ハッとするように目が覚めた。頭はまどろみを既に抜け出し、現実にいることを理解していた。身体に付着した、乾いた泥が今朝方の激闘を想起させた。
驚くほどに俺の頭から熱が消え去っていた。それどころか、一つの感情が浮かび上がってきていた。
周囲を見る。俺のポケモンたちはまだ帰ってきていないようだった。フッと、思わず笑みが漏れてしまう。
扉を開けて、真夜中の廊下を電気も着けずに歩く。少し、夜風に当たりたい気分だった。
ポケモンセンターから出ると、街が浮いている湖には大きな月が反射しキラキラと光を放っていた。モタナタウンの浜のように波打っておらず、まるで鏡のように平らな水面に浮かぶ月は、空に浮かんでいるものより微かに大きく感じた。
「猿猴月を取る、水面に反射した月を取ろうとしたエイパムが落ちて溺れるって話だったっけか……」
どこか、俺自身の身の上にそっくりな話だった。現実の月より、手が届く方に浮かぶ月を取ろうとして、結局失敗して……あとは溺れるのを待つだけだ。
ひどいことを、言ってしまった。リエンにも、アルバにも、アストンにも…………なにより、アイにも。
冷静じゃなかった、そんなのは言い訳だ。俺は自分のやったことが正しい、偉いってどこかで認めてほしくて、それが叶わなかったから駄々をこねていただけで。
「…………はぁ」
溜め息しか出ない。そうやって、空の月と水面の月を交互に見て、思い出しては辟易として溜め息を吐き出してを繰り返して、どれくらい時間が経っただろうか。
ポケモンセンターの扉が開く音がした。こんな深夜に誰だろうと、振り返ると見知った顔だった。
「起きた?」
「……バッチリ」
リエンだ。さすがに俺と違って、朝の格好のままではなかった。もう一つのお気に入りの服だと語っていた。ハーフパンツに薄手のパーカーという、どちらかというと運動系の格好の彼女がこんな真夜中に俺の目の前に立っていたのだ。
俺に何かを尋ねるでもなく、リエンは俺の隣に腰を降ろした。そういうとき、彼女は必ずハンカチを敷いてから座る。出会った頃から変わらない、恐らくそうやって育てられた……彼女の育ちだった。
「ジュプトルたちの様子を見てきたの、もうすっかり元気だって」
「そっか……」
「そしたら、玄関の先にダイがいるのが見えて。気を使おうかと思ったけど、今夜はそんな気分じゃなくて」
「ちょっかいを出しに来たのか……」
お互い小さく笑い合う。そう言いながらも、結局彼女は俺に気を使って話しかけてくれていたのがわかって、尚の事自分が情けなくなった。
最後の溜め息とばかりに、少しばかり深い息を吐き出すと俺は決心して口を開いた。喉はカラカラで、身体は出来ることなら話さないでくれと言っているみたいだった。
「あいつ……アイ、あー……アイラはさ、前に話した俺と一緒に旅してた人で」
「ダイに色々盗まれた人でしょ?」
「その物言いだとホント救いよう無いから少し手加減してくれ……そんで、あいつが……あいつが……」
言葉に詰まった。諸悪の根源? 本当にそんなことが言えるのか?
「……俺はアイから逃げたんだ。けど、それはあいつが悪いんじゃなくて……俺が、自分で自分が、弱くて諦めちゃった俺が、嫌になって。それで、勝ち進んでいくアイを見てると、自分ってなんだろうって思って……アイとの約束から逃げた」
なんの説明も無い話なのに、リエンは何も言わなかった。ただ俺の情けない感情の吐露を聞いていてくれた。
「悪い、何のことかわからないよな……いっそのこと洗い浚い話すよ。俺とアイは、オーレ地方ってすごい遠い地方出身でさ。俺たちは一緒に旅に出ることになって、一番近いイッシュ地方のヒオウギシティジムに挑戦したんだけど、俺勝てなくて……そこでちょっと嫌なことがあって、それから俺はずっとアイの後ろについていくだけの旅を続けて……」
「それで、一人でラフエル地方に来たんだ」
俺は頷いた。リエンは夜空を仰ぎながら、深く息を吐いた。溜め息の持つ独特の感情の含みが、一瞬俺の喉を締め上げた。
「なんだか、ダイって弱いんだね」
その一言は結構グッサリと、俺の心に突き刺さった。弱い。そうなんだ、俺はどうしようもないくらい弱くて、だけど強くなるための努力をする勇気も無くて。
結局、自分のケツに火をつけて突っ走って見せて、根性見せたら俺はもう強いって言い張って。だけどいざ火を消してみれば、火達磨になった俺は丸裸に全身やけどの二重苦、やけどなおしは効きゃしない。
「ダイは私が思ってるよりずっと弱かった。そのくせ聞かん坊で無鉄砲で危ない橋を渡る」
「……今夜はいつにもまして容赦無いね」
「最後まで聞いてよ。そんなダイについていこうって思ったのは、私にはダイが強く見えたからだよ。聞かん坊で無鉄砲な馬鹿をやり通す芯の部分が、ね」
リエンが俺の心臓の部分を指す。とんとんとノックされた?中に熱が灯る。
「このままダイは彼女の言いなりになって、どこかへ行っちゃうのかな」
「……俺は」
「今は聞かないよ。もっとじっくり悩んで。お腹の底にある感情全部混ぜ込んで、それで答えを出してよ…………それっ」
「うおわっ!?」
背中に衝撃、気づいたときには俺は湖の冷たい水の中に落ちていた。水の中から見る夜空の月の光は神秘的で、湖の中に斜めに入り込んでいた。ぐつぐつと煮えていた感情がスゥッと冷めていき、ただただその静けさに浸っていた……肺の中の酸素が保つまでは。
息苦しくなるとそれどころではなくて、俺は水面に出るなり喘ぐように酸素を求めた。覗き込んでいたリエンが、なぜだかきょとんとした眼で俺を見ていた。
「……なんだ?」
「落ちる前と顔つきが違うなって」
「あぁ……なんか、俺海沿いの街で生まれながら、月明かりが差し込む水の中の光景を知らなかった……今、初めて見た」
尤も、アイオポートの海が如何に静かだろうと、この湖の街の静けさに比べればまだ騒々しいくらいだ。何が言いたいかというと、俺が生きてきた時間の中で見たことないものがまだまだいっぱいあることに気づいた。
「もっと、こんなものに巡り合えたら……どんなに楽しいだろうって」
ここで続ける旅には危険が伴うはずだ。バラル団という巨悪すらはびこるこの場所で、俺たちが安全に旅を続けられる保証はない。
だけど、それでも……見てみたいものが出来た。
「ポケモンリーグの、スタジアムに立ってみたら……どんなものが見えるかな」
俺がそう尋ねると、リエンは微笑むだけで何も言わなかった。答えを求めるばかりではいられない、見つけに行こう。
そう決意して、俺はポケモンセンターの庭に上がった。次の瞬間もう一度突き落とされて思いっきり水を飲み込んでしまった、なんでだよ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
やがて、朝日が登る。俺は昨晩急いで洗濯した一張羅に身を包む。少しだけヨレヨレになったこのジャケットも、履き続けてボロボロになったランニングシューズも俺が今まで腰巾着ながらに旅を続けてきた証だ。
アイラの背中だけ見て、他のものを見ようとしなかった昔の俺に、今度こそ今日でサヨナラしよう。
フェイバリットゴーグルを身に着け、俺は部屋を出た。受付で女医さんからポケモンたちを預かると、昨夜の思い出が残る庭へと降り立つ。今日は少し風が強く、水面も昨夜と違って僅かに波打っていた。
モンスターボールからみんなが出て来る。その眼は、恐怖とかそういう感情に溢れていた。
「ごめんな、昨日はちょっと……いや言い訳は止す。まずは、ペリッパー。お前は地元からついてきてくれた自慢の相棒だ。ここ一番ではお前を頼りにしてるぜ」
そう言うとペリッパーは首を傾げるような動きをしてから、コクコクと頷いてくれた。次に俺はゾロアを見た。
「最初にイグナと戦ったとき、お前がいてくれなかったらきっと今俺はこうして旅を続けられてなかった。お前とメタモンは化かし合いでの俺の切り札だ。これからの旅でも期待してるぜ」
ゾロアは俺の言葉に遠吠えで返答してくれた。しゃがんでから頭を撫でてやると、気持ちよさそうに掌に身体を委ねてきた。次はメタモンを見る。
「ゾロアに言ったこととだいたい同じになっちまうけど、お前と船乗り場で出会ったとき他の奴らとは違う運命感じたよ。ついてきてくれてありがとう、またよろしくな」
感謝の言葉を述べるとメタモンが人の手の形に身体の一部を変化させ、伸ばしてきた。俺はそのふにゅっとした感触のメタモンの手を取ってガッチリと握りしめた。最後に、ジュプトルを見た。
「お前が、ラフエル地方で最初の仲間だ。ハルザイナの森で出会ったとき、お前の可能性に縋れたらって思ったよ。それに、ちょっと気にしてたんだ。カイドウと最初に戦ったとき、リベンジ出来なかっただろ」
ジュプトルはコクリと頷いた。その眼は真剣で、少しばかり気にしていたようだった。俺はジュプトルに目線を合わせると拳を突き出す。
「だから、今日はお前にかかってる。勝とうぜ、相棒」
その言葉に、フッとキザったらしく笑ったジュプトルが拳を合わせてくれる。みんなをボールに戻し、出発しようと思ったその時だ。ポケモンセンターの扉が開く。そこに立っていたのは、アイだった。
対峙するとまだ足がガクつく。潜在的な逃げ腰は未だ変わっていない。俺はまだ、変わろうとしているだけで変わってなんかいない。
「……おはよう」
「……ん、おはよう。昨日と随分顔つきが違うじゃない」
「やっぱ、そう見えるか?」
尋ねてみるとアイはこくりと頷いた。昨日の夜、リエンに入れてもらった活が活きてるみたいだった。アイは腕を組みながら値踏みするような視線を俺に投げかける。
「俺さ、もう少し頑張ってみてもいいかな。自分の決めたこと、やり通してみたいんだ」
手のひらで熱を持つ、カイドウから譲り受けたスマートバッジ。ラフエル地方で、最初の公式戦。今でもあの激闘を思い返すことが出来る。
知恵を打ち破るために、知識欲を以て戦った。これ以上ない、熾烈な戦い。正直、バラル団との命をかけたやり取りよりも白熱した。
だから、このバッジを持っている限り俺は啖呵を切る事ができる。
「もう怖くなんかねーぞ。俺は、もうお前から逃げないし負けない。それを今日のジム戦で証明してみせる」
「言うじゃん……じゃあ、負けたらとっておきの罰ゲームだからね」
「おう、せいぜい考えとけ。無駄にしてやっからよ」
お互いが口角を持ち上げて笑ってみせる。おおよそ友好的な笑みには見えないが俺たちにはこれがちょうどいい。アイはボールからフライゴンを呼び出すと、その背に飛び乗った。俺もペリッパーをもう一度呼ぶと頭に掴まる。
穏やかな水面の上を滑るペリッパー。頭のなかには既にジム戦に対する気持ちだけが疾っていた。
カイドウとの戦いは、知恵と知識欲のぶつかり合いだった。とすれば、今回の戦いはなんだ。サザンカさんが重んじることは。
俺の頭の中には一昨日の修行、その時のサザンカの言葉が幾重にも重なって反芻されていく。
ポケモンと同じ暮らしを送りながら、共に研鑽し合うその関係性とは。彼にとってポケモンとは、彼が尊しとする心情とは。
「心、だ」
ふと、そういう考えに思い至る。ポケモンと、正確には心を合わせたい相手と同じ行動を取るというのは言葉が通じない間柄でのコミュニケーションの常套手段。そうやって彼らとサザンカさんを繋げる何かがあるとするのなら、それは心だ。とするなら、このジム戦に挑むに際し俺が持ち続けなきゃいけないものとは―――ー
考え事をしているだけで、時間はあっという間に過ぎ去る。水に浮かぶ神社、その境内に彼は座していた。瞑想に耽る彼は俺たちの到来を、水面の音と風で読み取り静かに目を開いた。
「ようこそいらっしゃいました、具合はいかがですか?」
「まぁ不調ではない、って感じです。昨日の今日で、すみません……」
「いえ、構いません。むしろ僕も考えていたところですので――――僕が本当に、この街のジムリーダーとしてふさわしいのか」
サザンカさんの目には憂いがあった。昨日や一昨日にあったような、静かながらこちらを威圧する覇気はどこかへ消え去っていた。
「チャレンジャーを待たせてしまっていることもそうですが、この街に古くから伝わる秘伝の書物を悪党にみすみす奪われてしまった。僕を書物の守護者として任じてくれたポケモン教会に顔向けなどできるものでしょうか」
だから、とサザンカさんは立ち上がる。静かな足取りで境内から
「見極めたいと思います。僕は、君という壁を乗り越えて答えを手に入れてみせます」
「じゃあ、俺もサザンカさんっていう壁を超えて、先へ進みます」
審判はいない。だが、今ここに
「わかりました、全力の演舞をお見せします。君が、僕を乗り越えていくというのなら、喜んで君の道程の壁と成りましょう」
どこまでも静かに、だが嵐の前の静けさを感じさせるそれを携えてサザンカさんは俺を見据えた。
次回はジム戦です、久々にwiki篭りになりたいと思います