ダンジョンに近代兵器を持ちこむのは間違っているだろうか 作:ケット
瓜生が【ロキ・ファミリア】の大遠征のために出発した。
ベルの、アイズとの朝練も終わりを告げた。
当然、レフィーヤも遠征に行くのでパーティから外れる。
「絶対、絶対負けませんからっ!」
出発直前、ダンジョンからの別れ際。ベルの成長を見たレフィーヤは悔しそうに叫んだ。
「……見送りにはいかない。その間も、ほんの少しでも強くなりたい」
「それでいいですよ!でもその間も、私も成長しますから!アイズさんの隣で!」
「楽しみにしてる。だから……」
死なないで。
「私の心配なんて十年早いんですよっ!ビーツも、どうか無事で」
レフィーヤがぎゅっと、ほんの数日で少し大きくなった黒髪の少女を抱きしめる。
「あ、ヴェルフ」
疲れた表情で、ヴェルフ・クロッゾがやってきた。
「ここんとこ混ざれなくて悪いな。うち(ヘファイストス・ファミリア)が死ぬほど忙しくて」
「あ、その……すみません」
レフィーヤが謝る。自分たち【ロキ・ファミリア】が無茶な注文をしているから鍛冶ファミリアが忙しいのだ。
「いや、嬉しい悲鳴だよ。仕事はないよりあるほうがいい。明日もきつそうだ……ダンジョンどころか見送りも無理だ」
ヴェルフがため息をついて、レフィーヤに革鞘入りのナイフを差し出した。
「持ってけよ。魔剣じゃねえ。魔剣は打たないって誓ったんだ」
「『クロッゾの魔剣』なんていりませんよ!……ありがとうございます。いいナイフですね」
「折れない。それだけは誓う」
「そりゃ折れるわけないじゃないですか、こんな厚すぎるの……」
刃長13センチ。厚さが1センチある。
「まあサポーターとしてついていくんですから、ありがたいです」
レフィーヤはぶつぶついいながら、ナイフを受け取った。しっかりした鍔は、血で濡れ滑って手を切らないよう配慮してくれていることがわかる。柄の断面が四角形に近いのも、手の中で変に回転しないようにだ。
「ウリュウさんに、よろしく」
ベルがかけた声に、レフィーヤはとても遠い眼をした。前回の小遠征で見てしまったとんでもないものを……闘技場で、大型モンスターの濃密なスクラムが轟音・爆炎とともに血霧となり、高速でちぎれた手足が飛ぶ……思い出してしまった。
「あの人もまた、何をやらかしてくれるやら。リリルカさんにも、よろしく。負けませんからねっ!」
レフィーヤはそう言って手を振り、『黄昏の館』に帰る。
ヴェルフも疲れた表情で帰っていった。
リリはまだ、『ギルド』の事情聴取がある。
翌日は、大ファミリア二つの合同大遠征が始まる。伝説の二大ファミリア以来未踏だった59階層、さらにその下を目指す大冒険。
ベルたちは、いつも通りの冒険の一日……
ベルとビーツは、帰ってからの運動を考えていた。二人で、木刀と木槍・トンファーで打ちあい、それからルームランナーでフルマラソン、それからデッドリフトとハイクリーン、バーベルをかついだままでの連続ジャンプ……
ビーツの食事も。二日に一度、地下室があふれるほどに届く保存食を瓜生が置いて行った調理機材で料理し、ほとんどはビーツが食べる。
(今日の夜の分、ちゃんとあるかなあ……)
朝、米はほとんど炊いてしまった。5キログラムぐらいしか残っていない……普通なら十分すぎるぐらいだが、ビーツの前では……それと、運動後のための保存パック牛乳とプロテイン、ブドウ糖……
(早く帰ってきてくださいね、絶対無事に)
すでに出発した仲間に、祈るような思いだ。
タケミカヅチの屋台は、相変わらず繁盛していた。瓜生に頼らなくても、極東出身者の和菓子職人や造り酒屋、醤油職人、自家製味噌を作っている鍛冶師などとも知り合い、調達できるようになった。いくつかの資材はまだ調達しきれず、かなりの量を瓜生が借りた倉庫に入れている。
帰る前に、大盛りで知られる店に寄る。以前はチャレンジ荒らしをしていたが、もう廻状が回っている……だが、かわいい女の子が信じられない量食べるのは、見るだけでも賭けのネタや宣伝になり、店が盛り上がる。
だから、値段は変わらないが量は多く出してくれる店がいくつかある。
ベルも、冒険で空腹でありそれなりの量食べている。
帰ったら、ヘスティアの温かい歓迎。
業務用炊飯器で炊いてあった無洗米、ジャガイモと干し魚のシチューをヘスティアとビーツが食べる。
食物も無事に届いていた。巨大な円盤状チーズ、乾燥パスタ5キロ×4、大きい缶入りのオリーブオイル、真空パック肉、タマネギ、ニンジン、乾燥トマトとニンニク、リンゴ、弁当用のナッツとプロテインバー。とんでもない量、それでも3日もつかどうか。
いつも通りの朝。
本当はレフィーヤを見送りたかったし、もちろん瓜生について遠征に同行したかったが、意地を張った。
早朝から素振り。アイズとの特訓を思い出し、体に刻み直す。昨日戦ったモンスターがやったこと、逆に相手の立場になれば自分のどこに隙があったかも考える。
ビーツも、重い鉄棒を槍として千回以上突き、回す。トンファーで鋭いワンツー・ショートフックまたは前蹴りを繰り返す。
瓜生がいないのでベルがパスタをゆでる。大きい鍋で刻んだチーズとオリーブ油をたっぷり温め、ビーツには鍋ごとパスタを入れて出す。業務用圧力鍋で作った肉と野菜のスープも添えた。ヘスティアも同じメニューを普通の量。ベルは冒険があるので薄めのオートミールと、スープを汁だけ。
ベルの背中には刀と小さめのバリスティックシールド、隠せるようカバンに入れたAS-Val消音アサルトライフル。
見えないよう、ヒップホルスターに44マグナム短銃身リボルバー。ハイポーションも入れる。
腰には神の脇差『ベスタ』と、ヴェルフが打った短剣、瓜生が出した刃長24センチと10センチの頑丈な汎用ナイフ。
ジャージ上下、防刃上下、瓜生が買ってきた薄手の鎖帷子、ヴェルフの軽装鎧、エイナにもらった腕防具。背中には、ダンジョンに着いたらつけるヘルメットも。
レッグホルスターにはハイポーション1本、普通のポーション3本、マジックポーション1本。
ビーツは神アストレアからもらったトンファーと、穂先はヴェルフが打った長槍、瓜生にもらった刃長20センチの分厚いナイフが2本、ベルが使っていた峰がツルハシになった手斧。
瓜生のおさがりの鎖帷子を調整して着ている。手足も背も伸びが早いので、ちょこちょこ直しに行かなければならない。
背中には彼女の体格には大きいリュック、多量の携行食を詰めている。乾パンあり、ジャーキーあり、アーモンド・くるみ・ペカンナッツあり。さらに切り札も。
(縦穴に落ちる、なんてこともあるらしいから……)
ついでに、リリに渡すポーションも持っている。
久々にリリと合流し、いつも通りエイナに報告してダンジョンへ。
今日、何が起こるかなど知るはずもなく。
「……すべて解決したようです。細かいことは……知らない方がいいと思います。【ソーマ・ファミリア】は解体、私も、もうじき【ヘスティア・ファミリア】に改宗(コンバージョン)できます」
「本当?やった!」
リリの報告に、ベルもビーツも大喜びしている。
リリは再会は嬉しいが、ため息をついていた。
9階層……なぜかモンスターの気配がない。濃い霧が、一瞬出た。
その中で、ビーツに対してのみ、鋭い殺気が注がれる。殺気を指向性にできるほどの腕。
彼女は即座に反応した。
強くなり、強敵と戦い、そしてすべての知的生物を殺しつくす……脳の底に刻まれた命令。それは昔、強力な精神支配魔法で除かれているが、「強くなる」「強敵と戦う」はより強く残っている。
(仲間と一緒に、団長の言うことを聞く……)
よりも強く。
ふらりと、霧の中分かれ道に入った。
そこには、長槍を持った猫人がいた。
何も言わず、槍がビーツを向く。
ビーツも荷物を下ろし、槍をしごいた。猫人は待っていてくれた。
『女神の戦車(ヴァナ・フレイヤ)』アレン・フローメルの槍が、ビーツの未熟な払いを巻き込み、鋭い螺旋を描いて腹を貫いた。
致命傷。
即座に抜かれた槍が下腹部を二度貫く。
大量の出血に体力を失ったビーツに、猫人はハイポーションをかけた。
「足止めしろ、殺すな、と言われた」
それでわずかに息を吹き返したビーツの背中から、すさまじい熱を感じた。
背が燃えているようだ。瀕死から復活したサイヤ人は大幅に強くなる……その能力が神ヘスティアの『恩寵』で大幅に強化されている。自動ステイタス更新で、桁外れのアビリティ向上が発生している。
ビーツは、すさまじい苦痛と脱力に耐えて立ち、リュックから水筒を取り出して飲み干す。約1.5リットル、全部オリーブ油。
人間が見ればおぞましいほどの光景だが、地獄を見てきた第一級冒険者は動揺しない。
約14000cal。普通の大人一週間分。人間なら身体を壊しかねない過剰栄養が、サイヤ人の強力な胃腸で瞬時に消化吸収される。全身にいきわたり、ハイポーションともどもすべての細胞にしみる。
ある程度以上強くなったサイヤ人も、第一級冒険者も、その活動は明らかに……大量の食事を計算に入れても、食物のエネルギーよりはるかに大きい。エネルギー保存則が破れている。世界そのものから吸った力をエネルギーにする、その触媒に大量の食糧は必要とされる。
ちょうど、巨大原発にもあちこちにクレーンや運搬車など多数のエンジン駆動装置があり、石油燃料がなくなれば動かないように。発電所が大きければ、必要とされるガソリンも多くなる。
ガソリンが供給され、全体が円滑に動き出せば、莫大な電力があふれる。
目の輝きがかわり、腰が据わる。
圧倒的な気迫が、第一級冒険者に注がれる。
「ほう……」
強敵と認めた目で、『女神の戦車』は槍を構えなおした。
瞬。
時計回りにめぐる穂先が、突きをわずかにのける。
引かれる槍先についていくようにビーツの穂先が伸び、それはアレンの手元に吸われる。
「技が力に追いついていない」
そう言うと、激しい突きが乱打される。
腰をぐっと落としたビーツは、鋭いフットワークでかわそうと……ほんのわずかに腰をずらす程度だったはずが、壁にぶつかるほど跳んでしまう。
その衝撃に耐えたが、追撃。高速移動でかわし、鋭い突き。
何合か、槍と槍とが交錯する。
その中で、どこでどうしたのか、ビーツは投げ倒された。
槍と槍で、どうすれば投げられるのか……だが、投げられた。重心を崩され、自分から転がるように。ある種の空気投げ。
(どれほどの技量……)
なのか。
すぐ槍をからめとられ、飛ばされてしまう。
無防備に追撃を受けるかと思ったが、槍は受け流される。ビーツは瞬時に、背中から2本のトンファーを抜いていた。
練習回数は多いとはいえわずかな時間しか扱っていない槍と、何年も練習を積んできたトンファーでは熟練が違う。
構えはボクシングとはかなり違う、ほぼ半身。槍を構えているようでもある。
養い親の老冒険者に仕込まれた、蹴りもあるし対刃物も想定された拳法。
武神タケミカヅチが槍を教える時も、足腰の使い方はまったく変える必要がなかった、完成度の高い基本の一つ。
「ビーツ?」
「全員で探しましょう。警戒して」
リリが素早く指示する。
リリは大盾を構え、消音アサルトライフルをいつでも構えられるように。
ベルは抜いた刀を、やや高く。
広めのルームに入った……
そこに正面から、何かが襲ってきた。
リリにそれがぶつかる。瓜生が出した大型耐弾シールドがぶった切られ、小さい体が蹴られたボールのように吹き飛ぶ。
刀を構えて振り返ったベルは、見てしまった。
牛頭人身。
人間としては巨体で、信じられないほど盛り上がった筋肉。
手足の先には蹄もあり、同時にものを握れる手指もある。
その手は両手剣を二本、二刀に握っている。
牛の角は一方が折れているが、もう一方は長く鋭い。
全身が傷だらけ。
ミノタウロス。
Lv.1では勝てない、中層の強力なモンスター。
ベルの心が、恐怖でいっぱいになる。満員電車に、体当たりで人を詰め込むように。
血の気が引く、というのがはっきりわかる。呼吸もできない。全身を、粘性の高い油の縄で縛られたようになる。
歯がガチガチ鳴る音が、高い。振動が頭蓋骨に伝わっている。
何百と知れないゴブリンやキラーアントを、何十というオークやシルバーバックを切り倒してきた経験も消し飛んだ。
格が違う……勝てない。
にやり、とミノタウロスは笑ったように、ベルに剣を……
あとずさった足が、何かに触れた。
(リリ!)
仲間がいることを思い出した。
毎日何千も積んだ素振りが、わずかにベルの手を動かした。
歩き、振り上げ、袈裟に斬り下ろす。
ベルの、最初に瓜生に教わり、武神に磨かれた袈裟切り。
切っている最中の刀は、分厚く長い剣の一撃を受け止めた。ミノタウロスの剣は、レベル4以上の冒険者が使うほどの品のようだ。
両手で使うような重い剣が、細剣(レイピア)のような鋭さで振るわれる。
瓜生が〈出し〉てくれた、工業生産の刀もどきは、曲がった。ぐにゃりと。
折れなかった。
日本刀を形だけ模倣した、一枚の工具鋼を切って削って熱処理した刃は、人ならぬ力の一撃で曲がりつつ折れなかった。頑丈さと切れ味で知られるメーカーの品だ。
強烈な一撃は曲がった刃を押し切り、ヘルメットを割り、小さい体を吹き飛ばした。割れたヘルメットから、白い髪がこぼれる。
曲がった刀は手から飛び、遠くへ転がった。
ベルの体が脇差を抜こうとして……巨体を見てしまい、心に強制的に止められた。
恐怖。圧倒的な恐怖。
何もできない、死の恐怖。アイズ・ヴァレンシュタインに救われた瞬間まで。
腰が抜けそうになり……背後のリリを意識する。
それでも動けない。呼吸が止まる。
(動け!動け動け動け)
どれほど叫んでも、膝が笑う。足が勝てないと叫ぶ。
(勝てない勝てない勝てない)
(こわいこわいこわいこわい)
(だめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだ)
(死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ)
心のすべてが叫びに満ちてしまう。
(死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ)
その中で、かすかに別の思いも混じった。
(でも、リリが)
舌が、かわく。
いつ移動したのか、目の端に倒れる少女が見える。
わずかに指は動いているようだ、だが起き上がる気配はない。
「逃げて……逃げてくれ」
ベルの口から出た言葉は、別の生き物が出したようだった。
「ベル、さま……」
(せめて、ポーション)
と、腰に手をやった、そのとき巨体がぐわっときた。
角が、左手を……エイナ・チュールがくれた腕防具を貫き、ベルを持ちあげる。
激しく持ち上げられ、天井に叩きつけられる……
落下したのを、蹴り飛ばされた。
激しく変な回転をしながら飛びつつ、見えた。
別の冒険者数人が驚いている。怯え、全力で逃げ出している。知らない顔だ。
わずかに意識を取り戻したリリ。
AS-Valのレシーバーがほぼ切断され中身が飛び出している。胸にぶら下げていたのが、そのまま防具となった……
(だから、死ななかったんですね)
ポーションを探る。レッグホルスターの普段用は割れていた。探って濡れた指を、なめようとする。
その動きにすら、すさまじい激痛が走る。呼吸もできない。
なめる。一滴だけ。
少しだけ、力が戻る。
瓜生は、ポーションだけは全員に、過剰なほどに持たせている。
(頼って無茶はするな。銃と同じく、緊急時に、生きて帰るために使え。冒険のために使っていいのはこっちだけだ)
リュックの奥には予備がある。だが、それはホームより遠い。
だが、動く。無理にも息をする。生きて、帰るために。帰る場所が、もうすぐできようとしているのだ。ベルとともに帰る場所が。
「助けを、呼んでください」
全速で逃げていく、知らない冒険者を呼ぶ声は、自分の声とは思えないものだった。
リリは全力で考える。
強すぎる小型クロスボウは引けない。だが……銃。
背中の隠されたホルスター。
拳銃を抜き、構えようとした腕の、力が抜ける。折れ、骨が見えている。
左手は、指がぐちゃぐちゃに曲がっていた。
右手に持ち替え、狙おうとしたが……まったく安定しない。
圧倒的な激痛。
「逃げて」
信じられない言葉が、耳を打つ。
天井に叩きつけられ、蹴とばされたベルが、かろうじて立ち上がり、リリに呼びかける。
「リリだけでも」
「にげて」
(できることは)
今の手では、拳銃を使えない。
知らない冒険者は、ポーションは一つ置いて行ってくれた。それを飲むと、ぐちゃぐちゃに混濁した意識が少しだけはっきりする。呼吸が、半分ぐらいはできるようになる。
「逃げて、ビーツを」
立とうとしたが、足は動かない。変な方向に曲がっている。
がんがんする頭を振って起き上がったベルは脇差を抜いた。
逃げて、と何度も言いながら。
右手に、柄頭近くを握った『ベスタ』。ヘスティアが全身全霊、血も使って手に入れた神造武器。長めの柄を長く握れば、定寸の刀に近い長さになる。
左手に、ヴェルフ・クロッゾの『ドウタヌキ』。武骨で分厚い短剣。今曲がった刀同様折れないことだけに心血を注いだ、ダンジョンの素材も使った品。ヘファイストスのロゴは許されなかったが、主神にも団長にも高く評価されている。
おそろしい回数の素振りで、体がやることを覚えている。深呼吸。肩の力を抜き、腰を落とし、歩く。
巨体が、再び剣を振るう。だが、わずかに歩いていた。わずかに芯を外した大剣を分厚い短剣が受け流し、同時に振りかぶられた脇差がすっとおりる。
手ごたえでない手ごたえがあった。刃筋が通った時の、切れぬものなき切れ味。
ミノタウロスは、俊敏に巨体をつかって飛び離れた。肉体に叩きこまれている、短い剣の一撃を受けたら瀕死になるまで刻まれる。強者に、言葉ではなく肉体で教えられた。忘れようにも忘れられるものではない。
手首を大きく切られていた。人ならば、腱と動脈……手は握力を失い、すぐに止血帯をかけなければ失血死する傷だ。
だが、深い傷から奇妙な紫光が放たれると、傷はみるみるふさがる。
「強化……完全な、じゃないにしても」
リリが苦しい息でつぶやき、何とか銃を向けようとした。
そこに、ミノタウロスが大きく口を開く。
咆哮(ハウル)。
レベルが低い冒険者を、完全に強制的に止める。
ベルはかろうじて飛び離れたが、リリは完全に、指一本動かせなくなった。
槍とトンファー。間合いの差は、本来圧倒的な不利だ。
だが、槍には弱点がある。ふところに入られれば弱い。
槍使いはみなそれを知っている。だからこそ、入られてからの修行も積む。
すっ、と槍が伸びる。
美しい突き。トンファーでの払いは、両手を、全身を使った。それでも体が吹き飛びそうなほどの突き。
次の瞬間、地面に洗面器ほどのクレーターができる。
すさまじい音とともに、とんでもない速度で踏みこむビーツ。
重いトンファーが閃き、アレンの手首を狙う。
打ち抜く。当たる。
打たせないためにどんな対応をしても、それが隙になる。つけこまれる。ならば、手一本打たせる。耐久もあるし、捨ててもいい覚悟……
完全な意表。はっ、とビーツの目が動いた瞬間、しっかり膝を腹に引きつけて放つ蹴り。
ビーツももう一歩踏みこんで蹴りを放っていた、最初から練習し抜かれた連続技だ。
蹴りと蹴りがぶつかる。ビーツの軽い体が舞う。足が、明らかにありえない方向に曲がっている。
その空中に、容赦のない槍が走る。片手だが、正確で速い。
逃げてきた冒険者は、【ロキ・ファミリア】大遠征第一斑にぶつかった。
その、おびえきったしどろもどろの……
ヘルメットからこぼれた白い髪。巨大なリュックを担いだ女の子。
レフィーヤは激しく震えた。アイズも。
「ベル……リリ……ビーツは、いないの……」
泣きそうなレフィーヤが駆け出す。瞬時に追い抜いたアイズが走る。
フィンも、素早くラウルに指示を与えて追った。
「こっちにウリュウがいなくてよかったよ、オラリオごと吹き飛ばしかねない」
そうつぶやきながら。
そしてアイズは、『猛者(おうじゃ)』という名の絶望に直面することになる……
咆哮は、隙でもあった。
ベルは両短刀を納めた。ヒップホルスターから拳銃を抜き、親指でグリップの一部を押す。
レーザーの赤光がゆらめく。ミノタウロスの腹に光点を固定し……連射。
外しようのない至近距離。
強烈な光と音が、ルームを覆った。
衝撃に目を見開いたミノタウロス。くずおれるか、と思ったが立っている。
「うわあああっ!」
残弾……
目の前に、巨体が膨れ上がった。
全力での直撃、勢いをつけた一撃に、ベルは拳銃を叩きつけるしかなくなり……それで崩れた体にミノタウロスの頭がぶつかり、弾き飛ばされ壁にたたきつけられた。
折れた角でなければ、体を貫かれていただろう。鎖帷子と防刃シャツがあっても。
拳銃もどこかに消えた。
敵は健在。腹・肩・腕から、鈍い紫光。
強装徹甲弾の44マグナムを三発食らっても、致命傷ではない。
(悪手だった。ポーションを飲むか、魔法を使うべきだった)
取り返しはつかない。時は戻らない。
割れたヘルメットがじゃま……外して捨てる。
背からライフルを抜くのは無理だ。
短剣と脇差を抜く。二刀と二刀。