼ごっこの開幕だぁ!」

 

 男は高らかに笑いながらゆっくりとした足取りで黒子の後を追った。

 

 

 

 

 

 階段を上り二階へと到着する。

 恐らく取引場所であると同時に、男達のアジトなのだろう。壁には自分達の存在を主張するかのごとく、ウォールペイントが一面に描かれている。

 その悪趣味な落書きを素通りして、黒子は身を隠す場所を探す。

 それと同時に黒子は男のスタンド特性を考える。

 

「十中八九、あの能力は煙を媒介にしたスタンド……。射程距離は恐らく煙の届く範囲――。という事は煙の充満しやすい建物内に留まるのは危険ということになりますわね」

 

 男のスタンド・『スモーク』。

 全身に煙を纏った化け物――と言うのが初見での黒子の感想だ。

 ふわふわとした概観に反し、攻撃をする際の力は強い。

 おまけに動きも俊敏だ。

 まともに遣り合って勝てる可能性は現時点では難しいと言うほかないだろう。

 

 ズキン。

 こめかみの辺りに鈍痛が奔る。

 先程からまるで脈を打つように鈍い痛みが続いている。恐らく、使用した眼鏡の後遺症だ。

 

「――まったく。このままでは満足に空間移動(テレポート)出来るのか怪しいものですわね」

 

 開発者の人間には後で苦情を言わないと――などと心の中で毒づきながら、逃走ルートを模索する。

 今の自分のコンディションでは精々5mの跳躍が限界だ。

 という事は外部に脱出するには、窓際付近まで近づかなくてはならないと言う事になる。

 しかしそれを敵が許してくれるとは到底思えない。

 

「でもこのまま何もしなくては確実にやられますの。一か八かの賭けにでるしか――」

 

 その時遠方でガシャンとガラスの割れる音が聞こえる。

 一回。

 二回。

 三回。

 続けさまに響き渡るガラスの砕ける音。

 やったのは恐らくオールバックのあの男だ。

 だが何故?

 外部から入ってくる空気を頬に受け、黒子は怪訝な表情を浮かべる。

 

 ――空気?

 

 その時になって黒子はようやく男の行動を理解した。

 外部から漂う風に乗って、煙の渦が急速にこちらに接近しているのだ。

 窓ガラスを割り、風の通り道を作り、その上で発炎筒をたく。

 その速度は無風状態の数倍。男は一気にたたみ掛ける気のようだ。

 黒子は急いで眼鏡を装着し、視る。

 

「――――ッ!?」

 

 目前だった。スタンド繰り出すストレートが黒子の目前まで迫っていた。

 反射的に黒子は身体を屈ませ、攻撃をかわす。

 そのしゃがんだ体勢から振り向きざまに鉄芯を『スタンド』に向け飛ばす。

 

「くッ、やはり効果なしですわね――」

 

 鉄芯は『スタンド』をすり抜け、近くの壁にめり込む。

 物理攻撃ではスタンドに傷一つ付かせられない!

『スモーク』はそのまま悠然と黒子の方へと近づいていく。

 黒子は距離をとるため一歩、二歩と後ずさる。

 

「オラァッ!」

「――グッ!?」

 

 背後から強烈な衝撃を受け、前のめりに倒れる。

 しまった――

 黒子は自分の浅はかさに後悔した。

 『スタンド』に気を取られるあまり、後方に注意が向いていなかった。

 自分の死角に回り込んだ膝蹴りに反応が遅れてしまった!

 

「テメーの相手はスタンドだけじゃあねぇ。俺自身もなんだぜぇ?」

「うっ……くっ……」

 

 男の薄ら笑いを背後に聞きながら、黒子は空間移動(テレポート)で姿を消す。

 天井が一部落ち、破片がパラパラと地面に落ちる。

 

「ははははっ、鬼ごっこをまだ続ける気かよぉ! いいぜいいぜ! 何処まで逃げれるかやってみなよぉ! 飛べなくなった時がテメーの最後だぁ!」

 

 男は黒子が逃げた上の階層へ、狩りを愉しむ狩人の様な目つきで上っていった。

 

 

 

 

「く……ううっ……」

 

 連続空間移動(テレポート)で5階へと逃れた黒子は、いよいよ立っていられなくなりその場に膝を付く。

 先程から鳴り響く頭痛や耳鳴りは平衡感覚を大幅に狂わせ、黒子から立ち上がる気力を奪っている。

 痛む脇腹を押さえながら、黒子は壁に寄りかかる。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……このまま、ここにいる事は出来ませんわ……。物陰に隠れなくては……」

 

 乱れる息を整え、黒子は壁を支えにして何とか立ち上がる。

 このままでは”いい的”だ。壁伝いに、隠れる場所を求めて歩き出す。

 男は、必ずここに来る。そして黒子を嬲り殺すつもりだろう。

 風紀委員(ジャッジメント)にずいぶんと恨みを抱いている口ぶりだったし、この手の輩は”止めは自分が”と思うのが常だからだ。

 

「確か……以前に仗助さんが仰っていましたわね……『スタンドを倒せるのはスタンドのみ』、と」

 

 息も絶え絶えの黒子が思い出したのは仗助の言葉。

 口に出すのも憚られる「白ワニ」事件の後、確かに仗助とそんな話をした。

 

 ――いいか白井。どんなモンにもルールっつーもんはある。野球やサッカーでもそうだろ? 守らなきゃいけねぇ、縛られて然るべきルールッつーモンが存在する。スタンドだってそうなんだぜ。一般の人間に、スタンドは触れられねぇし、視る事もできねぇ。それがこの世界のルールだ。この理は覆せねぇ――

 

 その後あんまり癪だったからつい皮肉交じりの返答をしてしまったが、今ではそれが真実だと実感できる。

 スタンドそのものに、黒子は触れることすら出来ない。

 だとしたら――そんな『一般人』の自分が、それでも勝利を収める可能性があるとすれば……

 

「――本体を、あの男を直接叩くしかないということですわね」

 

 その方法はまだ分からないが、それでもあがき続けなければ確実に殺されるだろう。

 だから諦めず抗い続ける。絶望に飲み込まれない。

 チャンスとは絶望のその先に必ず訪れると信じているから。

 

 数分ほど移動した先に扉が見える。身を隠す事が出来るだろうか――。黒子は扉を開き中を覗く。

 

「これはまた……、ずいぶんと悪趣味な部屋ですわね……」

 

 部屋を見た黒子の目に最初に飛び込んできたのは虎柄のカーペットだった。部屋の半分を占めるそれは否が応でも視界に入り、見る者を威圧する。

 辺りには4,5枚の全身鏡が置かれ、中央に設置された長方形のテーブルには手錠や注射器、コンドーム、果てはロープまで置かれていた。部屋の奥に控える安物のベッドから連想しなくても、ここが”そういう”目的で使用する部屋だと言う事は容易に想像がついた。

 いつもならこのような下品な部屋、見るのも遠慮したい所だが、今回ばかりは違う。

 部屋の様相を見て、黒子にはある妙案が浮かんでいた。

 

「勝率は五分五分……といった所ですわね。運命を確立に委ねるやり方はあまり好みではありませんが、それでもやらなければ確実なゼロですものね……。やってやりますわよ」

 

黒子は痛む身体に鞭を打ち、反撃の為の準備を進めていった。

 

 

 

 

「――クククッ、聞こえるぜ。オメーの足音がよぉ」

 

 男は悠然とした足取りで黒子のいる階層を目指す。

 この廃ビルは男達の溜まり場として日頃からよく使用している。だからよく響き、上で誰が何処の位置にいるのか丸分かりということも知っている。

 

「この感じだと、5階だな。移動して物陰に隠れてやり過ごすつもりか? 浅知恵だな」

 

 男は5階に到着するなり残しておいた全ての発炎筒を取り出し、フロアに放り投げる。

 今度は窓は破壊しない。

 じっくりと、煙が室内中に充満するまで待つ。

 男のスタンド『スモーク』の特性を十二分に発揮させる為だ。

 

『スモーク』は、煙を媒介として活動する事が出来るスタンドである。

 煙がある所ならどんなに遠く離れても活動できる反面、距離が離れるとそれだけパワーも落ちるという弱点もある。また、視覚情報を共有出来ないタイプのスタンドである為、遠隔で操作する場合は単純な命令しか与えられない。

 だが今回はそれでいい。

 相手は既に死に体の小娘一人だ。簡単にねじ伏せられる。

 だから男が『スモーク』に命令したのはたった一言。

 

「――この階にいる俺以外の人間を探せ」

 

 それだけ伝えると、『スモーク』はすぐに命令に従った。

 煙の充満したフロア。そこは『スモーク』の独壇場だ。

 煙だから質量を持たない。

 煙だからどんな隙間にだって侵入できる。

 だからどんな場所に隠れようと発見できる。

 現にものの数分で『スモーク』は目的を達成し、男の元へと戻る。

 体内へと戻り、自分の体感した情報を男に伝える。

 

「なに、二人?」

 

 しかしそこで男は眉を潜める。

『スモーク』が男に伝えた人数は二人。

 いずれも違う部屋にそれぞれ身を潜めている。

 

 一人は息も絶え絶えな女。

 もう一人は女より一回り若い子供。

 前者は黒子に間違いないだろうが、もう一人の子供とは誰だ?

 

「どういうことだ? 馬鹿なガキが迷い込んだか? 女の仲間とも思えねぇし」

 

 ――まあいい、子供は後回しだ。

 連携を取るつもりも無い様だし、仲間なら一緒に始末すれば良いだけの話だ。

 とにもかくにもまずは女からだ。

 男はそう考え、黒子が潜んでいる部屋の一室に直行した。

『スモーク』の見た情報からすると、既に動けないくらい衰弱しているらしい。

 だが油断はしない。

 念には念を入れて最終確認だ。

 

 部屋の一室に到着する。

『スモーク』に扉を開けさせ最終確認。部屋の内部を調べさせる。

 充満する煙漂う一室。そこに黒子はいた。

 ベッドの上に横たわり、動く気配は無い。

 やはりあの眼鏡には致命的な欠陥があり、黒子は思いのほか消耗しているらしい。

 

「はぁ……、はぁ……、はぁ……、はぁ……」

 

 青白い顔を浮かべ、荒い呼吸を繰り返しているこの様子、決して演技ではない。

 もはや動く事も困難。

 ここに至り、男はようやく勝利の確信を得る。

 部屋へと入り、黒子に話しかける。

 

「くくくくっ。鬼ごっこの終点がベッドの上とは、なんともしまらねぇ話だな、オイ。しかも俺らが女を輪姦(まわ)すベッドでおネンネたぁ」

 

 一歩一歩、じわりじわりと歩を進める。

 

「獲物を追い詰める瞬間ってぇのはいつもこうだ。(いき)り立っちまってよぉ~~。収まりがつかねぇんだわ」

 

 男の顔つきが狩人のものからから下卑た狼のものへと変化する。明らかに黒子に対し劣情を抱いている表情だ。

 

「丁度いい。死ぬ前にお楽しみと行こうぜ……。いい声で鳴いてくれたらよぉ~~、それだけでイッちまうからよぉ~~」

 

 男がさらに一歩歩を進める――その時、荒い息を吐いていた黒子がようやく口を開く。「――先程も言いましたわよ」上体を起こし、男と対面する。「(わたくし)が純潔を捧げるのは、お姉さまだけだと――」

 

 男は今更何が出来るとタカをくくり、また一歩足を進める。――が。

 

「なっ!?」

 

 感触がおかしい。この地に足が着かない感覚は?

 激しい違和感を覚えると同時にカーペットが大きく沈み、勢いをつけ踏み込んだ男の体を飲み込んでいく。

 

 よく見るとカーペットに長方形状の大きな切込みが入っている。

 そしてカーペットの下は、『空洞』。

 黒子の空間移動(テレポート)で床を長方形状に切断し(切断に使用したのは全身鏡)、大きく開いた穴の上に、同様に切断したカーペットを置いただけのこれは――

 

「――お、落とし穴ァーーーー!?」

 

 男の体が重力の法則に従い、落ちる。

 穴の先に見えた床が、急速に近づいてくる。

 ――と、同時に。

 胴体を何かに拘束され、宙吊りになる。

 

「この部屋のロープ。拝借させていただきましたわよ」

「グアッ!」

 

 胴体を締め上げられた体にのしかかる人物は――黒子。

 黒子は拘束された男の背中に両足で立ち、全体重をかける。

 

 二重トラップ。

 切断したコンクリートの上にロープを輪の状態に結び配置。その上にさらにカーペットをかぶせカモフラージュしたのだ。(ロープの先端は空間移動(テレポート)で部屋の壁に楔として埋め込んだ)

 二人分の体重を乗せてギリギリと軋むロープ。

 男の死角に完全に回りこんだ黒子は男の後頭部をトントンと叩く。

 

「――さて。このままスタンドで(わたくし)を攻撃なさってもよろしいですが、その場合、間違いなく貴方の体のどこかに鉄芯が埋まると言う事をお忘れなく」

「や、ヤメロッ、揺らすなっ、お、落ちるーーッ!?」

「失敬な、そこまで重くありませんわよ」

 

 明らかに取り乱す男の様子を見て黒子は理解する。

 

「――なるほど、高い所はお嫌いなようですわね」

 

 黒子の話などもはや耳に入らないくらい青ざめた表情をした男。――に対し、黒子はにっこりと微笑むと、男の後頭部に強烈なけりを入れた。

 

「がはっ!」

「――念には念を。スタンド能力を完全に無力化させていただきますわ」

 

 黒子の一撃を受け意識を失った男は、そのまま宙吊りにぶら下がる蓑虫と成り果てた。

 

「……これで……ひとあんし……」

 

 男を完全に沈黙させたことで気が緩んだのか、黒子はそのまま力なく崩れ落ち、地面へ。

 そのまましこたま背中を打ち付ける。

 

「~~~~~~~~っ!」

 

 あまりの衝撃に一瞬息が出来ない。5階から4階へと落下した衝撃はそれだけ強いものだったのだ。

 

「か、かはっ……」

 

 数秒した後かろうじて短い咳を吐き、なんとか呼吸を確保する。

 もはや起き上がる気力も無い。

 全身に力は入らず、意識は朦朧とし、頭はガンガンと鳴り響く。

 事実上戦闘不能状態だ。このまま連絡した警備員(アンチスキル)が到着するまで待つのが妥当な判断だろう。

 黒子はそれまで体力の回復に努めることにした。

 目を閉じれば自然と意識が途切れてくれる。

 

 ――次に目覚めたときは病院のベッドの上かもしれませんわね。

 

 そんな事を考えていると不意に音が聞こえてきた。

 

 ――タタタタという階段を下ってくる足音。

 幻聴だろうか。黒子は自分の耳を疑った。

 明らかにこの建物には不釣合いの子供の軽妙な足音が聞こえるのだ。

 やがて音の主は黒子の前へ姿を現した。

 

「やはり……子供。でも、なんでこんな所に……?」

 

 というか何故にゴスロリ? と黒子は一瞬自分の状態を忘れ、唖然とした表情を浮かべた。

 黒を基調としたゴスロリ服を身に纏った少女が、同じく黒いレザーのリュックに両手をかけて、こちらを見つめていた。

 子供特有の無表情さで視線を送る様は、何を考えているのか分からない一種の不気味さがあり、黒子は警戒心をあらわにする。

 

「あなたは一体……誰ですの……。どうして子供が、こんな場所に……」

 

 可能性を黒子は二通り考えた。

 一つは男達に誘拐・監禁された可能性。しかしそれにしては怯えた表情も見えないし、着衣の乱れも無い。

 何より拘束もされていないのはおかしい。

 という事はもう一つの可能性、偶然迷い込んだということだろうか?

 だが黒子は、はたと気づく。

 

(ここは4階ですの)

 

 という事はこの少女はずっと5階より上の階層で身を隠したということになる。

 ありえるのだろうか? そんなことが。男達の目をかいくぐり、身を潜める事がこの年端の行かない子供に。

 そんな事が可能なのは黒子と同じ空間移動能力者(テレポーター)かそれ以外の能力者(例えば視覚阻害(ダミーチェック)など)しかありえない。それもレベル3以上の能力者に限られる。

 つまり、この少女は既存の能力者ではなく――

 

「ひょっとして……あなたは……スタンド使いですの……?」

 

 黒子は恐る恐る尋ねてみる。しかし少女は答えない。代わりに腰まである長い金髪を揺らして、こちらに近づいてくる。そしてポケットから白い玉を取り出すと、おもむろに黒子の口の中にねじ込んだ。

 

「むがっ!? な、なんですの……って甘っ」

「……あめだまちゃん。はやくげんきになりますよーに、あげる」

 

 子供らしい舌足らずな口調で、少女は言うと、今度はリュックから画用紙と鉛筆を取り出し何やらスケッチし始めた。この場に不釣合いな鼻歌交じりで。

 

「ふんふんふんふ~~ん♪」

「あ、あの……あなた、どうやってこんな所に来ましたの? ていうか、お一人?」

 

 ガリガリと少女から貰った飴玉をかじりながら、黒子が尋ねる。とりあえず敵では無いようなので、色々と知りたい事が頭を擡げてきたのだ。

 

「いわな~~い♪ だって知らない人としゃべっちゃだめって、ママ言ってたもん」

 

 少女は「できたっ」と言って画用紙を掲げる。

 10歳前後の少女が書いた画用紙の中身は、はっきり言うと何をモチーフにしたものか黒子には判別が付かない。 黒く塗りつぶした楕円形に足らしき棒が5つ、そして首のようなもの。犬だろうか?

 

「きりんさん~~♪ いろんなばしょにフェブリをつれてってくれるの~~」

 

 思わず「キリンかい!」と突っ込みを入れてしまいそうになるが、そこから黒子の表情が変わった。

 

「え? なんですの!?」

 

 フェブリと名乗った少女の書いた絵が、自称・キリンの絵が、もぞもぞと動き始めた。

 そして、画用紙の中身からぴょんと自ら飛び出したのだ。

 まるで生命を吹き込まれたかのようにフェブリの足元に擦り寄るそれを、黒子は信じる事が出来なかった。

 

「いくらなんでも、これは出鱈目すぎますわ……」

 

 生まれて始めて手品を見たときでさえ、黒子はこんなに衝撃を受けることは無かった。

 むしろきっと裏がある! 謎を解明してやる! と躍起になって手品のタネを探しまわったものだ。

 だが、これは違う。タネなど無い。現実でありフェブリの能力だ。

『絵に描いたものを具現化させる能力』と言えばいいのだろうか。

 にわかには信じられないその能力を目の当たりにして、黒子は思わずこめかみに手を当てた。

 

「痛みが……ない……」

 

 もう驚きつかれたと思った黒子だったがここに来て自身の体に起きた変化に再び驚きを隠せなくなる。

 先程まで耳鳴りまで聞こえ出した酷い頭痛が、男に蹴られたときに負傷した肋骨の痛みが、綺麗さっぱりに無くなっているのだ。まるでRPGで状態異常と体力をいっぺんに回復して貰った時の様な爽快感。

 

「ひっとして、これは貴方が――!?」

 

 その正体がフェブリから貰った飴だと判明した時、彼女の姿は既に無かった。

 一瞬だ。

 一瞬目を放した隙に、フェブリもキリンも始めから存在しなかった様に、綺麗さっぱりその存在が消えてしまっていた。

 

「…………」

 

 警備員(アンチスキル)到来のサイレンが遠方で聞こえる。

 その音を聞きながら、黒子は報告書にどうやってこの事を記載しようか頭を悩ませるのであった。

 

 

 

 

 

 ――夢を見ていた。

 ――だが、その内容は忘れてしまった……。

 

 酷く曖昧で薄汚れて、鮮血に染まった赤の記憶。

 それが何なのか考えようとするが、時間の経過と共にそのおぼろげな記憶すら忘却の彼方へと押し流されていく。

 夢とは脳に刻まれた記憶の断片に想像を加えたものであると言う論文を読んだ事がある。

 で、あるなら先の記憶のイメージはオリジナルの(・・・・・・)草薙カルマ(・・・・・)のものということか……

 彼が生前何を思っていたのか、断片的な記憶しか持たない自分では判別不明だ。

 ――だが、彼の成そうとした事、その執念と言うべきものは記憶に刻まれており、自分はその通りに行動しなければならないという確信がある。

 何故なら(・・・・)自分もまた(・・・・・)草薙カルマ(・・・・・)という人間(・・・・・)なのだから。(・・・・・・)

 

『草薙』が覚醒した時、そこは透明なガラスケースの中だった。

 視界は黒く。何かで遮られている。

 頭部を覆うこのヘッドギアの感触――草薙はそこでこの装置が学習装置(テスタメント)である事を、『草薙』の記憶から引き出した。

 

 学習装置(テスタメント)

 脳内に知識や記憶を電気的に埋め込む装置。

 この場合、『草薙』の記憶と人格を空の器である『草薙』へ埋め込んだといった方が正しいだろう。

 

 直前の記憶はない。

 自分が何処に出向いて、誰にやられたのか、そこまでは入力されていない。

 仮に入力出来たとしても、組織がそれを許さないだろう。

 自分達に不利になるような情報は、草薙には与えられない。

 与えられるのは大幅に制限された情報だけである。

 

(……確か、計画が最終段階に入った後の事後処理を行う予定だったはずだ。私の最後の記憶では……。そこで途切れているという事は私が不慮の事故で死んだか、殺させた。もしくは、組織の意に沿わない行動をした事による制裁を加え得られたか――)

 

 草薙の体内には爆弾が仕込まれている。

 それは組織側が取り付けた安全装置のようなもので、もし草薙が反乱を起こそうとすればボタン一つで体細胞を瓦解するようプログラミングされているのだ。

 

「……気が、付いたようだね」

 

 自分に声をかける存在に気づき、学習装置(テスタメント)を外す。

 照明の眩しさに思わず目を細めるが、モノの数秒も立たずに慣れてきた。

 そして声の主が視界に納まる。

 どこか憔悴しきった様子の車椅子の老人・鏑木。

 それが新生・草薙が目にした最初の光景だった。

 

「なにが……あったのですか?」

 

 自分の事を文字通り消耗品として使い潰すつもりの鏑木に、情を覚えるはずも無い。

 だが普段目にしているあのふてぶてしい態度とは縁遠いその様子に、草薙は違和感を覚え声をかけた。

 とりあえず現状を把握する必要があると判断しての事だった。

 

「……フェブリが……消えた。あの女共々、跡形もなく消え去った……。私の計画の要がっ。夢がっ。希望がっ! も、目前にまで迫っていたと言うのに……っ」

 

 鏑木はワナワナと両手を震わせ、ついでに口元すら歪ませ、草薙の入っている強化カーボン製の装置に手をかける。視界一杯に鏑木の手形がくっきりと映る。

 

「探してくれっ。フェブリを! 君ならその算段くらい簡単につけれるだろう? その為に君を復元させたのだ!

お礼に君の爆弾は取り除いてあげるから……っ!」

 

(――フン……)

 

 取り乱し、狂乱し、利用していた人間にすら平気で媚び諂う。

 外の鏑木とは対照的に、容器内の草薙は徹底的に冷めた感情で物事を見つめていた。

 

(――まったく、目が覚めたと思えばこんな無様な人間の醜態を見せ付けられるとはな……。だが、これはチャンスでもある。フェブリ失踪の混乱に乗じ、うまくこの男をコントロール出来れば、私の目的も遂行できる。ここは状況を利用するべきだ)

 

「いいでしょう。まずは詳しい情報を下さい。その上で作戦を練りましょう」

 

 これは撒き餌だ。

 信頼させ、油断させ、近づいた所で喉元へ食らい付く為の。

 

「ですがかなりの予算を食いますよ? なにしろあの子は特別だ。早急に回収する必要がありますからね」

「かまわんっ。金など幾らでも使えばいい! 全ての財を投げうつ覚悟だってある。だが、それもフェブリが戻らなければ……」

「では一部指揮権の譲渡と予算の確保を。どうせこの世界に未練など無いのでしょう? ならば出し惜しみせずに使い切るべきだ」

「うぐぐぐ……」

「フェブリの管理を任されていたのは貴方だ。その貴方がこれだけの失態を犯したのだ。それをテレスティーナが見逃すはずも無い。――土下座して許しを請えば失態の帳消しになるとでも? どの道貴方は更迭され、全てを失うのです。ならばその前に打てる手を全て打つべきだ」

 

 鏑木老人は髪の毛を掻き毟りながら散々考えあぐねた挙句、「――分かった……。君に委ねよう」と力なく答えた。

 

 ――喰いついたっ!

 

 心の中で草薙は笑みを浮かべた。

 

 ――ディオ(DIO)様……。もう幾ばくかもせぬ内に、私はあなたの一部となります。私の肉体をもって、貴方をこの世界に顕現させましょう。供物に収めるにはあまりにも安い我が肉体ですが……どうかお納めを。そして絶対的なる貴方の理想郷を創造して下さい。

 

 草薙は目を閉じ、そっと祈る。

 神になどではない、彼が信じる神ディオ・ブランドーにだ。

 恐怖心は無い。

 あるのはやり遂げると言う絶対の意思のみ。

 焦りは無い。

 あるのは圧倒的な心の平静。

 

 やがてハッチの蓋が開閉される。

 

「…………」

 

 ここから巻き返しだ。

 草薙は上体を起き上がらすと、ゆっくりとした足取りで装置から地上へと足を下ろした。

 

  

 

 

 


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