ポケットモンスター虹 ~ダイ~   作:入江末吉

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VSジャラランガ ココロノート②

 テルス山の中腹、バラル団の活動によりヒードランが火を放った方がサンビエタウン側。そして、今ダイとコスモスがいるのはラジエスシティ側であった。

 火の手はここまで届かなかったらしく、木々は青々と茂っている。そんな中、一際存在感を放つ天を穿つほど高く聳える木を背にコスモスは対峙するダイを見つめていた。

 

 対するダイは既に息も絶え絶え、全力で肩の呼吸を行っていた。髪の毛は湿気で尽く垂れ、額からは滝のような汗が伝っている。

 

「もうおしまいですか?」

 

「はぁ……はぁ……ま、まだまだ……!」

 

 ダイの近くでは、彼と同じように手持ちのポケモンたち全てが膝を突くなり項垂れるなりして、同じように肩を喘がせている。

 だが誰もまだ戦意を喪失してはいなかった。ダイが頬を打つと、それに感化されたジュカインが、ゲンガーが、ゼラオラが、ウォーグルが、ゾロアが、メタモンが起き上がる。

 

 対峙するのは全身を硬質の鱗に包んだうろこポケモン"ジャラランガ"だった。それも二匹のジャラランガが今ダイたちの目の前に立っている。

 驚くべきことに、ダイは手持ち六匹全てで掛かってもこの二匹のジャラランガに軽々とあしらわれてしまったのだ。

 

「ジュカイン! ゲンガー!」

 

 呼ばれた二匹が突進する。ゲンガーが【シャドーボール】と【ヘドロばくだん】を放ち、先攻するジュカインを援護する。

 

「"パシバル"」

 

 そう呼ばれたのは、コスモスの左に立つジャラランガだった。ジャラランガ──パシバルは地面を勢いよく蹴り、前に出る。

 パシバルは正面から遅い来る闇色の魔球と毒素の塊を正面から受ける。どちらもゲンガーのタイプと一致する技、高い特殊攻撃のステータスも相まって直撃したなら大ダメージは避けられない。

 

 ──本来なら。

 

「【ドラゴンクロー】!」

 

「【どくづき】」

 

 ジュカインが龍気を腕に纏わせてそれを振り下ろす。それに対し、パシバルはなんともなかったかのように突っ込んできた。特性"ぼうだん"の効果により、ゲンガーの二つの攻撃はパシバルには効果を及ぼさない。

 それだけではない、ゲンガーが放った【ヘドロばくだん】をそのまま受け止め、手に毒素を纏わせるとそれをそのままジュプトルの急所へと叩き込んだ。突然の鋭い痛みにジュカインが目を白黒させる。

 

 全く防御せずに、鋭い攻撃を放つことで相手の攻撃を中断させるなど並の鍛え方では出来ない。だがジュカインもそのままやられているわけではない、ノックバックを利用し遠心力を乗せた【アイアンテール】をパシバルの側面へと叩きつける。ぐらり、とパシバルの身体がよろめいた。

 

「【りゅうのまい】」

 

「ッ、やらせるなゲンガー!」

 

 ゲンガーが【シャドーパンチ】でワンツーラッシュを行うが、パシバルは的確に攻撃を防ぎつつ自身の攻撃と素早さのステータスを高めた。

 そのままジュカインを抜き去り、ゲンガーの懐に飛び込んだパシバルはゲンガーの腕を掴み、大きく頭の上で振り回した。【ぶんまわす】攻撃でそのまま地面に叩きつけられ、ゲンガーが戦闘不能に陥る。

 

「くっ、ジュカイン!」

 

 倒したゲンガーを睥睨するパシバル目掛けてジュカインが飛び込んだ。一発だけ攻撃を当てるとジュカインは地面を蹴り、周囲を取り囲む木々に身を隠した。

 如何に【りゅうのまい】で素早さを上げていようとも、森林というフィールドでジュカインを上回る速度を出せるポケモンなどそういない。

 木々を使って姿を隠しながらジュカインがパシバルを翻弄する。だが、このフィールドにはもう一匹のジャラランガ"エストル"がいる。

 

「【スケイルノイズ】」

 

 コスモスの右手に控えるジャラランガ──エストルは全身を揺すりながら身体中の鱗をすり合わせ、その音を乗せて咆哮する。フィールド全体を揺るがす嫌な音は木のてっぺん付近に隠れていたジュカインをあぶり出した。

 

「ウォーグル! ジュカインを援護だ!」

 

 ダイはウォーグルをジュカインの元へと急がせた。飛翔したウォーグルが空中に放り出されたジュカインをエストル、パシバルの両方からカバーするように翼を拡げた。

 

「パシバル、【スカイアッパー】」

 

 だがパシバルはそれを見越して、エストルを足場にして跳躍。身体を捻りながら渾身の【スカイアッパー】でウォーグルとジュカインを同時に打ち抜いた。

 空中で受ける【スカイアッパー】は二匹に大ダメージを与え、ジュカインは先程撃ち込まれた【どくづき】のダメージも相まって戦闘不能になる。

 

 ウォーグルはまだ動けそうだったが、二匹のジャラランガを相手に一匹で立ち回るのは不可能に近かった。それでも、ただやられるのは性に合わない。

 

「【ブレイブバード】! 滑空して突っ込め!」

 

「エストルはもう一度【スケイルノイズ】、パシバルは【ドラゴンクロー】です」

 

 正面から突き進むウォーグルに襲いかかる鱗をすり合わせる音を増幅させる咆哮、衝撃波で勢いが弱まったところにパシバルが突っ込み、正面から龍気を纏った拳でウォーグルにラッシュを繰り出した。

 連戦のダメージもあり、ウォーグルは打ちのめされるとそのまま昏倒した。残るゼラオラ、ゾロア、メタモンも順当に叩き伏せられてしまった。

 

 結果、ダイはコスモスに連戦負け越していた。大の字に寝転がってもうすぐ夕焼けに染まる空を見上げた。サッと差すコスモスの影にダイがそちらに視線を向ける。

 

「お疲れ様、よかったらどうぞ」

 

 俗に言う、差し入れ。病院にいた時から持っていたその飲み物をダイは受け取って、逡巡した後乾いた喉に一気に流し込んだ。

 起き上がると、木々の葉を揺らす風が吹く。火照った身体に風が染み渡るようでダイは一息ついた。

 

「全然勝てねぇ……」

「以前にラジエスシティで会った時よりはずっと強くなったと思いますけれど、まだまだですね」

「バッサリっすね……」

 

 これが最強のジムリーダーの力か、とダイはもう一口ドリンクで喉を潤すと隣に腰掛けるコスモスに目を向けた。ゴシック調のドレスにキャンバスのような白い肌、アメジストの瞳は水晶のようで全てを透かして見てくるような存在感を放っていた。だけど、かれこれ彼女と邂逅してから数時間、ダイはずっと思っていることがあった。

 

「怒らないで聞いてほしいんですけど」

「なにかしら?」

「コスモスさんって意外と優しいんだな、と思って」

 

 ダイがそう言うとコスモスは不思議そうにダイの顔を覗き込んだ。なぜそのような結論に至ったのか、言葉の意図を読みかねた。

 

「これ、本当はソラに差し入れるつもりだったでしょ。袋の中もよく見たらパワーバーとか木の実の缶詰とか、色々入ってるし」

「……よく見てるんですね。彼女、目が覚めてから今日まで何も食べてないみたいだったから」

 

 ソラはコスモスが管理するVANGUARDのチームメンバーだ。コスモスもチームの仲間が入院してると聞いては流石に様子見くらいは行く。ところが昨日は面会謝絶、念のため担当医や看護師から話も聞いた。ソラが何も食べていないことはその時知り、故に差し入れの中に簡単な栄養食などが入っていたのだ。

 

「けど、貴方が病室から出てきたということはもう大丈夫なのでしょう」

「だと良いんですけど……」

 

 不意にダイの顔に影が差す。手の中の空のペットボトルを弄びながら、ダイはぽつりと零した。

 

「ソラ、もう気にしてないといいんだけど」

「難しいでしょうね、彼女の都合はかなり重たいものですし」

「知ってるんですか? ソラの抱えてること」

「えぇ、彼女がチームに入った時に念のためプロフィールは確認させていただきましたよ。ご両親のことも、その時に。もちろん深い事情までは知り得てませんが」

 

 少し迷ったが、ダイはソラが抱えている苦悩をコスモスと共有した。あまり言い触らして回る内容では無かったが、ダイはソラをきちんと励ます事ができたのか今も不安だった。

 もし病院にいるソラが目を覚まして、また()()()()()をしでかさないか不安で仕方がない。ここに来るまでの間にリエンに頼んで見守るよう頼んではいるが、やはり完全に不安は拭いきれない。

 

「これは、私の感じたままなのですが」

 

 そう言って、コスモスはダイから一度視線を外しそびえ立つ巨大樹を見上げながら言った。

 

「貴方は思っていたよりも、ずっと色んなことを考えて、周りをちゃんと見ているんですね」

「はは、直情的で視野の狭いヤツだと思ってました?」

「えぇ、少なくともVANGUARDの説明会の時はよく吠える人だな、と思っていました」

 

 説明会の時にステラへ心無い言葉を投げたフライツに食って掛かったことはまだ記憶に新しい。初対面ならそう思われても仕方がないだろう。

 ですが、とコスモスは言葉を続けた。

 

「たとえ直情的だったとしても、貴方のあの啖呵は善意によるもの。自分の信じるものに真っ直ぐでいられるところは素直に、素晴らしいと思いますよ」

 

 コスモスも一息、ドリンクに口をつける。ダイとは違い、喉を鳴らさずにほんの一口呷るだけ。そういうところを見て、ダイは先程の苛烈な戦いを指示していた人物とはまるで違う印象を覚えた。

 お互いにようやく打ち解けあったところで、ダイはずっと抱いていた疑問を投げかけることにした。

 

「コスモスさんは、なんで俺が選ばれたって思うんですか?」

 

 それはずっと気になっていたことだった。ダイのカバンの中にはラフエル地方の伝説に名を連ねる宝玉、ライトストーンが収まっている。

 さらにはその中に存在する巨大な意思がダイの死という運命を覆した。

 

「少し、長くなりますが」

 

 ダイは頷いた。コスモスは膝を抱えながら星を数えるようにぽつぽつと少しずつ言葉を紡ぎ出す。

 

「ラフエル地方に伝わる"ラフエル英雄譚"、これに関しては恐らく私よりもカエンくんの方が詳しいでしょう。ですが、英雄ラフエルと運命を共にした伝説のドラゴンポケモンのことならば話は別です」

「あの、出来ればそのラフエル英雄譚の辺りから詳しく教えてもらっていいですかね、多分名前からしてこの地方の御伽噺だと思うんですけど」

 

 おずおず挙手しながら言うと、コスモスが目を丸くする。そうして数秒後に「あー」と納得が言ったように一人で頷く。

 

「タイヨウくんは他所の地方の人でしたね。ラフエル英雄譚というのは、上中下からなる英雄ラフエルの冒険と生涯を描いたものです。ラフエル地方に生きるものなら誰もが知っているのですが、タイヨウくんは他所の地方の人でしたね」

 

 わざわざ同じ言葉を二回繰り返すコスモス。ダイは言外にちょっと責められてるな、と悟った。

 嘆息、コスモスは「いいですか」と指を一つ立てて壮大な物語を語り始める。

 

「ある時、荒れ狂う海を往く希望の舟から一人の男が投げ出されました、男の名はラフエル」

 

 始まる壮大な冒険譚に、ダイは少なからずワクワクした。子供の頃、夜寝る前に読み聞かせてもらった御伽噺、毎晩心を躍らせていたあの頃を思い出したからだ。

 

「希望を冠する舟はラフエルが落ちたことに気づかなかった。もしくは気付いていたのかもしれません。ですが真実は一つ、ラフエルは希望から見捨てられたのです。只の人の子は問いました、「なぜ、どうして」と。当然応える者などありません。周りは生者を飲み込む暗黒の大海原」

 

 光景を思い浮かべるだけでダイはゾッとした。死が身体を支配する感覚を生きながらに知っているダイは、違う形で訪れるそれを本能的に恐怖した。

 

「ラフエルの前に、暗黒の海が姿を変え"絶望の魔物"として立ち塞がりました。ラフエルの何故、に魔物は答えます。『平凡な人の子が、思い上がるな』と。只の人の子は絶望に飲み込まれ、ただただ涙を流しました。悔しかったのです、絶望の魔物が言うことは正しい。自分は只の人の子で、覆しようのない運命を受け入れるしかなかったからです」

 

 ダイが想像以上に物語にのめり込んでいるのを確認したコスモスは「こうです、こう」と波が襲いかかるのを再現しているつもりなのか、両腕を持ち上げてダイに向かって雪崩れ込む仕草をした。無表情で行われるそれに、ダイは思わず拍子抜けしてしまった。

 

「ですがラフエルは運命を受け入れましたが、諦めませんでした。そして水を飲み、飲まれながらも叫んだのです」

 

 コスモスは再度、茜色に染まる空を眺めながら力強く紡いだ。

 

「『希望が私を救えぬのなら、私が全ての希望になろう』と。噛み締めた唇から流れる血は星の盟約となり、かの声は絶望の魔物を焼き払い、一縷の望みを彼に与えました。そして天より降り注いだ一筋の光が、希望の舟とは真逆の方角を指し示した。ラフエルはそれから力尽き果てようとも、三日三晩ただひたすらに、前が見えなくなっても泳ぎ続けました。そうして辿り着いた場所が、獣の大陸です。遥か昔、この地はポケモンだけの島でした」

 

 ダイが息を呑むと、コスモスはまたも「がおー」とばかりに両手を拡げてダイに向かってポーズを見せる。ダイが苦笑しながら「続けて」のジェスチャーをするとコスモスは一度咳払いをして、

 

「獣の王はラフエルに問いました、貴──」

 

 

「『貴様は何者か。何者でもなくば、私は貴様を焼かねばならない』」

 

 

 その言葉はまるで台本を渡されていたかのように、スムーズにダイの口から溢れた。コスモスが驚いたようにぽかんと口を開けている。

 

「知っているんじゃないですか」

「いや、なんか今のは……自然と口から……でも俺、初めて聞くのにどうして……」

 

 信じられないように、ダイが自分の喉元を抑える。忘れているだけでどこかで聞いたことがあったのだろうか、ダイは記憶を掘り返す。

 正直な話、ラフエル地方に来てからバラル団との戦いに巻き込まれて地方特有の名物など巡っている時間は十分に無かった。

 

「あ……」

 

 思い当たるフシが一つだけあった。それはモタナタウンを出発し、リエンとアルバの二人と冒険を共にするようになった最初の事件。

 "神隠しの洞窟"、そこでダイはラフエル地方の遺跡や洞窟を調査する考古学者の男と一度顔を合わせている。

 

 ディーノ・プラハと名乗る考古学者の男、彼もまたラフエル英雄譚に明るい男だったとダイは思い返した。覚えていないだけで恐らく彼から聞いていたのだろう、とダイは結論づけた。それでも、ディーノを思い出すよりも先に獣の王の言葉が出てくる方が遥かにスムーズであったことに違和感は覚えた。

 

「まぁ、その先はご存知ですね。ラフエルは獣の王が与える数多もの試練を乗り越えることで自身が希望そのものであると証明し、そこで初めてラフエルと獣──ポケモンたちは手を取り合い、共存するようになった。ここまでがラフエル英雄譚の上巻に当たります」

 

「その獣の王が、このライトストーンの中にいるポケモン……?」

 

「いいえ、獣の王はやがてラフエルを二つの側面で支えるべく二匹のポケモンへと分離したのです。そのポケモンこそ、貴方の持つライトストーンに眠るはくようポケモン"レシラム"と、未だに居場所の分からないダークストーンに眠るこくいんポケモン"ゼクロム"。ラフエルの掲げた"真実"と"理想"を象徴する二対のドラゴンが今再びラフエル地方に蘇ろうとしている」

 

 コスモスはダイの目を真っ直ぐ射抜くように見つめながら言った。

 

「ここで話を最初に戻します。以前と違い、今の貴方はその双眸の奥に蒼い炎を宿している。それは紛れもなく、ライトストーン──レシラムが貴方を選んだなによりの証拠」

 

 そう言われてダイはライブキャスターのインカメラを使って自分の瞳を確認するが、もちろんなにも映らない。それを見てコスモスがクスクスと笑い出す。

 彼女の言う『蒼い炎』とは所謂龍脈と呼ばれる、ドラゴンタイプのエキスパートが最初に教わる気の流れを指すようで、鏡や写真など物質的なもので確認は出来ないという。

 

「だから、貴方はもう少しドラゴンタイプのポケモンを理解する必要があるのです。このままではライトストーンからレシラムを召喚することも、よしんば召喚出来たとしてもその背に乗り共に戦うことは出来ないでしょう。背に乗っていながら、レシラムの放つプレッシャーに押し潰されて廃人になるのが見えています」

「……もうレシラムやゼクロムを開放しなきゃいけない戦いが迫ってる、みたいな言い方ですけど」

「えぇ、貴方がライトストーンを手に入れた先日の戦い。私はその時、"メティオの塔"へ行き、英雄の民に占ってもらったのです」

 

 ダイが言った瞬間、コスモスは立ち上がりスカートの砂埃を落として風に吹かれながらなんとはなしに言った。

 

 

「バラル団と我々ラフエルに住まう全ての人間の戦い、その行く末は二対のドラゴンポケモンを従えた方が勝利すると、そうなっていました」

 

 

 故にダイは理解した。自分に課せられた使命と、これから先待ち受ける宿命を。

 手渡されたドリンクを一気に飲み干し、口から溢れた分を袖でやや強引に拭うとダイは立ち上がり言った。

 

「もう一本、お願いします!」

「その言葉を待っていました」

 

 現れるパシバル、それに対しジュカインを対峙させると、ダイは左腕のキーストーンに触れた。

 コスモスは言った。ドラゴンポケモンに対する理解が必要であると。だったら、ドラゴンタイプのポケモンを動かさねば始まらない。

 

 ジュカインと視線を交わし、頷き合う。そして勢いよくキーストーンを叩き、握った左腕を前へと突き出した。

 

 

突き進め(ゴーフォアード)、ジュカイン!」

 

 

 夕闇を吹き飛ばす光が突風を伴って弾ける。コスモスの銀髪が、吹き荒れる風に撫でられ、進化の光を受けてキラキラと儚げに輝いた。薄暗い森の中、流れるその輝きはまるで星空のようで。

 

「──メガジュカイン!!」

 

「パシバル、さっきよりも出来そうですよ。油断しないように」

 

 光の嵐を巻き起こしながら顕現するメガジュカインがパシバル目掛けて突進する。そのスピードは先程のジュカインを遥かに上回る。コスモスに念押しされていなければ、パシバルでさえも一度見失ってしまうところであった。繰り出される龍気の篭手(ドラゴンクロー)による斬撃に、パシバルが拳をぶつける。

 

 拳圧が放つ衝撃波が破裂音となって夜のテルス山へとただただ木霊した。

 

 

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 

 

 

 あかい。

 

 あかい。

 

 ──紅い。

 

 ただひたすらに、紅い空間にいた。鉄の臭いが問答無用でずけずけと鼻腔に入り込む。

 

 それは眼の前にずらりと整列した錆びた鉄格子が発する臭いではない。それこそ、視界を覆うほどの紅が発する臭いだ。

 

 紅の池の中に沈む二つの肉の塊はまるで中身の注がれたグラスにヒビが入ったかのように、紅を吐き出し続ける。

 

 夢だ、夢を見ている。それがわかる。

 

 肉の塊がこちらを見上げている。その目に光は無い。命の存在を証明する息吹すらない。

 

 何より、心の音がぶつりと途切れている。弦の切れた弦楽器が、皮を裂かれた膜鳴楽器が、音を鳴らせないように。

 

 その肉の塊は音楽を奏でることをやめてしまった。

 

 手の中を覗き込む。なんということはない、果物ナイフ。だがそれが容易く眼の前の二人をただの肉の塊に変えてしまったのがわかる。

 

 

 

 ────ソラ。

 

 

 

 ────ソラ。

 

 

 

 ────ソ~ラちゃん、あ~そびましょ~キヒヒ。

 

 

 

 肉の塊が微笑んだ。

 

 肉の塊が笑った。

 

 肉の塊が嘲笑った。

 

 肉の塊が────

 

 

 

 

 

「────ぁっ!」

 

 飛び起きる。勢いよく持ち上がった上体に伴って、頭をぐっしょりと濡らす汗の雫が我先にと下方へ進行を始める。

 胸に触る。テンポの早いビートを刻む心臓は悪い夢にうなされていたことを如実に語っている。気分が悪いと、がむしゃらに歌っている。

 

「ぅ」

 

 次いで込み上げる強烈な吐き気。何もない胃の中の物を吐き出そうと体内器官が踊り狂っている。それが胸のあたりまで登ってきた次点で、ソラはそれを堪えきれないと悟った。

 ベッドの隅に設置されている、三角コーナーにビニール袋を被せただけの簡易的なゴミ箱を一心不乱に手繰り寄せ、口元へとあてがう。直後、喉を焼き口の中を蹂躙する強烈な酸味にたまらず喘ぐ。

 

 目を閉じれば、瞼に焼き付いたあの紅い光景が蘇る。それが、ありもしない血と脂の臭いを想起させて、一層吐き気が強くなる。

 もう吐き出すものなど最初から残っていないのに、無尽蔵に体内を駆け上がってくる胃液。

 

 ようやく打ち止めだぞ、とばかりに収まった嘔吐(えず)き。続いてソラを襲ったのは恐怖だった。

 あの日、レニアシティでの戦いでソマリに見せられた幻覚が頭から離れない。両親の胸に何度もナイフを突き立てる光景、手には肉に刃が沈む感覚すら残っている。

 

 ソラの発した抽象的な『両親を殺したのは自分』を最悪な形で歪めたソマリの悪意が心に巣食う。

 ベッドの前に設置された姿鏡に映る自分の姿が血に塗れていたらどうしよう、ソラは顔を上げるのが怖くなった。

 

 

「────大丈夫か?」

 

 

 パッと、部屋の明かりが灯る。ソラが顔を上げると、部屋の中には客がいた。数時間前に比べて泥だらけの汗まみれになったダイだった。

 ソラが突然の来客に驚いていると、ダイは手早くソラの手から三角コーナーを奪い取ると手慣れた手付きでビニールを処理して新たな袋を被せた。

 

「まずは口濯ぎたいよな、水持ってくる」

 

 ダイは病室の中にある流し台で一度手を洗うと、ウォーターサーバーから冷たい水をペットボトルに補充するとそれとは別に洗面器に水を貯め、濡らしたタオルと水の入ったコップをソラに手渡した。

 渡されたそれで口元を拭い、水で口の中を軽く洗浄するとだいぶ気分が楽になったようだった。

 

「水分補給だけでもしておこうぜ、ただでさえ食ってないんだろ」

 

 差し出されたペットボトルの水を一口呷るソラ。そしてペットボトルを見ると、ラベルはスポーツドリンクのものだった。

 

「あとでリエンにもお礼言っとけよ、さっきまでずっと見ててくれたんだ」

 

 コクリ、とソラが頷く。ソラが患った心因性の失声症のせいか、ダイは一方的に話をしている気になって自然と言葉数が少なくなっていく。

 やがて間が持たなくなり、ソラはホワイトボードに水性ペンを走らせた。

 

『その服、どうしたの?』

「これか、ちょっとコスモスさんとスパーリングをな。ソラんとこのチームはあれだな、えげつないわ」

 

 ダイは苦笑いしながら頬をかく。チームリーダーのコスモスにソラ、シンジョウを始めとする数人の実力者で構成されてる『Team Sieg』は他のVANGUARDチームに比べて戦闘能力が突出している。

 しかしそれを聞いたソラは目を伏せ、睫毛を揺らす。

 

「私は役立たず、みたいな自虐ならノーサンキューだからな?」

 

 ホワイトボードに充てがったペンが止まる。直後、ダイのデコピンがソラの額を打つ。キョトンとした顔で額を抑えるソラにダイが顔を寄せていった。

 

「ソラは今、風邪を引いてるようなもんだ。風邪引いてる時に仕事出来るなんて誰も思ってないから、そんなこと言わずにとにかく休んどけ」

 

 やや乱暴にダイがソラの頭を撫で散らす。昼間もそうだった、ソラはダイの優しさがこれ以上無いほどありがたかった。ただその優しさにただ甘えることが歯がゆくて、頑張ろうと藻掻けば藻掻くほど襲いかかる悪夢に勝てなくなる。

 

 そして最終的には弱さに心が折れそうになる。

 

「昼間も言ったよな、俺たちはお前が一人でちゃんと歩き出せるまで絶対に一緒にいるから。無理せずに立ち上がる練習からしようぜ」

 

 だけどそれすら彼は許してくれるから。弱いことが罪じゃなくなってしまうから、彼の隣は陽だまりのようで。名は体を表すとはまさにこういうことだろう。

 ソラは今になって自分がダイ、アルバ、リエンの三人組に惹かれた理由に気付いた。ダイは指揮者で有りながら、出鱈目な作曲家で、一人の調律師だったのだ。アルバとリエンという特殊な演奏者を纏め上げるだけでなく、その音を最大限に魅せるような調律で人々の心に溶ける音楽を奏でていたからだ。

 

「ぁ……ぅ」

 

 掠れながらでも伝えたい、この感謝を。ソラは錆びついた喉を必死に震わせた。何度咳き込んでも、『ありがとう』と口にするまで諦めたくはなかった。

 

「どういたしまして、ソラ」

 

 音は届かなくても、心は届いた。それはソラ風に言い換えれば、「心の音が聴こえたから」だった。ソラは頷いて、自分の心に湧き上がる暖かな感情に気付いた。

 

 君の傍はまるで春の草原だ。

 

 君の声は吹き抜ける風だ。

 

 君の心は太陽だ。

 

 だから君の隣は、こんなにも暖かい。

 

「おふっ、どうした?」

 

 ダイの腹に顔を押し付けるようにしてソラはダイにしがみつく。ダイの心臓の鼓動は自分の鼓動と同じくらい速く、まるで裏打ちのリズムのように互いにトクントクンと響く。

 あれだけ消えなかった鉄と脂の臭いは、もうすっかり消え去った。目の前の本人と、自身が身に纏う彼の匂いが染み付いた服の匂いが上書きしてくれたからだ。

 

『すごく楽になった。

 きっとダイのおかげだよ』

 

 ホワイトボードいっぱいに書かれた感謝の言葉と、初めて見たソラの笑顔はダイに衝撃をもたらす。

 彼女の微笑みすら記憶になかった、だからこそ目の前の向日葵のようなソラの笑みはダイの心臓をさらに急かす。

 

「お、おう。じゃあ俺、今日はもう戻るから。また明日な……っ!」

 

 真っ赤な顔にダラダラという音が聴こえてきそうな大量の汗を流しながらダイはソラから離れ、足早に病室を後にする。

 彼がいなくなるだけで病室は幾らか涼しくなってしまった気さえする。ソラはホワイトボードに書いた、ダイへの感謝の気持ちをまじまじと見つめる。

 

 そして、意味深に並んだ縦読みの文字に気付いて、慌ててボードの上をクリーナーで擦って消した。

 きっと自分の顔も真っ赤に違いない。正面にある姿鏡を見るのが、起きた時とは別の意味で恐ろしいとソラは思うのだった。

 

 

 




うちうちの波動を感じてしまった、どうしてこんなことに。
どうせなら他所の子とくっつけたかったな、と思う相模原であった。

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