ケイカとの遭遇からまる一日。マリンレスキューの本部でケイカに襲われた人たちはみな軽傷だった。一番怪我が酷かったのでも引っかき傷や意識を失う際に受けた打撲程度で、骨が折れたり今後に影響する傷を負った者は誰もいなかった。
俺は彼らの介抱をするリエンの後ろ姿を見てるしか出来なかった。傷の手当など初歩の初歩しか知らなかったし、俺が手伝おうとしても脚を引っ張ってしまいそうで怖かったからだ。その間俺はポケモンを回復させることに専念し、自分は浜に赴いた。
あれだけ暴れた後で、戦闘の爪痕が多く残っていた。ケイカの手がかりになるものがないか、俺はビーチを散策がてら探し歩いた。しかし当然何もなく、途中からはギャラドスのはかいこうせんで壊れた堤防の瓦礫を片付けていた。
するとどこからか見覚えのあるプルリルがやってきた。
「おお、ミズ。おはよう、昨日は大丈夫だったか?」
ミズはこくりと頷いて俺の側に擦り寄ってくる。昨日今日でずいぶん懐かれたもんだなぁ、なんて思いながら俺はミズを連れて波打ち際を歩いていた。
「困るよな、行く先々で事件に巻き込まれちゃってよ。って、昨日分かったことだけど俺には首突っ込み気質があるんだな」
忘れちゃいけないのは、俺はこのラフエル地方に観光に来たんだ。今でこそポケモンジムを制覇する旅がしたいと思ってるけど、バラル団が行く先々で俺の前に立ちはだかる。
いい加減、どっちか割り切らないといけないのかな。
身の上をきちんと明かした上で、
このまま旅を続けながら、ただ迫りくるやつらを追い払い逃げるだけか。
すぐに答えなんか出ない。一度悩んだら俺はなかなか決まらない。だから、いつもみたいに悩んだときは海を見に来る。
朝の海は夜よりも静かだ。俺の悩みも、俺も、海の前では小さな個。自分で言ったことだけど、なるほど納得できる。しばらくゆっくりしようと、俺は浜に大の字になって寝転がる。
「今は答えを出すときじゃないのかもな……」
まるで俺から染み出した悩みが砂に吸い込まれたように心の中がスッキリした。頭の中で考えが落ち着いたからか、眠気が襲い掛かってきた。
ついうっかり寝そうになるも、ミズが身体のベールで俺の顔をくすぐる。
「確かに野ざらしで昼寝はまずいか……」
俺はレスキュー本部を見る。リエンはきっとまだ本部の人の介抱をしているはずだ。わざわざ聞きに戻るのも、今の体力では面倒くさかった。
散々葛藤した挙句、俺は無断でリエンのベースを借りることにした。オンボロの小屋に戻ってくると、相変わらず雑多な部屋が俺を迎えてくれた。
昨日も横になっていたソファを借りて横になると、やがて勝手に俺の意識はまどろみに溶けていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ざあざあと船が波をかき分け、進んでいく。
そんな船の前方付近で、一人の少女がまだかまだかとその瞬間を待っていた。
船に乗った時間からしてもう少しで半日ほどになる。彼女はその間、ずっとここを動かなかった。
「お嬢ちゃん、椅子座るかい?」
「ありがと、船乗りのおじちゃん。けど、あたしこう見えて船には慣れてるから大丈夫よ」
彼女は振り返りながら、風よけにつけていたゴーグルを外してニッとはにかんだ。小太りの船乗りはそんな彼女の笑みに、同じような笑みを返し快活に笑った。
「ハッハッハ、そうかい。嬢ちゃん、そんなにラフエル地方が楽しみなのかい?」
「どうなんだろう、楽しみなのかなぁ……自分でもわかんないや、知らない土地に行くのも慣れっこだけど、前情報無しだからね」
「前情報なし? えらく突飛な旅だなぁ」
船乗りは首を傾げた。彼女は話をしながらも、ラフエル地方が見えてくる方角をずっと睨んでいる。心から待ち遠しい。だというのに、楽しげな雰囲気は見えてこない。
いつもこの地方巡回船で、ラフエル地方に臨む人々はいつだってワクワクを隠しきれていない。
彼の地で、人とポケモンが手を取り合い生まれた王国。人の名をラフエル、彼の伝説が地方に根付き、大地は彼の名前を得た。
あらゆる人、あらゆるポケモンにとっても故郷のような土地だ。彼はもう長いこと船乗りを続け、この地に訪れる人を見送ってきたが彼女ほど感情が錯綜している人間は初めてだった。
「そろそろ見えてくっからな、ぼんやりと」
船乗りの言葉通り、朧げにすぅっと現れた地平線。彼女は甲板から身を乗り出して、カバンから取り出した別のゴーグルを装備して目を凝らした。
それはズーム機能を自動的に起動させ、装着者が見たいものを拡大して見せてくれる。そのゴーグルはいかにも新品だった。というのも彼女が前に持っていた類似品は、少し前に盗まれてしまったのだ。
「どうだい! すげぇだろラフエル地方! もう少しで上陸準備が始まるからよ! 楽しみに待ってな!」
「ごめんねおじちゃん! あたしもう待ってらんない! またね! 今度は帰るときお世話になるから!」
彼女はそう言って、なんと船から飛び降りた。船乗りは目が飛び出さんばかりに目を見開いて、急いで甲板から身を乗り出す。いかに船がゆっくりしているからってまさか泳いで行く気では……などと思った瞬間、身を乗り出した自分にぶつかる勢いで何かが急上昇してきた。船乗りは驚いて尻もちをついて腰を思い切り打ち付けた。
「じゃあね!」
急上昇してきたのはポケモンだ。彼女はその背に飛び乗って、先程の風除けゴーグルを装着するとそのポケモンの背をポンポンと叩いた。船の速度とは比べ物にならないジェット機のような速度でそのポケモンが去っていく。
船乗りはその背をただただ見送っていた。
「な、なんだってんだ……まるで嵐みたいな子だな」
海での嵐は、神に祈る他ない。それほど危険なものだが、彼女は船に乗る前からそんな感じだったと彼も記憶している。
乗船場に駆け込んできたかと思えば、チケットを見せたと思ったら確認するより先に船に乗船していた。
「よっぽどなにかあるんだなぁ……そういえば、あのゴーグル見覚えがあるな……確か、随分前に船に乗ってた兄ちゃんと同じブランドのもんだった」
この船乗りが先日、つまり前回この船に乗ったときのことだ。やけに切羽詰った顔の少年が、彼女と同じように船の先端部分からずっと先を見渡していた。そのときも決まって同じように椅子に座るかと持ちかけたのだ。
あの少年もまた、ラフエル地方へ行くというのに楽しそうな顔はしていなかった。まるで何かから逃げているかのような、今からでも戻った方がいいのか、そう言った顔だった。
「ま、関係ねぇか……あいたた」
船乗りは痛む腰を擦りながらぼちぼちと仕事に戻っていった。
少女の姿は、もはや見えないほど小さくなっていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ちょっと、姿が見えないと思ったら勝手にベース使ってたのね」
「……んぁ?」
俺は寝ぼけまなこに移る逆さまの女を見て、マヌケな声を出した。身体を起こして、頭が覚醒してくると相手がリエンであることに気づいた。
「ふあぁ~……んん、おはよう」
「もう昼、なにがおはようだよ」
「さいで……昼か、随分寝てたんだな俺」
起き上がって伸びをすると、身体が再びキリキリ痛み出した。けど内側から来る痛みにはどうしようもないので、我慢することにした。
完全に意識が戻ると、リエンが俺にジトーっとした目を向けていることに気がついた。
「マリンレスキューの人たちは大丈夫だったのか?」
「うん、大した怪我はしてなかったし、朝番の人たちが来たから交代してもらったの。本部の人たちは私より適切な手当が出来るしね」
リエンもまたググッと伸びをした。もしかしなくても、リエンは夜通し怪我人を診ていたわけだし、疲れているだろう。
「さて、じゃあ俺はモタナの町を見てまわろうかな」
「ふぅ~ん、じゃあ案内してあげよっか?」
「いや、リエン疲れてるだろ? 無理はしなくていいよ」
「そんなに疲れてないよ。ちゃんと仮眠も取ったし、むしろ怪我してない分ダイより元気だと思うけど?」
ふふん、とふんぞり返るリエン。確かにモタナの地理はまったく頭に入っていないし、好意を無駄にするわけにはいかないかな。
「じゃあ、お世話になります」
「素直でよろしい。いつもこれくらい聞き分けがよければいいのにねぇ~」
「俺もこのきかん坊な身体に言ってやりたいよ」
軽口を叩きながら、俺はリエンに引っ張られて昨日は脚も踏み入れなかった場所へと歩を進めていった。
浜から出てしばらく歩くと、商店街をさらに拡大化した市場が見えてきた。恰幅のいいおじさんやおばさんが大声で快活にお客を呼んでいる。
そんな彼らもリエンを見つけると大声で声をかけ、手を振ってくる。リエンもそれに大きく手を振り返す。
「知り合いなのか?」
「モタナタウンって海の町でしょ? だからマリンレスキューはビーチ以外にも仕事が多くて、パパのことを知ってる人はだいたい私のことも知ってるの」
「そういえば、ライフセーバー以外にも部署があるんだっけか」
「そうそう、海上警察なんかも兼任してるからね」
なるほど、海辺のPGみたいなものか。柔和な雰囲気のリエンのお父さんから感じたかすかな威圧感はそこから来てるのかもな。
「お腹、空いてる? 先にご飯にしようか?」
「お、助かる。実は眠る前から腹も減っててさ……なにかオススメは?」
俺が尋ねるとリエンがキョトンとして、次にプッと吹き出して、やがてカラカラと笑いだした。
「ダイってば、本当に知らないんだぁ! モタナタウンのコイキングといえば《ラフエルコイキング》ってブランドになって、高級レストランなんかで取り扱われるほど美味しいんだよ?」
「ま、マジか……そんな美味いのか、モタナコイキング……ぜひ、食ってみたい……!」
よだれが止まらねえ! 俺はリエンを急かすようにして近場のレストランに入った。するとやはり昼時だからか、店内は非常に混雑していた。
レストラン、という割には定食屋に近くて、アイオポート育ちの俺にとってかなり馴染みのある雰囲気の店だった。
「おっ、リエンちゃんいらっしゃい! そっちの連れはカレシかい?」
「違いますよ、私のベースの居候」
あの、リエンさん。その説明だと俺非常にダメ人間では。女の子の仮住居に居候って俺かなりダメ人間では。
テーブルにつくまで視線で訴えてみたがリエンには届かなかったみたいだ。
メニューを見て、リエン一押しのコイキング刺身定食を頼む。カウンター席に座れたことで、目の前で捌かれるコイキングに命の儚さと食べることへの感謝をひしひしと感じさせられた。
コイキングだった肉に、板前の旦那さんが包丁を入れる。まるで刃が閃いて、その肉を切り分けていく。まるでミルタンクバターか何かのように刺し身が出来上がっていく。あれは包丁の切れ味のせいなのかそれともコイキングの身がそれほどまでに柔らかいのか……!
そして程なくして現れた定食を見て、俺はついに涎が溢れるのを感じた。
自分でも目がとろ~んとしているのがわかった。なんだ、このコイキングの身の照りは……ラフエルコイキング、あんたすげぇな……!
「ダイ? どうしたの?」
「俺は今、コイキングに恋をしている……こんな美味そうなコイキングを見たことがないんだ……! 次からコイキングを見たらそれだけでこの定食を思い出してしまいそうだ……今から怖いぜ……!」
思えば、俺は昨日の夜から何も食べていないんだ。その空腹感が手伝って、このコイキング定食がとても美味そうに見えているのか……俺は震える手で箸でその刺し身を取り、醤油ソースに少し浸した。
そのときだ、コイキングの切り身からじわ~っと脂が出て醤油ソースに広がる……! 思ったとおりだこいつ脂身がすげぇ……!
「た、食べていいのか……? 許せ、コイキング……お前がアイオポートにいたなら俺の親父がお前を連れて帰ってきたかもしれないのに、お前はラフエル地方にいたばっかりに俺に食われちま」
「いいから食べなよ、静かに」
「は、はい……」
リエンにツッコまれ、俺はそのままコイキングを口に運び、ゆっくりと噛み締めた。するとどうだ、醤油ソースに広がった脂とは比べ物にならないほどとろりとした脂が口中に広がり、それでいてあっさりしていて口の中がギトギトしない……!!
これは、このコイキングは……!!
「うーーまーーぁぁあいいいいいぞおおおおおおお!!!!!!!」
「ガッハッハ! リエンちゃん、この坊主活きがいいねぇ!」
「それが《ラフエルコイキング》を知らなかったのよ。今までちゃんと美味しいもの食べたことあるのかな」
「あるよ! 美味いもんくらい! だけど、だけど……うおォン、箸が止まらん……今の俺は人間フレアドライブだ……」
まさに筆舌に尽くしがたい……!! ラフエルコイキング恐るべし。これ食ったら、アイオポートのランチは食べられない……ことはないが、俺はこのコイキングを生涯忘れないだろう。
「坊主、デザートをつけてやろう。うちの菜園で採れる木の実盛り合わせだ!」
「いいんすか!? いただきます!」
これは……コイキングとは違う感触でとろける熟した木の実が……! まさにほどけるという感触……! 木の実の繊維が舌で撫でるだけで、甘噛するだけでさらさらと……!
それだけじゃない、じゅああああああっと果汁が、いかんいかんこのままじゃ溢れる……!
「ガハハ! 良い食いっぷりだ! 坊主みたいな客、俺ぁ大好きだね!」
「いやこんな美味いもん食ってたらこうなりますって! なんで他のお客さんは落ち着いて食ってられるんですかねぇ……!」
「みんな食べ慣れてるからだと思うよ、私も含めてね」
俺は思わず箸を落とした。そんなことが許されるのか、神よ……信じられないという風に、俺はリエンを見つめた。
「おま、おま……それは逆に損してるぞお前! こんな美味いもんに囲まれてたらいずれ何も食えなくなっちまうぞ!」
「ハハハ! そんな美味かったか! そうかそうか! ほらデザート追加だ」
「旦那さん太っ腹~!! さては特性"あついしぼう"だな~」
ハハハと笑い合う俺と旦那さん。店の中で俺と旦那さんだけテンションが上っていく。
そのときは気づかなかったが、リエンはそのとき俺が我を忘れてコイキング定食をがっつく様をジッと見つめていたらしい。
外に出た俺たち。俺は腹を擦ってご満悦だった。
「ふぅ~食った食った! 眠気も無し、空腹も満たし……今の俺最強かも」
「大げさだなぁ……でも嬉しいな、地元民はさっきの通り食べ慣れてるから、外から来る人の食べっぷりは見てて楽しいし」
「さっきも言ったけど、そりゃ損してるぜ……いつか旅に出たとき、これ以上に美味いもんには早々巡り会えないぞ」
なんとなしに言った俺、しかしリエンはその一言を受けて「旅か」と空を仰いで呟いた。俺はそんなリエンの姿がひどく印象に残った。
次はどこに行こうか、リエンがそう言った。でも俺はそんなリエンをどこか上の空で見つめていた。
「ん? どうしたの、ダイ」
「いや……ちょっとな。誰かと一緒に知らない街を歩くのが、随分久しぶりでさ……でも前と違うのは自分に胸張れてるとこだ」
「ふぅん、でも……ダイは胸が張れてるんだ。少し、羨ましいな……」
日差しが強く、少しうつむくリエンには影が差していた。なにか、彼女の嫌なことを思い出させたのかもしれない。
俺は申し訳ない気持ちになったが、それ以上にそれが……彼女に影を差すその出来事が気になった。
「リエン、俺やっぱ少し食いすぎて苦しくなっちまった。ベンチで休もうぜ」
「そう? じゃあそうしよっか」
「あぁ、それで……気を悪くしないでほしいんだけど、リエンの話が聞きたいな」
私の、と首をかしげるリエンに頷いて応える。彼女はやや逡巡した素振りを見せたが、やがて観念したのかコクリと頷いてくれた。
最寄りのベンチにリエンが座り、俺が少し離れた位置で横になる。話題を振るかと迷ったけど、俺が口を開くより先にリエンがぽつぽつと語り始めた。
「それで、ダイは何が聞きたいのかな」
「そうだな……リエンは正義ってどう思う?」
「随分抽象的な質問だね……なんで、そんなことを聞くの?」
逆さまのリエンが俺の目をジッと見返してくる。
「俺がサメハダーを退けたとき、俺じゃなくても誰かがやるって思ってなかったか? 俺みたいな考え方をしてるバカが他にもいるんじゃないかって思ってたんじゃないかと思ってさ」
最初は、俺が怪我人だから怒ったのかと思っていたけどリエンは俺が怪我人だから止めたんじゃない。
俺が信念を持って、海水浴客やリエンのお父さんを助けたんじゃないってことを見抜いたからじゃないかと思ったんだ。
「じゃあ逆に、ダイは……正義ってなんで正義なんだと思う? 正義って人それぞれの『正しさの定義』だからさ……歴史上、いくつも戦争があったけど……勝った側が正義なんだよ。正確には勝った方の『定義が正しかった』んだよ」
「それなら、負けた方の正義はどうなる?」
「淘汰される。より正しい方に食い尽くされて、最後にはなくなる。今ダイの胃袋にいるコイキングみたいにね」
腹の中でコイキングが返事でもしたのか、ぐるぐると音がする。俺は饒舌になったリエンの価値観の前にただただ流されていた。
「なんでそういう考えになったのか、聞いてもいい?」
「……そうだなぁ、さっきの正しさの定義云々を差し置くことになるけど……たぶんキッカケは些細なことだったんだよ」
「些細……?」
「うん、ずっと前にね……私がレスキューの手伝いを始めた頃だったかな。海で怪我をしていたポケモンがいてね、ミズと一緒に手当をしてあげたんだけどそのポケモンがやがて群れを連れて海水浴客に悪戯をするようになったの。私がそのポケモンを手当したから、元気になったポケモンが人に危害を加えるようになったんだよ」
俺にとっても記憶に新しい。実際、昨日のバラル団のケイカがけしかけてきたサメハダー。もし俺が、怪我しているサメハダーを見つけたなら間違いなく手当をするだろう。放っておけない、そんな気持ちになって。
「それだけじゃないよ。私が善意で助けた人間が悪事を働いたこともあったよ。私の善意は、私の正しさの定義は……きっと、世界における正しさの定義から大きくズレている。私はそれから、自分の正義を自分の物差しにするのはやめたの。パパや、世間一般の正義を振りかざすようにしたら、随分と上手くいくようになったかな」
そうか、だからか……
俺はずっと、リエンを通して誰かを見ているような気分だった。誰かの優しさを自分というフィルターに通していたんだ。
だけど、それならさらに気になる。その疑問を口に出そうとしたときだった。
市場の方から聴き逃しそうなほどだけど、悲鳴のような声が聞こえた。俺は飛び起きると、その方角をデボンスコープでチェックしてみた。
すると、何かが暴れているのか市場全体が荒れていた。
「待って。また行く気?」
「そうだよ、マリンレスキューの人たちは俺が壊したビーチの修繕で忙しいだろ。人員を避けないかもしれないなら、俺が行くよ」
「今の話を聞いてなかった? あそこで何が起きてるのかわからない。でもそれを納めることが最善じゃないかもしれないんだよ? それでも?」
「それでも。白状するよ、今の話を聞いてもやっぱり俺は首を突っ込み続ける。それが俺の正しさの定義、誰かが困ってんなら、誰かが悪さしてんならそれを止めてやる。俺ってお節介だからな」
リエンの手を振りほどいて、俺は海街市場へと走り出す。近づく度に、何が起きているのかわかってきた。ポケモンが暴れていた。幸いなのは昨日のギャラドスほど大きくないポケモンだっていうこと。
赤い甲殻、頭ほどある大きな鋏、頭部に輝くトサカ。俺は走りながら図鑑でそのポケモンをスキャンする。
「"シザリガー"……! 海産物が並ぶ市場ばっか壊しやがって……!」
そう言って気づいた。陳列されているのはコイキングやクラブ、食用にされるポケモンたちだ。俺達は、命を頂いて生きながらえている。
だけど、食われる側からしたらきっと、たまったもんじゃない。きっと、あのシザリガーは怒っているんだ。そしてその怒りはもっともだ。
それでも、それでもだ。
「止めてやる、たとえ正しいのがお前でも」
より正しい方が勝ち、それが歴史上での正義。
悪に人が救えないなんて、誰が決めたのか。
「キモリ! 【たたきつける】!」
シザリガー目掛けて飛び出したキモリはその尻尾をシザリガーの後頭部目掛けて振り下ろす。鈍い音が周囲に響き渡る、明らかにクリーンヒット。しかしシザリガーは振り返りざまにその鋏を振り回し、二撃のうち一撃がキモリを捉えた。
再び鈍い音がして、キモリが吹き飛ばされてくる。
「あいつ、どうだ……!?」
尋ねるとキモリは何かを吐き捨てるように吠えた。俺はキモリがシザリガーの気を引いてくれているうちに距離を保ちながら、シザリガーの背後に回った。すると後頭部にはキモリの尻尾の痕が残っていた。
キモリの【たたきつける】は当たれば凄まじい勢いなのだが、あのシザリガーは生物にとって急所である後頭部にヒットしてもビクともしなかった。
「恐らく、特性が"シェルアーマー"なんだ! いわばあいつには
急所がない、言ってしまえば簡単だが御すのは一苦労だ。弱点を狙って戦闘不能にするのは困難だろう。とすれば、あいつを相手取るのに最適な考えは……
「よし、【でんこうせっか】でヒットアンドアウェイ! 捕まるなよ、【ハサミギロチン】が飛んで来るぞ!」
あの怪力バサミに挟まれたら最後無事ではすまない。そんな相手目掛けて接近戦を仕掛けろなんて、キモリからすれば大博打に近い指示だろう。ただでさえシザリガーは怒っているのだ、いつも以上に思考が攻撃一辺倒になっているに違いない。
それでも、キモリならシザリガーに捕まらないと信じて指示を出した。俺はキモリがシザリガーの周囲を飛び跳ねているのを見て、ハンドサインを出す。
キモリがその小さな手で弾丸のようなパンチを繰り出し、シザリガーはそれに応えるように握りしめた鋏を打ち出してきた。何度目かの鈍い音、シザリガーとキモリが拳を交える音が響く。
しかしやはりキモリの一撃では、シザリガーに致命打を与える
「打撃は、な」
ニッと笑う。そしてシザリガーもようやく頭が冷えたらしい。自分の身体が動かしづらくなっていることに。シザリガーは目を丸くしていた。
身体中に走る蔦のような植物が、シザリガーの動きを制限していた。
「【やどりぎのタネ】……キモリに近接攻撃を仕掛けさせたのはブラフ、本命はこっちさ」
やどりぎは、シザリガーの体力を奪い成長する。成長すればそれほどシザリガーを拘束する縄となり、成長の際に体力を奪われてしまう。
シザリガーのように皮膚が堅い敵には、仕込みさえ成功すれば決定打になる攻撃だ。問題はやどりぎが育つまでに気づかれないことと、育つまでの時間をかせぐことだ。
俺はキモリをボールに戻す。そして、意を決してシザリガーに歩み寄った。市場のおじさんやおばさんが危険だ、やめろだなんて叫んでいるが俺は止まらない。
シザリガーがビクビクしながら俺を警戒する。しかしやどりぎの力で暴れる体力も残っていないシザリガーは鋏を降ろした。
そして、俺はシザリガーにまとわり付く蔦を剥がしてやった。シザリガーはキョトンとしていた。俺は自分の不安をかき消すように笑ってやった。
「お前の気持ちはよく分かる。だけど、さ……こういうのは良くないってわかってくれや」
シザリガーの目を見て訴える。伝わってくれるといいな。
「もしお前がこれ以上暴れるっていうのなら、俺も最後まで戦ってやる。けれど、少しでも俺の言ってることがわかってくれたなら大人しく海に帰ってくれ。そんでお前の仲間に伝えろ、人間に捕まらないように頭を使えって」
俺は人間で、こいつはポケモン。ただ俺たちがこいつらを食べる側だった、それがこいつらは気に食わなかったんだ。
だけど、自然の摂理だけは人間にも覆せない。だからせめて、淘汰されてしまう側に救いがあってほしい。
「さぁ帰れ、そんで二度と捕まらないように気をつけろ。勝手だとは思うけどな、お前ら最高に美味しいからさ……」
そう言った瞬間、再び怒ったのかシザリガーの【クラブハンマー】が俺に炸裂する。尻もちをついてしまうが、シザリガーは踵を返して浜の方へと戻っていった。
わかってくれたのかな、にしてもいたた……あいつ本気で殴りやがったな。
「……なにいまの」
「……ちょっと同情しちゃっただけだよ。あいつは正当な怒りで暴れてたからな……自然の摂理で考えれば正義は俺たち人間だけどさ、あいつの考え方では俺達は悪だ。だからどっちが正しいかとか抜きにして、せめてあいつの気持ちが済めばいいなって」
静けさが市場に戻る。そして次の瞬間には活気が戻ってきた。シザリガーが暴れて荒れた市場も、人々が協力してもう無かったことみたいに笑っていた。
「歴史を見ればどっちが正しいか一目瞭然、きっとリエンの言ってることが正しいよ。だけど、人間が正義に振り回されたらそれはもう正論を振りかざした暴力になっちゃうよ。だから俺は、正しさより気持ちを信じたい」
「正しさより、気持ち……」
正しさを信じるんじゃくて、信じたこと、信じたいモノを自分の正義にしたい。人間はきっと、そういう風に出来てるはずなんだ。
リエンはきっと、それを忘れているだけだ。
「リエンもさ、思い出してくれよ。君の心からの気持ち、それは人のじゃなくてリエンの気持ちだからさ」
俺はお節介を続ける。お節介が誰かのためになるし、俺に返ってくる。この気持ちが正しいかじゃなく、俺の気持ちだと信じているから。
まぁ、言い換えてしまえばその信じることこそが正義と呼ばれるものなんだろうけど。
「さーて、市場も見て回ったし美味いもんも食ったし、なんだか満足しちまったな……」
「じゃあ、もう行くの?」
「明日か、明後日にでもね……それでさ」
少し気恥ずかしさを覚える。下手をすれば、気味悪がられるかもしれない。
けれど、
「もし、外の世界に興味があるなら、俺と一緒に行かないか? 俺は、君と一緒にラフエル地方を見て回って、同じことを感じたいって思ってるんだ」
もしかしたらって思ったんだ。というのも俺がリエンの話を聞いたのは、リエンが先に俺の話を聞きたがったから。
最初こそ、旅してまわってるやつの話が聞きたいだけだったのかもしれない。でも、もしモタナの外に興味があるのなら。
その提案に彼女は、リエンは――――
リエンちゃんを旅に連れて行きたい。